今年の10大ニュースをどうまとめるべきか。何を語ってもCOVID19の影響を抜きには語れないように思えてくる。ただ、この疫病禍の前に起こったことは、記憶から薄れつつあるし、独立して起こった事件もある。そのあたりを自分なりに整理してみた。1位から6位はこの疫病禍に関するもの。7位は少し疫病禍に関連するもの。8位から10位は疫病禍と直接関係ない事案となっている。
1位 とにかくJリーグ完結
この難しい疫病禍下でとにもかくにもJリーグが無事日程を終了できたことに関係者に敬意を表したい。中断が決まって早々に下位リーグ陥落がないことを決定、さらに再開に向けて、リーグ戦の成立条件や、試合中止の基準を設けるなどの規定を明示化。これらの規定の具体性や現実性には感心した。そして、下記する他の大会との調整、度々襲ってくる疫病禍にも屈せず、全日程を完了したわけだ。
加えて、ACL(無茶苦茶な日程だったが、これまたとにかく大会を完了したことを評価するしかないか、ともあれテレビ桟敷で見た試合はいずれもおもしろいものだった、VARを除いては)も曲りなりに3チームが出場。天皇杯も幾多の議論を経ながら、J1から2チーム、J2、J3から1チームと言う奇策で帳尻を合わせた(中村憲剛の最後の公式戦として盛り上がり的にも最高の舞台となった)。さらに、ルヴァンカップも、決勝は疫病の影響で延期を余儀なくされ、片方の決勝進出クラブFC東京がACL出場し日程調整が厳しい中で、1月4日決勝と何とか形をつけた。
もちろん、「帳尻を合わせた」とか「何とか形をつけた」と言う表現は、創意工夫を凝らして日程調整をした方々(各クラブ都合、会場調整など検討しなければならない事項は無数にあったはず)、厳格な管理下で健康状態維持に努力した選手やスタッフなど現場の方々、いずれに大変失礼かもしれない。しかし、このような表現をとらざるを得ないほど、今シーズンの日程をほぼ完全に消化しつつあることは実に見事な業績だったと思っているのだ。
ただし、本当に大変なのは来シーズンだ。J1は20チーム総当たりで4チームが降格する過去にないタフなシーズンを迎える。後述するがワールドカップ予選も入ってくる。残念なことにCOVID-19の影響もまだまだ続き、突然の中止などの混乱も起こるだろう。それでも、今年の経験を生かし関係者が知恵を絞り、無事来シーズンもこなせることを期待したい。
とにかく、皆さん、お疲れ様でした。
2位 縮小経済と日本サッカー
何とかシーズンを無事終えようとしている日本サッカー界だが、経済的状況が深刻なのは言うまでもない。
当たり前の話だが、この疫病禍の中、J各クラブの観客動員が大幅に減少している。入場可能観客の人数が制限されているのみならず、試合直前までチケットの発売を待たねばならず、思うような販売促進もかなわない。サッカークラブの支出の多くは固定費(そのほとんどは、現場の選手やサポートスタッフ、フロントの人々の人件費)であり、観客動員が少なくなれば自然と収入が下がり、状況が悪ければ赤字化する。
今シーズンはその打撃が直接各クラブの経営を襲った。頭が痛いのは、来シーズンも同様の事態が起こることだ。また、これは日本協会も同じことで、貴重な収入源である日本代表の試合が思うように行わなれない。Jクラブにしても、日本協会にしても、出資者やスポンサへの還元や、良好な関係作りを行ってきただろうから、ここからの収入が短期的には減らないかもしれない。これども、疫病禍により世界中の景気が後退している状況。出資、スポンサ企業の経営も苦しいのだ。こう言っては身も蓋もないが、サッカー界に入ってくるカネがしばらく減少傾向となるリスクは高い。
加えて、気になるのは西欧サッカー界でここ30年来続いていた異常な経営拡大基調だ、バブルと言ってもよいかもしれない。最近ではとうとう選手価値の債権化、若年層選手の人身売買的扱いを皆が隠さなくなっている。建前論からもしれないが、人権確保促進や個人情報保護に特に厳しい欧州で、これらの活動が放置されているからくりは、よく理解できていない。そのような状況で、西欧各国は直接的な疫病被害は甚大なものになっている。この状況下で、西欧のサッカー界はどのように収入を確保し、選手達の高給を維持するのだろうか。もし、それが叶わなくなり経済的縮小を余儀なくされた時、西欧サッカー界はどうなってしまうのだろうか。
悩んでもしかたがないことかもしれない。日本で私たちができることは、それぞれの立場で知恵を絞り、サッカーを楽しみ、そこでキャッシュが回る工夫をすることしかないのだが。
3位 声が出せない観戦
50年近くサッカーを堪能してきたわけだが、自分にとっては未曾有のつらいシーズンだった。観戦時に、大声を出せないことが、これほどしんどいこととは、思いもしなかった。
サッカーを見るという行為はうんうんと黙って首を縦に振ってれば良いものではない。相手チームの素晴らしいプレーに悲鳴をあげ、一方で(あくまで主観的だが)審判の不適切な判定に対し野次を飛ばす。これらはこれで、サッカー観戦には得難い楽しみの1つだが、まあこれらは我慢ができる。しかし、何が我慢できないというかと言えば、自分のチームの選手の素晴らしいプレーに対する、歓喜や賞賛や感嘆の叫び声を出せないことだ。これらを我慢するのは極めて難しい。
再開以降、ユアテックで2試合だけ観戦をしたが歓声を上げられないのは本当に辛いものだと思った。自宅でDAZNしながら絶叫した方が、どんなに気持ちよいことか。余談ながら、指導しているサッカー少年団の試合ならば、ベンチからの指示は許されているので、このようなストレスはない(もっとも、少年サッカーのベンチでコーチがすることは、子供達に「いいぞ、いいぞ」とひたすら褒め続けることだけなのだが)。
もちろん私はサッカー狂だから、生観戦に勝る楽しみはない。サッカーが見られるならば、大声を出すのを我慢しよう。けれども、多くのサポーターは声を出して一生懸命チームを応援するのは大きな楽しみになっているはずだ。現実的に声を出せないからユアテックには行かないことにしてるんですと語っている人に何かあった。仕方がないこととは言え、つらいところだ。
4位 ワールドカップ、日本代表チームへの不安
一方で、ワールドカップはどうなるのだろうか。そもそも、22年に計画通りカタールでワールドカップがやれるのだろうか。
今回の疫病禍となる前の話だが、もともとカタールと言う国でワールドカップ本大会をすることそのものに多くの疑問が寄せられていた。他地域にない高温多湿から11月開催となったのも異例だが、面積の小さな国で観光資源も乏しく、また宗教的な制約から酒も楽しみづらい。ワールドカップと言うお祭りを通じ、私のようなサッカー狂からキャッシュを巻き上げることを生業としているFIFAらしくない開催国選択なのだw。
そこに加えてこの疫病禍。何がしか合理的な予選を構築し、2022年の春くらいまでには出場国を確定しなければならない。例えば南米では予選が再開しているが、アジア予選は停止したまま。あまりに多くのキャッシュが動く世界最高のお祭りだが、合理的にも、経済的にも、みなが納得する予選形態を、今から構築できるのだろうか。たとえば、大陸をまたがる所属クラブの選手をどのように集め、どのように選手の体調管理を行えるのか。たとえば、選手の所属クラブが、疫病関連で選手の招集を拒絶した場合、どのようなルールでそれを制御するのか。
日本代表を例にとってみよう。アジアでのアウェイゲーム、欧州クラブ所属選手とJの選手を当該国で適切に隔離管理して準備と試合を行い、それぞれのクラブに戻す必要がある。少々乱暴な言い方をするが、アジア各国のサッカー協会がこれらの管理を適正に行う見極めがつかなければ、欧州のクラブが選手派遣を認めないのではないか。一方で、そのような混乱で、監督が選ぶベストメンバを選考できなければ、日本はもちろんだが、韓国、豪州など欧州クラブでプレイする選手を多数持つ国は対応できなくなる。
もう1つ、先日欧州でメキシコやカメルーンなどと親善試合ができたのは、1つの成果だし、日本協会関係者の尽力のたまものだと思う。また、欧州クラブ所属選手だけの招集で、曲りなりにもメンバがそろったのも感慨深かった。ただし、代表チームと言うものは、自国、他国いずれのリーグでもプレイしている選手を、監督が自在に選考できなければベストとは言えない。疫病禍と言うのは、この当たり前のことを実現することを難しくしてしまうものだ。厄介なことだ。
5位 交代制限の緩和
疫病禍で大きく変わったことに、交代選手の人数がある。
あくまで暫定措置だが、試合間隔が短くなることによる選手の消耗を考慮して、従来の3人から5人の交代が認められた。これは結構大きな影響を与えることになった。とにかく選手層の厚いチームが圧倒的に有利となる。これだけの過密日程で5名交代となると、よほど特殊な監督でなければ、ローテーション的に選手起用を行う。そして、中心選手は休養試合にも貴重な交代要員として試合終盤に登場してくる。
(選手層が厚いとは言えない)ベガルタサポータからすると、敵が試合終盤にフレッシュな強力なタレントを起用してくると、「う〜ん、勘弁してください」と言いたくなることが再三あった。まあ、しょうがないのですがね。
もともと、連戦となれば物を言ってくるのが選手層なのは言うまでもない。サッカーは11人しか同時に使えないので、潤沢に選手を保有していても宝の持ち腐れとなることも多い。さらに言えば、能力は高いが出場機会に恵まれない選手が何人かいると、よほど監督がマネージメントをうまく行わないと、そこからチーム全体の調子が崩れることもあった。弱者としてはw、そこを突くこともできた。
もっとも、この傾向は西欧では、ここ20年間先行して見てきた光景ともいえる。いわゆる西欧の金満メガクラブは、トップレベルの選手を20名以上集め、自国リーグと欧州チャンピオンズリーグにローテーション的選手起用を行ってきた。結果的に、疫病禍下での交代人数増の今回のルール変更が、Jにも類似の事態を起こした感がある。
この交代選手数の制限が、どうなっていくかはわからないが、今後のサッカーの変化の1つの要素として注目したい。
6位 若年層の無観客試合の妥当性
疫病禍下で気になることがある。それは若年層の大会の観戦が極端に制限され、家族ですら観戦が許されないケースが散見されることだ。ここで若年層大会と言っているのが、高校選手権県予選のように比較的メジャーな大会でも、絵に描いたような草サッカーである私が指導している少年団の大会でも、同じような状況となっている。
大会主催者が、観戦制限をする気持ちも理解できる。万が一陽性者が出た場合、関与した人々を追跡可能とする必要がある。選手、審判、指導者、運営など試合開始に必須の人の関与を最小にすることで、試合前後の管理の手間を小さくしたいのだろう。ただでさえ、衛生管理や上記必須の人々の記録など、通常よりやることが増えるのだから。
ただ、親御さんの観戦まで制限がかかるのはいかがだろうか。そもそも若年層のサッカーの最大のサポータは親御さん達であり、サッカーを通して子供の成長を親が楽しむと言う文化は、世界中のサッカーの景色である。もちろん、親による過干渉や、日本テレビ風の美談化には気をつけなければならないが。そして、親御さんの観戦ならば、主催者の管理の手間も極端には増えないはずだ。疫病禍がしばらく継続するにしても、善処を期待したい。
余談ながら、ラグビーやサッカーのように肉体接触系競技でない、屋外競技の開催制限もよく理解できない。野球で感染増のリスクはほとんど感じないし、テニスなどは適切な管理さえ行えれば、感染増のリスクなど一切ないと思うのだが。
7位 フロンターレ強かった
とにかく今シーズンのフロンターレは強かった。
もともと、よい選手をバランスよく集めているこのクラブ。17年、18年と連覇し、昨シーズンも開幕前は優勝候補筆頭と言われていたが、調子が上がらず4位でリーグを終えていた。これは、選手層が厚くなりすぎベストメンバが固められないあたりも鍵に思えていた。さらに今シーズンについては、三苫、旗手と言った五輪代表候補を加え、どのような交通整理をするのか、鬼木監督の手腕が注目されていた。
しかし、今シーズンのレギュレーションでは、この選手層の厚さをフルに活かし、圧倒的な強さを見せた。特に中盤は、守田、田中碧、大島、家長、脇坂、三苫と誰がベスト11に選ばれてもおかしくない布陣に、重症から復帰した中村憲剛大帝が加わる。そして、ワントップは小林悠とレアンドロ・ダミアンを併用。そして特筆すべきは、これらの名手がボールを奪われた瞬間に一斉に切り替えボール奪取に入るところ。
この素早い攻撃から守備への切替は、相当な脅威だった。敵からすれば自陣ですら思うようにボールキープできないのも厄介だった。加えて、敵陣でこのようなデュエル合戦に巻き込まれるとボールを奪われるや否や、視野の広い田中碧や大島あたりのロングパスからの速攻にさらされるリスクも高い。攻撃面で強みを発揮する中盤選手を多く保有するチームが、組織的な攻撃から守備への切替を身に付けると、いかに強力なチームができあがるかと言うことを見事に示してくれた実例と言えよう。
このまま中心選手の保持に成功すれば、来シーズンのACLが楽しみである。
8位 静岡学園(決勝の逆転、井田対古沼の準決勝)
ちょうど1年前のことになるけれども、今年の高校選手権はとても面白かった。
決勝戦は名門中の名門青森山田大静岡学園。静学が前半早々に0-2でリードされた時は、76-77年シーズンの首都圏移転大会の再来かと思ったりしたw。しかし、当時同様に個人技でヒタヒタと攻め込む個人技で逆襲に転じた静学は、当時とは全く異なるセットプレイのうまさや時折高速化する変化から、山田を押し込み3-2と逆転。終盤、ロングスローの飛び道具を繰り出した山田の猛攻をかわし、初の単独全国制覇に成功した。個人技に長けた選手を多数披露した上記決勝で敗れて以来43年、遂に井田前監督の執念が実ったのは感動的だった。
ちなみに準決勝の静岡学園対矢板中央戦も忘れ難い。静学の変幻自在の攻撃を、矢板が組織守備で止める。終了間際、変化あるパスワークから、エースの松村優太が抜け出しPKを奪って勝ち切った。正に、井田勝通対古沼貞雄と言う戦いだった(元帝京高監督古沼氏は、矢板ベンチに入り指導を重ねていたとのこと)。昭和世代の老人には堪えられない一戦だった。
9位 五輪代表メンバ不明問題
残念ながら疫病の影響で東京五倫は中止された。失礼延期された。21年東京五倫が開催されるかどうかは私にはわからないが。ただ、サッカー五輪代表の準備が、まったくうまく進んでいかなかったことを、ご記憶だろうか。
19年11月に広島で行われたコロンビア戦。堂安と久保をはじめ欧州クラブの選手を冨安以外ほとんど呼んだ試合で完敗。さらに1月にタイで行われたU23選手権では、グループリーグでいきなり2連敗してトーナメント出場失敗。それも、選手に戦う気持ちが見られない残念な試合振りだった。
予選がなく、多くの選手がJで実績を残す前に欧州に出て行ってしまうという未曾有の状況ではある。また、森保氏も、A代表監督兼任で多忙を極めているのも厳しいところだ。しかし、過程はどうあれ本大会半年前になっても、ここまでチーム作りがほとんど進んでいなかったのは残念だった。
ただし、森保氏にとって五輪の延期は幸運だったかもしれない。ユース世代と大人の強化が分離しがちの日本サッカー界は、どうしても20歳前後の選手の成長には時間がかかる。この1シーズン、田中碧、三苫、上田らを筆頭に多くの選手が、Jでも定位置をつかむのみならず、中心選手として経験を積んだ。冨安は日本サッカー史上最高の選手への道を着々と歩んでいる。欧州に出た選手も出場機会を増やしている。手段をあやまたなければ、よいチームが作れる材料は十二分にそろっている。
10位 よく理解できないWEリーグ構想
女子のプロサッカーリーグ構想が発表された。しかし、理解に苦しむことが多い。
そもそも、女子サッカーの集客にとって最大の競合は男子サッカーがあり、観客動員が容易でないのは言うまでもない。女子サッカーの最強国のUSAでは、独自の観客動員に成功しているとの報道もみかけたこともあるが、それらの工夫を織り込んだリーグ戦運営が準備されているという情報は聞いたことがない。どのような方策でプロフェッショナリズムを導入した収入を得ようとするのだろうか。
また、秋から春にかけて試合をすると言うが正気だろうか。真冬の厳寒期の観戦が相当な障害になることは、既に議論され尽くされているのだが。
もう1点気になっていることがある。女子日本代表の試合振りから、過去の颯爽とした情熱をあまり感じられなくなっていることだ。世界一となった前後約10年間、女子代表の戦いぶりからは、常に心揺さぶられる「何か」を感じることができた。具体的に言えば、勝利を渇望した知性の発揮とでも言おうか。しかし、19年のワールドカップは、五輪向けに無理な若手起用を行ったためか、そのような「何か」を感じることができなかった。今日の女子代表の礎を築いた立役者である高倉麻子監督への厳しい批判は、つらいものがあるのだが。今の女子代表が、急ごしらえのプロリーグの支えとなれるだろうか。一方で、先日の皇后杯決勝のベレーザ対浦和や準々決勝のベガルタ対セレッソのような、技巧的、知的、情熱的な試合を見ることができるのだから、心配はいらないのかもしれないけれど。
余談ながら。そもそも女子サッカーを男子と同じレギュレーションでやることにも疑問がある。筋力の関係でゴールキーパーの高さや、角度のあるキックの強さ、キック前のバックスイングの必要性など、男子との肉体能力の差はいかんともしがたい。ゴールの大きさ(特に高さ)や、人数や、ピッチの広さを工夫すれば、娯楽としてはもちろん、プレイする人々のおもしろさは一層広がるように思うのだが。もう、ここまで男子と同じレギュレーションが定着してしまった今となっては、もうどうしようもないのかもしれないが、
番外 中村憲剛と佐藤寿人引退
別に作文します。
1つだけ。この2人は、Jリーグでの輝かしい実績の割に、日本代表ではその実力をフルに発揮する機会を得られなかった。2人のプレイを存分に堪能することはできたが、それがちょっと悔しい。
2020年12月31日
2020年ベストイレブン
疫病禍下で、日本代表の活動も極端に低調。そのためもあり、選考するベストイレブンは例年とは随分異なるものとなった。まあ、それはそれで、今年の記録になるだろう。
GK 東口順昭
ガンバのJ2位に貢献。とにかく、破りづらいゴールキーパ。敵がシュートするギリギリまで我慢し、適格な判断で対応する鮮やかさ。30代半ばとなり、安定感は増々磨きがかかっているのではないか。代表のゴールキーパはさらに年上の川島がいるが、東口の復帰も議論されてよいのではないか。
DF 山根視来
ベルマーレの超攻撃的CBの山根が、フロンターレのサイドバックとして格段の輝きを見せてくれた。ベルマーレでCB経験により、敵と正対した際の守備能力を高めることに成功。さらに中央から無理なく攻め上がる経験を活かしたことから、サイドバックとしての攻撃力も格段になった。トップレベルのサイドバック育成の1つの指標となるかもしれない。このままの勢いで、日本代表での活躍も期待したい。
DF 谷口彰悟
フロンターレの強さの1つに、敵が中盤のボール保持を外し強引な縦攻撃を狙ってきた際に、しっかりと谷口がそれを押さえ切ってしまうことがある。単純なクロスや、精度の低いロングボールは、まったく谷口には通用しない。また、落ち着いた前線のフィードも中々のもの。もう1回代表で見てみたいプレイヤ。
DF 冨安健洋
着々とセリエAの中堅どころで実績を積み、西欧のメガクラブの中核を目指す。順調な成長ぶりだ。
DF 山本脩斗
若い永戸勝也と杉岡大暉の加入もあり、今シーズン定位置を確保できていなかった山本の選考は、ご本人に失礼かもしれない。しかし、リーグ終盤、若い二人が欠場した際に登場した山本のプレイはすばらしかった。落ち着いた守備、適格な攻撃時の選択。この難しいシーズンで終盤まで体調を整え、終盤チームを支えた山本にプロフェッショナルを見た。
MF 守田英正
最終ラインに下がった組み立て、技巧派ぞろいの中盤選手がボールを奪われた瞬間の強烈な守備能力、時に見せる前線への迫力ある進出。今シーズンのMVPと言ってよいだろう。2年前のアジアカップ前に負傷しなければ、そのまま代表の中心選手となり、日本にトッププレイヤになっていたかもしれない。ポルトガルの辺地の小クラブへの移籍が噂されるが、代表への定着に最善の道を選択してほしい。
MF 遠藤航
先日の代表シーズンで圧倒的な存在感を見せた。シュツットガルトでも中心選手として活躍。今の日本代表に不可欠の存在となった。ベルマーレ時代からの知性と献身が、いよいよ本格化したと言うことか。しばらく日本代表の中盤は遠藤抜きで語れなくなるだろう。
MF 田中碧
正確な技巧と、適切なプレイ選択が、いよいよ充実してきた。フロンターレ相手となると、敵はあれこれ守備を工夫してくるが、田中が正確に長短のパスを操り、敵守備ラインを上下させることで、大島と家長にスペースを提供できる。まずは一層技術の精度を極め、五輪代表の大黒柱として、世界を驚かせるのが国際キャリアのスタートとなるか。
FW 伊東純也
中堅どころだが、着々と欧州でも代表でも地位を築いている。感心するのは、代表で起用される度に特長をしっかりと活かすプレイを見せてくれること。代表の右サイドの攻撃ポジションは、堂安、久保と言ったより若いライバルが控えるが、タイプの異なる伊東は彼らと異なる持ち味があり、ワールドカップでも貴重な存在になり得るはず。
FW 上田綺世
日本人としては体格にも恵まれているが、本質的には技巧派、いやタイミングで勝負するストライカ。また、スペースを作ったり活用するのにも長けている。守備のタスクや戦術的なボールの受けをしっかりこなすのは当然だが、攻撃時にはチャンスメークはあまり関与せずにフィニッシュに専念すれば、もっともっと得点できるようになるのではないか。先日亡くなった、イタリアの名ストライカ、パオロ・ロッシを目指してほしい、古いか、だったら、フィリッポ・インザーギ。
FW 三苫薫
フロンターレに入り大化けした。今は大島や家長や田中碧に「使われる選手」としての地位を確立してほしい。そして、20代後半になり、周囲が見えるようになった時に、本当の中村憲剛の後継者としての道を歩み始められるか。余談ながら、あのすりぬけるドリブルに、70年代後半フランスで活躍したドミニク・ロシュトーを思い出したのは私だけか(こちらも古いが、他に思いつかないw)。
GK 東口順昭
ガンバのJ2位に貢献。とにかく、破りづらいゴールキーパ。敵がシュートするギリギリまで我慢し、適格な判断で対応する鮮やかさ。30代半ばとなり、安定感は増々磨きがかかっているのではないか。代表のゴールキーパはさらに年上の川島がいるが、東口の復帰も議論されてよいのではないか。
DF 山根視来
ベルマーレの超攻撃的CBの山根が、フロンターレのサイドバックとして格段の輝きを見せてくれた。ベルマーレでCB経験により、敵と正対した際の守備能力を高めることに成功。さらに中央から無理なく攻め上がる経験を活かしたことから、サイドバックとしての攻撃力も格段になった。トップレベルのサイドバック育成の1つの指標となるかもしれない。このままの勢いで、日本代表での活躍も期待したい。
DF 谷口彰悟
フロンターレの強さの1つに、敵が中盤のボール保持を外し強引な縦攻撃を狙ってきた際に、しっかりと谷口がそれを押さえ切ってしまうことがある。単純なクロスや、精度の低いロングボールは、まったく谷口には通用しない。また、落ち着いた前線のフィードも中々のもの。もう1回代表で見てみたいプレイヤ。
DF 冨安健洋
着々とセリエAの中堅どころで実績を積み、西欧のメガクラブの中核を目指す。順調な成長ぶりだ。
DF 山本脩斗
若い永戸勝也と杉岡大暉の加入もあり、今シーズン定位置を確保できていなかった山本の選考は、ご本人に失礼かもしれない。しかし、リーグ終盤、若い二人が欠場した際に登場した山本のプレイはすばらしかった。落ち着いた守備、適格な攻撃時の選択。この難しいシーズンで終盤まで体調を整え、終盤チームを支えた山本にプロフェッショナルを見た。
MF 守田英正
最終ラインに下がった組み立て、技巧派ぞろいの中盤選手がボールを奪われた瞬間の強烈な守備能力、時に見せる前線への迫力ある進出。今シーズンのMVPと言ってよいだろう。2年前のアジアカップ前に負傷しなければ、そのまま代表の中心選手となり、日本にトッププレイヤになっていたかもしれない。ポルトガルの辺地の小クラブへの移籍が噂されるが、代表への定着に最善の道を選択してほしい。
MF 遠藤航
先日の代表シーズンで圧倒的な存在感を見せた。シュツットガルトでも中心選手として活躍。今の日本代表に不可欠の存在となった。ベルマーレ時代からの知性と献身が、いよいよ本格化したと言うことか。しばらく日本代表の中盤は遠藤抜きで語れなくなるだろう。
MF 田中碧
正確な技巧と、適切なプレイ選択が、いよいよ充実してきた。フロンターレ相手となると、敵はあれこれ守備を工夫してくるが、田中が正確に長短のパスを操り、敵守備ラインを上下させることで、大島と家長にスペースを提供できる。まずは一層技術の精度を極め、五輪代表の大黒柱として、世界を驚かせるのが国際キャリアのスタートとなるか。
FW 伊東純也
中堅どころだが、着々と欧州でも代表でも地位を築いている。感心するのは、代表で起用される度に特長をしっかりと活かすプレイを見せてくれること。代表の右サイドの攻撃ポジションは、堂安、久保と言ったより若いライバルが控えるが、タイプの異なる伊東は彼らと異なる持ち味があり、ワールドカップでも貴重な存在になり得るはず。
FW 上田綺世
日本人としては体格にも恵まれているが、本質的には技巧派、いやタイミングで勝負するストライカ。また、スペースを作ったり活用するのにも長けている。守備のタスクや戦術的なボールの受けをしっかりこなすのは当然だが、攻撃時にはチャンスメークはあまり関与せずにフィニッシュに専念すれば、もっともっと得点できるようになるのではないか。先日亡くなった、イタリアの名ストライカ、パオロ・ロッシを目指してほしい、古いか、だったら、フィリッポ・インザーギ。
FW 三苫薫
フロンターレに入り大化けした。今は大島や家長や田中碧に「使われる選手」としての地位を確立してほしい。そして、20代後半になり、周囲が見えるようになった時に、本当の中村憲剛の後継者としての道を歩み始められるか。余談ながら、あのすりぬけるドリブルに、70年代後半フランスで活躍したドミニク・ロシュトーを思い出したのは私だけか(こちらも古いが、他に思いつかないw)。
2020年12月06日
さようならディエゴ
1.君との思い出
君の名を始めて知ったのは、78年アルゼンチンW杯大会直前、サッカーマガジンに載った代表候補選手リストだった。
当時私は高校3年生、少々興奮した。17歳の同い歳(後日、さらに同年同月生まれと知る)の選手が、地元ワールドカップに備えるチームの候補選手になっていたからだ。しかし、大会直前、メノッティ氏は迷いに迷った末に、君をメンバから外したと言う。そして、熱狂的な全国民のサポートの下、ダニエル・パサレラとオズバルト・アルディレスとマリオ・ケンペスのチームは、颯爽とした攻撃的サッカーで初めての世界制覇に成功する。君が不在でも。
79年5月、前年W杯決勝再戦となったオランダ戦、映像で初めて君を見た。君以外は世界チャンピオンメンバ、しかし君は格段の戦術眼と技巧を見せ、既に王様としてチームに君臨していた。ヨハン・クライフが事実上トップレベルの試合を去っていた当時、「新しい神」が登場したのか、期待は格段のものがあった。
同年日本で行われたワールドユースで、君の名は世界にとどろいた。君はラモン・ディアスと共に格段の輝きを見せてくれたのだ。余談ながら、あの大会は私の世代のワールドユース。高校時代ピッチで幾度も戦ったこともある鈴木淳も出場した(いや、選手としては淳にはまったく歯が立たなかったのですが)。
80年代に入り、君はボカやバルセロナで活躍するも、期待したほどのプレイは見せてくれなかった。82年ワールドカップでも体調も上がらず、断片的に輝くプレイはあったものの、敵の厳しいマークの下に沈んだ感があった。世界でも1、2の実力者であることは間違いなかったが。
ちょっと余談をはさむ。85年のトヨタカップは、ミシェル・プラティニ率いるユベントス対アルヘンチノス・ジュニアーズ。このアルヘンチノスと言うブエノスアイレスの小さなクラブは、幼少の君の才能を見つけ、プロフェッショナルに育て、ボカに売ることで得たキャッシュでチームを強化。リベルタドーレスを制し、国立競技場に登場したのだ。ホセ・ジュディカ監督が率いたアルヘンチノスは攻撃的なすばらしい試合を展開、プラティニ(まだこの時点では、君ではなくプラティニが世界最高の名手と言われていた…そして、国立でプラティニが見せたプレイは本当に鮮やかだった)と仲間たちを後一歩まで追い詰めながらPK戦で敗れる。この試合は、私の50年近いサッカー観戦歴の中でも最も美しい記憶の1つとなっている。
迎えた86年メキシコ大会。初戦のアルゼンチンの対戦相手は韓国だった。その半年前、我々は最終予選をこの隣国と戦った。森孝慈氏率いる日本代表の攻撃の切り札は水沼貴史、私にとっては日本人一番サッカーが上手な同級生だ。しかし水沼は韓国の名DF金平錫に完封された。このアルゼンチン対韓国で最初君をマークしたのが、金平錫だった。しかし、金平錫は君の前ではまったく無力、前半半ばで交代を余儀なくされた。アジアのトップレベルに近づきつつあった当時の日本代表と世界最高峰のレベル差を、君と金平錫と水沼で知ることができた。
その後のこの大会の君は、皆が知っている。神は地に降りてきたのだ。悪魔と言う話もあったが、詳細は後述する。
前後したナポリでの美しいプレイの数々、イタリア南部の風光明媚なこの都市での活躍は言うまでもない。
90年イタリアワールドカップ。私にとって生観戦した初めてのワールドカップ。初戦のカメルーン戦の失態。2次ラウンド初戦圧倒的に攻め込まれたセレソン戦、カニージャに通した芸術的なラストパス。灼熱のフィレンツェ、イビチャ・オシム氏が率い、若きドラガン・ストイコビッチを中軸としたユーゴスラビアをPK戦で下し、君はナポリでの地元イタリアとの準決勝に進出した。
フランコ・バレシが率い、圧倒的優勝候補と言われ、ここまで無失点だったイタリアは前半早々にサルバトーレ・スキラッチが先制。誰もが「勝負あり」と思ったものの、君は反転攻勢に出る。そして後半にカニージャが同点にして(この同点弾については後述する)、PK戦で決勝に。
決勝の西ドイツ戦ではチームメートの半分以上が警告累積で出場できず(ここまで、君のチームメートは、ラフなのかタフなのか微妙でギリギリの激しい守備で戦い抜いてきた、6試合を経過し多くの選手が肝心の決勝で出場停止になっていた)、終始西ドイツに攻勢をとられる。それでも、アルゼンチンの組織守備は揺るがない。しかし、後半怪しげなPKをとられ、さらに不可解な退場判定で最後は9対11の戦いを余儀なくされ、万事休した。
その後、麻薬関連が取沙汰されナポリを去った君は複数のクラブを転々とする。「もうトップレベルのプレイを見せてくれることはないだろう」とも思っていた。ところが93年アルゼンチンはW杯予選で苦戦、豪州とのプレイオフに回ると君は代表に復帰。そのまま、君は4度目のワールドカップに臨んだ。君は、バティステュータ、レドンド、シメオネと言った新しいタレントを率い、美しい攻撃サッカーを展開。ギリシャ、ナイジェリアに完勝。特にギリシャ戦の君の得点は、「正にアルゼンチン!」と感嘆する中央突破から。最初の2試合の圧倒的強さから、優勝候補筆頭とも語られた。けれども、1次ラウンド最終戦直前に、禁止薬物反応が出たとのことで、君はUSAを去ることとなった。
間違いなく少しずつ引退は近づいていた。ボカに復帰した君は、95年ソウルでの韓国代表戦に登場した。当時、W杯招致合戦を繰り広げていた日韓両国。韓国はボカを招聘することが、世界のサッカー界への大きなPRとなると考えたのだろう。麻薬の前科がある君には日本政府当局は入国のビザを発行しようとしなかったからだ(94年のキリンカップ、アルゼンチン代表来日が内定していたが、君が入国できないためアルゼンチンは出場を辞退したと言う)。ソウルは近い、私はソウルオリンピックスタジアムに向った。往時の切れ味はもうなかったけれど、柔らかなボールタッチと、20〜30mの距離をきれいにカーブして味方の利き足に届く美しいパスは健在だった。君を見ることができるだけで幸せだった。
また余談。翌日、帰国のための金浦空港。テレビ解説のために訪韓していたメノッティ氏に会うことができた。「私は日本のサポータです、昨日ディエゴのプレイを見られてうれしかった、たぶん私にとっての最後のディエゴです。ともあれ、私は86年のディエゴのチームより、78年のパサレラとアルディレスとルーケとケンペスのあなたのチームが好きなんです」。メノッティ氏は嬉しそうな表情でサインをしてくれた。
引退後の君は、時折世界中におもしろいニュースを発信するおじさん、となった。たまに薬禍、反社会集団との関与、不摂生による病気などのニュースが混じるのは残念だったが。驚いたのは、08年にアルゼンチン代表監督に就任したこと。考えてみれば、アルゼンチン代表は君が去った後も強かった。規律厳しい戦術的な監督が率い、多くの名手が登場し、格段の戦闘能力でW杯予選を勝ち抜き、本大会でも格段の優勝候補と評された。けれども、98年、02年、06年、いずれも早期敗退。アルゼンチン協会も「どうにもこうにも世界一には近づけない。やはり神に頼るべきか」と考えたのかもしれない。しかし、神はピッチ上にいてこそ輝くものだったのだ。君が率いるチームはドイツに完敗した。試合はおもしろかったけれどものね。
18年ロシア大会、サントペテルブルク。私はアルゼンチン対ナイジェリアを堪能していた。空回りするメッシ、明らかに衰えたマスケラーノ、私の席からメインスタンド中央の貴賓席が見えた。目を凝らすと、見慣れている体躯の君が踊っていた。踊る君を見るだけで、嬉しかった。
2.君の比類なき攻撃創造力
何故君は「神」なり「悪魔」と称されるようになったのか。一言でいえば、誰も真似できない格段の攻撃創造力だと思っている。
86年イングランド戦の5人抜き、90年ブラジル戦のカニージャへのアシストのような超人的なドリブル突破からのシュートやラストパス。これらならば、最近ならばメッシやクリスティアーノ・ロナウドが見せてくれる。
86年決勝西ドイツ戦の決勝点、ブルチャガに通した一瞬のスルーパスならば、ジーコやプラティニが再三披露してくれたし、小野伸二や中村憲剛も得意とするところだ。
94年ギリシャ戦のような卓越した個人技直後のの強シュートならば、ジダンやリバウドの記憶はまだ新しい。
しかし、今から述べる攻撃創造は、君にしかできないものだった。
まず、あの86年イングランド戦の「神の手」。あの場面、君はトップのバルダノにボールを当て、正確なリターンを期待してトップスピードでペナルティエリアに進出した。しかし、君の意図とは異なりバルダノはコントロールミス、イングランドDFが処理し損ねる形で偶然フワリと浮いたボールがイングランドゴールに。そのような偶然の浮き球が上がった瞬間に、君はGKピーター・シルトンと主審の位置取りを瞬間に見てとり、「これは手だな」と判断し冷静にボールを押し込んだ。
思わず手を出すのでは「神の手」にはならない。瞬時の判断で幼少時から自分で築き上げた「神の手」を選択する引き出しの多さと判断の的確さ。さらに言えば、この「神の手」はいくら熟練していたとしても、そう頻繁には使えない。毎回試みればネイマールの寝っ転がりになってしまう。それをW杯の準々決勝で披露するとは。
君は幼少時から幾度「神の手」を練習してきたのか。そして、それをずっと隠し、あの瞬間に使う判断を行ったのか。
同じ86年大会の1次ラウンド、イタリア戦の得点。バルダノのチップキックの浮き球を外向きに斜行しながら、名DFのガエタノ・シレーア(フランコ・バレシの前のイタリアの名リベロ、82年世界制覇の最大の貢献者の1人)にコースを押さえられたにもかかわらず、ボールのバウンドの落ち際で身体をひねってシュートを決めた。外向きに走っていた君が、突然に早いタイミングでボールを引っ掛けるように蹴ったため、GKのジョバンニ・ガリはタイミングを外され、まったく反応できずボールを見送るばかりだった。
シュートの際にいかにGKのタイミングを外すかは、世界中のストライカの課題。例えば往年の西ドイツの名ストライカ爆撃機ゲルト・ミュラーは、シュートのタイミングを一瞬遅らせてボテボテのシュートを決めるのが格段に上手だった。最近ではフィリッポ・インザギの落ち着いてGKのタイミングを外すシュートを覚えている方も多かろう。しかし、この君の一撃は、行動を遅らせるのではなく、早めることでGKの意表をついてしまったもの。
あるいは遠藤保仁のコロコロPK。落ち着いたアプローチでGKの体重移動を見据えて動けない方に押し出すのが見事だった。ただし、遠藤のこの名人芸はPKと言う止まったプレイでのこと。しかし、君はトップスピードで外に開きながら、GKを無力化する技巧と判断を発揮してくれた。もちろんあのキックを枠に飛ばすフィジカルの充実と技術もすごい。しかし、シレーアとの駆け引きを行いながら、タイミングを早めるという発想に感嘆した。あれはどんな名DFや名GKでも防げない。言わば「動的なコロコロ」とでも呼ぼうか。
さらに上記した90年大会準決勝のやはりイタリア戦、カニージャのゴール。得点までの経緯は比較的単純。君が左サイドに進出したオラルティコエチアに展開、切り返したオラルティコエチアのニアへのクロスをカニージャがヘッドでGKゼンガの鼻先で方向を変えて決めたもの。ただ、フランコ・バレシが率いるこの大会のイタリアの守備の堅牢さは尋常なものではなかった。1次ラウンドから準々決勝まで5試合で無失点。このイタリア守備が、こんな簡単な攻撃でどうして崩れたのか。私はこの得点が決まるゴール裏で観戦していたのだが、よく理解できなかった。
後日、VTRを幾度か見て、ようやく理解できた。イタリアのDF陣はフェリ、ベルゴミ、若きマルディニと言った柔軟性と強さと読みに秀でたDFがペナルティエリア内を固めていた。そして、一番危ない場所をフランコ・バレシが埋める。ところが、オラルティコエチアに展開した直後、君はウロウロとイタリアペナルティエリアに進出する。フランコ・バレシは幾度も首を振りながら、君とボールを視野に入れながら引く。結果的にフェリやベルゴミが固め切れないニアのスペースが空いてしまった。そこはフランコ・バレシが埋めるべき場所だったのだが。
得点を奪うために、攻撃のトップスタアが下がったり開いたりして敵の守備者を惹きつけると言うのは古典的な作戦だ。岡崎慎司が自分のマーカと他のDFと一緒に絡むとか、大久保嘉人が突然ペナルティエリアに進出をやめてマークを外しこぼれ球を狙うとか。しかし、こう言った陽動動作は敵DFの読みが格段だと「無視する」と言うやり方で無力化されてしまう。しかし、この時の君の「ウロウロ前進」は無視するわけにはいかず、バレシにもどうにも防ぎ難いものだった。あのような位置取りの発想は、一体どうやって出てきたのだろうか。
サッカーの個人能力向上の秘訣は単純だ(もちろん、その実現はとても難しいのだけれども)。
ピッチ上で行われることを想定し、執拗な反復練習を繰り返し、その技術をいつでも披露できるようにするしかない。そうやって練習で自分で作り上げた引き出しを、試合本番で局面局面の判断から選択し、丁寧にしかし高速で実現する。どんなレベルでも、それは変わりない。
けれども、上記の攻撃創造力(言い換えれば「瞬時の時空判断力」とでも言おうか)を、君はどうやって築き上げたのだろうか。あんなアイデアは、どんな指導者も教えることはできない。また、ここ10年ならば、インタネットを活用すれば過去の名プレイをいくらでも映像で堪能できるが、君が自らを育んだ70年代は家庭用VTRも普及していないし、TVも多チャンネル化していない。先達のプレイを学ぶ機会も限定的だった。まして、君が次々に見せてくれた攻撃創造力を教えられる指導者など、世界中どこを探してもいやしない(ペレやヨハン・クライフならいざ知らず)。ブエノスアイレスのストリートサッカーで、ピーター・シルトンやガエタノ・シレアやフランコ・バレシの意表を突く信じ難いアイデアを育んだのだろうか。
アルゼンチンとナポリのサポータからすれば、なるほど君は「神」だったろう(私のような野次馬にも)。しかし、それ以外のクラブのサポータからすれば「悪魔」としか言いようのない存在だったことがよくわかる。
3.君は何者だったのか。
90年イタリアW杯。
準決勝、ナポリ、サンパオロスタジアム。アルゼンチン対イタリア。
ナポリの王様として君臨していた君が主将として率いるアルゼンチンと地元イタリアの対戦。地元サポータが他の地域ほどアズーリを応援しなかったのが、この試合のイタリアの敗因と見る向きが多いようだ。
しかし、私にはとてもそうは思えなかった。確かに他の都市で感じたアルゼンチンあるいは君に対する圧倒的な敵対感はなかった。けれども、私の周りのイタリア人たちは当たり前のように、イタリアを応援していた。ただし、君の一挙手一投足を恐れ、何か君が能動的仕掛ける度に、嘆息の雰囲気は濃厚だった。言葉にならない恐怖感とでも呼んだらよいのだろうか。
さらに余談。スケールはちょっと違うが、私は当時のナポリの方々と同じ経験を味わったことがある。2011年9月、埼玉スタジアムでのブラジルW杯予選北朝鮮戦。北朝鮮の中盤には梁勇基がいたのだ。いつも私に最高の歓喜を提供してくれている梁が敵の攻撃の中核として攻め込んでくる。人生最高の恐怖感だったかもしれない。
PK戦終了後…試合中は私の真後ろで、声を枯らして「いたーりゃ、いたーりゃ」と絶叫していたおじさんの試合直後の絶望的表情は何とも言えないものだった。いや、きっと85年のソウルや、93年のドーハや、02年の利府や、18年のロストフ・ナ・ドヌの私も同じだったでしょうが。
決勝、ローマ、オリンピコスタジアム。アルゼンチン対西ドイツ。
驚いたのは試合終了後。西ドイツ選手が歓喜の渦に包まれる中、涙を流す君がオーロラビジョンに大写しになる。この瞬間、ローマ・オリンピコの満員の観衆は皆盛大なブーイングを行った。86年メキシコ以降、欧州の多くの試合で君がブーイングに包まれることはよく知っていた。この大会でも君はボールを持つ度に、ブーイングに包まれていた。しかし、それは試合中のことだ。試合中のサポータのブーイングは、恐怖と尊敬の表現でもある。しかし、この決勝終了後のブーイングは、明らかな悪意、軽蔑、嫌悪を表したものだった。ナポリを除くイタリア中が君に対し「ざまあみろ!」と言っているような思いを抱いた。さすがに驚いた。「君はここまで嫌われているのか」と。彼らにとって、君は神ではなく悪魔だったのだろう。悪魔の絶望的な表情は、多くの人々の歓喜だったのだ。
君が亡くなった後の報道。何より違和感を持ったのは、君は反体制の闘士であったとか、権威におもねらない庶民の味方であったとか。そのような報道を見聞きすればするほど私は違和感を持つのだ。
過去の報道を見る限りでは、君は人間として立派な人だったとはとても思えない。ただただサッカー選手としての能力に恵まれ、それでわがままな行動を許された。結果、不道徳な振る舞いは枚挙に暇ない。ただそういう男だったとしか思えないのだ。
ただし、私は君の友達でも何でもない。だから、君がどんなに道徳的に不適切なことをしてしまったとしても、私は困りはしない。私にとって君は、ピッチ上で信じ難い舞いを見せてくれる、空前のサッカー選手だった。そして上記したようにその能力は本当に素晴らしいものだった。
95年ソウル、五輪スタジアムの、ボカ対韓国代表戦に戻ろう。
私はこの試合、78年大会アルゼンチンに女性1人で降り立ちレオポルド・ルーケが若きプラティニを絶望に追い込んで以来の筋金入りのアルゼンチンフリークGKさんと、86年大会10代でメキシコに参戦し以降の君のW杯全試合を応援しているディエゴ狂のCちゃんと、3人で観戦していた。
89分、君は交代した。おそらく、試合直後の混乱を避けるため終了直前の交代は事前に決められていたことだろう。ピッチを去る君に向ってスタンディングオベーション。10万人の大観衆の誰よりも早く始めたのは、我々3人だった。
この25年前が、私にとって君との別れだったのだ。むしろ、その後25年生き続けてくれたことに感謝したい。たとえ、世界中におもしろいニュースを発信するおじさんだったとしても、君の報道は読むのは楽しかった。過去の栄光と比較したほろ苦さと共に。
歓喜と悲嘆、美しさと醜さ、正しいのか誤っているのか、そして君のことを好きか嫌いか。おそらく、ホモサピエンスの有史上に君ほどに、世界中の人に「何か」を提供した人はいない。
しょせんサッカーさ。負けたところで命や豊さや今の生活を失うわけではない。けれども、耐え難いほどに胸が張り裂けそうな悲しい思いを味わうことができる。勝てばこれ以上ない喜びを堪能することができるのだが。サッカーはそれほどすばらしいものだ。
君と私は、同年同月生まれ。毎年同じ年齢を刻むのを楽しみにしていたが還暦が最後になったわけだ。君と同時代を歩むことができて、とてもとても楽しかったよ。
すべての一挙手一投足の思い出に献杯、いや君に暗い感情は似合わないな。乾杯。
ゆっくり、天国で(地獄かもしれないな)休んでください。
ありがとうございました。
君の名を始めて知ったのは、78年アルゼンチンW杯大会直前、サッカーマガジンに載った代表候補選手リストだった。
当時私は高校3年生、少々興奮した。17歳の同い歳(後日、さらに同年同月生まれと知る)の選手が、地元ワールドカップに備えるチームの候補選手になっていたからだ。しかし、大会直前、メノッティ氏は迷いに迷った末に、君をメンバから外したと言う。そして、熱狂的な全国民のサポートの下、ダニエル・パサレラとオズバルト・アルディレスとマリオ・ケンペスのチームは、颯爽とした攻撃的サッカーで初めての世界制覇に成功する。君が不在でも。
79年5月、前年W杯決勝再戦となったオランダ戦、映像で初めて君を見た。君以外は世界チャンピオンメンバ、しかし君は格段の戦術眼と技巧を見せ、既に王様としてチームに君臨していた。ヨハン・クライフが事実上トップレベルの試合を去っていた当時、「新しい神」が登場したのか、期待は格段のものがあった。
同年日本で行われたワールドユースで、君の名は世界にとどろいた。君はラモン・ディアスと共に格段の輝きを見せてくれたのだ。余談ながら、あの大会は私の世代のワールドユース。高校時代ピッチで幾度も戦ったこともある鈴木淳も出場した(いや、選手としては淳にはまったく歯が立たなかったのですが)。
80年代に入り、君はボカやバルセロナで活躍するも、期待したほどのプレイは見せてくれなかった。82年ワールドカップでも体調も上がらず、断片的に輝くプレイはあったものの、敵の厳しいマークの下に沈んだ感があった。世界でも1、2の実力者であることは間違いなかったが。
ちょっと余談をはさむ。85年のトヨタカップは、ミシェル・プラティニ率いるユベントス対アルヘンチノス・ジュニアーズ。このアルヘンチノスと言うブエノスアイレスの小さなクラブは、幼少の君の才能を見つけ、プロフェッショナルに育て、ボカに売ることで得たキャッシュでチームを強化。リベルタドーレスを制し、国立競技場に登場したのだ。ホセ・ジュディカ監督が率いたアルヘンチノスは攻撃的なすばらしい試合を展開、プラティニ(まだこの時点では、君ではなくプラティニが世界最高の名手と言われていた…そして、国立でプラティニが見せたプレイは本当に鮮やかだった)と仲間たちを後一歩まで追い詰めながらPK戦で敗れる。この試合は、私の50年近いサッカー観戦歴の中でも最も美しい記憶の1つとなっている。
迎えた86年メキシコ大会。初戦のアルゼンチンの対戦相手は韓国だった。その半年前、我々は最終予選をこの隣国と戦った。森孝慈氏率いる日本代表の攻撃の切り札は水沼貴史、私にとっては日本人一番サッカーが上手な同級生だ。しかし水沼は韓国の名DF金平錫に完封された。このアルゼンチン対韓国で最初君をマークしたのが、金平錫だった。しかし、金平錫は君の前ではまったく無力、前半半ばで交代を余儀なくされた。アジアのトップレベルに近づきつつあった当時の日本代表と世界最高峰のレベル差を、君と金平錫と水沼で知ることができた。
その後のこの大会の君は、皆が知っている。神は地に降りてきたのだ。悪魔と言う話もあったが、詳細は後述する。
前後したナポリでの美しいプレイの数々、イタリア南部の風光明媚なこの都市での活躍は言うまでもない。
90年イタリアワールドカップ。私にとって生観戦した初めてのワールドカップ。初戦のカメルーン戦の失態。2次ラウンド初戦圧倒的に攻め込まれたセレソン戦、カニージャに通した芸術的なラストパス。灼熱のフィレンツェ、イビチャ・オシム氏が率い、若きドラガン・ストイコビッチを中軸としたユーゴスラビアをPK戦で下し、君はナポリでの地元イタリアとの準決勝に進出した。
フランコ・バレシが率い、圧倒的優勝候補と言われ、ここまで無失点だったイタリアは前半早々にサルバトーレ・スキラッチが先制。誰もが「勝負あり」と思ったものの、君は反転攻勢に出る。そして後半にカニージャが同点にして(この同点弾については後述する)、PK戦で決勝に。
決勝の西ドイツ戦ではチームメートの半分以上が警告累積で出場できず(ここまで、君のチームメートは、ラフなのかタフなのか微妙でギリギリの激しい守備で戦い抜いてきた、6試合を経過し多くの選手が肝心の決勝で出場停止になっていた)、終始西ドイツに攻勢をとられる。それでも、アルゼンチンの組織守備は揺るがない。しかし、後半怪しげなPKをとられ、さらに不可解な退場判定で最後は9対11の戦いを余儀なくされ、万事休した。
その後、麻薬関連が取沙汰されナポリを去った君は複数のクラブを転々とする。「もうトップレベルのプレイを見せてくれることはないだろう」とも思っていた。ところが93年アルゼンチンはW杯予選で苦戦、豪州とのプレイオフに回ると君は代表に復帰。そのまま、君は4度目のワールドカップに臨んだ。君は、バティステュータ、レドンド、シメオネと言った新しいタレントを率い、美しい攻撃サッカーを展開。ギリシャ、ナイジェリアに完勝。特にギリシャ戦の君の得点は、「正にアルゼンチン!」と感嘆する中央突破から。最初の2試合の圧倒的強さから、優勝候補筆頭とも語られた。けれども、1次ラウンド最終戦直前に、禁止薬物反応が出たとのことで、君はUSAを去ることとなった。
間違いなく少しずつ引退は近づいていた。ボカに復帰した君は、95年ソウルでの韓国代表戦に登場した。当時、W杯招致合戦を繰り広げていた日韓両国。韓国はボカを招聘することが、世界のサッカー界への大きなPRとなると考えたのだろう。麻薬の前科がある君には日本政府当局は入国のビザを発行しようとしなかったからだ(94年のキリンカップ、アルゼンチン代表来日が内定していたが、君が入国できないためアルゼンチンは出場を辞退したと言う)。ソウルは近い、私はソウルオリンピックスタジアムに向った。往時の切れ味はもうなかったけれど、柔らかなボールタッチと、20〜30mの距離をきれいにカーブして味方の利き足に届く美しいパスは健在だった。君を見ることができるだけで幸せだった。
また余談。翌日、帰国のための金浦空港。テレビ解説のために訪韓していたメノッティ氏に会うことができた。「私は日本のサポータです、昨日ディエゴのプレイを見られてうれしかった、たぶん私にとっての最後のディエゴです。ともあれ、私は86年のディエゴのチームより、78年のパサレラとアルディレスとルーケとケンペスのあなたのチームが好きなんです」。メノッティ氏は嬉しそうな表情でサインをしてくれた。
引退後の君は、時折世界中におもしろいニュースを発信するおじさん、となった。たまに薬禍、反社会集団との関与、不摂生による病気などのニュースが混じるのは残念だったが。驚いたのは、08年にアルゼンチン代表監督に就任したこと。考えてみれば、アルゼンチン代表は君が去った後も強かった。規律厳しい戦術的な監督が率い、多くの名手が登場し、格段の戦闘能力でW杯予選を勝ち抜き、本大会でも格段の優勝候補と評された。けれども、98年、02年、06年、いずれも早期敗退。アルゼンチン協会も「どうにもこうにも世界一には近づけない。やはり神に頼るべきか」と考えたのかもしれない。しかし、神はピッチ上にいてこそ輝くものだったのだ。君が率いるチームはドイツに完敗した。試合はおもしろかったけれどものね。
18年ロシア大会、サントペテルブルク。私はアルゼンチン対ナイジェリアを堪能していた。空回りするメッシ、明らかに衰えたマスケラーノ、私の席からメインスタンド中央の貴賓席が見えた。目を凝らすと、見慣れている体躯の君が踊っていた。踊る君を見るだけで、嬉しかった。
2.君の比類なき攻撃創造力
何故君は「神」なり「悪魔」と称されるようになったのか。一言でいえば、誰も真似できない格段の攻撃創造力だと思っている。
86年イングランド戦の5人抜き、90年ブラジル戦のカニージャへのアシストのような超人的なドリブル突破からのシュートやラストパス。これらならば、最近ならばメッシやクリスティアーノ・ロナウドが見せてくれる。
86年決勝西ドイツ戦の決勝点、ブルチャガに通した一瞬のスルーパスならば、ジーコやプラティニが再三披露してくれたし、小野伸二や中村憲剛も得意とするところだ。
94年ギリシャ戦のような卓越した個人技直後のの強シュートならば、ジダンやリバウドの記憶はまだ新しい。
しかし、今から述べる攻撃創造は、君にしかできないものだった。
まず、あの86年イングランド戦の「神の手」。あの場面、君はトップのバルダノにボールを当て、正確なリターンを期待してトップスピードでペナルティエリアに進出した。しかし、君の意図とは異なりバルダノはコントロールミス、イングランドDFが処理し損ねる形で偶然フワリと浮いたボールがイングランドゴールに。そのような偶然の浮き球が上がった瞬間に、君はGKピーター・シルトンと主審の位置取りを瞬間に見てとり、「これは手だな」と判断し冷静にボールを押し込んだ。
思わず手を出すのでは「神の手」にはならない。瞬時の判断で幼少時から自分で築き上げた「神の手」を選択する引き出しの多さと判断の的確さ。さらに言えば、この「神の手」はいくら熟練していたとしても、そう頻繁には使えない。毎回試みればネイマールの寝っ転がりになってしまう。それをW杯の準々決勝で披露するとは。
君は幼少時から幾度「神の手」を練習してきたのか。そして、それをずっと隠し、あの瞬間に使う判断を行ったのか。
同じ86年大会の1次ラウンド、イタリア戦の得点。バルダノのチップキックの浮き球を外向きに斜行しながら、名DFのガエタノ・シレーア(フランコ・バレシの前のイタリアの名リベロ、82年世界制覇の最大の貢献者の1人)にコースを押さえられたにもかかわらず、ボールのバウンドの落ち際で身体をひねってシュートを決めた。外向きに走っていた君が、突然に早いタイミングでボールを引っ掛けるように蹴ったため、GKのジョバンニ・ガリはタイミングを外され、まったく反応できずボールを見送るばかりだった。
シュートの際にいかにGKのタイミングを外すかは、世界中のストライカの課題。例えば往年の西ドイツの名ストライカ爆撃機ゲルト・ミュラーは、シュートのタイミングを一瞬遅らせてボテボテのシュートを決めるのが格段に上手だった。最近ではフィリッポ・インザギの落ち着いてGKのタイミングを外すシュートを覚えている方も多かろう。しかし、この君の一撃は、行動を遅らせるのではなく、早めることでGKの意表をついてしまったもの。
あるいは遠藤保仁のコロコロPK。落ち着いたアプローチでGKの体重移動を見据えて動けない方に押し出すのが見事だった。ただし、遠藤のこの名人芸はPKと言う止まったプレイでのこと。しかし、君はトップスピードで外に開きながら、GKを無力化する技巧と判断を発揮してくれた。もちろんあのキックを枠に飛ばすフィジカルの充実と技術もすごい。しかし、シレーアとの駆け引きを行いながら、タイミングを早めるという発想に感嘆した。あれはどんな名DFや名GKでも防げない。言わば「動的なコロコロ」とでも呼ぼうか。
さらに上記した90年大会準決勝のやはりイタリア戦、カニージャのゴール。得点までの経緯は比較的単純。君が左サイドに進出したオラルティコエチアに展開、切り返したオラルティコエチアのニアへのクロスをカニージャがヘッドでGKゼンガの鼻先で方向を変えて決めたもの。ただ、フランコ・バレシが率いるこの大会のイタリアの守備の堅牢さは尋常なものではなかった。1次ラウンドから準々決勝まで5試合で無失点。このイタリア守備が、こんな簡単な攻撃でどうして崩れたのか。私はこの得点が決まるゴール裏で観戦していたのだが、よく理解できなかった。
後日、VTRを幾度か見て、ようやく理解できた。イタリアのDF陣はフェリ、ベルゴミ、若きマルディニと言った柔軟性と強さと読みに秀でたDFがペナルティエリア内を固めていた。そして、一番危ない場所をフランコ・バレシが埋める。ところが、オラルティコエチアに展開した直後、君はウロウロとイタリアペナルティエリアに進出する。フランコ・バレシは幾度も首を振りながら、君とボールを視野に入れながら引く。結果的にフェリやベルゴミが固め切れないニアのスペースが空いてしまった。そこはフランコ・バレシが埋めるべき場所だったのだが。
得点を奪うために、攻撃のトップスタアが下がったり開いたりして敵の守備者を惹きつけると言うのは古典的な作戦だ。岡崎慎司が自分のマーカと他のDFと一緒に絡むとか、大久保嘉人が突然ペナルティエリアに進出をやめてマークを外しこぼれ球を狙うとか。しかし、こう言った陽動動作は敵DFの読みが格段だと「無視する」と言うやり方で無力化されてしまう。しかし、この時の君の「ウロウロ前進」は無視するわけにはいかず、バレシにもどうにも防ぎ難いものだった。あのような位置取りの発想は、一体どうやって出てきたのだろうか。
サッカーの個人能力向上の秘訣は単純だ(もちろん、その実現はとても難しいのだけれども)。
ピッチ上で行われることを想定し、執拗な反復練習を繰り返し、その技術をいつでも披露できるようにするしかない。そうやって練習で自分で作り上げた引き出しを、試合本番で局面局面の判断から選択し、丁寧にしかし高速で実現する。どんなレベルでも、それは変わりない。
けれども、上記の攻撃創造力(言い換えれば「瞬時の時空判断力」とでも言おうか)を、君はどうやって築き上げたのだろうか。あんなアイデアは、どんな指導者も教えることはできない。また、ここ10年ならば、インタネットを活用すれば過去の名プレイをいくらでも映像で堪能できるが、君が自らを育んだ70年代は家庭用VTRも普及していないし、TVも多チャンネル化していない。先達のプレイを学ぶ機会も限定的だった。まして、君が次々に見せてくれた攻撃創造力を教えられる指導者など、世界中どこを探してもいやしない(ペレやヨハン・クライフならいざ知らず)。ブエノスアイレスのストリートサッカーで、ピーター・シルトンやガエタノ・シレアやフランコ・バレシの意表を突く信じ難いアイデアを育んだのだろうか。
アルゼンチンとナポリのサポータからすれば、なるほど君は「神」だったろう(私のような野次馬にも)。しかし、それ以外のクラブのサポータからすれば「悪魔」としか言いようのない存在だったことがよくわかる。
3.君は何者だったのか。
90年イタリアW杯。
準決勝、ナポリ、サンパオロスタジアム。アルゼンチン対イタリア。
ナポリの王様として君臨していた君が主将として率いるアルゼンチンと地元イタリアの対戦。地元サポータが他の地域ほどアズーリを応援しなかったのが、この試合のイタリアの敗因と見る向きが多いようだ。
しかし、私にはとてもそうは思えなかった。確かに他の都市で感じたアルゼンチンあるいは君に対する圧倒的な敵対感はなかった。けれども、私の周りのイタリア人たちは当たり前のように、イタリアを応援していた。ただし、君の一挙手一投足を恐れ、何か君が能動的仕掛ける度に、嘆息の雰囲気は濃厚だった。言葉にならない恐怖感とでも呼んだらよいのだろうか。
さらに余談。スケールはちょっと違うが、私は当時のナポリの方々と同じ経験を味わったことがある。2011年9月、埼玉スタジアムでのブラジルW杯予選北朝鮮戦。北朝鮮の中盤には梁勇基がいたのだ。いつも私に最高の歓喜を提供してくれている梁が敵の攻撃の中核として攻め込んでくる。人生最高の恐怖感だったかもしれない。
PK戦終了後…試合中は私の真後ろで、声を枯らして「いたーりゃ、いたーりゃ」と絶叫していたおじさんの試合直後の絶望的表情は何とも言えないものだった。いや、きっと85年のソウルや、93年のドーハや、02年の利府や、18年のロストフ・ナ・ドヌの私も同じだったでしょうが。
決勝、ローマ、オリンピコスタジアム。アルゼンチン対西ドイツ。
驚いたのは試合終了後。西ドイツ選手が歓喜の渦に包まれる中、涙を流す君がオーロラビジョンに大写しになる。この瞬間、ローマ・オリンピコの満員の観衆は皆盛大なブーイングを行った。86年メキシコ以降、欧州の多くの試合で君がブーイングに包まれることはよく知っていた。この大会でも君はボールを持つ度に、ブーイングに包まれていた。しかし、それは試合中のことだ。試合中のサポータのブーイングは、恐怖と尊敬の表現でもある。しかし、この決勝終了後のブーイングは、明らかな悪意、軽蔑、嫌悪を表したものだった。ナポリを除くイタリア中が君に対し「ざまあみろ!」と言っているような思いを抱いた。さすがに驚いた。「君はここまで嫌われているのか」と。彼らにとって、君は神ではなく悪魔だったのだろう。悪魔の絶望的な表情は、多くの人々の歓喜だったのだ。
君が亡くなった後の報道。何より違和感を持ったのは、君は反体制の闘士であったとか、権威におもねらない庶民の味方であったとか。そのような報道を見聞きすればするほど私は違和感を持つのだ。
過去の報道を見る限りでは、君は人間として立派な人だったとはとても思えない。ただただサッカー選手としての能力に恵まれ、それでわがままな行動を許された。結果、不道徳な振る舞いは枚挙に暇ない。ただそういう男だったとしか思えないのだ。
ただし、私は君の友達でも何でもない。だから、君がどんなに道徳的に不適切なことをしてしまったとしても、私は困りはしない。私にとって君は、ピッチ上で信じ難い舞いを見せてくれる、空前のサッカー選手だった。そして上記したようにその能力は本当に素晴らしいものだった。
95年ソウル、五輪スタジアムの、ボカ対韓国代表戦に戻ろう。
私はこの試合、78年大会アルゼンチンに女性1人で降り立ちレオポルド・ルーケが若きプラティニを絶望に追い込んで以来の筋金入りのアルゼンチンフリークGKさんと、86年大会10代でメキシコに参戦し以降の君のW杯全試合を応援しているディエゴ狂のCちゃんと、3人で観戦していた。
89分、君は交代した。おそらく、試合直後の混乱を避けるため終了直前の交代は事前に決められていたことだろう。ピッチを去る君に向ってスタンディングオベーション。10万人の大観衆の誰よりも早く始めたのは、我々3人だった。
この25年前が、私にとって君との別れだったのだ。むしろ、その後25年生き続けてくれたことに感謝したい。たとえ、世界中におもしろいニュースを発信するおじさんだったとしても、君の報道は読むのは楽しかった。過去の栄光と比較したほろ苦さと共に。
歓喜と悲嘆、美しさと醜さ、正しいのか誤っているのか、そして君のことを好きか嫌いか。おそらく、ホモサピエンスの有史上に君ほどに、世界中の人に「何か」を提供した人はいない。
しょせんサッカーさ。負けたところで命や豊さや今の生活を失うわけではない。けれども、耐え難いほどに胸が張り裂けそうな悲しい思いを味わうことができる。勝てばこれ以上ない喜びを堪能することができるのだが。サッカーはそれほどすばらしいものだ。
君と私は、同年同月生まれ。毎年同じ年齢を刻むのを楽しみにしていたが還暦が最後になったわけだ。君と同時代を歩むことができて、とてもとても楽しかったよ。
すべての一挙手一投足の思い出に献杯、いや君に暗い感情は似合わないな。乾杯。
ゆっくり、天国で(地獄かもしれないな)休んでください。
ありがとうございました。