2000年5月に、エスパルスがカップウィナーズカップで優勝、ジュビロがチャンピオンズカップで準優勝を遂げた際に書いた文章です。同県のクラブが大陸のビッグタイトルを独占しかけました。考えてみれば、ミラノ、リバプール、ロンドン、マドリードあたりでも実現不可能そうな快挙まであと一歩に迫った訳です。
Jリーグスタート時、私は静岡県をホームタウンにするクラブの選考について、何とも言えないもやもやを感じていました。極論すれば、Jリーグは開幕時は、最強チームが集ったリーグ戦とは言えなかったためです。しかし、開幕7年後、静岡にアジアに冠しようとする2つの強豪が並立したのですから、当時の判断はある意味では正しかったのかもしれません。
(2008-12-5)
1. あと数分で消えた快挙
その後に巻き起こったトルシェ去就問題に掻き消えてしまった感があるが、 4月に静岡の2チームが共にアジアのクラブタイトルのファイナリストになったと言うのは、快挙として日本サッカー史に記録されるべきだと思う。
僅かあと数分を守り抜けば、同一地域の2つのクラブチームが、大陸のタイトルマッチを同時制覇するというミランとインテルでさえ実現した事のない快挙を見る事ができるか、と期待していたが、実に惜しい事をした。
エスパルスは、レギュラFWのほとんどが負傷欠場と言う惨状下で、見事に闘いきった。決勝、準決勝共に敵が後方に引いてしまい、押し込みながら最前線の経験不足もあり崩しきれないイヤな雰囲気が継続した。その中で2試合ともボールを着実にキープし続け、ゴールを待った後方の選手たちの冷静さを高く評価したい。ベストではない状況下での、「大人の勝ち方」だった。しかも、清水育ちの若い無名選手が、レギュラー負傷の穴を埋めるなど、市民球団としての潜在力を見せ着けてくれた。
上海、安養、チェンマイと応援旅行を続けたサポータたちには羨望の意を、そしてエスパルスというより清水の関係者全てに祝意を表したい。
一方ジュビロは、ベストメンバで堂々とアジア再制覇を試みた。準決勝は戦闘能力差でピルズィを振り切った。アルヒラル戦はエキサイティングなタイトルマッチだった。特に後半、必死に押し上げるアルヒラル攻撃陣に対し、再三シャープなカウンタを繰り出すジュビロの駆け引きは、実にエキサイティングな見世物だった。サウジのトップチームに敵地で競り負けた事は責めようがない。失ったタイトルは大きかったが、ジュビロの若手、中堅のエリート選手たちには、この日の失敗経験を今後の糧としてもらいたいものだ。あれだけ内容がある試合を見せてくれたのである。ジュビロに大いなる敬意を表したい。
2. Jリーグ創世期のエスパルス誕生劇
何がしか、尋常ではない決断がなされた時に、しばしば言われるセリフがある。
「その決断の良否は歴史が判定する」
言い換えれば、結果が最終的によければいいだろう、と言う開き直りである。ある意味で、世の中の真実をついている言葉ではあるが、いい加減な事をやる人間がこれを言うと誠に腹が立つセリフとなるが。
「唐突に何を言い出すのか」と思われるだろうが、今回のエスパルス、ジュビロと言う静岡の2チームが揃ってアジアのタイトルマッチのファイナリストになるという快挙は、私にとって「歴史の判定」そのものなのである。
「歴史:この強力な2チームの存在」が「9年前の政治的判断:エスパルスがJ参入を認められ、同時にジュビロの前身であるJSLのトップチームのヤマハが参入を認められなかった事」の、正当性を示す事となったと思うのだ。
実は私は今までエスパルスを見る度に複雑な想いに囚われていた。それは、Jリーグ創成期に極めて政治的かつ特殊な判断により、ジュビロを差し置いてエスパルスがJリーグ参入を認められた事が、私の心の中でずっとしこりとして残っていたからだ。
トップリーグでプレイする権利というのは、そのチームの過去の実績(これは累積投資金額と高い相関を持つ事にも触れておきたい)の成果なのである。たとえ、短期的な投資により戦闘能力が高い(ように思える)が実績のないチームがトップリーグに参入する権利を与えられてよいものなのか。
昨年横浜FCが、JFL参加を認められ、それを歓迎する世論が多かった時も私は素直に同意できなかった。
まして、エスパルスがJリーグ参入を認められた時は、横浜FCよりももっと酷い状況だったのだ。横浜FCは、少なくとも監督や加入してプレイする意志を示したトッププレイヤがいるというチームの構想があった。承認さえされれば、JFLで十分にプレイする戦闘能力を確保する見込みはついていた。
しかし、エスパルスは参入を認められた時点では、母体チームは静岡県リーグのチームであり、トップレベルの選手の参入は公けにされていなかった(もっとも横浜FCと異なり、リーグ開始まで1年以上の年月が残されてはいたが)。ヤマハを差し置いて参加が認められた後で、選手が集まってきたのである。
Jリーグスタート時に、選考された10チームのうち、当時のJSL 1部のチームを母体としなかったチームはもう一つ鹿島があった。しかし、鹿島の母体の住友金属はJSL 2部の強豪チームであり、何年かはJSL 1部でもプレイした実績もあった。他に茨城でJリーグ入りを狙うチームがないとしたら、地域的配慮(この概念が正しいかどうかは別にして)から、住金−鹿島が参加を認められるのはわからなくもない。
しかし、清水の場合は違う。ヤマハと言う常にJSLの上位から中位には必ず顔を出す強豪チームが、同じ県からJ参入を希望していた。
無論地域との密着度という評価基準もあった。2次情報だが、「清水が選ばれヤマハが落ちた」のはそれが理由だと再三報道された。しかし、それも奇妙な話である。例えば古河を母体とするチームは、当初習志野市をホームタウンにすると表明しながら、騒音などの問題で追い出され、市原に落ち着くまでに紆余曲折があった。また全日空を母体とするチームは、横浜をホームにしながら九州地区を特別活動地域としていた。この2チームのように、ホームタウンを確立できていないチームは他にもあったのだ。むしろ、ヤマハは当初から磐田をホームに置くと宣言しており、地域密着度は古河、全日空よりも高かったようにも思える。
ここまで書くと、ヤマハ贔屓が不平不満を言っているように思われるかもしれない。逆である。私はヤマハと言うチームは、(好きな選手は多々いたが)嫌いだった。理由は簡単で、選手の教育がなってないからだった。スタンドで観戦していると、ヤマハの控え選手が、汚い野次を飛ばし、周囲の観客に不快感を与える事がしばしばあったからだ。誰でも野次を飛ばす事はあるし、結果論として周囲に迷惑をかける事もある(特に私は多いかもしれない)。しかし、一般の観客が何をしようがそれほど問題は大きくないと思うが、ヤマハのトレーニングウェアを着た控えの選手が、そのような態度を取るのだから、腹が立つ事おびただしかった。
しかし、それとこれは別である。例え観戦時に不快感を味わおうが、フィールド上の選手たちが好いプレイを見せてくれればそれでよい。そして、サッカーというのは、フィールドの内でも外でも、明文化されたルールと明文化されていない常識で運用されるべきゲームである。ここまで述べたように、当時のヤマハにはルール的にも常識的にも、 Jリーグでのプレイを認められない根拠はなかった。だから私は9年前に憤ったのである。そして、釈然としない気持ちを今日まで引きずっていた。
3. 清水とヤマハの歴史
しかし、清水と言う地域が、サッカーの世界において特別な土地である事にも触れておかないと、当時の政治的意思決定の背景がぼけてしまう。そこで、 Jリーグ前の両者の歴史について、簡単におさらいしておこう。
3.1.栄光につつまれた清水
90年代初頭時点で、言うまでもなく、清水市は日本屈指のサッカーどころだった。少年大会で清水FCは全国制覇を再三遂げ、高校レベルでも全国大会の上位進出の常連校を多々抱え、古くはメキシコ五輪のエース杉山を筆頭に好選手を多々生み出していた。ただし、 70年代あたりまでは静岡サッカーと言えば「清水」よりは「藤枝」が有名だったのもまた事実。高校チームとしても、藤枝東高がその過去の伝統、名伯楽長池実氏の存在があり、最もメジャーな存在だった。
サッカーどころ清水が(藤枝以上に)、日本屈指の地域として確立されるのは、 80年代初頭以降、より具体的には、80−81年清水東がインターハイ優勝、高校選手権準優勝したあたりからか(後に大成する選手としては反町がいた)。以降毎年のように清水東、清水商、東海大一の各校がユースレベルの各種全国大会の上位進出を続けるようになる。
一方で、70年代の高校サッカーには、「静岡のチームは決勝では勝てない」というジンクスがあった。72−73年シーズンから5年続けて、藤枝東(2年連続)、清水東、静岡工、静岡学園が、高校選手権の決勝で敗戦すると言う快挙?! を成し遂げている。静岡には技巧肌の選手が多く、首都圏チームの試合運びの巧さにしてやられる事が多かったのだ。
しかし、82−83年に清水東が(2年生の堀池、長谷川、大榎らを擁して)全国制覇して以降は、上記の清水の高校チームはトーナメントでの「勝ち方の巧さ」も発揮しだした。リードしている時は無理をせずボールキープの時間を増やすとか、同格同士の試合ではしっかり守って1-0の勝ちを狙うとか、こう言った「勝ち方の巧さ」は今日の日本サッカーでは常識である。しかし、 80年代これらを身につけていたチームはJSLでも、チーム力が充実した年のフジタ、読売、古河あたりがあったくらいだった。そのような時代に毎年のようにユースレベルのチームが、「勝ち方の巧さ」を発揮していたのだから恐れ入る。
トップレベルのプレイヤも多数輩出した。後藤(現横浜FC)、反町(元フリューゲルス)、堀池、長谷川(共に元エスパルス)など、知的で特長を持った選手たちが多数現れ、我々を楽しませてくれた。
こういった清水全体としての強さは、全市をあげて少年サッカーの普及(小学校単位のチームの充実)と選抜強化(いわゆる清水FC)の両面に取り組み、技巧的な選手を多数輩出する体制を確立する事に成功した事によったのだろう。
この経緯をよく調べてみると、その体制の確立には驚くほど年期が入っている。小学校単位でチーム作りを始めたのは、60年代初頭。小学校チーム同士のリーグ戦が確立したのが60年代後半。その後、それらの体制が巧く機能し、ユースレベルで常勝チームを多数抱えるまでに、約10年。まさに一朝一夕ではない、地道な積み上げである。このように、底辺からじっくり時間をかけて積み上げたシステムは、一度完成すると他の追随を許さない頑健で強力なものとなる。言い換えると、80年代清水は、市全体で「清水FC」と言うべき強力なサッカー集団となっていたのである。
「そのような『清水FC』が、もし大人のトップチームを持っていたら、どんなに素晴らしい事だろう。」と誰もが思っていたのである。
3.2.JSLトップチームのヤマハ
ヤマハの歴史のスタートは、メキシコ五輪の英雄杉山隆一氏の、静岡への復帰にある。 72-73年の天皇杯制覇を最後に、三菱を去った杉山が、「選手兼監督」としてヤマハの指揮を取ったのである。当時ヤマハは確か県リーグの2部か3部の所属だったと記憶している。
当時、日本屈指のサッカーどころ静岡には、JSLのチームはなかった。ヤマハは、地元の気鋭の若手選手を大量に補強(後年代表選手となる石神や吉田)し、杉山氏の強力な指導で一気に力をつけていく。
JSL 2部への挑戦権を争う試合で、PK合戦で「選手杉山」がPKを失敗し敗戦、選手として引退を決意するというドラマ(余談:先日のサッカーマガジンの日本代表特集はとても楽しませてもらったが、杉山の最終所属チームは三菱ではなくヤマハのはず)など、紆余曲折はあったが、「杉山ヤマハ」は順調に昇格し、ついに80年JSL 1部入りする。杉山氏の監督就任後、僅か6シーズンのスピード出世だった。
しかし、JSLの壁はさすがに厚く、選手の質も十分とは言えず苦戦を続け、 2シーズン下位に低迷し、2部落ちしてしまう。
ここでヤマハのフロントは、素晴らしい決断を行う。監督は杉山氏のままだが、新コーチとして現場を担当する外国人を招聘したのである。日本のトップチームが、現場指揮を外国陣コーチに任せるのは、クラマー氏を別とすれば、初めてと言ってよい人事だった。チームは瞬く間に強化され、 1年で1部復帰を果たすと共に、2部所属ながら天皇杯も制覇した。ハンス・オフト氏の日本での初仕事であった。
1部に復帰したヤマハは、今回は十分な戦闘能力を保持していた。読売、日産と言った当時新たにJSLの強豪となったチームと上位争いを演じる程だった。石神、吉田、長沢、内山ら代表チームに選考される選手も続出。名実ともに日本屈指の強豪チームとなった。
JSL制覇は87-88年シーズン。前シーズン下位に低迷した反省からか、ついに杉山氏が監督を解任? され小長谷氏(現ベルマーレ社長)が監督に就任したシーズンだった。森下、柳下、石神の3人で固める守備は堅実で、このチームとしては初めて外国人選手アンドレ、アジウソンのコンビが確実に点を取りつづけた。勝利試合はほとんど1点差と言う、地味ながら勝負強さを見せた優勝だった。
その後も、常にJSL上位を伺うチーム力を保持し、90年代初頭には、文句なく日本を代表するチームの一つだった。
4. 歴史の判定
「清水にトップチームがあったら...」と言う願望と、ヤマハというトップチームの存在。まさにそのような時期に、Jリーグは始まろうとしていた。
2次情報だが、Jリーグの10チームの最終選考時に、ヤマハに対してホームグラウンドを清水にしないかと言う交渉があったという。「ヤマハ清水FC構想」である。しかし、ヤマハはこれを断ったと言う。そして、冒頭にも述べたとおり、「地域への密着」と言う甚だ曖昧な選考理由で、清水は残り、ヤマハは落ちたのである。
この時点で、地域バランスより静岡からは1チームしか選考されないと仮定すると(もっとも神奈川は3チーム選考されたのですがね)、 3つのケースが考えられたと思われる。
(1) ヤマハ清水FC
(2) ヤマハが選考される
(3) 清水が選考される
ここからが歴史の評価である。もし(1)だったならば、間違いなくこのチームは早い段階からJリーグのトップチームとなっていただろう。サッカー強国清水のしっかりとした地盤にヤマハの財力が加わり、他の追随を許さないチーム力を誇っていたかもしれない。しかし、一方で静岡には1チームしか強豪チームが存在しなかった事になる。
もし(2)だったらどうか。やはり「ヤマハを母体にしたチーム」はJリーグの強豪になると思われる。しかし、「清水FC」は浮上できなかったのではないか。Jリーグに参入できなければ、もし政治的配慮で当時のJFLに参画できたとしても、スポンサをつけることは難しく、 Jリーグバブルが崩壊すると共にチームも消えてしまった可能性が高い。ブルックスやフューチャーズなどが、結局静岡をホームグラウンドにできなかったのと同じである。
つまり(3)の選択肢のみが、今日のアジアのトップチームが2つ、静岡に存在すると言う解だったのである。まさに、9年前の政治的判断が正しかった事が、歴史的に判定されたと言えるのではないか。
そして、このような判断をした人物は高く評価されるべきである。それは誰か?
言うまでもなく、当時の静岡県協会理事長の堀田哲爾氏であろう。上記した素晴らしいサッカー選手育成システムを築き、その完成の最後の1ピースが、エスパルスのJリーグ加入だったのだ。そして、そのおかげで私たちはこの2チームの上質なサッカーを楽しむ事ができる。
最後につまらない仮定を述べたい。もし、堀田氏が健在だったら、今日の日本協会で相当な地位を占めていたと思われる。氏のような人がいれば、これほど見苦しい事態を見ないで済んだと思われませんか?
2000年05月18日
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