2005年10月26日

1985年10月26日とは何だったのか

 本業の話、今日は外国から重要なパートナが来ており、大切な顧客とタフネゴシエーション。年齢のせいか、前線に出る機会が少しずつ減っているのだが、今日は自ら最前線の現場を仕切れるので、タフネゴを愉しんでいた。夕刻になり、打ち合わせのまとめに入る。それぞれの宿題を整理し始めた時に、ハッと気が付いた。「そうだ、今日は10月26日だったんだ。そうか、あのフリーキックから丸々20年経ったんだ。」あの美しい軌跡を思い出して、手と口が止まった。「FumioSan, What happened?」と問われて、我に帰った。



 20年と言われて、改めてビックリする事。

 あの韓国に惨敗した予選が85年。オフト氏の下アジアカップを制覇したのが92年。そして、イランと共に圧倒的な戦闘能力を見せ、最初の予選勝ち抜きを決めたのが今年05年。つまり、あの惨敗から僅か7年で、我々はアジアの最強国の一角を占めるに至り、以降13年間アジア屈指の強国として君臨している訳だ。

 ところが、何か不思議なのだが、85年から92年の7年間と言うのは異様に長いように思えてならない。多分、85年以前からの屈折した感情までを含めての記憶となっているからだろう。考えてみれば、68年にメキシコ五輪で銅メダルを獲得してから(つまりメキシコ五輪予選で、得失点差で韓国を振り切って以降)、85年10月26日まで、日本がアジアのタイトルマッチの主役あるいは準主役を演じる事はなかったのだ。おそらく、85年から92年までの、「たったの7年間」が異常に長く感じられるのは、その前の歴史である「アジアにおける敗北感」が大きく影響しているのだろう。

 言うまでも無く、歴史の分岐点は間違いなく92年にあるのだ(さらに詳しく言うと、アジアカップの前に行われたダイナスティカップの決勝こそ分岐点のように思うが、それは別な機会に)。



 では85年10月26日とは何だったのだろうか。

 それは前兆だったのだ。

 メキシコ五輪の成功は、限られたエリートプレイヤに対して、集中強化を実施したが故のものだった。そして、メキシコでの栄光獲得後、クラマー氏のアドバイスを受け、若き岡野俊一郎氏は各方面で語り続けた。「日本はアジアの中でもボール扱いは下手くそ、幼少時からボール扱いを中心とした指導を継続する必要がある。」と。実際、日本中の優秀なサッカーおじさんが、その岡野氏の呼びかけに反応し、優秀なプレイヤを幼少時から育成しようとした。

 その結果、加藤久が、木村和司が、原博実が、宮内聡が、都並敏史が、水沼貴史が、次々に登場したのだ。そして、そのような技巧と知性に優れた選手を組み合わせたチームにより、当時の日本は85年10月26日に到達したのだ。それ以降、日本協会は短期的強化に失敗。そして、それを埋め合わせるように、ハンス・オフト氏が登場し、以降我々は栄華を極めている。

 繰り返そう、85年10月26日は、前兆だったのだ。今日の栄華の。



 ついでに、もう1つ。

 あの85年10月26日。スタジアム中で日の丸が揺れた。美しい光景だった。

 しかしながら、今日の代表の応援風景に、日の丸は非常に少ない。これはもちろん、思想的な問題では無かろう。日本協会が青色の旗やマフラを積極的に販売するのに力を入れているだけの事だと思っている。

 しかしながら、大量に降られる日の丸の美しさは捨て難い魅力がある。もう少し代表戦で、日の丸を使う人が増えて欲しいと思っている。

 と言う事でスイスですよ。

 日の丸に勝るとも劣らない、シンプルなデザインの国旗。スタジアム中が揺れるあの赤字に白赤十字の国旗。スイスのホームゲーム映像を観るのは愉しい。

 できれば、来年ドイツで直接お手合わせをして、世界最高峰同士、国旗の美しさを争うのはいかがだろうか。
posted by 武藤文雄 at 22:06| Comment(8) | TrackBack(2) | 日本代表 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
あの日は座席に日の丸が置いてありましたよね。<br />
なぜかバックスタンドホーム側に韓国応援団用のスペースが設けられていたり。
Posted by DIEGO at 2005年10月27日 07:16
>85年から92年の7年間と言うのは異様に長いように思えてならない。<br />
<br />
ひとつは、その7年間の「後半」のせいではありませんか?<br />
<br />
森孝慈さんの後を継いだ石井義信氏のサッカーは、日本サッカー本来のスタイルではなかったようで、かなりの拒否反応があったようだが、一応の成果は残し、今振り返って再評価する人もいるようです。<br />
<br />
その次の、横山謙三氏。<br />
85年も、87年も、10・26に国立にいたある人の話。「森―石井とそれなりにいい流れで来たのに、横山でガクン!と落ちた」。横山氏にも言い分はあると思いますが、史上初めて解任要求を突きつけられた代表監督です。<br />
<br />
ここの検証がまだ不足しているような気がします。<br />
<br />
「日本サッカーの未来世紀」や「日本サッカー史代表編」でも突っ込んで語られていないような気がするのですがねぇww
Posted by 五反田西口 at 2005年10月27日 22:17
私はバックスタンドのアウェイ側の席でしたけど、<br />
韓国応援団席はバックスタンドのちょうど真ん中じゃなかったかなぁ。<br />
韓国がゴールする度、国立がシーンとなり、<br />
バックスタンドの中央部分からの歓喜の声と銅鑼の音だけが、<br />
国立に響いていたのを思い出します。<br />
<br />
和司のFKはホントに美しかった。
Posted by freemind at 2005年10月27日 22:21
古い話は細部がどんどん欠落して語り継がれていくので美しさが増していきますね。<br />
<br />
>五反田西口さん<br />
<br />
講釈師様はまさにその<br />
>史上初めて解任要求を突きつけ<br />
た狂会の一人では?<br />
釈迦に説法。
Posted by おそれおおい at 2005年10月27日 23:50
12年前のイラク戦があった日ですね。<br />
NHKBSでの岡田さんの涙が忘れられません。<br />
Posted by ヱビスの黒生 at 2005年10月28日 11:34
>釈迦に説法。<br />
<br />
だからこそ聞きたいなぁ。あの顛末。<br />
当時新聞で読んだときはここまで来たかと思ったものです。<br />
<br />
12年前、テレビ東京ではダイヤモンドサッカー陣とともに京都の監督が。
Posted by Unknown at 2005年10月28日 12:39
>おそれおおい さんへ<br />
<br />
だから文末に「ww」と付けたのです。
Posted by 五反田西口 at 2005年10月28日 21:36
あの日、バックスタンドに紙製の日の丸を配置し、入り口で紙製の日の丸を配りました。「サッカー狂会」でなく、「日本のサッカーを盛んにする会」という組織で活動してました。会場前に、日本協会に掛け合って、いれてもらいました。<br />
 それから、韓国の応援席は、早朝か前日から、バックスタンドの中央部からロープで区切られてましたね。ちなみに、北朝鮮に勝った雨の日も同様でした。<br />
 ’87年の中国戦は、2点目が入った瞬間にスタジアムを後にしました。<br />
このままじゃ、無理だと半分諦めにかかった瞬間だったけど。現在の状況だから、うれしいものです。
Posted by TACCI at 2005年10月29日 01:55
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Excerpt: 日韓戦     いい響きです。 昨日のWBC準決勝、日本−韓国戦。先の対韓国戦2試合が悔しい負け方だったので、スッキリする勝利でした  終盤韓国の集中力が切れたとはいえ、大量得
Weblog: 一日一伝(いちにちいちでん)
Tracked: 2005-01-01 00:00

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