2003年11月01日

ネルソン吉村の死

 ネルソン吉村が亡くなったと言う。まだ56歳、若すぎる死だ。心から冥福を祈りたい。 

 日系ブラジル人だったネルソン吉村の技巧は、日本人を驚かせた。独特の間合いのドリブルから、僚友釜本へ通す美しいパスの軌跡。さらに帰化して日本代表でも活躍。今日は私なりのネルソンの思い出を語る事にする。



 1つ目。私が大好きなネルソンのコメント。「ブラジル育ちだから巧いと言われるは心外だ、私は子どもの頃から誰にも負けないだけ練習をしてきた。」全く、おっしゃる通り。

 70年代、日本サッカーの技巧レベルが低い頃、「(日本人の血を持つ)ネルソンがあれだけの技巧を持てる」と言う事実が、「日本人でも適切なトレーニングを重ねれば、いくらでも上手になれる」と言う実証になった。ネルソンの存在が、日本中の指導者に「幼少時から技巧中心の指導をすればよい」と言う正論の心の支えになったのだ。次々に技巧に優れた選手が生えてくると言う今日の日本サッカー界の環境。その形成にネルソンが果たした無形の貢献は、極めて大きい。



 2つ目。よくネルソンに対する批評として、「持ち過ぎ」、「釜本にしかパスを出さない」と言うものがあった。それに対する反論が絶品。「下手な選手にパスを出しても取られるだけ、それならばシュートを打ってくれる選手にパスを出すか、自分が持つ方が、ましなはず。」このコメントは、現代の中盤でのプレスで押し潰されそうなサッカーにおいても、非常に意味のあるコメントではなかろうか。



 3つ目。必ずしも代表では、思うような活躍ができなかった事。ネルソンは、今日でもよく議論される「巧いが戦う気持ちが前面に出ない」タレントだった。

 中でも76年のモントリオール五輪予選での起用法は疑問が残った。エース釜本が絶好調だったが、MFの中核の(釜本とは大学時代からの僚友)ベテラン森が負傷で準備試合のほとんどを棒に振る。当然MFのリーダはネルソンと予想された。事実準備試合では、ネルソンは、タイミングのよい前進が得意の落合、豊富な運動量を誇る藤島と中盤を構成し、完全な中軸としてプレイしていた。ところが、肝心の東京での韓国戦で、スタメン起用されたのは、ぶっつけ本番同然の森だった。ネルソンは控えで、終盤FWとして起用されたが、その時点でスコアは0−2になっていた。当時、釜本、ネルソンらを軸とするヤンマーの攻撃力は、JSLで他チームを圧していただけに、もう少しネルソンを巧く使えていたらと思わずにいられない予選敗退だった。



 4つ目。全くあやふやな記憶。私が最初に見たサッカーの公式戦は、小学3年の時(ああ、今の愚息と同じ年齢だ)、仙台で譲渡試合として行われたヤンマー−日立戦だった。あの試合、肝炎上がりの釜本は不在だったが、ネルソンはいたはずだ。ただし、そのプレイ内容は何も覚えてはいないが。



 あの柔和な2枚目選手が見せてくれた数々の技巧に思いをはせながら考えた。ネルソンが残してくれた日本サッカー界への貢献に対して、日本サッカー界は一体何を提供する事ができたのだろうか。
posted by 武藤文雄 at 23:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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