2007年02月12日

さらば友よ3

 過日、「今シーズンの少年サッカーの試合はこれでお終い、優勝できてよかったよかった」と自慢話を書いたのですが、再度自慢話にお付き合い下さい。

 あの大会終了後、少し離れた地域のミニタイトルマッチに招待されたのだ。既に22回の歴史を持つこの大会。手渡されたプログラムには地域の商店や飲食店などが多数スポンサとして参加しており、初日には地元クラブのお母さん方が美味しい豚汁まで準備してくれると言う歓待振り。日本のサッカー界がこのような地域に密着して努力を重ねている方々で支えられている事を改めて認識できる素晴らしさ。このような大会は各地で行われており、我がクラブも年に複数回招待していただける事がある。いずれの大会も広範囲な地域からチームが集まるためレベルが高く、我がクラブは過去中々よい成績を収める事ができなかった。ところがこの大会、我が教え子達が見事なプレイを見せてくれたのだ。



 大会には12チームが参加、初日には3チームずつ4組に分かれたグループリーグを戦う。上位2位に入ると翌日の2次トーナメントに出場できるレギュレーション。

 まず初日の1次リーグはよく試合をする隣町のクラブ。最近相性がよかった事に加え、先方は負傷者が多かった事もあり、後半立ち上がりまでに3−0と大きくリード。「主将のストライカ」が敵守備ラインの裏を、しつこく突いたのが奏効した。ところが、ここから敵の5年生のエースが機能。逆襲から3点を奪われて、一時は4−3まで追い上げられるも、終了間際に当方の「中盤の将軍」が20mのミドルシュートを決め、5−3と突き放した。

 続く2試合目は相当な強豪チーム。この試合では、当方の「守備の大黒柱(地域トレセン選手)」が敵のエースストライカ(前の試合ではハットトリックを演じた)に対し、1対1でことごとく勝利。我が軍の「俊足ウィング」が中盤に引いて前線に絶妙なスルーパスを出し、「来年のエース」となるはずの5年生のFWが巧く抜け出して先制して前半終了。「俊足ウィング」は、これまで抜群の足の速さを生かした突破とシュート、センタリングを武器にしていたのだが、このような気の利いた変化技もできるようになっていたのは嬉しかった。後半も敵の攻撃を巧くつぶし敵にペースを渡さず、「将軍」が見事なドリブルで3人抜きの後スルーパス、再び「来年」が抜け出して2点目。2−0で快勝した。



 2日目の2次トーナメント。最大の問題は昨日中盤に引いたプレイを見せ新機軸を開いてくれた「俊足ウィング」が、柔道の試合で不参加な事だった。

 準々決勝の相手は、この招待大会の主催チーム。地元のチームゆえ、サポータであるお母さん方がたくさん見えていていて、典型的なアウェイゲーム。最終ラインを思い切り押し上げ、速い展開で攻め込んでくる厄介なチームだった。ところが、「俊足」不在を「主将」と「来年」が奮起してカバーくれた。「主将」は、運動能力の高さが売り物で、インステップキックの強さと精度は抜群。普段はただのいたずら小僧だが、責任感も中々で、他のチームにとって大変な脅威だった。ところが、その責任感の強さが災いしてか、肝心の勝負どころで、もう1つその能力を発揮しきれないでいた。一緒に指導している仲間が彼の父親で、そのあたりもプレッシャになっていたのかもしれない。ところが、この試合で彼が大ブレークしたのだ。名コンビの「俊足」の不在が、逆によい刺激になったのかもしれない。開始早々に角度の無いところから強シュートを放つと、敵GKは足でかろうじてブロック。その後、ハーフウェイラインを超えたあたりで思い切りよくロングシュート。枠は外れたもののこの2発で敵GKは、弱気になったようだ。そのゴールキックをあろう事か「主将」の正面に蹴ってしまった。落ち着いてトラップした「主将」は3度目の正直と言わんばかりにドライブがかかった強烈なシュートをゴールネットに突き刺した。この一撃で勢いに乗った我がチーム、「主将」がハットトリック、「来年」が2点と、5−0で快勝に成功した。

 準決勝の相手は、実力的にはこの大会トップかもしれないと言う難敵。子ども達も「まず守備から入ろう」と考えたのだろう。慎重な試合振りで中盤戦を演じ、前半0−0で終了。ハーフタイムにドイスボランチの「将軍」と「坊主」に指示をした。「ここぞと言う時には前進して攻撃に参加しろ。その後戻るのはつらいだろうが、楽をしては勝てないぞ。」親譲りの単純な性格をしている「坊主」は、後半開始早々敵ボールを自陣で奪い取るや、無骨なフェイントで2人を外して勇気を持って前進、丁寧にルックアップして前線で抜け出した「来年」にスルーパス。ところが敵のスイーパがよくその動きについてくる。「来年」はここでよく粘り、逆サイドでフリーになっていた「主将」に正確な横パス。フリーの「主将」が狙い済ましたシュートを決めると言うビューティフルゴールで先制。さらにその直後、ゴールまで30mはあろうかと言う位置で掴んだFKを「主将」が直接シュート、敵GKがこぼす所を「来年」が詰め2点差に。終盤にFKから1点差とされるが、危なげなく逃げ切った。

 決勝戦は、前日2試合目で戦った相手との再戦。さすがに2日間で5試合目となると、双方疲労が目立ち、お互い攻め切れないままに前半終了。ここまで来ると、ハーフタイムにはどうしても精神論になる。「勝つ気持ちが強い方が勝つのだ。このメンバで試合するのはこれが最後だ。勝ちたかったら死に物狂いで一歩目を早くしろ。そうすればボールが取れる。そこから慌てずにつなげ。」そして後半開始早々、「守備の大黒柱」が敵ボールをインタセプトし、そのまま攻撃参加。落ち着いて前線をルックアップし、敵DFの裏を狙う巧妙な浮き球のパス、意図をよく読んでいた「主将」が抜け出し、GKの頭越しにロブのシュートを決め先制に成功。ここからは、お互い疲労しているため、完全に蹴り合いになってしまった。これはハーフタイムの私の指示が拙かったと反省。「1につなげ、2に出足を負けるな」と指示をすべきであったが、子ども達は「出足」に専念してしまった。ここで我が軍の「無口で小柄だが最高到達点でボールをキャッチできるGK」が活躍。苦し紛れの敵シュートを、実に冷静なポジショニングでことごとく押え切ってくれる。そして、歓喜の優勝。



 優勝チームには豪華なクリスタル風の優勝カップ。大きな盾。そして1人1人には金メダルが授与される。子ども達の誇らしげな笑顔。一方で勝てなかった敵チームの子ども達の悔しそうな表情。サッカーと言う至高の玩具を通じ、歓喜と痛恨を味わう事で彼らは成長するはずだ。

 このような大会では、他のクラブの指導者との情報交換も愉しみの1つ。この大会では、攻撃的なサッカーで優勝できた事もあり、我がクラブの評判はすこぶるよかった。「土日だけで、あそこまでテクニックのある子を育てられるのですね」とか「大柄な子もパワーに頼らず技巧を活かしたプレイをするのはいいですね」とか「どの子も顔を上げて回りを見ようとするのは見事ですね」とか。エヘン。

 とにもかくにも、6年生の子ども達には、曲がりなりにも「周囲のルックアップと自立的なドリブル」を伝えて中学校に送り出す事ができた。5年生の子ども達は、これらの基本を身に付けつつ「勝つ喜びと自信」を身につけてくれた。そして何よりも皆サッカーを大好きになってくれた。

 まあ、指導の素人なりに自分でもよくやったかなと。



 もっとも、こうやって毎週末子ども達とサッカーで遊んできて学んだものは、子ども達よりも自分の方が大きかったのかもしれない。一介のサッカー狂として、子ども達がサッカーを身につけていく過程を観察するのは、本当に勉強になった。何度も語ってきた事だが、彼らには感謝してもしきれない思い出がたくさんある。

 そして、最後の最後に私に優勝と言う歓喜を提供してくれたのだ。



 さらに...

 閉会式も終盤、突然進行役が全く意表をついた発言。「では恒例の最優秀監督表彰です。」

 齢46歳。サッカーに浸って約35年。個人表彰を受け、盾までもらったのは初めてでした。皆、本当にありがとう。
posted by 武藤文雄 at 23:41| Comment(6) | TrackBack(0) | 底辺 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年02月09日

都田競技場の本田泰人

 アントラーズで長年主将を務めた本田泰人が引退した。ここ最近出場機会がめっきり減ってしまっており、ある程度予想された事とは言え、感慨深いものがある。

 私が本田泰人を認識したのは、今なお語り継がれる87−88年の高校サッカー選手権帝京高−東海大一高。帝京の守備的MFとして広範な活動量でチームを支えていた。以下余談、この試合の本田の敵方の大黒柱だった澤登の引退試合が過日行われたが、本田が呼ばれていなかったのはちょっと残念。もっとも、当時の本田のチームメートであり現役時代から見違えるほどの体型となっていた礒貝が話題になっていたな(でも礒貝の膝にテーピングが巻かれていなかったには何かしら嬉しかった...ついでに澤登引退試合で体型劣化の礒貝のプレイ振りを観戦した友人が「でも、本当に礒貝は巧かった」と語っていた事も付け加えよう)。

 帝京高卒業後、本田は当時のJSLの中堅チームだった本田に加入する(ややこしいな)。当時は高校のトップレベルのプレイヤのほとんどは大学に進学し、多くの選手が必ずしも強化に恵まれない環境下で伸び悩んでいたため、本田の進路選択は好意的に受け止められた。そして、加入2年目の90−91年シーズンには、本田を始め、黒崎、北澤、石川康と言った、20歳前後の選手が機能、JSLで3位に躍進する。当時のJSLでこれだけ優秀な若手選手が機能したチームは珍しかった。個人的に本田のプレイと言うと、このシーズン浜松都田競技場で見せてくれた、メシアス(本田で長きに渡って活躍したMF、80年代のJSLを代表する名手)と北澤とのコンビネーションが、最も強烈な印象になっている。当時このチームを指揮した若き今井雅隆監督(現ヴォルティス監督)の手腕は多いに評価されるべきものだろう。

 ところが、本田(チームの方)がJリーグ出場を見合わせたため、北澤が読売に移籍したのを皮切りに次々と有力選手がチームを去る。本田(選手の方)も、黒崎や長谷川祥人らと共に、住友金属=鹿島アントラーズに移籍する事になる。もし、この頃本田技研が浜松をホームタウンにJを目指していたならば、日本サッカー界がどう変遷したかを想像するのも、また愉しい事ではある。

 ちなみに、残念だったのはバルセロナ五輪のレギュレーション。1969年8月生まれ以降の選手に出場権があったのだが、本田は6月生まれ。仕方のない事なのだが、本田があの五輪代表に入る事ができていればと今でも思ったりする。

 アントラーズで守備的MFのレギュラを完全に確保した本田は、95年代表入り。一時は山口素弘と共にドイスボランチの定位置を確保した感もあった。その後、名波がボランチにコンバートされたためフル出場は叶わなくなったが、フランス予選でも安定した好プレイを見せていた。しかし、フランス本大会では、服部、伊東らの若手が台頭してきた事もあり、メンバ入りはできなかった。

 とは言え、90年代後半のアントラーズ全盛期に、アントラーズの主将として君臨。豊富な活動量と、粘り強いマーク(汚いとの評価もあったが、結果的に敵を押さえ込むマークの厳しさは秀逸だった)、やや常識的とは言え落ち着いた展開。味方にとってこれほど頼りになり、敵から見ればこれほどいやらしい選手はいなかった。

 このような愚行があったのも、それはそれで1つの歴史と捉えるべきだろう。

 アントラーズと言うクラブは、フロントの経営感覚がなかなかのものがある。優秀な若手選手を丹念に獲得し、ベテランとなったプレイヤを巧いタイミングで放出するのが得意なのがその表れ。しかし、そのアントラーズがここ数年出場機会が明らかに少なくなっていたにも関わらず、本田だけは放出しなかった事は重要ではないか。本田の雇用には、結構な高額な報酬が必要だったはずにも関わらずだ。アントラーズフロントは、本田だけはどうしても放出したくなかったのだろう。この事こそ、全盛期のプレイ以上に、本田泰人と言う選手の偉大さを示すのではないかと思えてならない。
posted by 武藤文雄 at 23:24| Comment(8) | TrackBack(0) | Jリーグ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年02月08日

日本代表チームの格

 3月24日の国際Aマッチデー、国立でペルーと戦う事がほぼ決まりつつあるようだ。元々、川淵、鄭両会長がゴルフ場で日韓戦開催を合意しながら、謎の理由で流れたところから、この日のマッチメークの苦戦が始まったらしい。流れた理由に2説あるようで、1つは韓国の監督が日本との対戦を忌避したがったと言う説、もう1つはお互いがホームゲーム開催を望んだと言う説。いずれも突っ込みどころ満点の理由だが、いずれの理由にしても日本協会の首尾の悪さは相当なものがあるのは間違いない。

 しかしながら、「だったら欧州で試合を組んだらよい」と言う意見がネット界隈で見られたが、それはいかがなものか。現実的に酒精メーカとの契約で相当数のA代表試合を国内で組む必要があるのは自明であり、カスミを食っては生きていけないのだから。もっとも、私が「いかがか」と思う理由は、極めて個人的なもの。何より私はたまには、国内でベスト(に近い)メンバの代表の国際試合を、愉しみたいからだ。



 ともあれ興味深かったのは、一部のマスコミがペルーを「格下」と報じている事だ。FIFAのいい加減なランキング、あるいは82年以降ペルーがワールドカップから遠ざかっているあたりを論拠にした報道だろうか。けれども、いくら日本代表について強気な発言が得意な私でも、ペルーを「格下」と断定する勇気はないな。

 そもそも我々はペルーに勝った事がないのだし。トルシェ氏時代の99年キリンカップでは圧倒的攻勢を取られながらかろうじての0−0の引き分け、直後のコパアメリカではスコアこそ2−3だが内容は完敗(この試合は日本代表生活が終わりに近づいていた井原の八面六臂の活躍がなければ何失点したのかと思わせる酷い内容だった。まあ、このあたりのトルシェジャパンの試合振りは本当に悲惨だったな(その分、五輪代表は強かったけれど)。そして、今でも記憶に新しい05年マナマ決戦直前のキリンカップ、終了間際に見事にやられた試合(余談ながら、このリンクを貼った文章で妄想した、自選B代表はなかなか愉しいな)。



 ただし、「格下」と言う表現はさておき、日本代表チームの世界的位置づけを考えると、中々面白いものがある。ワールドカップに日本はつごう3回出場しているが、1次リーグ突破に成功したのは地元開催の02年だけ。まあ、「本大会出場の可能性は相当高いが(アジアと言う楽な地域にいる事も大きいけれど)、本大会で1次リーグを突破するのには苦労する」と言うレベルだろう。

 昨年日本が戦ったAFC非所属国を考えてみる。合衆国、フィンランド、ボスニア・ヘルツェゴビナ、エクアドル、ブルガリア、スコットランド、ドイツ、マルタ、クロアチア、ブラジル、トリニダードトバコ、ガーナ。これらの国のうち、明らかに「格上」はブラジルとドイツくらい。一方「格下」と思えるのは、マルタとトリニダードトバコのみではないか。そして、クロアチアとガーナは「ちょっと日本よりは強いかなあ」、そして他の国は「ホームならば勝って欲しいなあ、敵地ならばちょっと苦しいかなあ」と言うレベルだと思う。

 何を言いたいかと言うと、欧州、南米の2番手国、北中米、アフリカ、そしてアジアのトップ国、全部で30から50くらいの国の集団は、おおむね日本と同じレベルなのではないかと。上記したが、アジアと言う楽な地域にいるので、ワールドカップ本大会への出場の可能性は相当高いのだけれども。92年にオフト氏が日本をアジアチャンピオンに導いた時、日本はようやくその集団の後方に入る事ができた。そして、以降上下動をしながら基本的には、この集団の中では上の方にいるのではないかなと。ジーコを監督にした事で下降してしまった事は確かだが、一方であの奇跡のアジアカップのような得難い経験も積んだり、コンフェデのブラジル戦みたいな試合もあり、上昇する時もあった。上下動なんてこのようなものだ。

 昨年にしても、ワールドカップは残念だったが、一方で欧州のトップクラブで多くの選手がレギュラを張り、次々と優秀な若手選手が登場するなど、大ぐくりではよい年でもあった。オシム爺さんのチーム作りを、このような大ぐくりの視点で見守る事事は、これからの3年間の大いなる愉しみでもある。



 で、また選考は延長ですか。これもまた愉しい。
posted by 武藤文雄 at 23:30| Comment(8) | TrackBack(0) | 日本代表 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年02月07日

名良橋ベルマーレ復帰

 名良橋がベルマーレに復帰したと言う。ちょっとビックリした。何となく、アントラーズで現役を終えるように思い込んでいたからだ。そして、何とも言えない複雑な想いを感じたりする。名良橋が最も輝いていたのは、あの黄緑色のユニフォームを着ていた時代だと思うからだ。

 スペインで、しばしば見られる移籍劇。レアル・マドリーやバルセロナで活躍した選手が、選手生活の最後を若い頃所属したクラブで終えようとするパタンと考えてよいのだろうか(もっとも、スペインの場合は、「出身地」と言うものが絡むのかもしれないが)。



 今までにも何回か書いているが、Jリーグに加入し損ねたフジタが、ベルマーレと言う名前になり、当時のJFLでJを目指していた93年シーズン、そしてJに昇格した94、95年シーズン。ベルマーレの誇る若き両翼、名良橋と岩本テルには、本当に興奮させられた。この2人は、本当に両方のタッチライン間でワンツーパスをしていたのだ。名良橋のサイドチェンジがピタリと岩本テルに、と同時に名良橋は敵陣に向けてダッシュ。岩本テルはワントラップ後、悠然とした大きな振りのインステップキックを逆サイド前方に。名良橋は、そのボールを敵ペナルティエリア直前で、ダイレクトでズド〜〜ン。ジョルジーニョとブランコ。カフーとロベルト・カルロスの1/10の洗練度だったけれど、同等(以上?!)の興奮を味あわせてくれたコンビだった。

 そうこうしているうちに、岩本テルは「人気」と言う魔物により消えてしまい(それがベガルタで復活するのだから嬉しかったが)、名良橋はアントラーズに移籍した。当時名良橋は、代表の右サイドバックを柳本啓成と争っていた。名良橋は、世界サッカー史上最高の右サイドバックの1人であるジョルジーニョとのプレイを希望し、自らアントラーズへの移籍を希望したとも言われた。

 結果的にこの移籍は成功だったのだろう。フランスワールドカップ予選の97年。名良橋は代表のレギュラ争いに完全に打ち勝ち、ジョホールバル経由でトゥルーズに登場した。余談ながら、名良橋のライバルの柳本に右サイドバックをさせた加茂監督の判断は正しかったのだろうか。サンフレッチェでセンタバックとしてスピードと1対1の対応の巧さで、Jで大活躍していた柳本は、代表でサイドバックに固定されているうちに、本来の良さも消えてしまったようにすら思えるからだ。木村和司をウィングからMFに、名波浩を攻撃的MFからボランチに、それぞれ日本サッカー史上最高レベルのコンバートに成功した加茂監督ではあるが、この柳本の起用法は今なお疑問に思うのだが。

 話題を戻そう。トゥルーズの名良橋である。1−0のまま試合は後半を迎えた。井原を軸に、アルゼンチンの猛攻を丹念に押さえ、点差を開かせない日本。そして、試合終盤。我慢に我慢を重ねていた日本は75分以降逆襲に転じる。その75分、中田のFKから右サイド長躯した名良橋がフリーになり押えたシュート、しかしボールを浮かさぬように上半身をかぶせ過ぎたのか、シュートの瞬間やや力みがあり枠を捉える事ができなかった。以降、日本は攻めに転じ、CK崩れからの秋田のヘディング、中西の(今なお何が起こったのか信じられないのだが)2人抜きからの呂比須のシュートなど逸機もいくつか。あの名良橋のシュート以降日本は攻めに転じたのだ。「勝負になった。あのアルゼンチンとワールドカップ本大会で、まともな試合ができた。」感動は大きかった。

 もっとも、あの名良橋のシュート。ベルマーレ時代の名良橋ならば、「無理に浮かさぬよう」などと余計な事を考えなかったのではないだろうか。そして、渾身の力をこめてアルゼンチンゴールに叩き込んでくれたのではないか。と思ったりする。



 ジャーン、斉藤とベテランを補強し続けたベルマーレ守備陣だが、名良橋も復帰する。ややトウが経った守備陣だが、今シーズンはよい補強をしたものだと思う。

 そして、名良橋が復帰した今となっては、岩本テルの去就も問われる。こちらも、ベルマーレに復帰したりして。ついでに、もうすぐ移籍金が不要になるはずのお方も...
posted by 武藤文雄 at 23:28| Comment(2) | TrackBack(1) | Jリーグ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年02月06日

名波とラモス

 今シーズンは大型の移籍が多い。その中でも、独特の怪しげな愉しさをかもし出している移籍劇が、名波のヴェルディ加入である。もっとも、長く名波と共にジュビロ栄光時代を支えてきた服部が同時加入した事で、いくばくか「怪しさ」が薄まった印象にはなっているが。

 本題の名波について論じる前に、服部についても論じておきたい。服部のように肉体能力を前面に押し出した(存分に知的でもあったが)守備者は、30を過ぎて肉体能力が衰えた時にどのような選手に転身するかが難しい。個人的には、服部ならば運動能力の高い若くて元気なCBと守備の中央を固める仕事が面白いと思っている。ジュビロでは、CBに同世代の田中誠、鈴木秀人がいたので、その転身は難しかったが、ヴェルディならば十分に可能性がありそうで愉しみなのだが。



 本題に戻ろう。とにかく、私の興味は名波とラモスの化学反応につきるのだ。



 結論から言えば、最終的にはこの移籍は失敗すると予想する。シーズン半ば、疲労がたまり、かつ膝の古傷の保護が必要な名波を、ラモスは必ずや不満に思うに違いない。J2は名波にはあまりに厳し過ぎるリーグ戦なのだし。さらにラモスは、己の配下にいる名波は数年前の全盛期の名波とは異なる事を咀嚼しきれず、加えて自らが30代を過ぎた時周囲の選手にいかに負荷をかけたのかを忘却していると思う。かくしてラモスは名波に対する不満を、後先考えずにマスコミに喋ってしまい、この2人の関係は崩壊すると予想せざるを得ない。



 けれども、私はこの2人が監督と選手として、過去の日本サッカーにない鮮やかな「何か」を見せてくれるのではないかと期待せずにもいられないのだ。理由は明白だ。日本サッカー史において、この2人ほどピッチ全域を見通してプレイした攻撃的な選手はいないからだ。

 30を過ぎた頃のラモス。よくサボっていたのも確かだが、一方でフィールドの全域を視野に入れ、独特のスローテンポのゲームメークを見せてくれた。独特のゆるやかだが、正確に前線に抜け出す選手にピタリと合うスルーパス。ペースを存分に落とした後に、若い頃を思い出させる全力疾走と浮き球の処理の巧さで見せる「緩と急」の妙。読売クラブを率いたぺぺ氏はラモスを「フィールド上の地図が全て見えている」と語ったと言うが、正に言いえて妙。

 一方の名波。通常は左足で速い振りの短いサイドキックでボールをはたく事でテンポを作り、ここぞと言う時に一連の短いパスと同じ振りで格段に長いスルーパス、あるいは身体を巧く捻ったロングボール。短いパスと長いパスの選択の妙は、一体いつフィールド全体を俯瞰しているのだと感心させられた。中でも、00年のアジアカップでの名波のゲームメークは(森島の飛び出しと合わせて)正に超アジアレベルだった。

 長年サッカーをやってきて、今なお、どうにも納得し難い事がある。この2人にしても、いや所謂世界のスーパースター達にしても、どうしてかくも見事にフィールド全域を見通す事ができるのだろうか。比べるのがおこがまいしのは十分理解していますけれど(笑)。

 彼らの世界を想像してみる。ボール扱いが完璧に近いので、周りを見る事に神経を回せる。常に首を振って周囲を気にするのが完全に習慣になっている。ここまでは理屈だ。しかし、ラモスや名波の域になると、おそらく周囲のほんの少しの変化を感じ取り、何がしか我々の想像もつかない全体俯瞰が、脳内で絵になっているのだろう。ぺぺ氏の言うところの「フィールド上の地図」である。その地図が、90分の時間帯に渡り色鮮やかに常に彼らの脳内にあるのだろう。

 微妙に世代の異なっていたこの2人は、花相撲でしか共にプレイしていないはずだ。私が生観戦したのは井原の引退試合くらいか。報道によると、今回の移籍は「ラモスが強く望んだもの」との事だ。ラモスも「己にしか見えなかった世界」を「見てくれる部下」と共に戦いたかったのかもしれない。

 そう考えてくると、この2人の競演は、従来の日本サッカーでは見る事のできなかった「何か」を見せてくれるのではないかと言う気がしてくるではないか。私はそれを見たいのだ。ベガルタ戦以外で。
posted by 武藤文雄 at 23:11| Comment(3) | TrackBack(0) | Jリーグ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年02月05日

A代表1得点

 望月重良が引退を発表したと言う。清水商業、筑波大出身、高校時代も大学時代もトッププレイヤと評価され、当時ベンゲル氏の下、精強を誇ったグランパスに鳴り物入りで入団。技巧的でかつ機動的なMFとして、安定した活躍を見せていた。トルシェ氏が代表監督に就任するや、A代表にも選考され、右サイドMFを伊東テルと争った。その後、このポジションには明神、波戸、市川と有力な若手が次々と登場した事もあり、サンドゥニの惨劇に途中交代で起用されたのを最後に、代表からは外れてしまった。

 前後するが、00年シーズン最中、清水商業の1年先輩の大岩、1年後輩の平野と共に、チームから「不振の要因」と名指しされ、唐突に解雇されると言う「事件」を起こす。本件の要因については諸説あり、我々野次馬からは理解不能な事態があるのだが。とにかく望月は、グランパスを去り、その後サンガ、ヴィッセル、ジェフとチームを転々とする。言うまでも無く、私個人としては、03年シーズン後半に、当時J1残留を目指して、もがきにもがいていたベガルタに加入した際の思い出が一番深い。特に印象的なのは、残留争いの直接対決となったサンガ戦での、寿人の2得点の後のとどめとなる3点目を決めてくれた事、意図的なのか偶然なのかよくわからないループシュートだった。望月の技巧ならば意図的なのかと思っているのだけれども(もっとも、それでもJ1に残る事はできなかったのだけれども)。その後、ジェフに復帰を経て、04年シーズンで解雇される。05年シーズン半ばに横浜FCに加入したもののあまり出場機会に恵まれず、06年シーズン半ばに再度解雇された。その後、新たなクラブを探していたようだが、引退を決意した模様だ。



 上記した通り、望月はトルシェ氏率いる日本代表で、伊東とポジションを争っていた事がある。望月は73年生まれの清商出身、伊東は74年生まれの東海大一高出身。同世代の清水のサッカーエリート同士である。伊東は14年戦い続けたエスパルスにおいて、今なお老獪なプレイをプレイを見せ、完全に中心選手として君臨している。一方の望月は上記した「事件」以降、様々なチームを転々として、思うように定着できなかった。このあたりは、結構微妙な運不運の錯綜のようにも思える。

 望月のような技巧派肌のベテランは、チームにはまれば貴重な存在になる。しかし、いずれのクラブも30代半ばになろうかと言うベテランはそうたくさんは必要ないし、給料の高さも問題になる。ベテランがチームに、巧くはまるかどうかは、ちょっとしたきっかけなのだろうが、望月の高校の先輩にあたる名波でさえも市場で流動する現状は、望月に厳しかったと言う事か。

 望月のような選手は、JFLや地域リーグでJを目指すようなクラブに加入すれば、非常に貴重な存在になるのだと思う。冷静な技巧と老獪な経験と。しかし、下位のクラブになればなるほど、上記した給料の問題が出てくると言う事か。

 半分冗談、半分本気だが、いっそ、タレントを多数抱えている大学チームに、このようなベテランが加入できれば、メリットは非常に大きいように思うのだが、そのためには大学に再入学しなければならないか。いや、大学側は強化、人材育成両面でメリットがあるし、入学するベテランもコーチ学などを体系的に大学で学べればそれはそれで嬉しいのではないか。あ、話題がそれてきた。



 ともあれ、望月は日本代表史において、忘れ難い記録を残した選手だ。A代表試合で1得点を決めているが、よりによってその得点が00年アジアカップ決勝の決勝点だからだ。1次リーグ初戦でチンチンにサウジを下すところから始まった快進撃、準決勝まで圧倒的な強さで勝ち残った日本。決勝は再びサウジと戦う事になった。ところが、日本は様々な要因から、散々苦戦する事になる。それでも、前半半ばに中村のFKに飛び込んだ望月が見事に先制点を決め、そのまま逃げ切る事に成功した。これだけのビッグゲームで、代表生活唯一の得点を決めたのだから、この選手も大したものだ。試合終了後のインタビューで、「見事な先制点でした」と問われて、本当に嬉しそうな表情をしたのが忘れられない。

 望月は、貴重極まりない得点を決めたと言う記録面のみならず、あの最高の笑顔で記憶面にも残る代表選手となった。
posted by 武藤文雄 at 23:22| Comment(6) | TrackBack(0) | Jリーグ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年02月02日

史上最高の9番

 先日のベッカムに続き、ロナウドまでがレアル・マドリーを去る事になった。一連の「銀河系政策」が終わりを告げたと言う事だろう。50年前とは時代が異なっていたのか、人材選考が悪かったのかはさておき、長期的観点からは「正常化」と言う言葉でくくられるのだろうか。私は過去も述べたが、「銀河系政策」には否定的な論陣を張ってきた。もっとも「銀河系政策」に関しては、2002年12月のトヨタカップで少々食あたりを起こしそうな脂っこさではあったが、非常に美しいパスワークを堪能できたのだから文句を言ってはバチがあたるかもしれないが。 

 ともあれ、ロナウドはサンチャゴ・ベルベナウを去り、サン・シーロに復帰する。今度は青黒ではなく、赤黒になるのだが。



 で、今日の本題はロナウドについて。 私は、「この選手は史上最高のセンタフォワードではないか」と思ったりするのだ。

 あの98年の爆発的なドリブルシュート。力強さ、スピード、技巧が全てバランスが取れた美しさ。そして、その爆発ドリブルで抜け出し、シュートを打つ直前の丁寧で正確極まりないボール扱い、強く低くゴールに流し込まれる軌道の見事さ(準決勝で、その若きロナウドを阻止したダヴィッツの歴史的なスライディングタックルも忘れ難いが)。そして、謎の決勝直前の体調不順。

 続く02年、1次リーグの序盤のグダグダ振り。1/16ファイナルのベルギー戦、狙い通りの見事なサッカーを見せるベルギー(あの神戸の試合、私はこのままベルギーが押し切ってブラジルが脱落すれば、「日本が決勝進出できる可能性が格段に高まる!!!!」と興奮を禁じ得なかったのだが(笑))に苦戦するブラジル。しかし、リバウドの信じ難いバックボレー。そして、ロナウドの冷静な一撃。そこから、フェリペブラジルの快進撃が始まる。イングランドをリバウド、ロナウジーニョの2得点で下して迎えた準決勝。トルコの分厚い守備に苦戦するブラジル、そして速攻から「左」サイドをロナウドが突破する、しかしロナウドに対峙するのは、この日(と8日前の日本戦で)大当たりしていたトルコGKリュストゥ。切り返して得意の右に持ち帰るスペースはトルコ守備陣が与えてくれていない。一方、不得手な左足でのシュートでは、リュストゥを破るのは難しそう。と、トルコゴール裏で見ていた私が考えた瞬間、ロナウドは信じ難いアイデアを発揮した。ドリブルで持ち上がりながら、利き足の右でトーキックでシュートしたのだ。全くタイミングを逸したリュストゥには防ぎようがなかった。何と言うアイデアなのだ。その後の決勝、ロナウドは(この決勝戦に進出するまで完璧なセービングを見せていた)名GKカーンの信じ難いファンブルを詰める事で、母国に5度目の栄冠を提供し、得点王も獲得する。同じ年の12月に再びトヨタカップで来日、先制点を決めた時のボール扱いの正確さも凄かった。

 加えて、今回の06年。ロナウドは「太ってしまってダメだ」「アドリアーノとロビーニョの2トップが最も有効」など、多くの意見が飛び交った。その意見にしたがって、日本戦にはロナウドを外してくれればよかったのに。日本が1−0とリードしていた前半終了間際、ロナウジーニョが(日本から見て)左サイドに進出してきたシシーニョに鮮やかなクロスパス。ロナウドをマークしていた中澤が、一瞬(そう、ほんの一瞬だった)シシーニョの方を向いた瞬間、ロナウドは1、2歩後方に下がり、フリーになる。中澤が振り向いた時は遅かった。あの試合のハーフタイム、幾度と無くドルトムントのオーロラビジョンに流されたあの同点劇、「しまった、やられた!」と言う中澤の悔しそうな表情が忘れられない。続く1/16ファイナルのガーナ戦。開始早々にオフサイドトラップを破り抜け出した際も心憎いばかりのボール扱いで「ワールドカップ最多得点」を決めた(この日の前半、全く同じように抜け出したアドリアーノが僅かなボール扱いのブレにより得点を決められなかったのが印象的だった)。



 色々なパタンで点を取る事のできる能力も見事だが、長きに渡って活躍してきたところも凄い。94年のワールドカップの時はまだ見習い。96年のアトランタ五輪で交代出場してきた「ロナウジーニョ」時代は、松田直樹と互角の戦いを演じていた。しかし、それ以降ガガーンと凄い選手になり、97年のロマーリオとのコンビが確立した頃には、早くも「世界最高」の雰囲気を漂わせていた。その時以降10年近くの長きに渡り、ロナウドは「世界最高」のストライカだったのだ。ゲルト・ミュラーも、パオロ・ロッシも、ガリー・リネカーも、ティエリ・アンリも、そしてマルコ・ファン・バステンも、ここまで長期に渡って活躍を継続できなかった。それぞれ負傷あり、八百長事件の連座疑惑あり、疲労による引退表明あり、など事情はまちまちだったのだが。しいて言えば、ガブリエル・バティストゥータが近い印象があるかな。

 ただ個人的には、ロナウドよりはバティストゥータの方がずっと好きなのだけれども(あのトゥルーズで川口がやられたチップキックをどう文章化すればよいのか)、でもワールドカップの「ここぞ」と言う場面で、得点を決めているロナウドの「怪物」振りは認めざるを得ないかなと。



 だけどさ、中村俊輔よ。あのドルトムントの悔しさを、ここで晴らさずにどうするよ。
posted by 武藤文雄 at 23:13| Comment(14) | TrackBack(0) | 海外 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする