2020年10月24日

悲しい事件

 あまりに悲しい事件だ。

 本稿では、この悲しい事件について、会社としてのベガルタ仙台の活動が妥当だったかどうかを、サポータの立場から論評したい。
 第一報を聞いた時(20日昼頃)、正直何が何だか、まったく理解できなかった。関連の文章、クラブの公式発表を読み、自分の知見と組み合わせても整合がとれなかった。その後(20日夜)、少しずつ信頼できる情報源を調べ、うっすら状況がつかめてきた。そして、昨日(21日)、ベガルタが公表した記者会見議事録を読み、自分なりに全貌が理解できた。
 まず結論から申し上げる。ベガルタは、この事案について何も間違ったことはしていない、と、私は判断している。

 加えて語っておく。
 ベガルタの渡辺取締役(当該記者会見にも、事実上の主役として登場)は、高校大学のサッカー部の先輩だ。ただただ楽しかった大学サッカー部時代、苦楽を共にし、心底お世話になった。渡辺さんはセンタバック。出足の鋭さを活かし、知性の限りを尽くして敵エースに喰らいつくプレイは忘れられない。大事な試合にサイドバックとして抜擢され、渡辺さんに怒鳴られながら90分間守備の位置取りを修正し続けし、勝利に貢献したのは飛び切り甘美な記憶だ。渡辺さんが今の立場になられた後、じっくり話をする機会もあった。かなり勝手なことを語らせていただいた。過去の私の文章についてもご存じだ。先週14日、本当に久しぶりにユアテック詣でをした際、寄付金募集を行っていた渡辺さんに挨拶することもできた。しかし、この事件発覚後渡辺さんとはコンタクトをとっていない。
 当該記者会見にも出席しているサッカーライターの板垣晴朗氏は親しい友人だ。そして、私が最も信頼するライターの1人だ。当該記者会見については、いくつか板垣さんから詳細情報をいただいた。そのような意味では、私は一般の方々よりは多くの情報を持っている。
 また、(Jリーグ開幕より前からの)30年来のサッカー狂でもある弁護士の友人(もちろん今回の事案にはまったく関係していない)に、本件についてはいくつか助言をもらった。
 以上をクドクド説明するのは、一般に公開されている情報以外に私が持っている情報を明示しておいた方がよいと考えたからだ。

 愛するクラブのスタア選手が極めて残念な行為をしたことが、何より悲しい。とにかく悲しい。表現しようもないが悲しい。
 生業にはしていないが、それなりにサッカーの世界で生きてきた。現場がきれい事だけでないことは熟知しているつもりだ。不器用な選手が起こしたトラブルは枚挙に暇ない。ただ、今回はその中でも最悪に近いものだ。
 上記記者会見議事録を読んだ上で私が理解した状況は単純なものだ。残念な行為をした選手がトラブルについてベガルタに虚偽報告をした。一方で、被害者の方は示談に納得していなかった。
 トラブルの対応は当該選手の弁護士(ほぼ間違いなく代理人会社の弁護士だろう)と、被害者(報道によると芸能事務所に所属されていたとのこと、したがい示談は当該事務所の弁護士が対応したと推測される、ただし信頼できる情報源がないので断定は危険かもしれない、もしそのような背景がない個人の方だった大変失礼なことを語っていることになる)間で行われた。ベガルタは、当該選手の弁護士から「示談成立」と伝えられた。このやり方においては、ベガルタは、被害者の方が納得していないことを知りようがない。

 とは言え。100%状況を理解したわけではないが、ベガルタの本件への対応の疑問を列記してみる。ただ、読んでいただければわかると思うが、私は本件についてベガルタがとってきた施策に対し細かに文句を言っているものの、総論としては正しいと思っている。


(1)被害者の方との関係
 本件で一番重要なことは被害者の方の回復に尽きる。今からでもベガルタやJリーグ当局がそのお手伝いができるならば、できる限りのことをしてほしい。

 とは言え、当該記者会見を読んで一番気になったのが、被害者の方と当該選手の示談について、明快な説明がないことだ。
 上記した通り、報道によると被害者の方は芸能事務所に所属していた模様。だとしたら、示談は本人たちではなく、代理人(それぞれの弁護士)同士で行われたことになる。けれども、ベガルタの発表からはその旨が読み取れない。
 そのため、代理人会社の弁護士と被害者の方が直接対峙して、示談交渉を行ったようにも読めてしまうのだ。もし、そうだとしたら被害者の方は大変お気の毒なことになる。ベガルタは、そのあたりを正確に説明する必要があるのではないか。
 もちろん、示談の条件にそのあたりの不提示があるとしたらどうしようもない。もし、そうだとしても、可能な限り正確で具体的な情報提示は必要だと思うのだが。

(2) 議事録提示の遅さ
 10/20(火)朝に当該選手の処分を含めたリリースを流し、同日午後に記者会見実施。その後、議事録公開は10/22(木)午後。これはあまりに遅い。その丸2日間に、あいまいな情報を基礎に根拠ない報道が出回ることになった。危機管理としては、結果的に「お粗末」と言うことになってしまった。
 事態発覚後、当該議事録で語られたような情報を速やかに提示できていれば、ここまで状況はこじれなかっただろう。もっと早く、情報開示はできなかったものか。
 しかし、現状のベガルタの事務処理能力を考えれば精一杯だったのだろう。文句を言うのは簡単だ。けれども、ベガルタは、小さな会社なのだ。むしろ、事態発覚後に、ここまでスピーディにリリース→記者会見→議事録、と進めてきたのは大したものだと思う。
 しかし、非常事態だったのだ、このスピード感では遅かったのだ。例えば、思い付きだが、ベガルタには仙台を本社とする多数の出資団体がある。この非常事態、それらの協力を求めることはできなかったのだろうか。

(3) 弁護士の使い方 
 当該議事録を読んで気になるのは、記者会見にベガルタの顧問弁護士が同席していないことだ。 
 話がややこしいが、本事案には3者の弁護士が登場するはずだ。ベガルタの顧問弁護士、当該選手の弁護士(おそらく当該選手の代理人の所属会社)、被害者の方の弁護士(上記した通り、おそらく存在してたのだと推測している)だ。議事録を読んでいても、いずれの弁護士の発言なのか、わかりづらいところが多々ある。
 それだけではない。本件については、任意同行、逮捕、釈放など、法律用語が並ぶことになったが、それについて法律面で専門とは思えない記者の方々とベガルタの経営陣が語り合うのは、あまり生産性が高いものとはとても思えない。補足する弁護士が同席していれば、用語解釈の混乱を的確にさばいてくれたと思うのだが。

 まあ現実を語ると見も蓋もないのだろう。
 (2)で述べた議事録整備にせよ、(3)で述べた顧問弁護士の同席にせよ、少ないスタッフでやりくりするから、そこまで対応できないと言うこと、要は今のベガルタにはカネが足りないと言うことだろう。

(4)Jリーグ当局との関連
 もう一つ気になるのはJリーグ当局との関連だ。
 当該記者会見を読んでいると、「ベガルタは適切なタイミングでJ当局に連絡した」と言う事項が、一種の免罪符になってしまっている印象を受けた。しかし、本当にそれだけでよかったのだろうか。
 なぜ、このようなことを語るかと言うと、本件に限らずJ当局の役割とは何なのか、私にはわからなくなっているのだ。今回のケースで言えば、上記してきた通り、ベガルタは適切なタイミングでJ当局に本件を連絡している。10月20日の時点で一部報道があった時点で、一部のメディアが「ベガルタの隠蔽」的な(今思えば)誤った情報をかなりの勢いで流すことになった。けれども、22日の時点では当該議事録の公表もあり、そのような情報は間違いだったと確認されたはずだ。また8月の時点でベガルタはJ当局に本件を連絡していた。
 だったら、それらの誤情報の是正を、J当局も語ってはくれないのか。「本件についてベガルタの対応に落ち度はなかった」とリリースしてくれるだけもよい。いや、議事録を公表するのに四苦八苦しているベガルタに対し、スタッフを一時貸してくれるだけでも随分助かったと思うのだが。
 J当局に、そのような期待を持つことそのものが間違っているのだろうか。もし間違っているならば、このような不運な事案時の「J当局の役割」について、誰か教えてください。何か最近のJ当局には「仲間としての全体発展」ではなく「上位権威者としての君臨」、「不適切な行為の場合の罰則提示者」を感じるのは私だけだろうか。


 ちょっと余談。
 今回の一連の話を聞いていると、個人事業主としての選手の権利がかなり強いもので、選手とクラブが相対した際に、決してクラブの意向ばかりが重視されないことが確認できた。これはよいことだと思う。私たちに歓喜を与えてくれる選手たちが。クラブのエゴに左右されない状態になっているのだから。
 言い換えれば、所属クラブと独立した形態で、選手の権利がかなり高いレベルで守られていると言うことなのだろう。Jが開幕して、今年で28年。これまでの蓄積で代理人制度が機能し、よい意味で選手がクラブと対等に渡り合えている現状、これは素直に喜びたい。たとえ、それが今回の事案では仇になってしまったとしても。

 以上、ちまちまとベガルタに対して文句を言ってきた。粗探しである。しかし、これら粗探しを含めても、今回の不運な事案について、ベガルタは適切な活動をしてきてくれたと思う。
 安心した。

 そして、今回の議事録で嬉しかったことがある。それは、「当該選手が過去にもDV事案でトラブルを起こしていたがが今回の判断にそれを加味しなかったのか」との問いに対する、渡辺取締役が語った以下の意見だ。
2度目という事を私たちが常に念頭に置かなければならないのか。「この人は犯罪者であったから、また犯罪を犯すのか」というように見ながら暮らす社会がよろしいのかという事です。2 度目という事で、通常より重い処罰を下すということは選択しませんでした。

 まったくその通りだと思う。私はそのようではない社会で生きていきたい。そして、そのようではない社会を作っていきたい。
 今回ベガルタは正しかったのだ。

 悲しい事件ではあった。しかし、繰り返すがベガルタは正しかった。私の愛するクラブは正しい判断を行ってくれたのだ。

 今私ができることは1つだけだ。
 今日のグランパス戦、勝ち点3を目指す私たちの選手たちを必死に応援する事。生観戦は叶わない以上、DAZN経由で必死に念を送ることだ。
 必ずグランパスに勝つのだ。

 最後に。
 道渕諒平さん。
 過ちは誰にでもあります。それが複数回となると残念ですが、それでも人生は長いのです。挽回の機会は訪れます。あなたは、天分に恵まれ、果てしない努力を重ねることでたどりつける場所に到達することができた稀有の人なのです。その地位を失ってしまったのは残念ですが、あなたはそこまでの努力を積むことができた人なのです。
 お願いです。立ち直ってください。あれだけの努力ができるあなたです、必ずや立ち直れるはずです。
 あの颯爽とした突破、献身的な守備、美しい弾道のミドルシュート。思い出はいくつもあります。それらの思い出、私は小さな胸の痛みと共に忘れません。
 ありがとう、さようなら。
posted by 武藤文雄 at 02:09| Comment(6) | Jリーグ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年10月04日

声を出さずにサッカーを愉しめるか

 まあ60歳となり、改めてこれまでの人生を実り豊かにしてくれたサッカーに感謝し、これまで以上にサッカーを愉しみたいと考えた次第。

 とは言え、最近真剣に悩んでいるのです。Covid-19下の世界で、どのようにしてサッカーを愉しんだらよいのかと。さらにその悩みを具体的に説明すれば「いつになったら、絶叫してサッカー観戦できるのだろうか」と言うことになる。

 7月にJリーグが再開して以降、私は1試合も生観戦していない。正確に言えば、生観戦は辞退してきた。理由は簡単だ。「Jリーグ 新型コロナウイルス感染症対応ガイドライン_9月24日更新版」を守る自信がまったくないからだ。ガイドライン曰く
禁止される行為は以下の通りです
 声を出す応援(禁止理由:飛沫感染につながるため)
 例:指笛・チャント・ブーイング
 例:トラメガ・メガホン・トランペットなど道具・楽器を使うことも当面不可

 そう、私は声を出さずにサッカーを観戦する自信がないのだ。 上記禁止事項には「指笛・チャント・ブーイング」と記載されており、「野次」はない。だが世論を伺うに、Covid-19下の世界下でのJリーグは野次を飛ばすのは歓迎されない模様だ。
 まあね、Covid-19云々とは別問題だが、野次と言うのは今日のサッカー界ではあまり有効ではない。数千人以上入っている競技場で、いくら辛辣な野次を飛ばしても、ピッチ上の選手や監督や審判に聞こえる可能性は低いのだから。でも、サッカーを見ていると、何かを吠えたくなるではないですか。卑怯なプレイをした相手選手、納得できない笛や旗を操った審判、ただの八つ当たりだが納得いかない協会やJリーグ当局への批判。サッカー観戦と言う究極の至福を味わいながら、これらの野次を飛ばすのはとても幸せなことなのだ。たとえ、先方には聞こえなくとも。
 もっともそうは言っても、相手選手や審判や当局批判、これらは我慢できる。けれども、絶対自分で我慢する自信がないことがある。それは、味方への賛辞だ。もし眼前で、ベガルタの選手や日本代表選手が、知性や妙技で素晴らしいプレイを見せてくれた時。私は絶叫し称えたい。そして、その絶叫を我慢する自信はない。
 なので、関東在住の私は、7月復活後のJリーグ敵地でのベガルタ観戦を控えてきた。ベガルタが敵地で戦う際に、ベガルタの好プレイに快哉を叫ぶわけにはいかないから。

 で。
 10月14日のユアテックでの横浜FC戦、諸事案を片付けるため、当日の晩私は仙台にいる。久しぶりの生観戦の絶好機だ。チケット購入手段など、複雑怪奇でよくわからないが、何とかユアテックにたどりつきたいと思っている。たとえ、ベガルタ選手への絶賛にせよ、できる限り絶叫は自粛したいとは思っている。できる限り。
posted by 武藤文雄 at 22:12| Comment(0) | Jリーグ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

60歳になりました

 私事ですが。60歳になった。これまでの好きなサッカーを楽しめる人生、それを支えてくださった方々に、改めて感謝の言葉を捧げたい。

 思えば中学生になった折に何気なく始めたサッカーにはまり切って、50年近い月日を重ねたことになる。
 74年西ドイツ大会、中学2年。断片的な映像で見たヨハン・クライフ。その天才に対抗するフランツ・ベッケンバウアーと言う異才と、ベルディ・フォクツと言う究極の労働者。サッカーマガジンとイレブンを暗記するまで読んだ後のダイヤモンドサッカーでの映像確認、ある意味この経験が「サッカーを見る」と言う基本を身に着けるものとなったように思える。
 78年アルゼンチン大会、高校3年。多くの試合を深夜の生中継で堪能できました。マリオ・ケンペスの前進と、ダニエル・パサレラの闘志と、あの紙吹雪。数年後、日本サッカー狂会に入会した折に、あの紙吹雪を実体験した諸先輩の話を聞いた時の興奮と羨望。大会後の総評で、賀川浩氏の「要は中央突破するアルゼンチンと強烈なシュートのオランダが勝ち残ったわけや、サッカーは突破とシュートや」と言うコメントは、サッカーの本質を伝えていると思っている。大会中に襲われた宮城県沖地震の恐怖と併せての記憶として。
 82年スペイン大会、大学4年。西ドイツとオーストリアの下手くそな八百長。4年前の優勝チームにディエゴを加えたアルゼンチンの惨敗。黄金の4人のセレソンを打ち砕くパオロ・ロッシ(黄金の4人のうち2人が日本代表の、1人がトップクラブの監督を務めるなんて誰が想像しただろうか)。シューマッハの大ファウルを含めた西ドイツのつまらないサッカーにPK戦で散るプラティニ。そして、冷静に勝ち切るアズーリ。このイタリア代表の優勝により、サッカーに何より重要なのは知性なのだと、改めて理解することができた。
 86年メキシコ大会。社会人1年生。ある意味で日本が初めて参加した大会。自分で稼げるようになったのは重要だった。香港とソウルに行った。香港のアウェイゲーム、木村和司と原博美の得点での快勝。激怒した香港サポータに囲まれ、警官隊に保護されて1時間以上スタジアムに待機を余儀なくされた。ダイヤモンドサッカーで見たリアルなサッカーの戦いを実感でき、もう私はサッカーから離れられなくなった。10.26の木村和司のFK、そして翌週のソウルでの絶望。だから、本大会はずっと身近になった。水沼貴史を完封した金平錫が、ディエゴ・マラドーナをまったく止められなかった。そうか、ディエゴはやはり上手なのだとw。もっとも、都並敏史が対等に戦った辺柄柱が、結構アントニオ・カブリニを悩ませていたけれどね。
 90年イタリア大会。日本代表史に残る暗黒時代を形成したクズ監督。全盛期の加藤久を使わず、調子を崩していたとは言え木村和司も呼ばず。単調な試合を重ねて1次予選で北朝鮮の後塵を拝した。それにしても、ここで登場した井原正巳と加藤久でCBを組んでさえいれば、ほとんどの問題は解決したと思うのだが。この2人の連動を楽しむ機会を奪っただけでも、このクズ監督を私は許さない。ちなみに日本が出ないイタリア本大会、妻と私は3週間半休みをもらって堪能した。まだ子供がいなかったこともあるのですが。日本と世界トップレベルのサッカーの差は、ピッチ上の選手の能力差ではなく、周辺で選手たちを支える環境の差であることを痛感できた。
 94年USA大会。ドーハであんな経験できるなど、誰が想像しただろう。オムラムのシュートがネットを揺らした衝撃、ゴール裏では韓国やサウジの結果がわからないいらだち。でも、ドーハの前の信じられない歓喜を忘れてはいけないな。オフト氏就任から始まった快進撃、映像も何もなかったダイナスティカップの歓喜、あの広島アジアカップ。イラン戦、井原のパスから抜け出したカズの「魂込めた」一撃。中国戦、前川退場後の苦闘からのゴン中山の決勝点。攻守ともに完全にサウジを圧倒した決勝戦。日本がいない本大会が、あれくらい色褪せたものとは思わなかった。でも、井原や堀池が子ども扱いしていたサウジのオワイランがそれなりに活躍できたのだから日本のレベルが上々なのは確認できた、と負け犬の遠吠え。ブラジルとイタリアの重苦しい決勝戦。点が入らないサッカーがいかにおもしろいかを、改めて理解できたな、うん。
 98年フランス大会。あの幾度も幾度も絶望感に襲われた最終予選。それでも、井原とその仲間たちは諦めなかった。そしてジョホールバル、改めて思いますよ。幸せな人生だったと。だって、最も幸せな瞬間があの時だったと言えるのだから。本大会、トゥールーズのアルゼンチン戦前夜、現地で友人と一杯やりながらの「ああ明日ワールドカップで日本の試合を見ることができるのだ」と思ったときの高揚感、本大会での君が代、バティストゥータにやられた一撃、80分以降の反抗、こんな夢のような体験を味わってよいものかと。何人かの友人がチケット騒動の悲劇に見舞われたことはさておき。クロアチア戦での中山の逸機と、シューケルが川口を巧妙に破ったシュートもね。
 02年日韓大会。鬼才フィリップ・トルシェとの楽しい4年間。アジアカップの完全制覇。あの横浜国際のニッポン!チャ!チャ!チャ!勝ち。そして、森島スタジアムでの森島の先制弾。我が故郷宮城での凡庸な敗戦。敗戦後、学生時代のなじみの飲み屋、実家で父と飲んだやけ酒。故郷で絶望感を味わえるのだから、改めて堪能できた自分のためのワールドカップだった。それにしても、「ワールドカップで勝つ」と言う経験を味わうことができたのだから最高だった。
 06年ドイツ大会。まあジーコさんね。あのブラジル戦、玉田の得点に歓喜した10分後のアディショナルタイム、CK崩れからロナウドの巧緻な位置取りにやられた中澤佑二の「しまった!」と言う表情が忘れられない。ロナウドと言う世界サッカー史上最高級のCFと、中澤佑二と言う日本サッカー史上最高級のCB。私たちはここまで来ることができたのだ。もちろん、ジーコさんが率いた、中澤佑二や中村俊輔や川口能活が演じたあのアジアカップ制覇は忘れてはいいけないけれど。
 10年南アフリカ大会。病魔に倒れたオシム爺さん、でもアジアカップはもう少し何とかしてほしかったのですが。後任の岡田氏への大会前の自称サッカーライター達の誹謗中傷は、今思えば味わい深いな。カメルーン戦勝利後のオランダ戦。ほとんど完璧な組織守備を見せながら、スナイデルにやられてしまった。ある意味で、日本代表と世界のトップの差が見える化された瞬間だったかもしれない。しかし、デンマークには完勝、本田圭佑と遠藤保仁の美しい直接FKは、あの85年日韓戦の木村和司の一撃に感動した日本中のサッカー人の集大成と言えるようにも思えた。そして、パラグアイ戦。ある意味で私が若い頃から夢見ていた試合だった。ワールドカップ本大会で強豪と、相手のよさをつぶしまくる試合を行う。敗戦直後の選手たちの絶望的表情は感動的だった。
 14年ブラジル大会。当時の技術委員長原博美氏が契約したザッケローニ氏は、トレーニングマッチでメッシもいたアルゼンチンに快勝するなど景気よいスタート、続いて堂々アジアカップを制覇。その後も順調にチームを強化する。最終予選のホームオマーン戦は3-0の快勝だったが、精緻な崩し、まったくピンチを作らない守備、日本サッカー史に残る完璧な試合だった。順調に予選を勝ち抜いたのちの準備試合の敵地ベルギー戦、当方のミスからの失点はあったが、柿谷、本田、岡崎のビューティフルゴールで完勝。「とうとう欧州の強豪に敵地で完勝するレベルまで来た」感を味わうことができた。でも、本大会ダメだったのだよね。スポンサとの兼ね合いを含めたコンディショニング、本田や香川の過ぎた自己顕示欲など、色々要因があったが、難しいものだと、改めて思わされた。
 18年ロシア大会。86年地元メキシコ大会の英雄アギーレ氏は、メンバ選考の失敗などもあり、不運なアジアカップの準々決勝敗退。その後、曖昧な訴訟問題で退任となり、ハリルホジッチ氏が就任。ハリルホジッチ氏はよい監督だったし、本大会出場を決めた豪州戦は、長谷部、井手口、蛍のトレスボランチで完璧な試合を見せてくれた。しかし、大会直前謎の田嶋幸三判断で更迭後、西野氏が監督就任。酒井宏樹と長友と言う世界屈指の両サイドバック、長谷部と柴崎の知性あふれる中盤、乾、原口の強力な両翼、大迫と香川の独特のキープ、とそれぞれの一番得意なプレイを全面に押し出した美しいサッカーで、ベスト8直前まで行ったのだが。

 こう振り返ると、やはり楽しい人生だったなと思える。多くの友人が還暦誕生日の祝辞をくれたのだが、嬉しかったのは「これで人生ゼロ年からのリターンだね」との励ましだった。たしかにその通り、ヨハン・クライフとベルディ・フォクツの丁々発止から、まだ50年足らずしか経っていないのだ。サッカーには汲めども尽きぬ魅力がある。これからも、じっくりと味わっていきたいものだ。
 そう、まずは我がベガルタ仙台の七転八倒、サポータ冥利に尽きる苦闘など最高の快楽である。
posted by 武藤文雄 at 00:09| Comment(0) | 日本代表 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする