このままでよいのかどうなのか、幾多の議論はあるものの、明後日はクラブユースの最高峰を決める決勝戦が行われる。育成年代で相応の成果を挙げているFC東京対サンフレッチェ、非常に興味深い戦いとなる事だろう。両軍の若者の奮闘を期待したい。
で、今日のお題は、その本質とは全く関係なく、双方の監督が「典型的なファイタータイプ」のサイドバックだった事について。
倉又寿雄が所属していた日本鋼管(NKK)は、70年代までは、JSLにおいては必ずしも強豪とは言えなかった。しかし、81ー82年シーズンには大ベテランの藤島信雄を軸に、冷静に中盤後方を固める田中孝司や巨漢CF松浦敏夫らを擁し、天皇杯を制覇したあたりから、次第にJSLでも上位を伺う存在となる。倉又は当時から「闘えるサイドバック」として、チームの中軸を担っていた。そして、80年代半ばから、強烈な左足シュートを持つ藤代信世、中盤で才気あふれる組み立てができる及川浩二などの前線のタレントが登場、後方は代表でも活躍したGK松井清隆、CB中本邦治と言った超一級品の守備者がそろい、JSLでも上位に進出するようになった。その頃には倉又は、主将としてチームを引き締める存在となっていた。
必ずしも体躯に恵まれなかったものの、典型的なファイタータイプのサイドバックだった倉又だが、一方で非常に知的な守備を見せ、チームに貢献。日本のトップレベルのチームで最初に3DFの守備ラインを作り上げたのは当時のNKKだったが、その守備ライン構築に倉又の献身的で巧みな位置取りは、非常に重要な存在として機能した。私は倉又のファイトあふれる、そして知的なプレイを見るのが大好きだった。
所属していたNKKが本格的なサッカー強化を取りやめた直後から、倉又氏はFC東京のコーチングスタッフに加わり、多くの経歴を大熊、原と言ったコーチの補佐に費やして来た。一時トップチームが苦戦した際にトップの監督を務めた事もあるが、その後は若年層の指導に専念。典型的な「育てる指導者」として経歴を積んで来たプロ中のプロである。
森山佳郎はJ黎明期のサンフレッチェのサイドバック。ファルカン氏時代には代表のレギュラにも抜擢された。筑波大時代は井原正巳や中山雅史の同級生。井原が「森山は成績で大学に入って来たから...代表で一緒にやれるとは...本当に嬉しい...」と語った存在だった。サンフレッチェに加入した以降の森山はいわゆる「吠える」プレイヤ。好プレイを見せた試合後のインタビューでの「吠え方」は愉しかったな。
当時の監督バクスター氏が、「森山が代表に呼ばれた」と聞いて、「森保の間違いだろう」と言い返したのは秘密だ(おお、森保ジュニアが森山配下で闘うのだな)。もちろん、森保一、風間八宏、高木琢也、盧廷潤、ハーシェクらがすばらしかった当時のサンフレッチェの想い出と共にだが。
森山のプレイで何が見ていて気持ちよかったかと言うと、一歩目の前進意欲。「ボールが奪える」と決心した際の猟犬のような飛び出しの良さが絶品だった。その飛び出しが外れる事が滅多になかったのが、魅力だった。
バクスター氏がチームを離れた以降は出場機会が減り、いくつかのクラブを転々として引退。そこで、将来の指導者としてあの今西和男氏に誘われサンフレッチェに復帰し、以降若年層の指導に携わって来た。サンフレッチェユースでの実績は今さら繰り返す必要もなかろう。
執拗にこの2人を並列して論じたかった事を理解いただけただろうか。この2人は知的だったのだ。ファイターだったのだ。そのような共通の印象を持たせてくれた、「見て愉しい」サイドバックが指導者となった。そして、多くの実績を重ねて来た。
愉しみな対決である。もちろん、勝負は明後日では決まらない。15年後くらいに、この2人のすばらしいサイドバックの指導者としての成果の勝負を語る事を愉しみにしたい。
2009年12月25日
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講釈師の言うとおり、軍配は明日の結果ではなく10年後のそれぞれが輩出した代表選手で見極めるべきですね。
ゴリ森山が歌う『あずさ2号』は伝説となっております。その場にいる人全員をフリーズさせます。
決して上手くはないけど、彼はいつも戦ってました。