前宮城県サッカー協会会長、東北サッカー協会理事長の伊藤孝夫先生が、先日瑞宝小綬章を叙勲された。そして、18日には仙台にて、祝賀パーティに行われ、300名近い東北、宮城県関連のサッカー人が出席、不肖サッカー講釈師も末席をけがさせていただいた(主な出席者を挙げておこう、宮城県サッカー協会小幡会長(塩釜FC代表)、ベガルタ仙台白幡社長、モンテディオ山形川越理事長、元ベガルタ監督鈴木武一氏、ちなみに松本育夫氏と犬飼日本協会会長(笑)から花輪が届いていた)。
ブログにも書いた事があるが、私は今を去る事30年近く前の学生時代、宮城県あるいは東北地区の大学サッカー連盟で、結構色々なシゴトをしていた。当時、宮城県協会と東北協会の理事長として、その実務の指導と管理をして下さったのが伊藤先生だった。私は、先生の出身大学サッカー部の後輩だったと言う事もあり、本当にかわいがっていただいた。
多くの読者は、先生の名前を知らないかもしれない。
しかし、先生が、ベガルタ(当時ブランメル)の立ち上げをサッカーサイドから引っ張った事、仙台の地下鉄終点駅近傍の公園に小さなサッカー場を作る計画を、2万人収容の専用競技場建設計画に転換させた事、などを聞けば先生の業績を理解いただけると思う。
また現在J1のクラブには宮城県出身の監督が2名(加藤久氏、鈴木淳氏)、強化部長が2名(アントラーズの鈴木満氏、フロンターレの庄子春男氏)いる。もちろん、彼らが今日の地位を掴んだのは、ご本人達の努力研鑽によるものである。ただし、伊藤先生は中央で活躍する宮城県出身選手(当時はベガルタなどないから、優秀な選手が「中央」に出て行くのは当然の事だった)達の活動を常にフォローし、彼らの引退後のキャリアメークにも気を配っていた(ちょうど彼らの現役時代が、私が学生として直接先生に仕えた時期だった)。宮城県がこれだけ日本サッカー界の強化畑に優秀な人材を輩出しているのは偶然ではなく先生の尽力が大きかったと、私は捉えている。
先生は1954年に宮城県工業高の教諭となられ、62年には同校を監督として高校選手権で3位に導いている。準決勝では、森孝慈を中心とした広島修道高校に敗れたとの事。65年に東北工業大学に移られ、以降2001年に定年退官されるまで同学の教授をされたいた。その間、東京五輪の競技役員をされたり、一級審判員を務められながら、73年以降宮城県協会理事長として辣腕を振るわれた。つごう30年以上に渡り、宮城県、東北のサッカー界をリードされてきたと言う事になる。合わせて随時、日本協会の重要な役職を再三務められたのは、言うまでもない。
これだけ長期間地域のサッカー界をリードしていたにもかかわらず、先生は強引に物事を運ぶ事は少なく、常に人の話を聞いて行動する柔軟さ、謙虚さをお持ちだった。帰仙した折に「俺は企業経営のことはよくわからんのだ」と言う先生に、ベガルタの経営改善について語らせていただいた事もある。
さらに言えば、日本サッカー界に本格的なプロフェッショナリズムが立ち上がって約20年、今なお多くの地域協会が、プロフェッショナリズムと底辺レベルのサッカーの両立に悩んでいる。と言うか、プロクラブと協会の相互の関係がギクシャクする程度ならまだましで、全くうまく行っていない地域も結構あると言う。その中で宮城県サッカー協会とベガルタ仙台の関係が比較的良好なのは、先生の人望によるものだと私は思っている。
先生から学んだ事は無数にある。
当時学生だった私に、社会人の方々とつき合うための礼儀や所作を指導いただいた事、物事を推進するためには想像力をフルにはたらかせてどのような部門に影響するかを考える事、人に無理をお願いする時は誠心誠意説明する事。書いてしまえば当たり前の事を、先生はいい加減な学生に懇切丁寧に指導してくださった。
また、サッカーの大会をするためには、日程を決め、グラウンドを確保し、選手と審判がが集まれる準備をする必要がある。加えて大会によっては観客の対応も必要。それだけの事なのだが、それだけの事について起こり得る問題を想定し、事前に準備をする事が難しい。それらについて、先生は常に具体的に指導して下さった。そして先生に言われたのは「そう言った準備は、地域の小大会だろうが、キリンカップや招待サッカーのような有料試合だろうが、何も変わらない事。」さらには「ワールドカップでもそれは変わらないはずだ」とも言われたのも忘れ難い。
さらに。そのような大会運営方法の議論を通じ、日本のサッカー界の海外諸国と比較しての特徴、欧州のサッカー強国の物事の進め方などを、日本協会の業務や遠征を通じて実経験された海外事情と合わせて教授くださった。当時一般人は池原謙一郎氏(故人)あるいは牛木素吉郎氏らの文章を通じてしか知る事ができなかった海外サッカー事情の実態を、先生から学ぶことができたと言う事だ。
もちろん、ピッチ上で行われる妙技の数々についても、多くの事を教えていただいた。82年スペイン大会でのロッシやプラティニやルムメニゲの観戦自慢には、大いに触発されたものだ。
くしくも、本パーティは、初めてのトップリーグにおいての「みちのくダービー」翌日。結果こそ残念だったが(パーティさなか川越モンテディオ理事長は、四面楚歌の快感を愉しまれていた)、あのようなすばらしいダービーマッチが実現した事そのものが、伊藤先生の勝利と言えるだろう。
先生は、数えで80歳、OBサッカー大会では「金色のパンツ」を穿く権利を獲得したとの事で、まだまだ元気そうだ。先生がお元気なうちに、ベガルタはタイトルを取るくらいのつもりで励まなければいかん。
2010年07月21日
この記事へのコメント
初コメです。いつも楽しく拝見させていただいております。まさか武藤氏から伊藤先生の話を聞けるとは!私は02年に工大卒で伊藤先生の講義も受けました。たしか、サッカーの発祥についてや、素晴らしいユアスタ(当時はまだ仙スタ)とあの宮スタが出来た理由など教えていただいた記憶があります。今後のベガルタの講釈楽しみにしています。
Posted by mutu at 2010年07月23日 22:35
初コメです。いつも楽しく拝見させていただいております。まさか武藤氏から伊藤先生の話を聞けるとは!私は02年に工大卒で伊藤先生の講義も受けました。たしか、サッカーの発祥についてや、素晴らしいユアスタ(当時はまだ仙スタ)とあの宮スタが出来た理由など教えていただいた記憶があります。今後のベガルタの講釈楽しみにしています。
Posted by muttu at 2010年07月23日 22:41
コメントを書く
この記事へのトラックバック