1FCケルンと言うクラブは、私達の世代には他の欧州のクラブとは全く異なる意味を持つ重要なクラブである。言うまでもなく、奥寺康彦が最初に活躍し、欧州チャンピオンズカップで準決勝まで進むなど大活躍したクラブだったから。
70年代の1FCケルンは、西ドイツ代表で66年からベッケンバウアーのチームメートだったウォルフガング・オヴェラートと言う左利きの中盤の将軍タイプの選手がいて、常に上位を伺うチームだった(全くの余談、西ドイツは70年代まで、ベッケンバウアー、オヴェラート、後述するネッツアなど、創造的な中盤選手を次々に生み出したが、80年代以降そのような名手は一切登場しなかった。メスト・エジルは、正に40年振りにドイツが生んだ真の中盤創造主たるタレントである)。そこに、ボルシアMGで幾度も栄光を掴んだ名将へネス・バイスバイラー氏が76年に監督に就任、奥寺も定位置を確保して活躍した77−78年シーズンにブンデスリーガを制覇。翌78−79年シーズンには、チャンピオンズカップで準決勝に進出し、ノッティンガム・フォレストに敗れ欧州制覇を逸する。
バイスバイラー氏は、地方の小クラブだったボルシアMGでギュンタ・ネッツア(オヴェラートが頻繁にボールに触り短いパスで組み立てるのに対し、高精度でカーブがかかったロングパスをFWの足下に通す名手だった)、ベルティ・フォクツ、ユップ・ハインケス、アラン・シモンセン、ライナー・ボンホフらを育て、ベッケンバウアーやゲルト・ミュラーがいたバイエルンを幾度か押さえて複数回ブンデスリーガを制覇した名将中の名将だった。75−76年シーズン、クライフを擁するバルセロナが高額で氏を招聘したが、バルセロナフロントを除く世界中の人々の予想通り、選手クライフとバイスバイラー氏は大ゲンカ。わずか1シーズンでバイスバイラー氏はカタルーニャを去り、ケルンに登場した次第だった。
76年から77年にかけて日本代表監督を務めた二宮寛氏(出身は三菱)は、当時の三菱重工の西ドイツ事務所ルートから、バイスバイラー氏と親密になり、三菱の選手を再三ボルシアMGやケルンに留学させるなど交流を深めていた。たとえば後にレッズ社長も務める藤口光紀は、ケルンに短期留学し大きく成長した。
そして、77年夏に日本代表は、ケルン、ボルシアMGに選手を分散して強化すると言うユニークな欧州遠征を実施した。二宮氏とバイスバイラー氏の関係により実現した試みだった。そこでバイスバイラー氏は当時、日本代表のエースストライカになりかけていた奥寺を発見、ケルンに引っ張った。当時古河電工の一介のサラリーマンだった奥寺は、1度はこの勧誘を断ったと言うが、バイスバイラー氏は諦めず複数回声をかけ、ついに奥寺もケルン入りを決断する。
そして、上記した通り奥寺はブンデスリーガ制覇、チャンピオンズカップの準決勝進出に直接貢献、再三重要な場面で得点を決めた極東の無名国の選手は高く評価された。当時の西ドイツ選手(たとえばカールハインツ・ルンメニゲ)は、サッカーマガジンやイレブンの取材に対し、「これは外交辞令ではないよ」と語った後、奥寺を絶賛したものだった。バイスバイラー氏が去った後、奥寺はヘルタ・ベルリン、ブレーメンでプレイ。当時のブレーメンの監督がオットー・レーハーゲル氏だったのは、皆さんご存知の通り。
1FCケルンと言うのは、そう言うクラブなのだ。
今では1部と2部を行ったり来たりするクラブとなってしまっている。若い方々にとっては、「槙野はそのようなエレベータクラブに加入し、以降のステップアップを狙っている」くらいにしか思わないだろう。また、現状のケルンを考えれば、それは正しいと思う。槙野がケルンでよいプレイを見せ、さらにステップアップを期待したいのは、私も同じだ。
しかし、やはり1FCケルンと言うクラブは、日本サッカー界にとって特別なクラブである事には変わりないのだ。
槙野は日本の次代を担うセンタバックになり得る人材である。プレイから伝わってくる向上心、プロフェッショナルとしてのよい意味でのプライド。
ただ、例のPK騒動など、長所がやや空回りしている感も無くはない。昨年のナビスコ決勝での大活躍時にも、ちょっと苦言を呈したが、あれこれ愉しい余技を考えるのもよいが、まずは「守備の確立」に専心して欲しい。そして、その「守備の確立」が、この日本サッカー界にとって特別なクラブで実現するとしたら、2014年のブラジルに向けて、これほど嬉しい事はない。
2011年02月11日
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ケルンには特別な感情を持ってますね。
ドイツがベッケンバウアー以前から「勝利至上主義」(笑)に凝り固まった「悪い」サッカーばかりやていたかのようなフランス思想被れがいたが、注意しないといけませんな。
昔はイタリアやアルゼンチンを贔屓するのに勇気が必要だったようだし、主観的な印象操作は怖い。
彼がいれば80年代の味気ない西ドイツも、と思ったのですが。
エフェンベルグなんて選手もいましたよー
彼は凸でワールドカップを追われましたよね?
トマス・ヘスラーなどもいましたが、その域に達していなかったということでよいでしょうか?
リトバルスキー、ヘスラー、ショルなんかは数少ない変化を付けられる選手で、イヤでした。