2008年01月23日

「不快」の要因

 戯言です。不愉快に思う方がいたらご容赦を。

 過日の事だが、複数の著名自称サッカー評論家が、「拡大トヨタカップのレッズサポータの応援は、大した事がなかった」と言う趣旨の発言を行ったとの由。まあ、彼らの発言は、過去も再三に渡り(私を含め)いくばくかのサッカー狂を不快にし続けてきた。この機会に、何故彼らの発言は、かくも私(のようなサッカー狂)を不愉快にさせるかを考えてみたので、以下述べる。彼らの発言など不愉快になるのだから無視すればよいし、他に愉快になるようなサッカーの話題も多々あるのに、わざわざ不愉快な話題に関して講釈を垂れる私自身の矛盾も感じるのだけどね。
 とは言え、私は「レッズサポータの応援が世界レベルか否か」を論じるものではない。そもそも、その命題そのものが、あまり意味の無い事だし。あくまでも、本稿は「著名サッカー評論家への不快感の理由」のみを述べるものである。

 まず、こちら。これは対談形式。二宮氏が聞き手になっているが、この方は「サッカー界においては『キャプテン』と言う単語は、試合中11人の中で腕章を巻いてチームを統率する人間である」と言う事を理解していないと言う実績があるので論外。で、語り手の金子氏。レッズサポータ批判の部分を抜粋させていただく。
金子:(前略)。それにしても、僕は浦和のサポーターにがっかりしましたね。
二宮: それはどういうこと?
金子: 試合の空気を読んでほしい、と強く言いたい。0対1で負けていて、残り時間はどんどん少なくなっていく。でも、0−0の時と変わらずに歌っているわけですよ。同じ応援歌がタイムアップという絶望の瞬間にもスタジアムに鳴り響いている。こんなスタジアムでは日本のクラブは勝てないな、と思いましたね。浦和のサポーターが日本で最先端を走っているのは事実ですよ。でも、欧州のスタンダードには程遠い。
ここまでの部分は、肯定はしないが、一つの理屈だと思う。確かに負けている試合終盤、(必ずしもレッズを含めたJクラブのサポータが、0対0の時と同じように歌っているとは思っていないし、少なくとも私はあまりそのような場に遭遇した事はないのだが)金子氏が指摘するように、単調に歌っているだけだとしたら、改善の余地はあるかもしれない。
 ところが、笑えるのは続く金子氏の発言である。
自分の愛するクラブが目の前に木っ端微塵に打ち砕かれていているのに、僕なら歌えない。言葉を失ってしまう。でも、テレビゲームのようにバーチャルに感じているから、負けても痛くもかゆくもないんですよ。
この人は経験がないのだ。自分の愛するクラブが目の前で打ち砕かれようとしているその時、言葉を失う人はサポータではない。打ち砕かれる直前までは、絶叫するのがサポータなのだ。そして、打ち砕かれた直後に言葉を失うのだが。この主審のホイッスル前後の絶叫と絶望を味わうのは、(願ってはいないのだが)一種のサポータ冥利なのだ。真のサポータとして経験のない人間(つまりサッカーが好きではない人間)に、どうして指図を受けなければならないのか。
 だから、この人の文章は私を不快にするのだろう。

 次はこちら。この人は再三「世界」とか「欧州トップモード」と言う定義不明な言葉を弄するので有名なのだが、レッズサポータ批判の部分を抜粋してみる。
 浦和のみならず、ゴール裏に陣取るJリーグの各クラブのサポーターは「見る」という行為が、いささか疎かになっている気がしてならない。常に声を張り上げ、身体を上下に揺らしていては、試合がよく見えるはずがない。
 それが端的に表れるのが、ブーイングのシーンだ。反応が決定的に遅いのだ。世界のサポーターに比べて、たとえば相手に有利に吹いた審判のジャッジに対し、異を唱える反応が確実に数秒遅れている。正面スタンドやバックスタンドで、静かに観戦している人の方が、むしろ反応は早いくらいだ。
 その応援風景は、殺気漂う圧倒的なものに見える。だが、少なくとも相手選手や審判は、最初はともかく、時間の経過とともに視線に鋭さが欠けていることに気づくことになる。彼らにとって本当に怖いものが、そこにはない。あるようでいてないのだ。一方、世界のスタンドにはそれがある。視線の鋭さこそが、スタジアムに殺気を漲らせているのだ。
 たとえば「カンプ・ノウ」に応援団はいない。試合中のスタンドは、滅茶苦茶静かだ。しかし、だからこそ、時にわき起こる歌声には迫力がある。ため息にさえ殺気を感じる。98,000人の観衆が瞬間、一斉にどっとつくため息だからである。ピッチに集中していない観衆が誰もいないことを意味するため息が、巨大なスタンドに響き渡った瞬間、そこには止めどもない戦慄が走る。
細かい部分の突っ込み(例えば、「数秒の遅延があればサッカーでは違う場面になっている、コンマ数秒の遅延はあるかもしれないが」とか「フィーゴの移籍直後の『カンプ・ノウ』が滅茶苦茶静かでしたか」などについては触れない)はさておき、「試合をしっかり見て反応すべし」と言う理屈は正しいとも思う。
 しかし、何か違和感がある。しばらくしてから気がついた。それは、杉山氏がここまでサポータの動きを観察している事そのものなのだ。少なくとも私は、サッカーの試合中、サッカー以外のものを見る余裕はない。過日のレッズーミラン戦にしても、レッズサポータを観察する余裕など一切なく試合ばかり見ていた。確かに相当な戦闘能力差を感じる試合ではあったが、一方でのんびりと応援風景を観察できる余裕のある試合ではなかった。
 おそらく杉山氏は試合そのものは見ないで、試合周辺を見るのが愉しいのだろう。そう言われてみれば、氏の過去の文章の多くは、形骸的な選手の配置や、欧州のサッカー場の雰囲気を語るものがほとんど。まともにサッカーの試合を見ているとは思えない内容のものが多かった。氏が97年ジョホールバルでイランに逆転された直後「ハハハハ、まただな」と笑っていたと言う逸話があるが、そう言う人なのである。これはこれで、1つの考え方だろうが。
 そのため、この人の文章は私を不快にするのだろう。


 ただし、上記した私の視点は、サッカーそのものを愉しむしか術のない、しがないサッカー狂のそれである。
 日本代表のワールドカップ3次予選タイ戦のチケットの売れ行きがあまりよくないとか、Jリーグの観客数が増えているがやや頭打ちと言う話を見聞きする。多くの方々にサッカーを愉しんでいただくためには、「サッカー狂」ではない方々に競技場に来ていただく事が非常に重要。そのためにも、このような「必ずしも自分はサッカーが好きではないが、一般人が喜ぶ視点でサッカーを語る事ができる」と言う自称サッカー評論家が必要なのだろう。
posted by 武藤文雄 at 23:00| Comment(48) | TrackBack(2) | マスコミ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする