当たり前そうに見える事だが、わずか2年前には、その当たり前の事が行われていなかった。2年前の天皇杯はジュビロが優勝したのだが、その際に「ジュビロは初優勝」と言う報道が非常に多かった(例えばこれ)。そんな馬鹿な話はなく、ジュビロの前身のヤマハは82−83年シーズンに、柳下、山本、長澤、石神、吉田らの活躍で優勝していたのだ。そのような報道に怒りをぶつけた事もある。どうも、当時はJリーグ以前の日本サッカー史を軽視いや無視する傾向があったようで、「ジュビロ初優勝」と言う報道になったようだ。
しかし、どうやらそのような事態は改善されたようだ。もしかしたら、微力ながら私がグダグダ文句を言ったのも、奏功したのかもしれない。さすがにそれはないか。
さて、25年前、80−81年シーズンの決勝だが、珠玉の5選とする試合ではなかったが、ある意味では非常に印象的な決勝戦だった。と言うのは、三菱の対戦相手がJSL2部の田辺製薬だったからだ。JSLが充実した70年代以降、常に決勝戦は1部同士の対戦となっていた。そしてこのシーズン、72年にJSL2部が作られて以降初めて、2部のチームが決勝進出した事になる。田辺は、賀川浩氏の著作にしばしば登場するが、50年代から60年代にかけて日本サッカーをリードした古豪であり、73年シーズンには1年だけだが1部で戦った事もある伝統的なチーム。
実はこの大会は、スペインワールドカップ1次予選(川淵監督が率い、金田、戸塚、風間の和製黄金の中盤をアジアにデビューさせた大会)が年末に行われたため、1回戦から準決勝までをごく短い期間(数日間、つまり数連戦)で消化して行われたため、番狂わせが起こり易い状況だった。そして田辺は、2部のライバル本田(そのシーズン2部で優勝し1部昇格を決めていた、ちなみに田辺は10チーム中6位だった)、ヤンマー(現セレッソ、当時は釜本がまだ健在)を1点差で下した後、準々決勝で東洋(現サンフレッチェ)、準決勝で読売(現ヴェルディ)をPK戦で破り決勝進出。小柄だが反応の速いGK江角を中心とした堅実なチームだった。
決勝戦は、田辺の地元関西から大量の応援団が駆け付け、当時の天皇杯にしては大変盛り上がったスタンド風景となった。田辺は開始早々から、早めにロビングを上げ、複数の選手が飛び込む、単調ながら勇気ある攻撃でペースを掴んだ。しかし、三菱はGK田口とDFリーダのベテラン落合、守備的MF藤口が、冷静に守りペースを取り戻す。そして前半のうちに、巧妙な攻撃から先制。その後は落ち着いてボールをキープし、1−0で天皇杯を制覇する。点差こそ1点だが、序盤以外は完全にペースをつかみ続けた試合、ある意味では堅実で強いチームが、えげつなく勝ち切った試合だった。当時の三菱は、原はまだ入団していなかったが、尾崎、名取、川添と、攻撃ラインに若手のスターが多数活躍していた。
やはり四半世紀とは実に長い期間だ。しかし、当時の中核だった藤口が大物幹部として、名取が若年層コーチとして、それぞれレッズで活躍しているのを考えると、この人気クラブの偉大な歴史を改めて感じる事ができる。
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Jリーグは人気を獲得するためにJSLとの断絶を強調した……ということを指摘する人は結構いました(サッカーに好意的でない仙台出身のライターとか)。<br />
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それが、最近では「サッカーJプラス」の特集記事のように、浦和と三菱、ヤンマーとセレッソを連続した歴史としてとらえるように変化しています。(これは武藤さんが応援していた青い縞馬など、まだまだいろいろ使えますねw)<br />
ですから「25年ぶりの優勝」と表現する兆候は既に見られました。<br />
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月並みですが、それだけサッカー文化が成熟を見せていると言うことなのでしょう。