若い方々には、なかなか具体的なイメージが湧かないだろうが、70年代の日本サッカーの技術レベルは非常に低かった。日本代表選手でも、フリーで30m程度のロングボールが正確に味方に届かない、ちょっとプレッシャを受けると前線のタレントでもトラップが浮いてしまう(もっとも、「『ボール扱い』より「身体の強さ、足の速さ」を優先的に選考するから勝てないと主張する向きも多かったのだが)。とは言え、実際、韓国やイスラエルは当然として、マレーシア、インドネシアなどの東南アジア国よりも、明らかにボール扱いが劣っていた。だから、当時は勝てなかったのだ。
そのため、岡野俊一郎氏らが、各所で「メキシコ五輪で銅メダルを取れたとは言っても、日本選手の技術は低い、それを改善するには、幼少時からボールに触れ合う事が必要」と各地で説いていた。結果、日本中のあちらこちらでサッカー少年団が登場していた。もちろん、賀川浩氏も、牛木素吉郎氏も。
その頃、幾度もサッカーマガジンに採り上げられたのが、近江先生が率いた枚方FCだったのだ。
近江先生は、「日本人だってブラジル人のようにうまくなれる」と、まず非常にわかりやすい言葉を掲げた。その上で、「ストリートサッカー的な自由度の高い練習法を多用すべし」、「『持つな!』と言うのは間違い、子供には徹底してボールを持たせろ」、「ダンゴサッカーは、いずれほぐれる。子供の自由にさせよう」、「初心者でも常にゲームをやらせ、愉しさの中で考えさせる」など、今日では当たり前かもしれないが、当時としては極めて斬新な指導方法を提示した。
それだけではない、現実に佐々木博和(松下で活躍した名ドリブラ)のような技巧が格段に優れた選手の育成してみせたのだ。ちなみに、佐々木は1962年2月生まれ、学齢としては、都並敏史、鈴木淳、戸塚哲也、風間八宏らと同学年だが、当時から「佐々木が圧倒的に巧い」と言われ続けていた。さらに79年に日本で行われたワールドユース、佐々木はいくら呼ばれても選考合宿には中々参加しなかった。それでも、監督の松本育夫氏は最後の最後まで、佐々木を選考する事を考え、候補には入れ続けたと言う伝説もある。ついでに余談だが、このワールドユース大会後、相当数の関係者が「やはり世界は広い、この大会で僅か1人だが、生まれて初めて佐々木より巧い選手を見た」と語ったとも言われた。
この成功は、日本中のサッカーおじさん(あるいは、おばさん)を勇気づけた。わかりやすい指導論と、実際の成果。日本中のサッカーおじさんが、それぞの創意工夫で、スキルフルな少年を育成しようとし始めたのだ。理論と実践の高度な融合を証明した、近江先生の貢献は大きい。あれから40年、日本中から技巧に優れた若者が次々に登場、今や、日本は世界屈指の「技巧派選手を輩出する国」にまで成長した。
枚方FCそのものも近江先生の大変な成果だ。当時、学校体育が主体だった日本サッカー界。無数にサッカー少年団はあったが、卒団後は中学校、高校のサッカー部で活動するのが当然だった。そのような状況下で、先生はいわゆる「街クラブ」を創設したのだ。
当時、若年層の選手が所属する全国的に著名なクラブは3つ。加藤正信氏、岩谷俊夫氏、賀川浩氏、大谷四郎氏と言ったキラ星のような神戸一中OBの方々が中心となり、神戸と言う大都市を基軸に作られた神戸FC。補足説明の必要もない読売クラブ。そして、近江先生率いる枚方FCは、大阪(あるいは京都)のベッドタウンの一角の普通の地域の少年達が集い、ジュニアユース、ユース世代まで共にプレイするために作られたクラブチームだった。そして、1977年より始まった日本クラブユース選手権の初代チャンピオンは、枚方FCだった。
今日の日本サッカーの充実要因の1つが、特に中学生世代の選手を受け入れ、的確な指導でその能力を伸ばしている街クラブの存在がある(高校生世代でも、その存在は重要だが)。そのはしりが、枚方FCだったのだ。近江先生は指導法のみならず、「場」の作り方でも先鞭を着けたのだ。
この2点だけでも、冒頭に述べたように、先生の日本サッカー界に対する貢献の大きさが理解いただけると思う。
ただし、先生の発想はそこに止まっていなかった。先生は著書「日本サッカーにルネサンスは起こるか?」(枚方FCの自費出版)の後書きで、理想は
個性豊かな選手たちが素晴らしいテクニックで自由奔放に展開する創造性溢れるサッカーと明確に語っている。
私は自宅で一杯やりながら同書を読むのが大好きだ。後書きの別な部分を抜粋する。
実験は成功し、雑誌に連載された私の指導法は好評だった。でも、創造性向上を主眼とする教育の場合、今回の部分は文章化しにくい。(中略)そうした指導の思想、哲学、彼我の相違のよってきたる所以などをかなり綿密に分析、著述することができた。先生の理想は創造的、あるいはクリエイティブなサッカーだった。当たり前と言えば当たり前だが。
当然ながら先生は「見る」技術も格段だった。
85年の伝説とも言える国立競技場での日韓戦。ご承知のように、敗れはしたものの日本は見事な試合を行った。しかし、先生は健闘した日本代表に厳しい評価だった。「韓国は明らかに一枚上の実力、そして落ち着いて試合を運び、一枚落ちる日本のミスを待ち、確実にそれを拾った」
同じ85年に行われた、「史上最高のトヨタカップ、アルヘンチノス・ジュニアズ対ユベントス」、私のような凡人は、今なお鮮明なアルヘンチノスの美しい攻撃サッカーや、全盛期のプラティニのきらびやかなプレイばかりに気を取られていた。先生の評価は異なっていた。「世界のトップ選手を並べたユベントスが、局地戦的に試合を進めた」、「セオリーでは、『極力局地戦を避けて、オープンに展開すべし』と言う事になっているが、アルヘンチノスのチェックが極度に素早く強烈だったので、とっさにかわして、近くの味方と機敏に連係していくしか手がなかった」
私自身、この2試合の先生の評論を読んで、サッカーの見方が大きく変わったと思っている。
実は先生とは、1度じっくりとサッカー談義をさせていただいた事がある。上記の諸々を語り合う夢のような数時間だった。おひらき前に、「日本サッカーにルネサンスは起こるか?」にサインをお願いした。「常にクリエイティブに!」と書いて下さった先生唯一の著書は、私の宝物だ。
幾多の教え、ありがとうございました。









いえ、ガンバではなく前身の松下と書くべきでした。その後、ヴェルディとセレッソに所属しましたね。ご指摘ありがとうございました。
>なぜ、東芝は9点差で、あれだけペナルティをとったのに、1度も狙わなかったのか・・・
あの業界には、まだ「サッカー(サッカー的なるもの)」蔑視の感情がのこっているのでしょうか?
こちらはまだまだ若いのに・・・。