毎週火曜日は、最寄駅のキヨスクで中学生時代以来の愛読書サッカーマガジンを購入し、通勤電車で愉しむのを常にしてきた。思えば、毎号購入し始めたのは、74年のワールドカップ以頃だから32年間も通読していた訳である。もっとも、週刊化したのは比較的最近の事だから「通勤の友」化したのは、せいぜいここ10年ちょっとの事で、多くの期間は月に1度の愉しみだった。逆に当時は、サッカーの情報が少なく、国内事情、海外事情、各種記録、大会予定、サッカー上達法など、サッカーに関する総合情報が満載で、発売日を心待ちにしていたのも懐かしい思い出だ。
常に競合としてやや柔らかな立場で編集されていたイレブン、新興の雑誌であるサッカーダイジェスト、ストライカーと競合誌は存在したし、一時はその全てを購入していた事もあった。しかし、90年代に入り、新聞などでサッカーが取り上げられる機会が飛躍的に増え、雑誌媒体を全て購入する必要性がなくなった時点(これがちょうど週刊化した頃となるか)からは、ずっとサッカーマガジン1本に戻していた。
私の思いと言う事を抜きにしても、日本のサッカー商業誌としては、サッカーマガジンが代表的なものであり、サッカー界における重要なオピニオンリーダの地位を占めていた事に異論を唱える人は少ないと思う。
そのサッカーマガジンが大きな転進をする事になった。
牛木素吉郎氏の連載が、今号(9月26日発売の10月10日号)で終了すると言うのだ。しかもサッカーマガジン編集部が打ち切りの判断をしたのだと言う。これは、日本サッカー界にとって大変な事件だ。
サッカーマガジンと言う雑誌が、サッカー界におけるオピニオンリーダとして過去40年間君臨できた要因の1つには、牛木氏の連載があったと考えるのは私だけだろうか。と言うより、若い頃の私にとって、サッカーマガジンの牛木氏の連載は、サッカー界のあるべき姿、欧州、南米の先進地域の仕組み、先進地域の仕組みをいかに日本に導入するか、こう言った「日本サッカー界のあるべき姿」を、毎月講義してくれるものだった。私は、サッカーマガジンと言う媒体を通じて、賀川浩氏からピッチ上のサッカーの愉しみ方を学び、牛木氏からサッカー周辺文化の奥深さを学んだのだ。
連載最後となった今号で、氏はサッカーマガジン黎明期に
(1)地域のクラブを基盤に
(2)プロを導入
(3)ワールドカップを目指そう
と言う内容を述べたと記述されている。今となっては全てが実現された事であり、若い方々には「当たり前の事」と言う認識しかないかもしれない。けれども、牛木氏の凄みはそれが実現された90年代前半よりも約25年前に、その事を主張し、いやその後も主張し続けた事にある。何ゆえ氏がそこまで先進的な発想を抱くに至ったのか、実は直接氏に尋ねた事があり、またそのあたりの歴史的背景に関しては、自分なりの考えもあるが、そのあたりは別な機会に述べたい。
いや、その他にも牛木氏は先進的な主張を多数述べている。例えばワールドカップ予選やや五輪予選をホーム&アウェイで行うべし、と言う提案も斬新だった(60年代から70年代にかけてはセントラル方式で予選が行われるのが通例だった、牛木氏はセントラル方式を好む日本協会を批判した訳)。余談ながら、上記のホーム&アウェイ開催の主張については、翌月号で協会サイドの岡野俊一郎氏が「日本協会もアジア連盟にその主張はしたが却下されたのだ」などの反論が載った事もある。愉しい時代だった。田島氏は岡野氏の爪の垢でも...いや格が違いすぎるか(ちなみに岡野氏と牛木氏は、東大サッカー部、正しくはア式蹴球部と言うのかな、の先輩後輩との由)。
もちろん牛木氏のピッチ上の評論も素晴らしいものが多かった。個人的に忘れ難いのは、91年欧州チャンピオンズカップ決勝、レッドスター対マルセイユの戦評。両軍が秘術を尽くして敵のよさをつぶし合う素晴らしい試合について、的確な論評を流してくれた。日本から取材に行った多くのライタ達が「ただ守備的な試合」と述べていたのとは実に対象的だった。
サッカーの情報があふれるように流れる今日。必ずしも取材の環境に恵まれていない牛木氏の視点が、やや古いものになっていた事は否定しない。けれども、氏の論評の視点は一切ぶれていなかった。日本サッカー界のご意見番として、力尽きるまで連載を継続していただきたかったのだが。牛木氏の連載を終える事により、サッカーマガジンは、業界のオピニオンリーダの座を危ういものにする事を、自ら選んだと言うのは言い過ぎか。
いずれにせよ、来週から愛読書の継続購入をすべきかどうか、迷う日々が始まるのは間違いがない。
<以下加筆、06年9月30日>
コメント欄でmasuda氏に指摘いただきましたが、牛木氏の過去作品及び最新の文章は、氏の主宰されているWEBサイトで読む事ができます。過去の作品が少しずつ公開されていくのは、本当に愉しみです。最新に公開されたアーカイブ(忙しすぎる日本サッカー ムルデカ参加はなぜもめたか?)などは、日本サッカーの歴史を勉強(周辺アジア国との関係、岡野俊一郎氏の大奮闘、当時の日本代表選手の負担など)するのに最高の教材と言える程です。
考えてみれば、氏の文章はこのサイトなどで読み続ける事ができるのですから、我々は困る事は全くない訳ですね。
2006年09月26日
この記事へのトラックバック
<br />
http://www.vivasoccer.net/archives/archives_index.htm<br />
<br />
プロアマ問題のたとえで将棋の大山康晴十五世名人が出てくるのが妙に新鮮。書かれた時代が分かります。<br />
#1951年に木村十四世名人を破ってからの20年弱をほとんど負けずに過ごした将棋界の傑物。
昔は、W杯について「プロもアマも一緒に出場できる大会」という但し書きがあったが、今は絶滅している。<br />
あるいは単純に日本が弱かったからずっとアマチュアのままだったと勘違いされているかもしれない。<br />
<br />
アマチュアリズムという物心両面の縛りから抜け出すのに、あるいは海外からプロチームを呼びながら、国内ではアマチュアリズムに従属しなければならないダブルスタンダードに、どれだけ日本サッカー界が苦しんだか、一から説明しないと、分からないのかもしれませぬ。<br />
<br />
最近は目を通していませんが、三起也センセイは?
<br />
ただ、若い人が牛木氏が語った理想をどれだけ理解できているかは疑問なのですがね。理解できない人がマジョリティになったから連載を切られたとも言えるのでしょう。
(世界バスケの盛り下がりを見て、ラグビーも無理してW杯日本開催していたらこうなったかも、という書き込みがあった)<br />
<br />
これに日本サッカー界ももがいていた。今の人に実感として伝えるのは、やはり簡単ではないと思うのです。<br />
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%9E%E3%83%81%E3%83%A5%E3%82%A2%E3%83%AA%E3%82%BA%E3%83%A0<br />
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%99%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%87%E3%83%BC%E3%82%B8<br />
<br />
講談社からの「ワールドカップ 世界のプレー」を大会毎に刊行、ジュールリメ氏の「ワールドカップの回想」(ベーマガ)の監修など、牛木さんの業績には、こうした方面での啓蒙にありました。