いつも、いつも、「おい、何をやっているんだ」と野次を飛ばしたくなる選手だった。そして、最後の最後まで、「おい、何をやっているんだ」と叫ばれながら、私たちから去って行ってしまった。
いつも、いつも、「まだやれる、もっとやれる」と思わせてくれる選手だった。そして、最後の最後まで、「まだやれる、もっとやれる」と皆から支えられ、私たちから去って行ってしまった。
私がはじめて、松田直樹を見たのは、1993年の日本開催のワールドジュニアユースだった。敵FWと正対して自分得意の間合いに詰めるうまさ、敵のパス方向を適切によめる読みのよさ、いわゆるフィジカルの強さを活かした強い当たり。まだ16歳の若者が、ここまでできるのだ。そして、前年のアジアカップ制覇、この年の春のワールドカップ1次予選突破、そしてJの開幕を思い起こし、順調過ぎるまでに発展する日本サッカー界の象徴を、この若者に見たものだった。
実際、この若者はすごかった。95年マリノスに加入すると同時に定位置確保。それも、井原と小村が組むCBコンビの右側に位置取りし、時に右サイドバック、時にセンタバックと、位置を内外に移動しながら、守備ラインを固めていた。さらにサイドに開いた際は、しっかりとドリブルで持ち上がり、センタからはタイミングと強さそれぞれが上々のロングボールを繰り出す。高校を出たばかりの若者が、この難しい守備のタスクを、易々とこなしているのだ。当時は井原の全盛期だったが、早くもその後継者が登場した事が、本当に嬉しかった。日本が初出場する(はずの)フランスワールドカップで、井原と共にCBを務めるのは、松田だと思ったのだ。
以降は、期待を高めては裏切られる、愉しい歴史が積み重ねられる。
その歴史は、適宜検索ウィンドウに「松田」と入力いただければ理解いただけると思う。
紆余曲折ありながら(当初の期待より随分と時間がかかったが)、トルシェ氏率いる日本代表の中心選手になるまで。そして、トルシェ風3DFにおいて、森岡と松田のいずれが中央を務め、いずれが右に開くかの議論。これは愉しい議論だった。松田の組織構成力をとるのか、前線へのフィードのよさをとるのか。あれこれ試した上で、トルシェ氏は松田にセンタを任せる危険性を確認したようだったが。いずれにしても、松田は己のゾーンに進出した敵を押さえ込むのだけは、変わりなかった。
マリノス時代、幾度も幾度も見せられる、戦略性欠除のプレイ振り。敵FWに挑発されての、無断なファウル、警告、退場。無用な攻撃参加の代償としての失点。そのようなマイナスを全て打ち消す、丁寧なロングボール、敵の隙をついた強引だが的確なドリブル前進。厳しい状況、特に数的不利でも動じない的確な守備対応。
日本最高級の戦術的能力が、その的確な守備能力と、たまに見せる攻撃力を美しいものにしてくれた。そして、幾度、その感情に赴くままのプレイによる戦略的能力の欠除を嘆いてきた事だろう。
その戦略性の欠除の顕著たるものが、ドイツワールドカップ予選、埼玉バーレーン戦で、ジーコのやり方にプッツンして、代表を去った事だろう。本件、気持ちは理解できる。ここまでの日本代表は、田中誠ー宮本ー中澤の3DFを基調に戦って来た。そして、このバーレーン戦直前の、テヘランイラン戦。田中が警告累積で出場停止。ジーコ氏はこのイラン戦、CBを一枚減らして4DFで戦ったものの、結果的には右DFの加地、後半から起用された左DFの三浦淳、それぞれのミスで失点し日本は苦杯を喫する。そして、直後の埼玉バーレーン戦前に、ジーコが「田中誠がいないから4DFで戦った」とマスコミに口を滑らす。プライドの高い松田が代表合宿を去ったのは、理解できなくもない。ただし、この一瞬のプッツンによる離脱で、松田は全盛期で迎える2006年ドイツワールドカップを棒に振った。もう少し我慢をしてくれれば、ドイツで中澤と松田のCBコンビが見られたはずだったのに...
まあ、いかにも、松田らしいのだが。
南アフリカ前、中澤と闘莉王のCBのバックアップ不在が幾度も議論された。おそらく、岡田氏は「いざとなったら松田がいるさ」と考えていたのではないか。けれども、松田自身の膝の重傷により、この夢は叶わなかった。
期待して、期待して、裏切られる。私は松田が大好きだった。
まだ34歳。あまりに早過ぎる。これから、山雅で堂々たるプレイを見せ、J1まで復帰し、マリノスに復讐戦を演じるはずだったのに。
この男に対する論評は常に、「ごめんなさい、私が間違っていました」と、土下座する事を期待するものだった。そして、土下座をする機会は永久に失われてしまった。
もっともっと語りたかった。もっともっとイヤミを言いたかった。そして、いつかいつか土下座をするはずだったのに。
ちょっと思うのだ。この男とは、センタバックとしては会うべきではなかったのではと。たとえば、センタフォワードなり中盤の選手として、知り合いたかったと。そうすれば、上記した(たっぷりと愉しませてもらった)戦略性欠除に悩まなかったかもしれない。実際、マリノスの最後の2シーズン、いわゆる8番の中盤選手としてプレイした松田を見るのは、本当に愉しかったのだし。
でも、いいんだ。日本のセンタバックとして、世界列強を圧倒するはずだった松田を思い続ける日々はとても愉しかったのだから。
松田を初めて見た1993年はJリーグ開幕の年だった。そして以降、日本サッカー界は信じられない勾配の右肩上がりで、世界サッカー界内の地位を確立する事に成功する。そして、昨年のワールドカップで堂々とベスト16進出。今年のアジアカップで完璧な優勝。そして、女子代表はとうとう世界一にまで駆け上がった。
その超右肩上がりに、常に松田直樹はいた。夢のような18年間だった。
でも、早過ぎるよ。
ご家族の悲しみはいかばかりか、心よりお見舞い申し上げます。
そして、松田直樹さん。18年間、本当にありがとう。とても愉しかった。夢を幾度も見せてもらった。心よりご冥福をお祈りいたします。繰り返します。本当にありがとうございました。
とまった時にお礼と冥福を祈ろうと思います。
一番力になりたい時に何の力にもなってやれなかった。
ずっと愉しかったよ、ありがとうマツ。
松田を観て育った選手が大仕事をして土下座の機会を設けてくれるさ、武藤さん。
その時は一緒に土下座しよう。
そしてそれを語り継ぐのが僕達の役目だ。
松田に対する愛憎混ざった文章の中に、武藤さん
の深い思いをいつも感じていました。
今はただ、残念な気持ちでいっぱいですが、今日の文章で少しは救われた重いです。武藤さん、ありがとう。
仰られている、松田がいた「夢のような18年間」を体験出来て本当に良かった。
でも、本当にはやすぎます。
中田英寿が唯一出場した高校選手権での韮崎戦の決勝点も決めてます。
FWだったらどうだったか?など仮定するのも楽しいです。
中田、宮本そして松田。
この三人が同じ1977年の早生まれでギリギリシドニー世代であったことがこの十数年の日本サッカーの大いなる飛躍の一因となった奇跡だと思っています。
その盟友宮本のコメント「マツ、おつかれさん」に泣きました。
松田さん、安らかに。
グラウンドを手でバシン! と叩いて「来いや!」と相手を威嚇したシーンがありました。
「無駄なことやってるなぁ」と笑い、魅了され、心震わされました。
戦略性欠除のプレイ振り、との言葉で真っ先に思い出してしまいました。
心から好きで、憧れた選手でした。本当に残念です。
いつか日産スタジアムで、マリノスFW陣の前に立ちふさがって、
もちろん勝って欲しかった。
あと、松田と久保のJFLでの対戦、見たかったです。
サッカーへの深い愛情に共鳴していたのか。
おつかれさま。
本当に楽しませてもらった。
ありがとう。
しかし、本当に早すぎる。
いろんな感情や思いが込み上げてきてまとまりません。
才能ももちろんですが、それ以上に強い心をいつも分かりやすくピッチで見せてくれました。
まだまだもっともっとできるのに・・・ただただ残念です。悔しいです。
彼のことはずっと忘れません。大好きです。
ありがとう。
彼はずっとずっとサッカーファンの心の中に生き続けます。
松田でしたか。
そんなヤツいたなぁと、シーンの記憶を思い出しました。
殺しても死なさそうに思っていたんですがねぇ。
憧れでした。
またいつか一緒にサッカーしましょう!直樹さん!
私はマリノスサポでも山雅サポでもありません。
それに、松田はそんな大好きな選手って訳でもないのに、
有名人が亡くなって初めて涙が止まらなくなりました。
もっと見てたかったんだ。
あ、またやらかしたなぁ。あ、反省した。
あ、やっぱサッカー大好きなんだな。
ってそんな魅力的な松田を見ていたかったんだ。
まだ早すぎる。ずるいよ。ずるいなぁホントに。
ミスもあったし、無謀とも思えるプレーもあった。
でも、ピッチを所狭しと暴れまわり暴風雨のように90分を全力で終える松田にいつしか目を奪われていった。
そして嵐が過ぎるように逝ってしまった・・・
僕は忘れない
神奈川に生まれマリノスと出会いサッカーが初めて面白いと思わせてくれたマリノスの3番を
プライドの意味を教えてくれた
熱い男を絶対に忘れない
ありがとう松田
しかし、松田選手が亡くなった時にニュースで見た、松田選手の母親の言葉や、中村俊輔選手の様子などを見て、この松田選手という方は、サッカー界ではすっごく偉大な人物だったんだなぁと感じました。それから他のニュースでも特集などいろいろやっていてそれを見るたびに悲しくなってきました。有名人が亡くなって、こんなに悲しくなったのは、彼が初めてでした。
特に松田選手を深く知っているワケでもないし、
サポーターのみなさんよりサッカーを愛しているワケでもありませんが、僕は本当に松田選手が偉大だったということを知ったのは事実です。
最後に一言だけ。
『俺もっとサッカーしたいんすよ!!』
この言葉に胸を打たれました。
長々とすみません...
…とそのプレーを見ながら何度ツッコんだことか。
楽しかった、ほんとに。
ほんとにありがとう、松田。
あなたを失うのはつらすぎますが、
でも最後は笑って見送りたい。
ゆっくり休んでください。
自陣ペナルティエリア内でルーレットを魅せるも相手に奪われ大ピンチ。
キーパーが退場になって選手交代も出来ない中で真っ先にグローブをつけ、ゴール前で両手を広げていた姿。
ああ、サッカーが好きだったんだな。
誰よりもサッカーを楽しんでいたんだな。
だから私は松田選手が好きだったんだ。
だからこんなに悲しいんだ。
早すぎるよ。
サッカーの神様。
返してよ、彼を。
彼をそばで見ていたいのは貴方だけではないんだよ。
松田選手が練習中に倒れたというニュースを見てから
とにかく頭を離れませんでした。
私自身がずっとスポーツをやっていたこと,怪我に苦しむタイプだったことも一因だと思いますが,
なによりニュースで流れる松田選手の純粋無垢なサッカーに対する愛情や
練習中の本当に楽しそうな笑顔とプレー中の真剣な顔がそうさせたのだと思います。
ニュースを見るたび,ネットの記事を読むたび,松田選手がどれだけサッカー選手や
サポーター・マスコミの方々からも愛されていたのかが分かって本当に心が苦しくなります。
子どものような笑顔でボールを蹴る姿を,見たかったです。
このような形で松田選手を知ることになるなんて皮肉だと思いますが,
彼がまっすぐサッカーを愛した姿勢を心に刻んで自分の生きたい道を全うしたいと思いました。
松田選手,ありがとう。
あなたのおかげで茨の道でも妥協せずに進むことの尊さに改めて気づきました。
ずっとずっと,ボールを蹴っていてください。
永久欠番にするのに、そんなに「貢献」とか「実績」が必要なんでしょうか?
「記憶に留めておきたい」「忘れられない選手」ってだけじゃダメなんですかね。
一応、クラブとしては理由に「貢献」とかいう言葉を使いますが、要はクラブの歴史上「忘れられない」選手って事ですよね? 気持ちの話ですよね?
それもやっぱり成績とか貢献とか必要ですか?
人の感情の話をスポーツの技術論と一緒に語るのは心が淋しい気がします。
永久欠番って、別に、すげぇ上手いとかすごく貢献したとかじゃないと思う。
なんでもかんでも成績!結果!って。。。フットボールを楽しんでない。。
こんなライターさんにフットボールの楽しさを伝えられるんでしょうか。。。