決して内容そのものは悪くなかったが、いきなり2失点してしまい、追い上げたところでまた2点差に突き放されたのだから、どうしようもなかった。
試合の流れそのものは上記の通り完敗だったものの、試合展開そのものは悪くなかった。先制して、余裕を持って引いていたサントスに対し、落ち着いてボールを回して分厚い守備網をかいくぐる工夫を見せ、うまくよい体勢でボールが奪えた時は的確に速攻を狙っていた。そして決定機に近い好機を幾度か掴んだ。しかし、最後の最後のところで決め切れなかった。
田中の左足の一撃、澤のポスト弾と空振り、左から飛び込んだ北嶋の右アウトサイドシュート、アディショナルタイムの大谷のシュートが浮いた場面。どれも本当に惜しかった。しかし、いずれの好機にも共通して言えるのは、シュートを打った選手が、シュートよりも前に相当な無理をしていた事だ。たとえば長駆したり、たとえば難しい体勢を立て直したり、たとえば敵DFを振り切るのに相当な労力を使ったり。唯一の得点が、ジョルジ・ワグネルの高精度セットプレイに、若き好素材の酒井宏樹の肉体能力の組み合わせだったのは、非常に示唆に富む。
要は献身的に努力はしたが、崩し切れた決定機はあの酒井の一撃の場面だけだったのだ。
一方でサントスの3得点。ネイマールの先制弾は冗談の斜め上の世界だった(これはこれで後述)。しかし一方で、ボルジェスの鮮やかなドリブルシュートも(「お前、レイソルから得点するならば5年前だろう」と思わず吠えてしまったが)、ダニーロの壁外巻きも、上記のジョルジ・ワグネル+酒井クラスの一撃、と見る事ができる。つまりこの試合は、「ネイマールの冗談」+「2対1」の試合と解釈可能と見る。
ただし私は、この後者の「『2対1』の方を同点にする事」については既に「日本サッカー界は世界トップに対しては、それなりに対応可能になってきている」と見ている。もちろん「状況次第では」と言う前提が必要だけれども(だいたい、今回にしてもホームで試合をすると言う「有利なハンディキャップ」を持っていたのだし)。まあ、楽観的過ぎるかもしれませんけれど。
実際、レイソルがサントスと同様の日程で戦う事ができていれば、序盤からより稠密な組織守備網を確立する事ができていただろう。また南アフリカワールドカップ時の日本代表のように、事前にオランダ、イングランド、コートジボワールなどと準備試合を積めていれば、あのように立ち上がりに守備が不安定だったのは避けられていた事だろう。
つまり繰り返すが、「『2対1』の方を同点にする事」については、南アフリカ大会同様、既に我々は相当なレベルまで来ているのだ。
けれども、「ネイマールの冗談」の差は、まだまだ大きい。昨年スナイデルの一撃に屈したのも同じである。
つまり、我々が完璧に「世界一」を目指すためには、ネイマールが必要なのだ(いや、スナイデルでもシャピでもイニエスタでもメッシでもいいですが)。
そのために日本サッカー界はどうあるべきなのろうか。
個人的には、そのクラスのスーパースタアを「育成する」のは不可能だと思っている。そのようなタレントは豊富な土壌がある中から、勝手に生えてくるものではなかろうか。だからこそ、我々は土を耕す、いや耕し続ける必要があるのではないか。
たとえば、サントスよりもさらに一枚上と言われているバルセロナは、自分たちの育成組織から、シャビもイニエスタもメッシと(その他のタレントも)育成している。そして、多くの報道は「どうやって彼らを育てたか」ばかりに注目しているようだ。しかし、もっと重要なのは「何が彼らを育てたのか(あるいは何の上で彼らが育ったのか、生えてきたのか)」なのではないか。
そのような「土壌の充実」が、改めて重要な事を、レイソルの大奮闘から感じ取った次第。レイソル関係者の方々、ありがとうございました。
カメラマンの近藤篤さんの著書『サッカーという名の神様』の中に、ブラジルのサッカースクールの監督の、こんな言葉が紹介されています。
「ブラジルではサッカー選手が地面からどんどん生えてきます。(中略)だから、ロビーニョみたいな選手がサントスからマドリーに輸出されても、誰も全然気にしません。ロビーニョを1本刈り終えるころには、もうその周りでロビーニョが3本くらい芽を出し始めてますからね」
野球の古田氏も
「日本では松井のような選手は10年にひとり出るか出ないか?でも大リーグでは1年に10人くらい松井クラスが出てくる。そこが大きな違い」というような発言をしていました。
つまり、そういうことなんですね。
メッシ擁するアルゼンチンにも、ネイマールがいるブラジルにも、引きこもりだ、ニートだ、トラウマだ、「お前に俺のこの苦しみが解るか!!!」などと、ゴタクを並べることが許されるような社会の空気、空間、発想、雰囲気はありえない。
日本以外の国ではそんな存在など許されない。日本以外の国には“命より大切もの”がいくらでもあるからだ。
メッシもネイマールもそんな何十億人もの無辜の民衆の、無意識の不幸の総和の、途方もない歴史的時間の推敲・陶冶を経てようやく生まれてきたプレゼンスだ。
話は簡単だ。日本でメッシやネイマールが生えてくるのを願うのなら、日本も世界標準並みに人間の生命、存在、尊厳を軽んじる国家に変貌すればよい。
もっともボクはそんなのはまっぴらゴメンだ。メッシもネイマールもいらない。ボクは今の日本のように、弱い奴がデカい面をしてのさばっていられるこの国の方が居心地がいいからだ。
メッシもネイマールもごく微量の特権階級が大多数の弱者を犠牲にし、踏み台にし、食い物にしてのさばる世界標準の社会の中から生まれてくる。
そしてこの武藤のような、もし日本がそんな社会になったら自分だけは特権階級の側にいるに違いないと頭から信じ込んで疑わないオメデタイ奴は、日本もそんな社会になってメッシやネイマールが生えてくればいいな、などと無邪気に夢想して喜ぶ。
ボクはそんな夢想など一切しない。自分は特権階級の側のはずだ、などいう思い上がりや思考停止をするほど馬鹿ではないからだ。
我々はメッシやネイマールを生えさえる代償としてどのような犠牲を払わなければならないのか?
そこまで考えていつもボクはフットボールを眺めている
人数が多いことで競争が激しくなり、その結果才能のある選手でもハングリーに努力しなければ勝ち残れなくなるという環境からレベルの高い選手は生えてくるんじゃないかと。
そう考えると、その土壌に必要な肥料はベタな話、サッカー人気ってことに尽きると思います。
ただし、代表戦の視聴率とかいうレベルの話じゃなくて、とりあえず子供が友達と集まったらボールを蹴るのが当たり前になるとか、
「そろそろお前もサッカーを始める年齢になったな」みたいな感じでサッカーボールを子供にプレゼントする家庭が増えるとか、そういう意味でのサッカー人気が重要なんじゃないかと。
”出る杭は打つ”が徹底してる我が国では、生えてきたネイマールが育つ前に踏みつぶされてしまうでしょう。
求めるだけ求めて、登り詰めた者に与えられる敬意や名誉、金銭的な評価を全くしないファンやマスコミ。
こうした状況下ではスターが生まれる余地がありません。
「女の子にモテたくて」
「大金持ちになりたくて」
不純な動機大いに結構。
「ファンに希望を与えたくて」
「子供達に夢を持たせたくて」
気持ち悪いでしょ。
悪童でもピッチ上で躍動してくれればソレでOK。
変に聖人君子を求めるから、小さく纏まった人材しか現れない。
もう、日本社会のあらゆる所に当てはまりますね。
ボクはそんな夢想など一切しない。自分の考えだけが正しい、などいう思い上がりや思考停止をするほど馬鹿ではないからだ。
このBlogで真の名監督のくだらないコメントを読まされるのも、我々が払わなければならない犠牲なのだろうか?
そこまで考えていつも真の名監督の書き込みを楽しんでいる。
「日本人論」を展開するのが好きなんですね
あるぱかさん、あなたのやってることは人種差別ですよ。
わかります。
バカの考え休むに似たりってやつですね。
ネイマールがチームメイトに蹴り入れて病院送りにしたことがあるとは知らなかったなあ。
叩かなければ彼がネイマール級になる道理もないし、むしろクラブとしての対応やサポの反応を見る限り、相当甘やかされてきたんだなと。
本質を(意図的に)外したくだらない揚げ足取りの典型。
ネイマールにはなくても、「世界サッカーの宝石」的な選手にはよくある話。
「彼らの存在は理屈じゃないんだよ、それは我々の想像を超えた神の領域の産物なんだ」などともっともらしい言説を弄し、さも自分は気が利いたことを言っているんじゃないか、と密かに自己満足に浸っているかのようなエセ批評家を眺めていると、そのいい加減で、でも変にカッコつけた論に対しては「日本も今より殺人事件が100倍に増え、親が売春させてカネを稼ぐのが目的で娘を生み育て、こいつが死ねば俺の食いぶちが増えるとばかりに、兄弟同士で殺しあうのがあたりまえの国になれば、人類の英知を超えたサッカーのスーパースターは勝手に生えてくるよ」と、同程度の低俗な反論をしておくのが丁度いい。
「わからない」
「それは神の領域だ」
「そしてそれだからこそサッカーは素晴らしいのだ」
サッカーの批評家がそんなことを言ってどうするのだろう
>ネイマールにはなくても、「世界サッカーの宝石」的な選手にはよくある話
そういう選手の素行の悪さを、現地メディアやファンは叩かないとでも?
ニュースなどを見る限り、毀誉褒貶は日本以上じゃないですか。
本質を(態と?)外してるのはどちらなのか、明らかだと思うんですが。
ちなみに件のネイマールで思い出しましたが、例のサントスでのいじめ動画、ネイマールは周囲を制止しようとしてるように見えます。
あれで19ですよ?原口より年下です。
この違いが何なのかを考えた方が良いと思いますね。
原口本人も、「素行が悪くても批判されない土壌が天才を産む。故に原口も叩かれるべきではない」なんて無茶な擁護をする人も。
学校教育に限らず、日本は子供や目下の者にたいてい模範解答を答えることを求めますよね。
目上の求める模範解答に誘導するというか、個性を潰すというか、認めないというか。
サッカーはインスピレーション、イマジネーションのスポーツですし、そういう社会の雰囲気はかなり影響あるように思います。
もっともそういう没個性的な雰囲気が、あらゆる分野で共通の日本のストロングポイントの規律を生み出しているのだと思うのですが。
突出した鮮やかなスタンドプレーと集団を活かす規律の両立はサッカーに限らずあらゆる分野で日本社会の課題だと思います。
ただ、いまの日本は従来の規律優先の在り方から個性も規律と同様に認める在り方への過渡期にあるように感じています。
おそらく10年〜遅くとも20年もすれば日本社会が個人に求めるものが大きく変わって、自然にこの問題は解消されていく気がしています。
「ボクはそんな夢想など一切しない。自分は特権階級の側のはずだ、などいう思い上がりや思考停止をするほど馬鹿ではないからだ。」などともっともらしい言説を弄し、さも自分は気が利いたことを言っているんじゃないか、と密かに自己満足に浸っているかのような荒らし家を眺めていると、そのいい加減で、でも変にカッコつけた論に対しては、自分のレベルがよく分かるようなパロディーを書いておくのが丁度いい。
「ボクはそんな夢想など一切しない。」
「思い上がりや思考停止をするほど馬鹿ではないからだ」
「“思考停止論”を軽々しく口にしてはならない」
個人ブログのコメント欄でそんなことを言ってどうするのだろう。
誰に頼まれたわけではない、ただひたすら自分だけの積極的な、燃えたぎる情熱のみで、自分勝手に無法地帯のジャングルへ無防備な自分の裸を晒すに等しい行為である“ブログ開設”という決断するにあたって、何故“コメント欄”なるものを積極的に設定しようとするのか、ボクはその異常な神経がどうにも理解できない。
ただ、コメント欄を設定するメリット、というものを3つばかりボクなりに推定してみた。
@ちょっとばかり気の利いた専門知識をそれっぽい装飾語を駆使してもっともらしくブログで語れば、それに引っかかる純真無垢な田舎モンにコメント欄で称賛され、神と崇めたてまつられることによって全能感を堪能できる。
Aただ、崇めたてまつられるという行為は別に“オープンな環境”じゃなくても十分に実現できる。手紙でもいい、メールでもいい、当事者同士、二人だけの閉じられた世界の中で、それは十分に達成可能だ。しかし、それでは当のブロガーが面白くないのだ。自分がホメられ、神として崇めたてまつられているところを第3者に見せつけたくて見せつけたくてどうしようもないのだ。そしてこのようなゲス俗物の欲求を満たしてくれるツール、それが“コメント欄”なのだ。
Bコメント欄を設定すれば、単純に閲覧者を増やし、アクセス数を稼ぐことができる。不特定多数の他者をより多く呼び込みたいのであれば、接点のハードルをひたすら低くし、容易に関与できる環境を設定し、そのコミュニティに自分は参画し、そこの構成員のひとりなんだ、という幻想としての一体感を醸成することは不可欠だ。
以上の3点を挙げておくが、あえて付記するならば、ボクは有能で責任感に溢れ、信頼し尊敬するに値する、あらゆる方面における著名人や有名人、実力者が開設しているブログで、コメント欄を設定しているものなど、およそ見たことがない。
彼らだってコメント欄という“麻薬”がもたらす悦楽の効能など十分に承知のはずだが、おそらく「俺はそんなモンに溺れるほど日常生活の中の欠落感に苛まれている愚か者ではない」、というプライドや気概に支えられているのだろう。
こんなことをコメント欄に書く人って何なんでしょうね。
「コメント欄を設定する人」だけじゃなく「コメント欄に書き込む人」についても書いてよ。
そうすれば自分が何をしているのか、気づけるんじゃないかな。
案外難しいことのように思います。
名監督さんは、武藤さんをゲスい俗物だと思い、
名監督さん以外は、名監督さんをオモロー人間として戯れる、
それでいいんじゃないでしょうか。
いました。
「人間をダメにする方法は、その存在
を無視することだ。」と。
みんな、寂しさが続くと凹みますよね。
このコメ欄でやり取り出来るだけで癒さ
れる人も居るのでは・・・
誰に頼まれたわけではない、ただひたすら自分だけの積極的な、燃えたぎる情熱のみで、自分勝手に無法地帯のジャングルへ無防備な自分のアホさ加減を晒すに等しい行為である“ブログにアホなコメントする”という決断するにあたって、何故“武藤さんのブログのコメント欄”なるものを積極的に設定しようとするのか、ボクはその異常な神経がどうにも理解できない。
ただ、武藤さんのような人気のブログにコメントするメリット、というものを3つばかりボクなりに推定してみた。
@読者の多い武藤さんのブログコメント欄に、ちょっとばかり気の利いた専門知識をそれっぽい装飾語を駆使してもっともらしく書き込めば、そのアホなコメントに「釣られてくる」(例えばボクのような)者達の反応によって全能感を堪能できる。
Aただ、自分のアホなコメントで反応を呼ぶと言う行為は別に“オープンな環境”じゃなくても十分に実現できる。手紙でもいい、メールでもいい、当事者同士、二人だけの閉じられた世界の中で、それは十分に達成可能だ。しかし、それでは当のコメント欄荒らし屋が面白くないのだ。自分が罵られ、単なる荒らし屋として迷惑がられているところを第3者に見せつけたくて見せつけたくてどうしようもないのだ。そしてこのようなゲス俗物の欲求を満たしてくれるツール、それが“コメント欄”なのだ。
B自分でブログを開設するよりも、既に人気のあるブログにコメントするほうが閲覧者を増やすことができる。不特定多数の他者に多くアホコメントを呼んで欲しいのであれば、自ら努力することなく、単に人気ブログを利用し、そのコミュニティに自分は参画し、そこの構成員のひとりなんだ、という幻想としての一体感を醸成することは不可欠だ。
以上の3点を挙げておくが、あえて付記するならば、ボクは有能で責任感に溢れ、信頼し尊敬するに値する、あらゆる方面における著名人や有名人、実力者が開設している者で、自分がコメントするコメント欄自体を批判するなどと言う自己矛盾を行う者など、およそ見たことがない。
彼らだって他人のブログへのコメントという“麻薬”がもたらす悦楽の効能など十分に承知のはずだが、おそらく「俺はそんなモンに溺れるほど日常生活の中の欠落感に苛まれている愚か者ではない」、というプライドや気概に支えられているのだろう。
「そしてこのようなゲス俗物の欲求を満たしてくれるツール、それが“コメント欄”なのだ。」
と言う一文に関して言うならば、
真の名監督氏の原文にまったく変更を加える必要はなし。
「ゲス俗物とは誰か?」は、誰の目にも一目瞭然ですからね。
どこでもサッカーボールで遊べる環境ができるといいですねえ。
と書いているということ、このコラムの主が愚か者だと言っている訳ですね。
その愚か者の開設しているコラムのコメント欄に、上から目線で書き込んでいる意図はどこにあるのでしょうか?
「もう、コメント欄はやめろ」ってことですか? それとも「おまえは愚か者だ」と断罪したいのでしょうか?
確かに、おっしゃるとおりですね。
「愚か者」と非難している人のブログの「コメント欄」に書き込んで、一人で悦に入っている訳ですものね。
このブログに書き込むことしか自分の存在意義を示す方法がないのに、その「コメント欄」の存在自体を否定している。
その矛盾には、わざと目を瞑ってるんでしょうかね。それとも、本当に気がついてない「愚か者」なのかもしれませんね。