2017年02月19日

平山相太と戦える喜び

 ベガルタサポータとして、平山相太と戦うことができるシーズンの開幕が近づいてきた。何かとても素敵なシーズンになりそうな予感がしている。

 私は、平山相太と言う選手が大好きだ。そして、若い頃から、その将来性を大いに期待していた。
 一方で、10年以上前、平山が若い頃から、周囲の指導者が、「平山の特長を誤って捉え、成長を阻害しているのではないか」と、憂う文章を随分書いたものだ(もっと読みたい方は、検索ウィンドウに「平山」と入力ください。そして、8年ほど前に、FC東京で中心選手として定着し始めた頃にも、「そのプレイスタイルは相変わらず平山の潜在力と一致していない」と、文句をつけたこともある。そして、翌年の平山A代表でのハットトリックには、随分興奮したものだ。
 しかし、残念ながら平山は、代表はおろか、FC東京の主軸にすら定着はできなかった。けれども、その得点能力は決して錆びついていない。FC東京での最終戦となった昨年末の天皇杯準々決勝フロンターレ戦の終了間際の一撃など、実に見事だった(もっとも、その一撃が遅すぎて、自軍の勝利につながらないあたりも、いかにも平山らしいのだが)。
 そして、平山はFC東京から、我らがベガルタ仙台に移籍してきた。

 平山は31歳。ここまで、平山が、大成しきれなかった要因はいくつかあるだろう。
 最大の要因は、負傷の多さだろう。2011年、12年、14年と骨折による長期離脱は、あまりに不運だった。また、上記したように、この選手の特長を見誤った使われ方が続いたのも、残念だった。もちろん、オランダ時代からよく取沙汰されるように、いわゆる「戦う気持ち」に課題があったのかもしれない。しかし、これらは皆過去のことだ。
 そして、上記したフロンターレ戦の一撃を見れば、平山はまだまだ存分な輝きを見せる能力を保持しているはずだ。いや、かつてないほどの輝きを見せてくれる可能性もあるように思うのは私だけか。
 もちろん、そのために解決すべき課題は無数にある。厳しい鍛錬により、コンディション調整をしっかりと行うこと。チームメートが、平山の特長をよく理解し、平山に点を取らせるサッカーを行うこと。そして何より、平山が己の特長を理解し、チームメートに適切な要求を行い、それに平山が応え、信頼を獲得すること。それらは、決して簡単な道ではないだろう。
 ただ、若くして格段の才能を発揮しながら、活躍しきれなかった選手が、ベガルタ仙台に加入し光彩を放った事例が無数にあるのだ。たとえば岩本輝雄、たとえば財前宣之、たとえば角田誠。もちろん、朴柱成もその系譜に加えてよいかもしれない。

 などと考えると、冒頭述べたように、「素敵なシーズン」と語りたくなる気持ちを、理解いただけるのではないか。うん、楽しみだ。
posted by 武藤文雄 at 23:53| Comment(0) | TrackBack(0) | Jリーグ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

岡野俊一郎氏逝去

 岡野俊一郎氏が亡くなった。享年85歳。
 ここまで私たちを導いてくれて、我が国を世界屈指とまでは行かないけれど、相当なサッカー国に導いてくれた恩師。
 ご冥福をお祈りいたします。今まで本当にありがとうございました。

 岡野氏の貢献を簡単に振り返ってみる。

 メキシコ五輪銅メダル。
 コーチとしての長沼健監督の参謀としての活躍。釜本を代表する多くの選手が苦しみつつも感謝した言う、厳しい直接指導、特別コーチのクラマー氏の通訳、そして最大の成功要因と言われる周到なコンディショニング準備。
 長沼氏の後を継ぎ、代表監督に就任し、ミュンヘン五輪出場に失敗した以降、現場指揮をとることはなかったが、それはそれでちょっともったいない気がしてならない。

 著作や翻訳。
 今日と異なり、欧州のサッカー書籍を翻訳できる人はほとんどいなかった70〜80年代。トレーニングの方策に模索する私たちにとって、岡野氏の翻訳書籍は、最高の教材だった。
 サッカーマガジンやイレブンに記載された、岡野氏の観戦記、指導方法への提言、日本サッカーの構造的問題への啓示。これらにより、私たちのサッカー感が、いかに研ぎ澄まされたことか。
 例えば、メキシコ五輪直後に「日本サッカーのトップレベル選手の技術は低い、南米や欧州はもちろん、アジア諸国より劣っている」と明言したこと。確かに映像を見ればその通りだった。「だからこそ、小学校時代から子供達に技術を教えなければならない」と、岡野氏は強調した。氏の発言を受けて、70年代初頭より日本中のサッカー屋が少年指導に専心したのが、今日の栄華を生むことになった。

 テレビ解説。
 ダイヤモンドサッカーにおける、金子アナウンサとの、幾多の丁々発止。ご自身が直接観戦されたワールドカップの名勝負にしても、初見の欧州のリーグ戦、ごくたまに映される南米の映像。いずれも、その文化背景を補足する鮮やかな解発の数々。
 日本代表戦やJSLの幾多の辛口解説。「もう少し褒めた方が、盛り上がりませんか」との思いもあったけれど。ただ、岡野氏のリアルタイムのリアリズムあふれる解説は大好きだった。特に、攻め込んでいるチームが点を取り切れないと、「守備のリズムが出て来ている。これは、押し込まれているチームのペースだ」と言うコメント通りになる展開。このような、試合の流れの説明は本当に勉強になった。

 幾度か、直接話をうかがう機会を得た。
 下心ばかりの凡人である不肖講釈師は、大昔の著書にサインをねだって機嫌をとってから、貴重な短い時間に臨んだ。当方の質問や意見をすっと聞いて、鋭く切り返す言葉。中でも忘れ難いのは、Jリーグ黎明期の話。曰く「日本のスポーツ用語は野球界のそれを使う傾向があり、本質的な意味を伝えられないきらいがある。だから『チェアマン』なり『プレシーズンマッチ』と言う言葉を使うよう指導した。今でも悔いが残るのは、『フロント』と言う言葉を使うのを許したことだ。結果的に、クラブの経営の重要さが矮小化されてしまった」とのこと。

 JOC委員なり、IOC委員での功績は、別に任せたい。

 もちろん、その業績のすべてをポジティブに語るつもりはない。
 ほぼタイミングを同じくして逝去された木之元興三氏らがはたらきかけるまで、日本サッカー界へのプロフェッショナリズム導入に消極的だった(あるいは無理をしなかった)のが、適切だったのかどうか。もちろん、「あのタイミングまで待った」からこそ、今日の繁栄があったとの解釈も成立するのだが。
 80年代後半から90年代前半にかけて。プロフェッショナリズム導入に積極的だった森孝慈氏を、強化体制に斬新な手を打とうとした加藤久氏を、それそれ「切った」ことを、どう評価すべきか。この2人が在野に去ったことは、日本協会の弱体化につながったのではないか。

 そうこう語りながら。
 私は岡野氏の最大の功績(と言う表現はあまりに不遜なのだが)は、上記のような具体的なものではないと思っている。
 岡野氏は、格段に先行している欧州のサッカー文化、いや生活文化とその背景を正確に理解していた(もちろん、北米スポーツ界の特殊性や、欧州と比較的類似した南米の制度も)。そして、それを我々に的確な日本語で説明してくれたのは、上記講釈を垂れた内容から理解いただけるだろう。
 そして、岡野氏の偉大さは、それらの理解に基づき、日本サッカー協会の運営を、将来に向けて矛盾がないように行っていたことにある。70年代半ばには、選手登録は、学校単位の登録から、年齢別登録に切り替わっていた。天皇杯は全国の小さなクラブにも開放されており、実力に恵まれて勝ち抜くことができれば、元日の決勝戦にまで残れる道筋があった。同じく小さなクラブでも、常識的な時間をかければ、JSLにも駆け上がれる道筋も準備されていた。国体と言う日本独特の運動会を利用したり、サッカー界独自のトレセン制度から、日本中から素質豊かな若手選手を吸い上げる仕組みも準備されていた。
 繰り返すが、このような制度設計が、70年代半ばには準備されていたのだ。その他の競技が、今なお学校体育や企業スポーツの既得権を脱することに苦労していることと比較して、サッカー界は何十年も進んだ運営が行われていたのだ。
 だから、我々は今、Jリーグと言う最高級の玩具を、じっくり楽しむことができるのだ。

 そのような基礎を構築してくれたこと、その構築のための本質的な理解。それこそが、岡野さんが、我々に残してくれたものだ。

 改めて。
 岡野さんから学んだ我々は、もっともっと素敵なサッカー界を、あるいはスポーツ界を、この国に作っていきたい。そこを目指すことが、岡野さんへのお礼となるはずだ。
 繰り返します。ありがとうございました。 
posted by 武藤文雄 at 01:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

広告


この広告は60日以上更新がないブログに表示がされております。

以下のいずれかの方法で非表示にすることが可能です。

・記事の投稿、編集をおこなう
・マイブログの【設定】 > 【広告設定】 より、「60日間更新が無い場合」 の 「広告を表示しない」にチェックを入れて保存する。