2018年01月29日

平山相太引退

 平山相太の引退が発表された。オフに契約更新をしていたにもかかわらず、キャンプ中の発表、さすがに驚いた。度重なる負傷に悩まされた選手人生を象徴する引退発表となった。

 昨シーズン開幕戦、ユアテックでコンサドーレと対したlベガルタは押し気味に試合を進めるが崩しきれず、試合終盤を迎えた。渡邉監督は、この場面でベンチにいた平山を石原と交代させることを決意した。ところが、平山がピッチに入ろうとタッチライン沿いで待機していたところで、ベガルタは三田の強シュートのこぼれを石原が押し込み先制に成功。渡邉氏は、交代選手をストライカの平山から、DFの増島に切り替え、守備固めを選択した。
 そして、その翌日のサテライトの試合、平山は重傷を負い、チームからの離脱を余儀なくされた。
 今回の引退発表。その負傷の回復が順調でなかったと言うことだろう。残念極まりない。

 平山が格段の素質に恵まれていたことに異論を唱える人は、ほとんどいないだろう。ただ、残念なのは、その格段の素質の内容を見誤った指導者が、当時の若年層日本代表を率いていたことだったと思っている。そして、その監督がその後FC東京でも、平山の上司となった。
 もちろん、平山の魅力の1つに、190cmの上背があったことは確かだ。しかし、彼の格段の能力は、その上背ではなく、正確なボール扱いと、足でのシュートのうまさにあった。国見高校時代の幾多の得点が、落ち着いたインステップキックのグラウンダのシュートだったことは重要だ。また、その技巧を活かしたターンのうまさも相当だった。
 長身を活かした空中戦も悪くはなかったが、細身なこともあり、後方からの高いボールを受けるのは、あまりうまくなかった(一方で低い足下へのボールを収める上手だったが)。しかし、横に動いてマーカを振り切ってからのヘディングシュートの威力は中々だった。
 だから、そのような使い方をしてほしかったのだ。ああ、それなのに

 もちろん、負傷が多かったと言う不運も大きかった。また、オランダでのホームシックに代表される、精神面の課題もあったのかもしれない。けれども、あれだけの大柄な身体でありながら、あれだけ柔らかなボール扱いの上、あれだけ弾道の低いシュートを打てる技術を身に着けた男が、努力を惜しむ性格だったとは思えない。
 だからこそ、その格段の素質を活かしたチームでプレイすればとの思いは消えなかった。そして、ようやく、ようやくのこと、その機会は、やって来たのに。渡邉氏の指導の下、丁寧にボールを回し、両翼に人数をかけ、時に前線に速いパスを入れるベガルタ。ザ・リアル・ストライカの平山が、その格段の能力を発揮できるチームに、ようやく、ようやく出会えたのに。
 度重なった負傷を呪うしかないのか。

 それはそれとして。
 幾多の素敵な場面を見せてくれた平山に、改めて感謝したい。中でも、インタネットのカクカク画像で堪能したこの試合は、忘れられない。また、似非FC東京サポータとしてゴール裏に侵入し平山の消える動きを堪能したこの試合も。

 結びに戯言を。よく、「平山相太に、岡崎慎司のハートがあれば」と言う人がいる。でも、私の意見は違う。「平山相太が、岡崎慎司の上背しかなければ」と思うのだ。そうだとすれば、平山は、優雅で技巧的なストライカとして、誤った使われ方をせずに、もっともっと、その個性を活かせたのではないか。

 幾多の美しい得点に多謝。
posted by 武藤文雄 at 00:13| Comment(1) | Jリーグ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年01月22日

水沼宏太への期待

 少々旧聞になるが、天皇杯決勝、そして決勝点を決めた水沼宏太について。
 決勝戦のヒーローとなった水沼宏太と、御父上の水沼貴史氏が、史上初めての親子で天皇杯を制したことは結構な話題ともなった。その周辺のことをきっちり講釈を垂れておきたいな、と考えた次第。

 セレッソ対マリノスの決勝戦と言うと、83-84年シーズンの決勝戦以来、34年振り。当時はもちろん、ヤンマー対日産でしたが。そして、この34年前の決勝戦は、以下2つの意味で、日本サッカー史にとって非常に重要な試合だったのだ。
 まず、この試合は、釜本邦茂が出場した最後の公式戦である。監督兼任だった釜本は、この試合0対2とリードを許した状況で、ピッチに登場。右サイド最前線でプレイをして、巧みなボールの引き出しや突破の妙を見せてはくれたが、中盤から有効なボールがほとんど出ず、有終の美を飾ることはできなかった。
 試合はそのまま2対0で日産の完勝、初めてのタイトル獲得となる。日産は70年代から強化を開始した比較的新興のチームだったが、この数年前から、金田喜稔、木村和司と言った日本代表に定着していた大学生選手を精力的に獲得していた。これは、優秀な選手に好条件を提示し、他のチームに先駆けて事実上のプロ化を進めていたことによる。そして、この83-84年シーズンは、柱谷幸一、越田剛史、そして水沼貴史らの有力選手を大量に獲得し、チーム力は格段に向上。JSLでは2位に獲得し、ついに天皇杯を制し初タイトルを獲得することとなった。以降、日産は、同シーズンにJSLを制覇した読売と共に日本サッカー界を牽引することとなる。敗れたヤンマーは釜本を軸に70年代を席捲してきたチーム、まさに時代の変化を感じさせる試合だった。

 以降、日産は水沼貴史と共に多数のタイトルを獲得する。
 そして、ご子息の水沼宏太は、父がプレイ活躍していたマリノス(日産)の若年層組織で成長、幾度も若年層日本代表にも選考され、2008年マリノスでプロ契約を行う。しかし、中々定位置をつかむことができず、栃木SCへのレンタルなどもはさみながら、サガン鳥栖で定位置を確保。16年シーズンにはFC東京に移籍するものの、出場機会が限定されたこともあり、17年シーズンよりセレッソにレンタルされ、今日に至った。
 水沼親子は、最も得意なポジションは、ともに右サイドの攻撃的MF。しかしながら、そのプレイスタイルは異なる。親父殿は、正確なボール扱いと独特の抑揚のドリブルを軸に、サイドを巧みに突破したり、スルーパスを通すのを得意としていた。一方、倅殿は長駆を繰り返すことのできる豊富な運動量が持ち味。親父殿はいわやる主役タイプだったのに対し、倅殿はチームを支える立場なのも異なる。余談ながら、顔つきにしても、個別のパーツは似ているものの、優男だった親父殿と比べ、倅殿は相当精悍な顔つきである。
 ただし、よく似ていることもある。2人とも、動いているボールをとらえるのが、格段にうまいことだ。89年イタリアワールドカップ予選のホーム北朝鮮戦で親父殿が決めたスーパーボレーシュートは、30年近い歳月が経った今でも記憶によみがえる一撃だった。そして、この天皇杯準決勝、アディショナルタイムにに失点し苦境に追い込まれていたセレッソを救った、倅殿のボレーシュートの際の、何とも言えないミートのうまさに、親父殿を思い出したのは私だけだったろうか。
 そして、この決勝戦を見て、もう1つ「親父殿に似てきたな」と思ったことがある。それは、何とも言えない勝負強さだ。マリノスに先制を許し、老獪な中澤を軸とするしつこい守備の前に、なかなか有効な攻撃を見せられなかったセレッソ。その沈滞ムードを破った同点弾のきっかけは、倅殿が意表を突いて放った強烈なミドルシュートだった。そして、決勝点、マリノスGKのポジションミスを冷静に見て取り、無人のゴールにヘディングシュートを流し込む冷静さ。85年のメキシコワールドカップ予選のホーム香港戦のとどめの3点目、親父殿のクールなボールタッチを思い出した。

 親子選手を応援できると言うのは、サポータにとっては、きっと素敵な経験となのだろう。日産時代からのマリノスサポータの方々はその快感を味わったことになる。ただし、上記のとおり、水沼宏太はマリノスの若年層組織で育ったものの、マリノス結果的には芽が出きらず、他クラブでトッププレイヤとなった。そして、よりによって、このマリノスと戦ったビッグゲームで、マリノスに引導を渡すことになったのだから、上記古手のマリノスサポータの方々には何とも複雑な思いがあったに違いない。こんなほろ苦さを味わえるなんて、羨望としか言いようがないではないか。
 私も何十年も日本代表を応援してきた身として、一度でよいから、親子選手を応援したいものだと思っている。マルディニとかヴェロンとか、うらやましいではないですか。そして、水沼宏太は、苦労に苦労を重ね、セレッソと言う日本のトップクラブの中心選手まで駆け上がってきた。とうとう、A代表まで、あと一息のところに到達したのだ。しかし、もう27歳、正直言ってその可能性はもう決して高くはないかもしれない、でもこの準決勝と決勝の色鮮やかな活躍を見ると、オールドファンとして、あきらめずに期待を寄せてもバチは当たらないと思うのだ。
posted by 武藤文雄 at 23:24| Comment(1) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする