2021年02月28日

心揺さぶられる同点劇

 サンフレッチェ広島1-1ベガルタ仙台。
 2021年シーズン開幕戦、ベガルタは島尾摩天を退場で失い、直後に先制を許し、60分以上を10人で戦う苦しい試合展開。スゥオビィクの再三の神守備を含め丹念に守り、終了間際に血だらけで奮戦した大老関口訓充の抑揚がよく利いたドリブルシュートのこぼれを、直前に起用された赤崎秀平が決め、敵地で貴重な勝ち点1獲得に成功した。
 幸運に恵まれたのは間違いない、また各選手の気迫もすばらしかった。しかし、この苦しい展開の中、同点に追いつけたのは、人数が少ない展開で合理的な作戦を選択し、各選手が工夫と知性の限りを尽くして戦ったからだ。運や精神力でこの試合を語るべきではない。

 序盤、敵地での試合ゆえ、後方に重心を置いて試合に入る。サンフレッチェは相変わらずボールを奪われてからの切り替えが早く、中々抜け出せない。それでも、上原力也と関口訓充の上下関係から次第に両翼から攻め込みの時間帯も増えていく。特に左サイドに起用された秋山陽介と氣田亮平が意欲的で、幾度かおもしろい場面を作りかける。ただ、トップの皆川佑介が広島CBの荒木隼人と佐々木翔の厳しいマークに沈黙。前線で起点を作れないことあり、川辺駿の落ち着いた読みと持ち出しから速攻を幾度か許すイヤな展開。28分の島尾の退場時も類似の流れからだった。ジュニオール・サントスの鋭い技巧からアピアタウィア久が抜かれ、完全に裏を突かれかけたところで、島尾らしい決断力あふれるスライディングを試みたがボールに触り切れず、一発退場となってしまった。
 手倉森監督は、中盤の吉野恭平を最終ラインに下げ、トップ下の関口をボランチに下げる修正で前半を乗り切ろうとした。しかし、33分青山敏弘の好技から、J・サントスが見事なターン、上原が振り切られ、カバーしていた吉野が詰めを躊躇した瞬間、思い切りのよいシュートを打たれ、吉野に当たったボールは、スゥオビィク懸命のセーブも届かないところに飛んでしまった。少しでも長い時間0-0で試合を進めたいベガルタにとっては痛い失点となった。

 後半頭から、松下佳貴を氣田に代えて投入。関口を左サイドに回す。1人足りない状況でリードされている以上は、まずこれ以上点差を広げられないことが重要。突破力ある選手に代えて展開力あるタレント入れる手倉森氏の意図は、よく理解できた。
 1人少ないためブロックを固めれば、それなりに守れる。しかし、ボールキープして敵陣に持ち出すと、前半同様最前線の皆川が持ちこたえることができず、逆に青山と川辺の展開から速攻を許し幾度も危ない場面を作られた。それでもベガルタ各選手は素早い戻りで対抗、ジュニオール・サントスに突破を許しても、スウオビィクが神がかりのセーブを見せる。関口が出血し治療していた時間帯は9対11となり、さすがに危なかったが何とかしのぐ。
 62分、とうとう手倉森氏は皆川をあきらめ石原崇兆を起用し、マルティノスをトップに。この変更はうまくいった。両サイドの石原と関口は巧みにポジションを絞り中盤のボールキープをサポート。マルティノスは前後左右に動きながらとりあえず時間を作ることには成功した。その後も、手倉森氏は79分に秋山→真瀬拓海、87分に吉野→平岡康裕、マルティノス→赤崎とフレッシュな選手を次々に起用する。
 一方で、サンフレッチェ城福監督は選手交替は2枚のみ。これは、幾度も好機をつかみ、佐々木と荒木の2CBの激しい守備で決定機をほとんど許していなかったこともあったのだろうか。さらにサンフレッチェが終盤リードを守ろうとしたのか、重心を後方に置いたこともあり、終盤ベガルタのパス回しが機能する。
 同点劇直前は、平岡→石原→松下と鋭いパスがつながり、左タッチ沿いから中央を向き加速した関口に、松下らしい強さと方向が絶妙なパスが通る。トップの赤崎、右MFの真瀬の2人が右から左に流れ、関口のシュートスペースが空く。こぼれを赤崎が冷静に蹴り込んだ。
 苦しい状態が続く中、全選手が創意工夫と我慢を重ね、とうとう勝ち点1を確保したわけだ。誠にめでたい。

 もちろん、課題も多数見られた。

 皆川がサンフレッチェCBに完封され、ほとんどキープができなかったのは痛かった。このポジションには、同点弾を決めた赤崎と昨年のレンタルから保有権所有となった西村拓真がいるが、皆川が機能するかどうかで、攻撃の選択肢が大きく左右する。もちろん、1試合のプレイの出来で判断すべきではないし、50分過ぎに蜂須賀のクロスからの皆川のジャンプボレーにはワクワクしたのも確かだ。奮闘を期待したい。

 守備面では小さなミスが気になった。
 島尾の退場となった後方からのタックルは、いかにもこの選手らしい素早い決断によるものだったし、本人はボールに行ける自信があったのだろう。まあ、しかたないなと思う。むしろ問題は、その直前にアピアタウィアが、J・サントスのスピードの変化に出し抜かれたこと。ここは猛省してほしい。
 失点時の吉野にも不満。J・サントスが見事なターンでマークしていた上原を振り切った瞬間、もう一歩でも二歩でも寄せられなかったものか。
 86分のスゥオビィクの超美技。ベガルタ左サイドが崩され、柏が冷静にファーサイドに走り込んだ東にピタリとクロスを合わせた場面。左サイドでサンフレッチェが巧みなパス回しを見せたところで、右MFの真瀬は完全にボールウォッチャになってしまい、後方から進出する東に気がつかなかった。ここは一度でよいから首を振り、東の進出に気がついてほしかったのだが。
 もちろん、アピアタウィアも吉野も真瀬もすばらしいプレイを見せてくれたからの同点劇ではあった。ただ、上位進出を目指そうと言うからには、このような小さな判断ミスを極力最小にできるかどうかが重要なのだ。

 次節はホームにチャンピオンのフロンターレを迎える。相当難しい試合にはなるだろう。
 前半半ばの退場劇もあり、チームとしての完成度の評価が難しい。しかし、新加入の選手の多くが機能し、既存の選手たちも特長をよく発揮しての勝ち点1獲得は非常に大きい。
 次節もよい結果を期待したい。
posted by 武藤文雄 at 23:54| Comment(1) | Jリーグ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年02月27日

Jリーグが開幕する、2021年

 Jリーグが開幕する。

 極めて難しいシーズンが始まる。
 J1は、20チーム総当たり、4チームの自動降格と言うレギュレーション、J2は22チーム、2チーム自動昇格、4チーム自動降格。
 昨シーズン開幕早々に疫病禍に襲われたJリーグ、降格なしと言うレギュレーションで何とかシーズンを終えることができた。その結果、今シーズンは格段に過酷なものとなってしまった。チーム数が多いのみならず、開催されるのかされないのか未だ不明な東京五倫、相当の変則日程で集中開催となるであろうACL、さらにはカタールワールドカップ予選が乱入してくる。加えて、各クラブは昨シーズン同様にきめ細かな疫病対策を余儀なくされる。
 過密日程を含め、過去にないスリルを含んだ楽しいリーグ戦になるのかもしれない。戦闘能力の争いに加え、過密日程と疫病対応と言った運不運と言うスパイス。

 さて、私のベガルタ。
 昨シーズン下位に低迷したこともあり、前評判は高いものではない。多くの評論家が顧客候補の一角とみなしているようだ。しかし、私はそれなりに楽観的だ。
 過去3シーズンをちょっと振り返ってみる。
 18年シーズンは、渡邉前監督がじっくりと作り込んだシステマチックなパス回しが奏功、上位進出が期待されたが終盤失速。それでも、天皇杯決勝進出、魅力的なサッカーを楽しむことができた。
 しかし19年シーズン序盤、中心選手の離脱もありチームは低迷。シーズン途中に守備的なシフトに切り替え残留を果たした。シーズン終了時に渡邉氏が「時計を後に戻してしまった」とコメントを残し退任。ただし私の印象は少々異なる。島尾摩天と言う強力な守備者を軸に、理詰めの長駆型逆襲を成功させられるようなチームになっていたからだ。
 J2で格段の実績を誇る木山氏を新監督に迎えた昨シーズン。シーズンを通してあれだけ負傷者が続出してしまってはどうしようもなかった。もちろん、負傷者続出そのものがクラブとしての実力なのだが。それでも、終盤中心選手が復調するや、それなりの戦いができるようになった。木山氏の丹念なチーム作りと、選手達の精神力の強さに感謝するものである。結果はつらいものだったけれど。

 そして、今シーズン前のオフ。疫病禍の影響もあり経営危機が伝えられ、多くの選手の放出を余儀なくされるのではないかと危惧された。実際、オフに入って早々、中核の長沢駿、椎橋慧也の離脱が報道された。しかし結果を見ればヤクブ・スゥオビイク、島尾、松下佳貴、蜂須賀孝治、イザック・クエンカと言った中心選手は残留。CKSAモスクワに所有権があった西村拓真の保有権再確保。さらにクエンテン・マルティノス、上原力也、秋山陽介、氣田亮真と言った相応の実績を積み上げたタレント補強に加え、アピアタウィア久、真瀬拓海、加藤千尋の大卒選手の獲得。
 さらに名将手倉森誠氏の監督復帰。氏の采配により、ベガルタがACL出場できたこと、リオ五輪予選を鮮やかに勝ち抜いたことは、記憶に新しい(もっともリオ五輪本大会では采配に凝り過ぎて墓穴を掘ったが、それはそれで手倉森氏らしいなと)。
 気がついてみれば、ここ数シーズンでは最強ではないかと思える体制が揃っているではないか。最前線やサイドバックの選手層に少々不安はあるが、そんな贅沢を言える立場でないのは皆がわかっている。佐々木新社長を軸とするフロントが、ここまで健闘してくれたことに敬意を表するものである。

 Jリーグが開幕する。

 ただ、世紀近くサッカーを堪能してきた老サポータにとって、疫病禍の影響と昨今の変化は少々飲み込みがたいものあるのは事実だ。
 疫病禍により、現地参戦しても声を出せないつらさを我慢する必要がある。水際ったプレイをした選手を絶叫で声援できないことが、かくもつらいものだとは思いもしなかった。この半世紀、私にとってサッカー参戦は絶叫とともにあったのだ。
 昨シーズンからの疫病禍対応もあり、過密日程のせめてもの緩和に交代可能人数が大幅に増えている。これはこれでなじみがたい。どんな鍛え抜かれた選手でも、90分と言う時間は大変な長丁場。そこに少数のフレッシュな選手が起用されることによる変化がサッカーの妙味だった。終盤、フィールドプレイヤの半分の顔ぶれが変わることが許されるレギュレーションは大きな違和感となっている。
 そしてVAR。FIFAが導入した愚策は枚挙に暇ないが、VARはその中でも最低のものだと思っている。映像を主審が見直すことで公平性が保てるわけがない。そんなに正確な判定をしたいならば、各選手に多数のセンサでもつけて、AIを駆使して、人為的な判定ミスを排除でもしてくれ。
 そうは言っても。サッカーはサッカーなのだ。サッカーがサッカーである以上、これほど楽しい娯楽はない。

 Jリーグが開幕する。

 繰り返すが、半世紀にわたりたっぷりとサッカーを楽しんできた。いつもいつも語っているが、こんなステキなリーグ戦を所有できるなんて、若い頃は夢にも思わなかった。故郷のクラブの七転八倒を毎週堪能できるなんて、若い頃は夢にも思わなかった。
 そして、今シーズン、冒頭で述べた通り、戦闘能力の争いに加え、過密日程と疫病対応と言った運不運と言うスパイス。今シーズンほど、サッカーをサッカーとして楽しめるシーズンは初めてかもしれない。

 とにかく。
 無事にリーグ戦が完了できますように…
posted by 武藤文雄 at 01:12| Comment(1) | Jリーグ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年02月24日

名手たちとの別れ2021

 毎シーズンの常とは言え、愛するクラブを去る選手たちが何人もいる。新たなシーズンを迎える高揚感と共に、去った名手たちを思い起こすのも、シーズンオフの楽しみだ。

 関憲太郎は、ベガルタの歴史上忘れることのできないゴールキーパーだ。
 落ち着いたボールさばきと、距離は出ないが正確なフィード、見ていて安心できるゴールキーパーだった。たしかにキーパとしては小柄で、跳躍力に限界があったためかミドルシュートの処理には不満があった。けれども、よほど鍛錬を重ねたのだろう、高いボールへの判断は絶品で、敵の中途半端なクロスへの対応は実にしっかりしていた。
 明治大からベガルタに加入したのが2008年シーズン、あの磐田の夕暮れのシーズンだ。当時ベガルタには林卓人がいたこともあり、定位置奪取は難しく横浜FCにレンタルとなる。13年にベガルタに復帰、翌14年シーズンに林が移籍したこともあり定位置を獲得。以降、六反勇治、シュミット・ダニエルと言った新加入の選手と、激しく定位置争いを演じた。その激しい定位置争いの中、六反やシュミットは能力を向上させ日本代表候補に選出される。18年にはシュミットはとうとう代表に定着、アジアカップで公式戦にも出場、19年には欧州に旅立つこととなった。昨シーズンは、シュミットと入れ替わるように加入したヤクブ・スウォビイク、さらにユースから昇格した小畑裕馬と、さらに強力なライバルの登場で控えにはいることも少なくなり、ついにベガルタを去ることとなった。
 新たなクラブはレノファ山口、関が激しい定位置争いを演じた際のベガルタ監督渡邉氏が采配を振るクラブだ。関のさらなる活躍を期待したい。
 改めて、関の経歴を振り返り、林、六反、シュミット、スウォビイク、小畑と言った好ゴールキーパを所有できたのは、関がいたからではないかと思う。関がいたからこそ、こう言ったライバル達はその潜在能力を十分に伸ばすことができたのだ。ゴールを守ると言う直接的な貢献と合わせ、チームを支えたという意味では、ブランメル時代を含めたベガルタ仙台の歴史上最高のゴールキーパは関だったと思っている。
 ベガルタは、昨シーズン終了前に関とは再契約しない旨を発表した。ユアテックでの最終節、我々の前で挨拶してくれた関に対し、疫病禍下の我々は感謝の絶叫をすることができなかった。これは大きな悔いとなっている。

 サッカーどころ清水で生まれ育った192cmの大型ストライカ長沢駿は、エスパルスを皮切りに多くのクラブに所属し、30歳でベガルタにたどりついた。独特のボール扱いと、純粋な高さを活かしたこのストライカは、ガンバで点取り屋として確立した感があった。しかし、ベガルタで長沢はさらに成長してくれた。豊富な運動量での忠実な守備を行いながら、しっかりと点をとるスタイルが確立したのだ。
 最近のサッカーでは、最前線の選手を起点とした組織的守備がチームの命運を左右する。戦闘能力が低く、相手チームに主導権を奪われるチームにおいては、最前線の選手の負担は非常に大きなものとなる。
 特に昨シーズンのベガルタは負傷者が続出し、その傾向は強かった。そのような環境下で、長沢はリーグ終盤次々と点を決めてくれた。
 敵陣での献身的な守備と得点。前者に体力を費やしてしまうと、後者で力を発揮できない。前者をサボると、反対側のゴールネットを揺らされてしまい、後者で何をがんばってもむなしい結果しか残らない。昨シーズン終盤、長沢はそのバランスを完璧に演じてくれた。執拗な守備を行いながら、しっかりと得点を決めてくれたのだ。その絶妙なバランス。
 このまま、長沢はベガルタで献身と得点のバランスを極めてくれると期待していた。
 トリニータへの移籍と聞いて「やられた」と思った。ベガルタと同程度の経済規模のクラブならば、長沢は大エースだ。ベガルタよりも良好な経済的条件を提示されれば、そちらを選択するのは当然だろう。
 一方で、トリニータやベガルタよりも経済規模が大きなクラブからのオファーならば、長沢も迷ったと思う。32歳の長沢にとって、バックアッパーとしてのオファーは魅力的ではない。
 ではベガルタの長沢へのオファーが不適切だったのか。これは何とも言えない。スウォビイクと島尾摩天と松下佳貴とクエンカと蜂須賀孝治らへのサラリーとのバランスとなる。
 この2シーズンの長沢のすばらしいプレイに感謝したい。

 ベガルタの中盤を支えてきた椎橋慧也はレイソルに移籍する。
 他のクラブのサポーターからは笑われるかもしれないが、ベガルタと言うクラブは高卒で加入した選手が定位置を確保した事例は少ない。過去10年を振り返っても、椎橋と先般CKSAモスクワから復帰した西村拓真くらい。私たちにとって椎橋は、本当に貴重なタレントだったのだ。
 ただし、椎橋はここまで順調に成長したわけでもない。2018年シーズン、椎橋はアンカーとして3DFを基調にしていたチームの中心選手として、天皇杯決勝進出などに貢献した。ところが2019年シーズンは開幕直前に負傷したこともあり、定位置を失いシーズンを通し控えにとどまった。2020年シーズンは、負傷者が相次ぎ猫の目のように出場選手が入れ替わる展開の中、ほぼシーズンを通して中心選手として活躍してくれた。
 元々、運動量とボール奪取力には定評があったが、ボールの散らしや縦への展開も着実に成長している。もちろん、まだまだ課題もあり、特に相手チームのペースになりチーム全体が落ち着きを失った状況で立て直せるほどの存在感は示せていない。
 常識的に考えれば、それなりの移籍金を残してくれたことだろう。そして、レイソルからは大谷秀和の後継者との期待も感じられる。大成を期待したい。

 その他にも、このシーズンオフ、ベガルタを去る選手は多い。
 キムジョンヤと兵藤慎剛の両ベテランがチームを去るのは、チーム編成上の問題だろうか。この2人は存在感は格段で、起用されれば格段のプレイを見せてくれていた。キムジョンヤの落ち着いた守備と正確なフィード、兵藤の精力的な運動量と展開、いずれもとても魅力的だった。ありがとうございました。
 ジャーメイン良は、縦に出る速さと左利きが魅力のFWだが、3シーズンのベガルタ生活で大成はできなかった。そろそろ河岸を変える選択は妥当かもしれない。

 このオフには、他にも多くの選手がベガルタを去った。多くの選手が新たにやってきた。
 別れと時代を繰返し、時代はめぐるのだ。
 そして新たなシーズンが始まろうとしている。
posted by 武藤文雄 at 23:26| Comment(0) | Jリーグ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年02月11日

川淵さん、この仕事はあなたには向いていません

 川淵三郎氏が、東京五輪の組織委員会会長に就任するらしい。私は憂いている、過去多くのことをなしとげてきたこの元日本サッカー協会会長だが、この仕事は向いていない。下手をすると、氏の晩節を汚すものにもなりかねないと。
 私の心配の理由は明白だ。川淵氏は「こちらに進むことが正しい」と明確な状況で、格段の推進能力を発揮し、成果を挙げてきた人だ。しかし、「どちらが正しいか不明確」な事態を軟着陸させることは不得手なのだ。そしてそう言った不明確な事案に不適切な判断をしてしまったこともまた多い。さらにその不適切な判断が明白になった後の態度は、とてもではないが褒められたものではなかった。
 疫病禍の世界の中、「やるのかやらないのか」意見が二分している東京五輪。その責任者は、典型的な「どちらが正しいか不明確」と言う仕事なのだ。繰返そう、川淵氏はこう言った「どちらが正しいか不明確」な仕事には向いていない。

 改めて、氏の業績を振り返ってみよう。
 まず言うまでもなく、Jリーグの設立である。これは、単にサッカーのプロフェッショナル化に成功しただけではない。地域密着を重視し、日本には従来定着していなかったクラブを軸にした、プロフェッショナルスポーツの確立に成功したことが重要だ。
 ただし、川淵氏の功績はJリーグの制度設計をしたことではない。制度設計をしたのは、森健兒氏や木之元興三氏だったことは、よく知られた話だ。けれども、川淵氏がいなければJリーグ設立がおぼつかなかったことは言うまでもない。既得権など多くの障害を、時には強引な手腕で取り除いていったのは川淵氏の功績だろう。
 中でも、各クラブ名から企業名を外し、地域密着を明確化することを定着させたことは、大きな功績だ。たとえば、ガンバ大阪は当初新クラブ名を「パナソニックガンバ大阪」にすると発表していた。そう言った参加クラブと所在地自治体を丁寧に説得した主役は川淵氏だった。さらにその施策に納得しなかった読売クラブの出資団体のトップと丁々発止を繰り広げたのも懐かしい。
 また、Jリーグ最初の10クラブの選択においても、氏は剛腕を発揮する。当時JSLの2部所属だった鹿島アントラーズ(当時住金)や、トップリーグでの実績がまったくない清水エスパルスを選考した政治的判断を行ったのだ。鹿島は選手ジーコを加入させ専用競技場を作りホームタウンとしての充実を訴求した。清水は、80年代以前から少年の育成プログラムを確立し優秀な選手を多数輩出しており、大人のトップチームの登場が期待されていた。これらの特殊事情を加味し、川淵氏は両クラブを選考したのだ。一方で、同様にプロ志向を持っていて両クラブより過去の実績が高かったヤマハ(現ジュビロ磐田)、フジタ(現湘南ベルマーレ)、日立(現柏レイソル)と言ったクラブが選考されなかった。しかし、結果論だが当時の政治的判断を評価すべきだろう。結果的に、鹿島、清水、磐田、湘南は後年アジアのタイトルを獲得したし、柏にしても複数回国内タイトル獲得したのみならずクラブワールドカップでも活躍、いずれも30年にわたり国内のトップクラブとしての活躍を継続しているのだから。
 チーム名と10クラブ選定は、「とにかく地域密着したプロフェッショナルリーグを成功させるべし」と、(サッカーのことを理解している人ならば)誰でも賛同する目標に向かった、川淵氏の精力的な活動の賜物だ。そして、このような強引にでもゴールを目指して突破し、ゴールネットを揺らす。これが川淵氏の最大の特長なのだ(残念ながら私は川淵氏の現役時代のプレイは知らないのだが、どうもそのような選手だったらしいが)。
 加えて、Jリーグ黎明期の成功の伏線として、技術委員長としての日本代表チームでの成功も挙げられよう。川淵技術委員長は、日本代表の初めての外国人監督としてハンス・オフト氏を招聘した。オフト氏はヤマハやマツダ(現サンフレッチェ)で見事なチーム作りを見せていた。オフト氏や、読売クラブを率いたカルロス・アルベルト・ダシルバ氏と言った外国人監督の卓越した指導実績を見れば、心あるサッカー人は皆「日本代表に優秀な外国人監督を」と願っていた。しかし、当時日本協会内には外国人に代表指揮を委ねることに反発する向きも多かったと言う。川淵氏は、そういった外野をねじ伏せ、オフト氏を招聘。直後、日本代表はダイナスティカップ(東アジア選手権の前身)、アジアカップを連続制覇。川淵氏とオフト氏は、誰も見たことのなかったアジア最強の日本代表チームを私たちに提供してくれたのだ。

 言うまでもなく、Bリーグを誕生させたのも川淵氏の功績だ。
 本件の詳細は、私の友人でもある大島和人氏の著書「B.LEAGUE誕生」を読んでいただきたい。20年にわたり混迷を継続していた日本バスケット界。川淵氏は、タスクフォースのトップ、さらには日本バスケット協会理事長として、圧倒的な行動力で問題を解決し、統合したBリーグを設立に成功した。
 この頃、日本バスケット界は完全に追い込まれていた。トップリーグが統合されていない(当時のNBLとbjリーグに分裂)ことなどを理由に、2014年11月に国際バスケットボール連盟(FIBA)より国際試合の資格停止を宣言されていた。そして、2015年8月までにその資格停止を解除できなければ、国際試合で好成績を収めている女子代表が、リオデジャネイロ五輪予選に出場できない危機を迎えていた。
 2015年1月にタスクフォースのトップに就任された川淵氏は、強引ながら見事な手腕を発揮。NBLでもbjでもない新たな第3のリーグを設立する方向で話をまとめ、8月には資格停止解除に成功した。
 女子代表はアジア予選を勝ち抜き、リオデジャネイロ五輪本戦でもベスト8進出に成功。2016年9月に開幕したBリーグは、NPB、Jリーグに次ぐ第3のプロスポーツとして成長を遂げている。
 「トップリーグ統一を具体化しなければならない(さもなければ強力な女子代表が五輪への夢を絶たれてしまう)」と言う、誰もが(バスケット好きでなくとも)解決しなければならないと思うゴールに向かい強引に突破を行い、ここでもゴールネットを揺らすことに成功した。正に川淵氏の真骨頂とも言うべき活躍だった。

 ここまで、川淵氏は「こちらに進むことが正しい」と明確な状況で、格段の推進能力を発揮した事例を述べてきた。改めて振り返ってもすばらしい実績ではないか。

 けれども、そうでない場合、「どちらが正しいか不明確」な事態への氏の対応は、必ずしも芳しいものではなかった。
 例えば、フリューゲルス消滅事件。経営危機から、当時の横浜フリューゲルスと横浜マリノスが変則合併を申請してきたことを、当時Jリーグチェアマンの川淵氏が認めてしまった事件だ。難しい判断が必要だったとは思う。しかし、当時も語ったが、「川淵氏(および氏の周辺)がサッカー的見地からしっかりした姿勢を保っていればこの事件は防ぐことはできたのではないか」との思いはぬぐえない。このような錯綜した事案については、思い切った判断より軟着陸が重要なのだ。結果、横浜フリューゲルスと言うすばらしいクラブが消滅、中途半端な合併により後継クラブも立ち上げられなくなってしまった。関係者の尽力もあり、横浜FCが立ち上がったが、以前も書いたがこのクラブは「ある意味において明確にフリューゲルスと言うクラブの後継クラブ」である。横浜FCはフリューゲルスとは別なクラブなのだ。そして、多くの人に引き裂かれそうな悲しい思いを残し、微妙な歴史を作った責任は川淵氏にある。

 日本サッカー協会会長時の業績も少々怪しい。何より、2002年ワールドカップ終了後のジーコ監督招聘周辺。川淵氏が、オフト氏招聘を行った1992年は「優秀な外国人監督を招聘すればよい」と言う時代であり、JSLで格段に実績あったオフト氏招聘は成功を遂げた。しかし、2002年ワールドカップ終了時は違っていた。「2回連続でワールドカップ出場し、地元大会で優秀な若手選手を軸に2次ラウンドまで進出した日本代表、誰を監督とするのが最適か」と言う非常に複雑な問題に最適解を求める必要があった。そして、氏はジーコ氏を選択した。
 結果的にはこの判断は失敗だった。2006年のワールドカップで日本は1次ラウンドで敗退してしまったのだから。私自身ジーコ氏招聘は失敗だったと思うが、ジーコ氏率いる日本代表は苦戦を重ねながらアジアカップを制覇したステキな思い出もあることも否定しない。まあ、代表監督選考に正解はないのだ。
 問題は2006年大会敗退後の川淵氏の振る舞いだ。氏は、ワールドカップ終了後、唐突に当時Jリーグのジェフですばらしい采配振りを見せていたイビチャ・オシム氏を強奪したのだ。川淵氏はジェフの前身古河の出身だが、このような発言をされている。
「今日、イビチャ・オシム監督と日本代表の監督としての契約をできることを非常に嬉しく思っています。その反面、千葉のチーム関係者やサポーターの皆さんには色々なご心配や、納得の行かないこともあると思いますが、オシム監督を日本代表チームに送り出してよかったと思える日が早くくることは間違いないと思っています。」

  悲しかったのはジーコ氏招聘の失敗ではない、自分の責任を取り繕うようにオシム氏の強奪に走ったことだった。

 ドーピング冤罪事件。詳細は木村元彦氏の「争うのは本意ならねど」を読んでいただくのが一番。一言で言えば、誤った報道からはじまり、関連した医師のミスから発生した事件。川淵氏は本件について不適切な収拾を行った。結果、1人のアスリートに極めて理不尽な対応をしたのみならず、日本のスポーツ医療界に不適切な事例を残しかねないまで事態を悪化させた。これは論外の失態と言えよう。川淵氏の本件に関する一連の態度は許すことのできないものだ。

 以上述べてきた通り、川淵氏は「どちらが正しいか不明確」な事態を的確に判断できる人ではない。もっとも、どんな人間だって不適切な判断をしてしまうことはある。しかし、川淵氏は、自身の不適切な判断が明白になった後の態度(あるいはその収拾策)が、自分の権力保持を目指しているとしか思えない非常に残念なものだったのだ。
 おそらくだが、この人はスポーツを愛し過ぎているのではないか。
 川淵氏は、サッカーにせよバスケットにせよ、よい意味でも悪い意味でも、スポーツがからむと格段の使命感を発揮する。まあ、目立ちたがり屋とも言うのかもしれないがw。そして、上記した論外とも言える権力獲得後の自己保身も、スポーツを愛するが故に己の権力を否定されることを恐れてのものだと思えてならない。
 そして、おそらくだが、己の過去の成功がどこにあったかは気がつかず、自分が「万能の神」と誤解しているのではないか。

 かくして私は憂慮している。「やることが正しいのか、やらないことが正しいのか、それとも延期なり異なるやり方を模索すべきなのか」どうするのが最適解なのか、誰もが判断に迷うこの疫病禍の中での東京五輪。84歳の川淵三郎氏は、およそ彼には向いていない仕事に取り組もうとしている。
 もちろん、IOC、JOC、日本政府、東京都、そういったステークホルダ間で、今夏の東京五輪は中止なり延期が合意に至っているならば、話は別だ。そこの収拾、特にアスリートへの説得や説明に、川淵氏が走り回るならば、川淵氏の一番得意な仕事となる。しかし、各種報道を読んだ限り、とてもそうとは思えない。「やるのか、やらないのか」最も厄介な意思決定はこれからなのだ。そして、幾度も繰返すが、そのような厄介な意思決定は川淵氏が最も不得手とするものだ。

 ここまで、辛辣な批判を含め、川淵氏への思いを語ってきた。
 最後にホンネを少し。私は何のかの言って、川淵氏が好きなのだ。80年代後半だったろうか、JSLの古河の試合、大雨で閑散とした競技場、偶然隣同士になって2人で傘をさして試合観ながら語り合ったのが忘れられない。「日本のサッカー、こんなにレベル上がったのに、どうしたら客が増えるだろうか」って私は尋ねた。「難しいですねえ、でも何とかしなければ」と答えてくれた川淵氏。
 川淵氏の大変な尽力で、我々はJリーグも強力な日本代表チームを入手した。ドーピング事件は許せないが、氏の過去の栄光には感謝の気持ちが大きいのだ。
 だからこそ、川淵氏に言いたい。この仕事は引き受けるべきはないと。
posted by 武藤文雄 at 23:30| Comment(6) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする