すみません。ピクシーの「シュート」直前の軌道をすっかり勘違いしてました。ピクシーさん、皆様、ごめんなさい。自戒を込めて字消し線で間違いを残しました。それにしても、投稿直後わずか15分で3本お叱りをいただくとは、感謝感激であります。
少々旧聞になってしまうが、先般のマリノス−グランパス戦で、ピクシーが決めた「ロングシュート」から、あれこれ考えた事を。
それにしても、何とも言いようのない美しい軌跡だった。あのキックの精度を可能にした抜群の技量については言うまでもない。それ以上に、
あの試合場にいて、あの場面を目の当たりにしたすべての方々(野暮な主審を含めて)に嫉妬するものである。
ところが、前後して行われたセリエA、ジェノアーインテル戦で、全く類似の「ロングシュート」が見られた。GKのクリアキックを、デヤン・スタンコビッチがダイレクトボレーでシュートし、約50mの距離を決めたものだ。
こちらは公式の得点だが、軌跡と言い、飛んだコースと言い、実によく似ていた。浮いたボールを捉える難しさを考慮すると技術的にはこちらの方が難度が高いか。ただ、デヤンは試合に集中し常時「点を取る」事を考えていたのだろうから、瞬間閃きレベルはピクシーの方が上かな。
おお、この2人は共にセルビア人ではないか。あのような類似した美しい弾道を、遠く離れた日本とイタリアで、新旧の同国のスーパースタアが、決めてくれた訳だ。その偶然に、サッカーの偉大さを感じずにはいられない。
さらに言えば、2人は98年フランスワールドカップの「ユーゴスラビア代表」のチームメートだった。当時の「ユーゴスラビア」代表は、ピクシーを主将にサビチェビッチ、ユーゴビッチ、ミハイロビッチ、ミヤトビッチら、ピクシー世代のベテラン(つまり90年代前半にオシム爺さんに師事した世代)を主体にしたチームで、唯一デヤンのみが若手でレギュラ入りしていた。当時デヤンは、このバルカンの代表チームを長きに渡り支える存在として将来を嘱望されていたワールドクラスのスタア候補生だったのだ。
そして、当時のデヤンの事を考えると、私は胸の片隅にちょっとした痛みを感じるのだ。ある場面を思い出して。
それは上記フランスワールドカップ直後の、98ー99年シーズンのセリエAのある1試合の事だった。ワールドカップ後、レッドスターからラツィオに移籍したばかりのデヤンは、その試合で直接マークをやり合う形になった同年代のMFに圧倒された。デヤンは、技巧、フィジカル、駆け引き、すべてで劣勢となり再三1対1でしてやられたのだ。デヤン自身、ワールドカップでも一定の評価を受けたプライドもあった事だろう。試合終盤のある場面、そのMFに必死に食い下がり、何か全知全霊を賭けたかのようなプレイでボールを奪取した。そのデヤンの必死の形相はすさまじいものがあり、忘れ難い場面となっている。
当時、そのペルージャのMFは20代前半の選手としては、世界最高レベルの逸材と期待されていたのだが。
「転がって」きてないですよ、恐ろしいことに
ピクシーもダイレクトボレーで決めているようですよ。
http://www.youtube.com/watch?v=YQPW2jC_URY
負傷者が出たので、キーパーが外にキックで出したボールをノートラップダイクレトボレーで蹴り返したんですよ〜。
http://www.youtube.com/watch?v=YQPW2jC_URY
あれは完全に得点:ピクシー、アシスト:榎本、でしょう
榎本からのボールが来たとき、観客を喜ばす、とかじゃなく、「これはオレのボールだ!」と思ったんじゃないでしょうか? 思わなくても体が動いたという感じ
反スポーツ的行為という反則があり、反サッカーという非難の的となるゲームスタイルがあるならば、ピクシーのそれは、あまりにも「サッカー的」でした
すばらしかった
でも、このブログはいつも楽しみに読んでますよ。
当時のユーゴは本当に凄いチームでした。
その後、内戦を挟みバラバラになってしまったユーゴスラヴィア。
父親がセルビア人で母親がクロアチア人(組み合わせは多数あります)といったような多くの子供達は、その後どうしているのか。
どうして、わずかな差異を基にして、人々は分断の方向へと向かうのか。
当時を描いた書籍を編集したこともあり、なんともやるせない気持ちになってしまいました。
ピクシーの“ゴール”が美しいければ美しいほど、そうした思いが沸き上がってきます。
スタンコビッチはラツィオ時代がすごかったですね。
ミドルシューターという感じで。
現地にいましたがメインスタンドはどよめきの後にホームアウェイ関係なく万雷の拍手が沸き起こりました。
旅人は忘れましたが、現役Jリーガー時代のピクシーはかつて同じ横浜で
ブーイングを浴びながら若き中村俊輔と対峙したこともあったなと思い出しました。