この作品は88年10月26日に国立競技場で行われた日韓定期戦(0−1で敗戦)で、見事なプレイを見せてくれた当時21歳の井原に感動して書いたものです。
この日も完敗だった事は確かなのですが、最終ラインを引き締める井原のプレイは、かつての日本選手のスケールを遥かに越えたものだと確信したのです。「ついに日本にこのような選手が現れた」本当に嬉しかったのです。その嬉しさのあまり、この作品をサッカーマガジンに投稿し、晴れて採用されました。
またも残念無念の10月26日だったが、この日私は韓国に敗れた悲しみを抱きつつも、1つの喜びを持って国立を去る事ができた。
その喜びとは、井原正巳の存在である。
確かに代表監督横山謙三氏の采配には疑問が多い。GKやサイドバックの不可解な起用、ストライカとして期待できる前田治を常時使わない事等々。しかし、私は敢えて横山氏を高く評価したい。横山全日本のリベロとして、井原は完全に定着し、インタナショナルプレイヤとして実力を発揮し始めたのだから。
ナポリ戦、アルゼンチン五輪代表戦、ソ連五輪代表戦と、リベロの井原の活躍は際立っていた。相手FW2人に囲まれても決してボールを奪われない技術、前線へ出す40mクラスのパス、味方DFのミスの素早いカバー。そして、その能力はこの日の韓国戦でも十二分に発揮された。井原の存在のみで日本のピンチがいかに少なくなった事だろうか。
当面井原の課題は、攻め上がってのラストパスの工夫と、守備ラインの組織構成ではなかろうか。井原にこの2つの課題をマスターさせる格好の教材がある。そう、復調なった木村和司と、相変わらず読売で抜群の能力を誇る加藤久である。木村のパスは井原の教材としてはもちろん、原、水沼、前田、名取らを一層輝かせる事だろう。そして、加藤と井原が守備の中央に並んだ時、この守備ラインを容易に突破できるアジアのチームがそうあるとは思えない。その時、我々サポータの眼前に「ローマへの道」が開かれるのだ。
「ローマへの道」、それは遥か遠く険しい道である。しかし、井原のプレイを見る度に、その道が次第に太いものになっていくように思うのは、私だけだろうか。
1988年10月26日
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