私の心配の理由は明白だ。川淵氏は「こちらに進むことが正しい」と明確な状況で、格段の推進能力を発揮し、成果を挙げてきた人だ。しかし、「どちらが正しいか不明確」な事態を軟着陸させることは不得手なのだ。そしてそう言った不明確な事案に不適切な判断をしてしまったこともまた多い。さらにその不適切な判断が明白になった後の態度は、とてもではないが褒められたものではなかった。
疫病禍の世界の中、「やるのかやらないのか」意見が二分している東京五輪。その責任者は、典型的な「どちらが正しいか不明確」と言う仕事なのだ。繰返そう、川淵氏はこう言った「どちらが正しいか不明確」な仕事には向いていない。
改めて、氏の業績を振り返ってみよう。
まず言うまでもなく、Jリーグの設立である。これは、単にサッカーのプロフェッショナル化に成功しただけではない。地域密着を重視し、日本には従来定着していなかったクラブを軸にした、プロフェッショナルスポーツの確立に成功したことが重要だ。
ただし、川淵氏の功績はJリーグの制度設計をしたことではない。制度設計をしたのは、森健兒氏や木之元興三氏だったことは、よく知られた話だ。けれども、川淵氏がいなければJリーグ設立がおぼつかなかったことは言うまでもない。既得権など多くの障害を、時には強引な手腕で取り除いていったのは川淵氏の功績だろう。
中でも、各クラブ名から企業名を外し、地域密着を明確化することを定着させたことは、大きな功績だ。たとえば、ガンバ大阪は当初新クラブ名を「パナソニックガンバ大阪」にすると発表していた。そう言った参加クラブと所在地自治体を丁寧に説得した主役は川淵氏だった。さらにその施策に納得しなかった読売クラブの出資団体のトップと丁々発止を繰り広げたのも懐かしい。
また、Jリーグ最初の10クラブの選択においても、氏は剛腕を発揮する。当時JSLの2部所属だった鹿島アントラーズ(当時住金)や、トップリーグでの実績がまったくない清水エスパルスを選考した政治的判断を行ったのだ。鹿島は選手ジーコを加入させ専用競技場を作りホームタウンとしての充実を訴求した。清水は、80年代以前から少年の育成プログラムを確立し優秀な選手を多数輩出しており、大人のトップチームの登場が期待されていた。これらの特殊事情を加味し、川淵氏は両クラブを選考したのだ。一方で、同様にプロ志向を持っていて両クラブより過去の実績が高かったヤマハ(現ジュビロ磐田)、フジタ(現湘南ベルマーレ)、日立(現柏レイソル)と言ったクラブが選考されなかった。しかし、結果論だが当時の政治的判断を評価すべきだろう。結果的に、鹿島、清水、磐田、湘南は後年アジアのタイトルを獲得したし、柏にしても複数回国内タイトル獲得したのみならずクラブワールドカップでも活躍、いずれも30年にわたり国内のトップクラブとしての活躍を継続しているのだから。
チーム名と10クラブ選定は、「とにかく地域密着したプロフェッショナルリーグを成功させるべし」と、(サッカーのことを理解している人ならば)誰でも賛同する目標に向かった、川淵氏の精力的な活動の賜物だ。そして、このような強引にでもゴールを目指して突破し、ゴールネットを揺らす。これが川淵氏の最大の特長なのだ(残念ながら私は川淵氏の現役時代のプレイは知らないのだが、どうもそのような選手だったらしいが)。
加えて、Jリーグ黎明期の成功の伏線として、技術委員長としての日本代表チームでの成功も挙げられよう。川淵技術委員長は、日本代表の初めての外国人監督としてハンス・オフト氏を招聘した。オフト氏はヤマハやマツダ(現サンフレッチェ)で見事なチーム作りを見せていた。オフト氏や、読売クラブを率いたカルロス・アルベルト・ダシルバ氏と言った外国人監督の卓越した指導実績を見れば、心あるサッカー人は皆「日本代表に優秀な外国人監督を」と願っていた。しかし、当時日本協会内には外国人に代表指揮を委ねることに反発する向きも多かったと言う。川淵氏は、そういった外野をねじ伏せ、オフト氏を招聘。直後、日本代表はダイナスティカップ(東アジア選手権の前身)、アジアカップを連続制覇。川淵氏とオフト氏は、誰も見たことのなかったアジア最強の日本代表チームを私たちに提供してくれたのだ。
言うまでもなく、Bリーグを誕生させたのも川淵氏の功績だ。
本件の詳細は、私の友人でもある大島和人氏の著書「B.LEAGUE誕生」を読んでいただきたい。20年にわたり混迷を継続していた日本バスケット界。川淵氏は、タスクフォースのトップ、さらには日本バスケット協会理事長として、圧倒的な行動力で問題を解決し、統合したBリーグを設立に成功した。
この頃、日本バスケット界は完全に追い込まれていた。トップリーグが統合されていない(当時のNBLとbjリーグに分裂)ことなどを理由に、2014年11月に国際バスケットボール連盟(FIBA)より国際試合の資格停止を宣言されていた。そして、2015年8月までにその資格停止を解除できなければ、国際試合で好成績を収めている女子代表が、リオデジャネイロ五輪予選に出場できない危機を迎えていた。
2015年1月にタスクフォースのトップに就任された川淵氏は、強引ながら見事な手腕を発揮。NBLでもbjでもない新たな第3のリーグを設立する方向で話をまとめ、8月には資格停止解除に成功した。
女子代表はアジア予選を勝ち抜き、リオデジャネイロ五輪本戦でもベスト8進出に成功。2016年9月に開幕したBリーグは、NPB、Jリーグに次ぐ第3のプロスポーツとして成長を遂げている。
「トップリーグ統一を具体化しなければならない(さもなければ強力な女子代表が五輪への夢を絶たれてしまう)」と言う、誰もが(バスケット好きでなくとも)解決しなければならないと思うゴールに向かい強引に突破を行い、ここでもゴールネットを揺らすことに成功した。正に川淵氏の真骨頂とも言うべき活躍だった。
ここまで、川淵氏は「こちらに進むことが正しい」と明確な状況で、格段の推進能力を発揮した事例を述べてきた。改めて振り返ってもすばらしい実績ではないか。
けれども、そうでない場合、「どちらが正しいか不明確」な事態への氏の対応は、必ずしも芳しいものではなかった。
例えば、フリューゲルス消滅事件。経営危機から、当時の横浜フリューゲルスと横浜マリノスが変則合併を申請してきたことを、当時Jリーグチェアマンの川淵氏が認めてしまった事件だ。難しい判断が必要だったとは思う。しかし、当時も語ったが、「川淵氏(および氏の周辺)がサッカー的見地からしっかりした姿勢を保っていればこの事件は防ぐことはできたのではないか」との思いはぬぐえない。このような錯綜した事案については、思い切った判断より軟着陸が重要なのだ。結果、横浜フリューゲルスと言うすばらしいクラブが消滅、中途半端な合併により後継クラブも立ち上げられなくなってしまった。関係者の尽力もあり、横浜FCが立ち上がったが、以前も書いたがこのクラブは「ある意味において明確にフリューゲルスと言うクラブの後継クラブ」である。横浜FCはフリューゲルスとは別なクラブなのだ。そして、多くの人に引き裂かれそうな悲しい思いを残し、微妙な歴史を作った責任は川淵氏にある。
日本サッカー協会会長時の業績も少々怪しい。何より、2002年ワールドカップ終了後のジーコ監督招聘周辺。川淵氏が、オフト氏招聘を行った1992年は「優秀な外国人監督を招聘すればよい」と言う時代であり、JSLで格段に実績あったオフト氏招聘は成功を遂げた。しかし、2002年ワールドカップ終了時は違っていた。「2回連続でワールドカップ出場し、地元大会で優秀な若手選手を軸に2次ラウンドまで進出した日本代表、誰を監督とするのが最適か」と言う非常に複雑な問題に最適解を求める必要があった。そして、氏はジーコ氏を選択した。
結果的にはこの判断は失敗だった。2006年のワールドカップで日本は1次ラウンドで敗退してしまったのだから。私自身ジーコ氏招聘は失敗だったと思うが、ジーコ氏率いる日本代表は苦戦を重ねながらアジアカップを制覇したステキな思い出もあることも否定しない。まあ、代表監督選考に正解はないのだ。
問題は2006年大会敗退後の川淵氏の振る舞いだ。氏は、ワールドカップ終了後、唐突に当時Jリーグのジェフですばらしい采配振りを見せていたイビチャ・オシム氏を強奪したのだ。川淵氏はジェフの前身古河の出身だが、このような発言をされている。
「今日、イビチャ・オシム監督と日本代表の監督としての契約をできることを非常に嬉しく思っています。その反面、千葉のチーム関係者やサポーターの皆さんには色々なご心配や、納得の行かないこともあると思いますが、オシム監督を日本代表チームに送り出してよかったと思える日が早くくることは間違いないと思っています。」
悲しかったのはジーコ氏招聘の失敗ではない、自分の責任を取り繕うようにオシム氏の強奪に走ったことだった。
ドーピング冤罪事件。詳細は木村元彦氏の「争うのは本意ならねど」を読んでいただくのが一番。一言で言えば、誤った報道からはじまり、関連した医師のミスから発生した事件。川淵氏は本件について不適切な収拾を行った。結果、1人のアスリートに極めて理不尽な対応をしたのみならず、日本のスポーツ医療界に不適切な事例を残しかねないまで事態を悪化させた。これは論外の失態と言えよう。川淵氏の本件に関する一連の態度は許すことのできないものだ。
以上述べてきた通り、川淵氏は「どちらが正しいか不明確」な事態を的確に判断できる人ではない。もっとも、どんな人間だって不適切な判断をしてしまうことはある。しかし、川淵氏は、自身の不適切な判断が明白になった後の態度(あるいはその収拾策)が、自分の権力保持を目指しているとしか思えない非常に残念なものだったのだ。
おそらくだが、この人はスポーツを愛し過ぎているのではないか。
川淵氏は、サッカーにせよバスケットにせよ、よい意味でも悪い意味でも、スポーツがからむと格段の使命感を発揮する。まあ、目立ちたがり屋とも言うのかもしれないがw。そして、上記した論外とも言える権力獲得後の自己保身も、スポーツを愛するが故に己の権力を否定されることを恐れてのものだと思えてならない。
そして、おそらくだが、己の過去の成功がどこにあったかは気がつかず、自分が「万能の神」と誤解しているのではないか。
かくして私は憂慮している。「やることが正しいのか、やらないことが正しいのか、それとも延期なり異なるやり方を模索すべきなのか」どうするのが最適解なのか、誰もが判断に迷うこの疫病禍の中での東京五輪。84歳の川淵三郎氏は、およそ彼には向いていない仕事に取り組もうとしている。
もちろん、IOC、JOC、日本政府、東京都、そういったステークホルダ間で、今夏の東京五輪は中止なり延期が合意に至っているならば、話は別だ。そこの収拾、特にアスリートへの説得や説明に、川淵氏が走り回るならば、川淵氏の一番得意な仕事となる。しかし、各種報道を読んだ限り、とてもそうとは思えない。「やるのか、やらないのか」最も厄介な意思決定はこれからなのだ。そして、幾度も繰返すが、そのような厄介な意思決定は川淵氏が最も不得手とするものだ。
ここまで、辛辣な批判を含め、川淵氏への思いを語ってきた。
最後にホンネを少し。私は何のかの言って、川淵氏が好きなのだ。80年代後半だったろうか、JSLの古河の試合、大雨で閑散とした競技場、偶然隣同士になって2人で傘をさして試合観ながら語り合ったのが忘れられない。「日本のサッカー、こんなにレベル上がったのに、どうしたら客が増えるだろうか」って私は尋ねた。「難しいですねえ、でも何とかしなければ」と答えてくれた川淵氏。
川淵氏の大変な尽力で、我々はJリーグも強力な日本代表チームを入手した。ドーピング事件は許せないが、氏の過去の栄光には感謝の気持ちが大きいのだ。
だからこそ、川淵氏に言いたい。この仕事は引き受けるべきはないと。