2019年04月30日

あまりに幸せだった平成の日本サッカー

 平成の世が終わろうとしている。

 私はサッカーでも本業でも、西暦を使っているし、人生の区切りを毎回のワールドカップで認識しているような人間だから、元号でのカウントはピンと来ない。ともあれ、人生2度目の元号切替と思うと、感慨深い。
 平成元年の初日(1989年1月7日)のことは、よく覚えている。年休をとって、高校サッカー選手権の準決勝を観に、駒沢競技場に向かったのだ。そして、競技場で見たのは、「昭和天皇崩御のため、準決勝延期します」とのメッセージだった。
 先日からマスコミを中心にお祭り騒ぎだが、国民が元号の切替を楽しむことができるのは、今上陛下の退位の決断の賜物。そもそも80歳を超えた両陛下に今なお活躍いただいたことに感謝。そして、同年代の皇太子殿下が、50代後半のこれから重責を担うことに、何とも複雑な思いを持つ。
 日本と言う国のこの約30年間を振り返ると、産業構造転換の不首尾で残念な期間だったとか、少子化が決定的になったとか、自然災害に悩まされた期間だったとか、ネガティブな評価は少なくない。一方で、いわゆる近代以降(明治以降)で、初めて対外戦争がなく平和な時代だったと、ポジティブにとらえる方もいらっしゃる。
 ともあれ、日本サッカー界にとって、この平成の30年が、本当に幸せな時代、それも昭和からは、まったく信じられないすてきな時代だったことに、異議を唱える人はいないだろう。 
 とにかく、昭和と平成の日本サッカー界は、まったく異なるものになった。昭和には、強い日本代表チームも、実り豊かなJリーグも存在しなかったのだから。

 私は昭和時代から、日本代表が大好きだった。
 そもそも、昭和時代は、ワールドカップ及びその予選に向けて、強いチームを作るための、長期強化をしたことは、実質的にはなかった。これは、1980年代半ば過ぎ(いわば昭和末期)までプロフェッショナリズムの導入が遅れたこともあり、強化の主眼はオリンピック及びその予選が強化の主眼だったためだ。そのような考え方もあり、アジアカップに至っては、予選に出場を見送ったり、B代表を派遣したりしたこともあった。主眼を置いていたオリンピックにしても、1936年(昭和11年)のベルリン五輪、1968年(昭和43年)のメキシコ五輪で、そこそこの成績を収めたことはあったが、出場はその他には1956年(昭和31年)のメルボリン五輪のみ。
 もちろんメキシコ五輪の銅メダルは誇らしいものだったが、そこに向けての東京五輪からの集中強化の貯金が途切れたところで、アジア内で勝つのも難しくなっていた。韓国、北朝鮮、中国、イスラエル(当時はアジア協会所属)、中東勢に勝つことはもちろん、フィジカルでやや優位に立てるビルマ(当時、現ミャンマー)、マレーシア、タイと言った東南アジア諸国に対して劣勢の成績しか収められなかった。単純に、70年ごろから80年代前半(昭和40年代半ばから50年代後半あたり)まで、日本代表は弱かったのだ。
 いや、勝ち負けだけではなかった。そもそも、定期的な代表試合を他国との間で行う機会も少なかった。これは、経済的な課題と観客動員の乏しさの両面からから来るもの。そう言うものだったのだ。…なのでね、平成に入ってから、あれこれ広告代理店がサッカービジネスで金儲けばかり考えて、成績不首尾を招き、結果的に商売面でも下手を打つのを見ると、複雑な気持ちになるのよ…彼らがいたからこそ、日本サッカー界はここまで大きくなれたのだし。
 それでも、私が見た昭和の日本代表は、各選手は、皆が己の限界まで戦ってくれた。今の時代から思えば、コンディション調整も、敵へのスカウティングも、稚拙だったかもしれない。けれども、彼らが堂々と各国と戦ってくれた歴史は色あせるものではない。

 私は、昭和時代から、日本リーグが大好きだった。
 日本リーグは、1965年(昭和40年)に開幕した。これまで、国内のトップクラスの試合が、勝ち抜き戦で行われているのを見て、デッドマール・クラマー氏の提言で始められたものだ。黎明期こそ、東京、メキシコ両五輪の勢いなどもあり、一定の人気を得ていたが、観客動員は伸び悩んだ。日本リーグは、多くのサッカーファンの興味を集めることができず、20余年間運営されたのだ。サッカーの日本リーグ創設は、バレーボール、バスケットボールなどの他球技への、国内リーグ創設にも、大きな貢献を果たしたのだが。
 それでも、毎シーズン、私たちは当時最高レベルのサッカーを、日本リーグを通して楽しませてもらったのだ。東洋工業(現サンフレッチェ)の4連覇、三菱(現レッズ)、ヤンマー(現セレッソ)、日立(現レイソル)の3強時代。古河(現ジェフ)の復権、フジタ(現ベルマーレ)の台頭。そして、読売(現ヴェルディ)、日産(現マリノス)の先駆的プロフェッショナル導入。ヤマハ(現ジュビロ)の強化、全日空(消滅させられたフリューゲルス)の参画。
 実際、80年代半ば以降(昭和60年代)、日本リーグの各チームの攻防は本当におもしろかった。読売、日産に、古河、ヤマハ、全日空などが絡む上位争い。もちろん、ラモス・ルイ、ジョージ・与那城、戸塚哲也、木村和司、水沼貴史、マリーニョと言った攻撃のスタアたちのプレイは色鮮やかだった。一方で、加藤久を筆頭に、小見幸隆、岸野靖之、清水秀彦、岡田武史、宮内聡、柳下正明、石神良訓と言った、最終ラインあるいは中盤後方で知性を発揮するタレントが次々に登場し、毎週末を彩ってくれた。
 そして、古河、読売が2年続いてアジアチャンピオンズカップを制覇、「もしかしたら、俺たち、結構強いんじゃないの?!」と、思いながら時代は平成を迎えた。

 けれども、平成に入った序盤は、正に日本代表の暗黒時代だった。
 1989年は、翌90年のイタリアワールドカップ予選の年だった。1次ラウンド、日本は、香港、インドネシア、北朝鮮と同じグループに入り、H&Aの総当たり戦で1位が2次ラウンドに抜けるレギュレーションだった。結果は北朝鮮に1勝1敗、インドネシアに1勝1分、香港に2分で、北朝鮮の後塵を拝し2次ラウンド進出に失敗した。一番痛かったのは、ホームゲームの香港戦、単調な攻撃を繰り返し、有効な交替策もとられないままに0対0で引き分け。翌週、平壌での北朝鮮戦を0対2で落とし、敗退が決まった。
 当時、日本リーグで活躍していた、加藤久、木村和司らのベテランスタアを起用しなかったこと、当時欧州ではやっていた3-5-2のフォーメーションを採用したのはよいが両サイドに足は速いが判断力に乏しい選手を起用し、事実上3-3-2で戦ってしまった失態など、残念なことが多々あった。
 けれども、このような事態は勝負ごとだから、仕方がない。勝敗は時の運だし、準備が不適切で負けることもある。何がガッカリしたかと言うと、このワールドカップ予選敗退から2週間後に、日本代表が目的不明の南米遠征に向かったことだった。現地ではエスティアンデス、ボカ、インデペンディエンテ、コリチーバと言ったトップレベルのクラブチームに加え、ブラジル代表とも対戦。セレソンは、ハーフタイムで選手を大量に入れ替えたが、ドゥンガ、ロマリオ、ベベットらトップ選手を起用してくれた。試合は、後半あのビスマルクに決勝点を許し敗戦。この時点で、次の五輪は若年層の大会になると報道されており、この南米遠征が何の目的で行われたのか、本当に不思議である。と言うか、腹が立ってならない。
 その後も当時の日本代表監督は辞任も退任もせず居座る。そして、90年、91年と低調な活動が続いた後、92年(平成4年)ハンス・オフト氏が代表監督に就任した。以降は平成の歴史である。
 大会前誰も予想していなかった広島のアジアカップ初制覇(92年)。ドーハの悲劇(93年、平成5年)、UAEアジアカップクウェート戦の失態(96年、平成8年)、ジョホールバルの歓喜(97年、平成9年)、フランスでのチケット騒動と堂々たる敗戦(98年、平成10年)、トルシェ氏騒動、日韓ワールドカップのベスト16(02年、平成14年)、ジーコさんのアジアカップとワールドカップ(06年、平成18年)オシム氏を襲った病魔、岡田武史の奮戦(南アフリカは10年、平成22年)、ザッケローニ氏のアジアカップの歓喜とブラジルでの失態(ブラジルは14年、平成26年)、幻のアギーレ氏、そして…

 日本リーグは、平成に入っても充実していた。88-89年、89-90年シーズン、万年優勝候補と言われていた日産が連覇。木村和司、水沼貴史に加え、セレソンの主将経験あるオスカー、柱谷哲司、井原正巳らが機能し、強力なチームを編成した。それに対し、読売はブラジル屈指の名勝、カルロス・アルベルト・ダシルバ氏(1988年ソウル五輪でブラジル代表を指揮)を招聘、「トップクラスの知将は、ここまで知的なチームを作ってくれるのか」と、我々に強い印象を与えてくれた。もっとも、ラモスがダシルバ氏に反旗をひるがえし、氏が僅か1シーズンで日本を去り、読売首脳がラモスを溺愛するペペ氏を招聘したのは、ご愛敬だった。まあ、キングファーザ、納谷宣雄氏の面目躍如と言うところか。
 そしてJリーグが開幕した。
 平成に入り、日本リーグは、地域密着を指向したJリーグに発展的解散。当初10クラブからスタートした、この人工的リーグは、次々に仲間を増やした。
 そして、我が故郷宮城県も、仲間に加わった。当時の東北電力を主体としたチームをプロフェッショナルクラブ化。ブランメル仙台としてスタートしたクラブは、Jリーグ黎明期のバブル的な強化で経営破綻しかけたこともあった。それでも、鬼才清水秀彦氏を監督に招聘、マルコスと言う偉才を獲得したこともあり、2001年(平成13年)J1に昇格。2年でJ2に降格するも、丁寧な強化を継続。梁勇基、菅井直樹と言ったトップスタアの育成にも成功、2010年(平成22年)にJ1に復帰するや、手倉森誠氏の采配よく、2012年(平成24年)シーズンはJ1で2位になり、翌シーズンACLも体験した。私が宮城県でプレイしていた1970から80年代、宮城県にはまともな芝のグラウンドはなかったことを考えると、隔世の感がある。

 平成が終わろうとしている。
 この平成時代、30年間の日本サッカーが放った光芒の鮮やかさを、どう説明したらよいのだろうか。いや、どう理解したらよいのだろうか。
 2018年(平成30年)、7月2日。ロシア、ロストフ・ナ・ドヌ。我々は、アディショナルタイムに失点し、ベルギーに敗れ、ワールドカップベスト8進出に失敗した。繰り返すが、98年本大会に初出場、02年地元大会、10年南アフリカ、それぞれでベスト16に進出成功していたのだが、ここまで欧州の強豪に粘った試合は初めてだった。ベルギーはその後、セレソンを破り、ベスト4に進出した。
 2018年(同じく平成30年)、12月9日。埼玉県、埼玉スタジアム2002。天皇杯決勝。我がベガルタ仙台は、初めての決勝進出を果たし、浦和レッズと対戦した。序盤にセットプレイ崩れから失点したものの、創意工夫を凝らし、幾度もレッズゴールを脅かす。けれども、武運つたなく、どうしてもレッズのゴールネットを揺らすことできず。優勝はできなかった。

 平成元年に戻ろうか。
 私が観ることが叶わなかった、高校サッカー選手権準決勝、決勝は2日順延して行われた。決勝は、三浦文丈、藤田俊哉、山田隆裕らがいた清水商が、野口幸司、小川誠一らがいた市立船橋を破って優勝した。また、準決勝で清水商に敗れた前橋商が米倉誠、服部浩紀、鳥居塚伸人らで演じた攻撃的サッカーは印象深かった。余談ながら、同日決勝する予定だった高校ラグビーの決勝戦は、延期ではなく中止となり、両校優勝となった。
 これらを思い起こすと、繰り返すが、ご自身で退位と言う選択をされた今上陛下には感謝の言葉しかない。30年前は、昭和天皇が9月に体調を崩され(楽しみにされていた大相撲観戦を直前に闘病生活に入った、せめて最後の相撲観戦を楽しまれていればと思ったのは私だけか)、以降は自粛、自粛の重苦しい元号の切替だったのだから。

 日本サッカーにとって、平成は、本当にすてきな時代だった。
 新しい時代を明日から迎える。サッカーと言う究極の娯楽を得た幸せを感じつつ、令和の新時代を生きていきたい。
posted by 武藤文雄 at 23:55| Comment(1) | Jリーグ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年04月27日

2019年シーズン、ベガルタ、ようやく楽観できた

 ベガルタは、8試合を終えて、1勝1分6敗、勝ち点4、得失点差マイナス6、17位。何とも冴えない成績に苦しんでいる。
そろそろ「J1残留は大丈夫か?」的な議論も出てくるし、敗戦時の選手たちの重苦しい表情もやりきれない。まあ、このように思うに任せない事態があるから、サポータ稼業は、堪えられないのだが。
 それにしても、一昨シーズンはルヴァンカップベスト4、昨シーズンは、天皇杯準優勝を筆頭に、うまい試合を見せればトップクラスのチームに勝ち切る機会も多かった。当然ながら、今シーズンは、さらなる上積みを期待したいところで、この苦境。いや、最高です。

 と嘆き悲しむ今シーズンだが、先日の敵地アントラーズ戦も、0-1での苦杯。悔しい敗戦だった。けれども、私は安堵したのだ。この試合を見て、私は「今シーズンはもう大丈夫だ、これから反転できる。」と確信を持つことができた。
 理由は明白、攻守両面でようやく合理的な試合を見せてくれた、つまり内容がよかったからだ。言い換えると、ここまでのリーグ戦、ほとんどの試合が負けて当然、ひどい内容だったのだのだが。
 試合内容が改善されたのもよろしかったが、もう一つ嬉しかったことがある。負けが込んでいることに加え、前節のトリニータ戦で、ひどい試合をしてしまい、チームとしては精神的にも追い込まれた状況だったはずだ。それなのに、このアントラーズ戦は、内容を大きく引き上げることができていた。トリニータ戦は、後半半ばから完全に組織崩壊してしまい、よくぞ2点差で食い止めた、と言う内容だったのだから。
 簡単にアントラーズ戦を振り返ろう。敵地の試合で、組織的な守備が機能、何度か好機は許したものの、最終ラインもよく粘り、完全に崩されることはなかった。一方で、幾度も逆襲速攻から好機をつかんだ。後半も同様の展開が続いたものの、セットプレイから失点。その後、分厚く守備を固めるアントラーズに対し、丁寧なパスワークで攻めこむ。そして、両翼から何回か好機をつかみかけたが得点を奪うことはできず、0対1での敗戦となった。
 こう言っては身も蓋もないが、所詮サッカーは運不運。このアントラーズ戦のような、合理的な戦いを続けていれば、よいこと、悪いことは錯綜するだろうが、勝ち点はついてくるはずだ。

 今シーズンのベガルタを見て、感じた大きな課題がある。
 それは、毎試合のように、見ていて信じられないような非組織的なプレスを強引にかけ、スルッと外されて、簡単に数的優位の速攻をされて失点することだ。ミスを引っ掛けられて速攻を許すのは、褒められた事態ではないが、ある意味では仕方がない。しかし、ベガルタの一連の失点はそうではない。自ら、強引に手中守備をねらい、敵に外されて数的優位を許し、アッと言う間に失点を重ねたのだ。このような失点は、マリノス戦、ヴィッセル戦、ベルマーレ戦、トリニータ戦、枚挙に暇ない。しかも、そのような不首尾にかかわる選手が、若い経験不足の選手ではなく、富田晋伍、関口訓充、蜂須賀孝治と言った相当な経験豊富な選手だっただけに、悩みは深かった。
 おそらくだが、渡邉監督は昨シーズン、それなりに好成績を収めたチームをブラッシュアップすることを狙い、集中守備からの速攻を狙ったのではないか。しかし、残念ながら、その組織作りはまだ未成熟。結果的には、上記の通り、幾多の失敗を重ねてしまっている。選手たちに能力以上の要求をしてしまった、と言う事ではなかろうか。
 さらに言えば、開幕から渡邉氏は、相当守備に重きを置いた戦い方をしている。これは昨シーズン終盤、思うようにボールを握れない時間帯に、主に左サイドを執拗に狙われ失点を重ねたことの反省から来ているように思える。そのような守備的なやり方で、一気の速攻を目指す集中守備が、どうしても機能しないと言うことだろう。

 一方で、昨シーズンオフから議論されていたのが、今シーズンの編成の問題だ。
 開幕から、渡邉監督は、富田(32歳)、関口(33歳)、移籍で獲得した兵藤慎剛(33歳)、そして梁勇基(37歳)を軸に、中盤を組んできた。誤解しないで欲しいが、この4人のプレイが悪いわけではない、いや、皆すばらしいプレイを見せてくれている。富田は相変わらず的確な守備力で中盤の一角を封鎖してくれる。関口は、常にアグレッシブなドリブル、衰えない運動量でチームに貢献する。今シーズン移籍してきた兵藤は、豊富な上下動で攻守に機能、中盤を支えてくれる。先日のサガン戦での得点はその典型例。そして、梁勇基、落ち着いたボールキープは、やはり格段。運動量が落ちてきた終盤、再三梁だけはよく周りを見た位置取りと落ち着いたキープでチームを支えてくれている。けれども、彼らをスタメンに並べるのは、どう考えても得策ではない。4人とも、90分のフル稼働は厳しい年齢になり、特に試合終盤は、いわゆるガス切れ状態となってしまっている。
 こう言った大ベテランに頼る布陣となっている要因の1つは、言うまでもなく、今シーズンの大黒柱と期待された椎橋慧也が、開幕直前に負傷離脱をしたことにある。
 ただ、それだけではなく、このオフ、奥埜博亮、野津田岳人の2人の中盤中央のタレントの放出を余儀なくされたことも関係しているだろう。レンタルでサンフレッチェが保有権を持っていた野津田はさておき、ユース育ちで仙台大、Vファーレンレンタルと、丹念に育成を重ねた奥埜の放出は誤算だったように思える。一方で、庄司悦大、藤村慶太、茂木駿佑と言ったJ2クラブにレンタルしていたタレントを完全移籍で放出し、ユース育ちの至宝である佐々木匠、小島雅也のレンタルを延長している。そして、石原崇兆、飯尾竜太朗、松下佳貴、道渕諒平、そしてシマオ・マテと言った、いかにも実効的なタレントの獲得している。このような補強政策を見ると、必ずしも中心選手を札束で奪われてしまい、オロオロしているようには見えないのだ。
 しかし、こう言った移籍選手へ戦術の徹底をすることに、計画以上の時間がかかってしまったと言うことではないかと思うのだ。なので、渡邉氏は上記のベテランを並べ、当面の試合をしのごうとしたのではないか。けれども、J1は甘くはなく、勝ち点の積み重ねに失敗したと言う事だろう。
 気が付いてみれば、アントラーズ戦では、石原崇と松下がスタメン起用され、相当な活躍を見せてくれた。終盤の勝負どころで道渕も起用され機能した。加えて、ここ最近の試合では、最終ラインに若い常田克人が抜擢され、(トリニータ戦で決定的なミスもあったが)堂々たるプレイを見せている。最前線ではジャーメイン良が、鋭い突破を再三見せている(シュートミスも再三見られるけれども)。そして、椎橋も負傷から回復し、ルヴァンでは活躍してくれている。

 そう、ようやく、反攻する材料がそろったのだ。
 確かに、勝ち点勘定から見れば、苦しい状況なのは間違いない。また、負けが続くと、選手たちも自信を失い、いかにも重苦しい雰囲気となってしまう。
 しかし、元々今シーズン、いわゆるBチームで戦っているルヴァンカップは好調で、早々に次ラウンドへの進出を決めている。そして、当初Bチームでプレイしていた移籍獲得選手や若手選手が、定位置を確保しつつある。
 そして、ここ数シーズンで築き上げた、チームとして基本的な戦い方は、少々の不調があっても消え去るものではない。勝ち点が積めず、難しい状況下でも、選手がしっかりそろってくれば、アントラーズ戦のような合理的なサッカーができるのだ。
 苦しい状況から始まった今シーズンではあるが、終わってみれば、「いやあ、最初は大変だったちゃねや」と笑えると、私は確信している。
posted by 武藤文雄 at 23:58| Comment(0) | Jリーグ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする