2022年09月01日

仙台育英全国制覇と白河以北一山百文

 深紅の優勝旗が白河の関を越えた。高校野球での東北チームの全国制覇は、小学生時代、太田幸司や磐城の田村の時代からの夢だった。素直に喜んでいる。我々の世代の仙台の小学生は「『白河以北一山百文』を見返せ」と教育受けていたから、歓喜の思いは格段だ。小学校の洟垂れ小僧時代からの親友(お互い仙台育英高校出身ではない)がfacebookで歓喜していたので、お互いfacebookごしに乾杯。このお祭り騒ぎは宮城県関係者だけではなく、東北各地にも展開された模様。福島県や山形県など他県の地方紙も、全国制覇の号外を発行したらしい。
 もっとも、深紅の優勝旗は、20年近く前に白河の関どころか、津軽海峡を飛び越えていたのだけれども。

 物心つき、野球を見るようになったのは半世紀以上も前になる。サッカーよりも前です。父と祖父に教わり、プロ野球と併せて、夏の高校野球を見始めた。プロ野球と異なり、地元のチームを応援できる。小学校3年、八重樫(後にスワローズで独特のバッティングフォームで活躍)がいた仙台商業がベスト8に興奮、加えて太田幸司の三沢商が決勝進出、18回でも決着つかず再試合で散った。宮城県のチームが負けても、東北の他県のチームを応援するのが当然だった。2年後「小さな大投手」田村を軸にした磐城高校が決勝進出するも敗退。当時、東北のチームが甲子園で中々勝てない要因として、厳寒や豪雪により冬期にトレーニングしづらい・遠隔地ゆえ強豪との強化試合が難しい・関西の暑さへの順応の難しさなどが挙げられた。
 その後も、決勝進出は幾度もあった。大越基、ダルビッシュ、菊地雄星、佐藤世那、吉田輝星。どうしても東北勢は全国制覇ができなかった。勝てないことはしかたがないが、段々と不思議にもなってきた。考えてみればもう21世紀。東北の強豪私立高校は冬期練習場もある。東北新幹線があり首都圏はすぐだから遠征で試合経験も積める・昼間の炎天下の甲子園は暑いが宿舎に戻ればエアコンで体調を整えられる。何より、より北方でハンディキャップが大きいはずの駒大苫小牧が、既に全国制覇しているのではないか。また、大学野球では東北福祉大が幾度か全国制覇している。同じ屋外競技のサッカーで青森山田や盛岡商が全国制覇をしている。なぜ東北勢は甲子園制覇をできなかったのか。最後にまた触れる。

 今年の仙台育英。好投手を5人抱える強みを前面に出し、他チームを圧倒した。特に準々決勝以降は盤石、唯一もつれた試合となったは2試合目(3回戦)の明秀日立戦のみ。この試合は明秀監督が凝りすぎた采配で墓穴を掘ったことに救われた。おたがい小刻みに点を取り合い、6回まで2-4でリードされた難しい試合。迎えた7回裏、育英は明秀投手の乱調もあり無死満塁の好機を掴む。ここで明秀監督は、左投げ、右投げ、2人の投手をクルクルと交代させる作戦をとってきた。ワンポイントリリーフならばわかるが、小刻みに投手と右翼を交互にやらせるのはさすがに無理がある。両投手とも制球が定まらなくなり、育英は連続四級と犠牲フライで逆転に成功した。
 準々決勝の愛工大名電に対しては小刻みに加点し、5回までに6-0として悠々と逃げ切る。
 準決勝の聖光学院戦。聖光が疲労気味のエースを温存し第2投手を先発。1点リードされた2回表、第2投手をつかまえ3-1と逆転し、さらに無死二三塁、そこでたまらず聖光がエースを投入。これ以上1点もやれないと言う雰囲気にたたみ込み、気がついてみたら2回に11点を奪うと言う超ビッグイニングで早々に試合を決めた。
 決勝は、お互いに小刻みに点を取り合い6回までに3-1でリード。7回裏育英は追加点を上げ3点差、そこで相手投手が四球を連発し満塁としたところで本塁打で7点差として勝負を決めた。
 もちろん幸運もあった。選抜優勝で甲子園での勝負強さに定評ある大阪桐蔭、好投手山田を擁する近江、強打者浅野が凄かった高松商などの強豪がつぶし合い、そこを勝ち抜いた下関国際の両投手は、決勝戦では相当疲弊していた。また、これらの強豪校や準決勝で大勝した聖光学院と準々決勝以前で戦えば、先方の投手はまだまだ疲弊しておらず、互角の戦いを余儀なくされたことだろう、明秀日立戦のように。
 しかし、どの強豪校が来ても、準決勝・決勝は、よほどの不運がなければ勝てたのではないか。そのくらい、投手5人の物量は圧倒的だった。元気な投手が後から後から出てきて失点が少ないことそのものも強み。加えて、いずれの試合でも、競り合った際に相手投手や監督が「これ以上点はやれない」と言う作戦をとり、逆にそこにつけ込んで点を奪うことができたのも大きかった。
 もちろん、他にも勝因は多数ある。打撃も守備もいずれの選手がよく鍛えられていたこと、須江監督の積極的な采配、スカウティングの適正さなど。例えば名電戦の2回の2点目は2死三塁からの三塁線へのセフティバントによるものだった(試合後のインタビューで、須江監督が「相手三塁手は肩が強いため後方で守備するところを狙った」と語っていたのには、恐れ入った)。また、いずれの試合も第一試合というクジ運のよさも大きかった(勝ち抜き戦の場合、勝ってどのチームが出てくるか待つ方が、精神的に優位なのはいずれの競技でも鉄則、さらに灼熱の甲子園、朝試合ができてエアコン下で身体を休められる方が優位に決まっている)。
 とは言え、投手5人を確保して甲子園に乗り込んだ時点で、序盤戦さえ勝ち抜けば、相当な確率で育英は真紅の優勝旗を獲得することができる戦闘能力だったのだ。これだけ強ければ勝てる。

 話を戻す。今まで、東北勢はなぜ今まで優勝できなかったのか。
 冒頭に「白河以北一山百文」と述べたが、仙台の地方新聞の河北新報の創業者が、この言葉を見返すために社名(新聞名)を決めたのは、よく知られた話。私の世代の人間は、小学生の時からその話を聞き育ってきた。
 甲子園の高校野球と言うお祭りは大昔からよくできている。各地から代表校が出場、日本中が地元や故郷のチームを応援して楽しめる。昔は地域密着を基盤とするJリーグなど影も形もなかった。Bリーグもbjリーグもできたのはつい最近。プロ野球も首都圏(と言うか東京)と関西圏にチームが偏在しており、札幌、仙台、埼玉、千葉にチームが定着したのは比較的最近、長期に渡り福岡にチームがない時期もあった。
 そんな1970年代あたりから、甲子園で東北の高校が決勝に出るたびに、河北新報はもちろん、他の東北各県のマスコミも、「優勝旗が白河の関を越えるか」と大騒ぎしていた訳だ。そして、私も私の親友も、その大騒ぎ(お祭りと言ってもよいだろう)にお相伴していたわけだ。加えて悪いことに、1915年の第1回大会で当時の秋田中(現秋田高)が決勝進出して敗れている。だから、常に「第1回大会以来の東北勢の悲願が」とお祭りが、一層華やかになる。そして、決勝に負けた記憶の蓄積は、新たなチームが決勝進出する度に、お祭りに彩りを添える。
 これが北海道初めて、とか沖縄初めてとなると、単一道県の悲願だから、東北地方全域とは異なり、お祭り騒ぎも極端にでかくならない。また、同一県のマスコミならば予選段階からお付き合いがある言わば関係者。しかし、東北勢が勝ち進むと他県のマスコミが集まってくるのは、若者にとって、楽しむ以上のプレッシャ、微妙なストレスになったのではないか。かくして、河北新報を始めとする東北マスコミや、私や私の親友が、東北の野球エリートの若者達に不要なプレッシャをかけ、贔屓の引き倒しをおこなってきたのではないか。何十年にも渡って。

 その不要なプレッシャに打ち勝つため須江監督が作り上げたのが、多数の投手による圧倒的な戦闘能力のチームだった。これだけ格段の物量を抱えれば、勝負の準決勝・決勝で、戦闘能力で相手を圧倒できる。これだけ圧倒していれば、余計なストレスなど気にせず勝てる。そして、勝った。
 1度壁を破ってさえしまえば。来年以降、東北勢が幾度も優勝してくれることだろう。
 仙台出身の60歳過ぎのサッカー狂の戯言でした。
posted by 武藤文雄 at 01:31| Comment(0) | TrackBack(0) | サッカー外 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする