鈴木淳氏はいかなる人物か」と言う問い合わせがあった。確かにJSL時代からのファンやベガルタサポータの方々ならば、氏の出自などは当然ご存知だろうが、若い他チームのサポータの方々には氏の知名度は今一歩なのかもしれない。JFAやソニー仙台でのコーチになる前の、氏の簡単な略歴を振り返ってみた。
鈴木淳は技巧に優れたFWあるいはMFのプレイヤだった。JSLフジタの中核として活躍、MFから切れのよいドリブルで前進するのが特長だった。あの85年ワールドカップ予選では、一部の試合で木村のバックアップとしてベンチ入りした事もある。しかし、不運にもA代表出場は1度も無いと記憶している。
宮城県のサッカー界では、中学時代から高名な存在。仙台向山高では2年で日本ユース代表候補に、そして3年時は日本で開催されたワールドユースの代表に選考される。
このワールドユース代表は、相当強力なチームで、尾崎(後日三菱から西ドイツのプロへ)を筆頭に宮内(元女子代表監督、日本サッカー史に残るボランチ)、水沼(元日産、現解説者)、柳下(元ヤマハ、現ジュビロ監督)、金子(元古河)、中本(元NKK)、沖宗(元富士通)など、後日80年代の日本サッカーを支える偉材が多数活躍した。淳はこのチームに、風間(元サンフレッチェ、現解説者)、名取(元レッズ)と共に、高校生として選ばれ、「高3トリオ」などと呼ばれた(古い人にはわかるネタだ)。
日本は1次リーグで、スペイン、アルジェリア、メキシコと同じグループになった。初戦のスペイン戦を0−1で惜敗して迎えたアルジェリア戦。前半終了間際、敵ペナルティエリア近傍での尾崎のFKに合わせ、淳が完璧なダイビングヘッド。しかし、見事に枠に飛んだボールを敵GKが奇跡的なセービングで防いだ。その後も日本は猛攻をしかけるが、敵の巧みな守り方に、万事休し勝ち点1を取るに留まった。結果、日本は1次リーグ敗戦となった。淳のダイビングヘッドは、大会後のタラレバ話として、しばらくの間語り草となったものだった。
その後、筑波大に進学し、学生選抜(事実上、現在の五輪代表のようなものだ)などに選ばれ、卒業後フジタに加入。冒頭のように、技巧肌のMFとして活躍した。不運だったのは、加入したフジタのチーム作り方針の変遷。フジタは、70年代後半は、現役時代のセルジオ越後の薫陶を受けた古前田、今井らの日本人の名手に、カルバリオ、マリーニョを加えた、技巧的で魅力的なサッカーを見せていた。しかし、首脳陣の嗜好の変化か、80年代後半は守備的で頑健な選手を集めるサッカーが主体となり、技巧肌の淳は、次第に重用されなくなってきた。かくして、20代後半の若さで、フジタを辞め故郷に戻る。そして、黎明期のブランメルでプレイし、引退し指導者への道を歩み始めた。
モンテディオの監督としての引き合いと言うが、現在の監督柱谷幸一氏と淳は、上記のワールドユースで、トップのポジションを争ったライバルだった。あれから25年近くが経った訳だが、何とも言えぬ因縁を感じるのは私だけか。