2008年06月12日

長沼健氏逝去(下)

 Jリーグ開幕前後(正確には92年のアジアカップ制覇前後と言うべきかもしれないが)で、日本サッカー界の,社会的注目度は極端に変わった。それ以前は、アジアのどの国に対しても優位に立てる戦闘能力を誇る代表チームも、満員の大観衆も、各クラブの上がり下がりを毎週末歓喜し悲嘆するサポータも、カズや中村俊輔のように一挙手一投足が国民から注視されるスター選手もいなかった。そのためもあって、Jリーグ以前については、あたかも「前史」としての扱いを受ける事がしばしばある。

 しかし、日本サッカー界の「制度」と言う切り口から見る限り、「前史」時代と今日では極端な相違はあまりないのだ。
 Jリーグ開幕前、既に日本サッカー界はプロ契約選手は多数いた。JSL1部、2部、地域リーグとピラミッド体制のリーグ戦も存在していた。そのため、地方の小さなクラブがトップリーグ入りを目指そうとすればステップアップしていく道筋は準備されていた(飛び級制度をどうするかは、当時も今も議論の的だが)。全国のチームに開かれた天皇杯もあり、状況が許せば地方のチームがJSLのトップチームを破る事もあったし、実際2部リーグのチームが天皇杯を制覇した事もあった。選手登録は、年齢単位で会社のチームも学校のチームもクラブチームも同格に扱われていた。全国でトレセンを経て、無名の有力選手を拾い上げる体制もできていた。登録選手1人1人が登録料を支払い、薄く広く日本協会全体の費用を負担するやり方も完成していた。各チームには審判登録が必要で、各地域の講習会を受験する事で誰でも審判資格を取得し、意欲があれば上級審判に進む道も準備されていた。
 繰り返すが、「制度」面では、「前史」段階で既に現代的な仕組みは完成していたのだ。

 これは凄い事である。他の団体競技を考えてみよう。
 野球は今でも統括的な組織がない。その結果、最近ではだいぶ状況が改善されてはきているが、プロ経験者がその経験を活かし若年層の指導者になる事すら容易ではない。また伝統の名の下に大学では強豪チームと弱小チームがリーグを組んでいたり、正常とは思えない灼熱の環境下で高校生が連投を余儀なくされている。ラグビーは国内最高の大会に、国内最強とは言えない大会を勝ち抜いてきた大学チームが出場できる。バレーボールは世界最強国だった時代に、時の代表的な指導者が五輪を目指し若年層から一貫指導を行おうとしたが、それらの選手を合理的にプレイさせる環境がなく、散々苦労していた。バスケットボールに至っては、現在トップリーグが分裂している有様だ。
 それらに比べてサッカーの仕組みが、いかに合理的で公平な事か。サッカーも大なり小なり問題を抱えてはいるが、「制度」的な問題でトップチームの強化に障害が起こったり、見世物としてトップチームの活動を阻害する要因は、他競技と比較して飛躍的に少ないのだ。
 もちろん、FIFAの1国1協会制度は、大きな助けになったはずだ。また、西欧や南米のサッカー先進国の仕組みは相当な参考になり、それらを真似した制度を導入すればよかったのも間違いない。けれども、上記したように、他の団体競技の多くは、合理的で公平なサッカー的な仕組みを、取り入れる事がなかなかできていない。極端な言い方をすれば、サッカーだけがそれに成功したのだ。

 これらの「制度」の充実は70年代から80年代後半にかけ、長沼氏が専務理事の体制の下の的確な改革により、築かれた分厚い仕組みなのだ。無論これを作り上げた功績は長沼氏だけのものではない。長沼氏の長年の盟友岡野俊一郎氏を含めた日本協会のみならず地方協会のスタッフ達、さらには日本中のサッカー人が皆で作り上げたものだ。
 しかし、それらの中心に常に長沼氏と(参謀としてにらみを利かせていた岡野俊一郎氏と)がいた事は間違いがない事だ(氏が専務理事になる前にスタートした改革も少なくないが、長沼、岡野コンビが代表チームを見ていた時代から、協会改革に関与していたのもよく知られた話だ)。
 そして、これらの仕組みの完成には大変なエネルギーが必要だったはずだ。なぜならば、1つ1つには必ず反対する人々がいたはずだから。例えば、JOCであり、他の競技団体であり、高体連や中体連であり、既存の社会人チームや大学チームである。そして、こう言った人々に対し、粘り強くしかし信念を持って物事を進めなければ、改革は進まない。長沼氏はこれをやり遂げたのだ。氏が亡くなった直後に多くの報道が「人望のある浪花節の調整型リーダ」と氏を評していた。私は少々違うと思っている。氏が人望のある人だったのは確かだし、氏の浪花節も間違いないだろう。しかし、氏は調整型ではなかったと思う。信念を持って、信じる道を淡々と説く人だったのだと思う。調整型の人間に、このような改革をやり遂げられるとは思えないからだ。

 もちろん、物事はそうきれい事だけではない。その改革の最中にいた我々としては、改革のスピードの遅さに随分不満を持ったものだった。例えば最近の話でも、加茂氏を更迭した際に、結果的にしばらく協会会長に居座ったあたりなど、あまり美しい姿ではなかった(何か愛嬌はあったけれど)。しかし、完璧な人など、そうはいないのだし。
 そして、結果的には少々時間はかかったが、我々は非常に的確にサッカーを愉しむ仕組みを手に入れる事ができたているのだ。

 残念ながら、今日の日本サッカーは難しい事態に陥っている。問題が山積なのは仕方がないかもしれないが、その問題が一切解決の方向に進まず停滞しているのだ。破綻している日程しかり、審判問題しかり、観客の暴力事件しかり、選手がドーピングの濡れ衣を着せられた事件しかり。現在の日本協会は、このような問題を解決できないどころか、まともな対応もできない組織になり下がっている。
 しかし、考えてみれば、1960年代、長沼氏は日本協会の先達達やクラマー氏に「日本サッカーのリーダ」と指名されてから、盟友の岡野氏の助けを借りながら、常に日本サッカーを率い、上記の改革をやり遂げてきた訳だ。言い換えれば、約40年に渡り、我々は両氏に引っ張られて走ってきたと言う事になる。これだけのリーダの後継者はそうは出ないのも仕方がないのだろう。
 そして、他人事のように語る事は許されないのだと思う。我々サッカー人は1人1人、日本サッカー界が向上すべく努力をしていかなかければならないのだろう。それが何よりも、天国の長沼氏への御礼となるはずだ。
posted by 武藤文雄 at 23:50| Comment(4) | TrackBack(0) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
長沼さん(と敢えて呼ばせていただきます)への敬意と愛情の溢れた名文、感動しました。私利私欲の無い人でしたね。どこぞの誰かには見習って欲しいものです。
Posted by 湘南蹴鞠屋 at 2008年06月13日 06:06
趣旨はよくわかりましたし、共感できます。
しかし一点、あの居座りを愛嬌とは。
あれだけ厳しく、氏の家族までが、嘘つきの孫だと言われかねない、とまでに糾弾されていたのに。
ま、これも愛嬌に。
Posted by 故郷遥かなり at 2008年06月13日 18:12
フランスW杯のジャマイカ戦を現地で観戦しましたが、あの会場にまで「長沼辞めろ」的なプラカードを持ち込んだ日本人観客がいました。
その主張自体はもちろんわかるのですが、あの場にまでそれを持ってこられると、正直なところ、大事な試合なのに、今この場だけは試合に集中して応援できないのかぁ・・・と、さみしい気持ちになりました。
すでにリーグ敗退が決まっていたからでしょうけれど、私はあの試合がW杯初参戦だったものですから、一層気が沈む一日となり、残念ではありました。
Posted by Yajinsky at 2008年06月15日 13:02
今日のエルゴラッソに、加茂監督更迭の主導者は長沼さんじゃない、別の首謀者がいる、という記事がありました。それを読んで、「私が辞める」といったのも、ちょっとうんざりしていてつい口をついてしまったというようなところもあったのではなどど思ってしまいます。これで私の中で長沼さんにたいして引っかかるところはすべてなくなりました。ご冥福を祈ります。
Posted by じゅん at 2008年08月04日 22:51
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