20年経った。そして、夢はすべて叶った。いや違う、夢にも思わなかった事が次々と到来してくれた。
正直言おう。あの試合を観ながら、随分と複雑な気持ちだった。
もちろん、それまでの1年間で、既に「相当数の」夢は叶っていた。それらへの喜びは、とてもとても大きなものだったのは間違いなかった。
地元で行われたアジアカップで、アジアチャンピオンになった。
UAEに競り勝ち、ワールドカップ最終予選に進出していた。
ビッグゲームで国立競技場が満員になるのは、当然の事となっていた。
半年前のナビスコカップで、各クラブにサポータ集団が登場していた。
テレビでサッカーが採り上げられる頻度は格段に上がっていた。
繰り返すが、それぞれは大変な歓喜を伴うものだった。でも、私はあの試合を観ながら、何か白けていたのだ。
もちろん、井原はいつもの通り最高だった。木村和司も体調は上々の模様で、相変わらず愉しい選手だった。当時33歳になっていたラモン・ディアスの技巧とシュート力には感服した。この半年でカズは格段に成長し、「格」を身につけつつあった。加藤久はいつも強くて堅実だった。北澤の運動量に支えられ、時々サボるもののラモスの視野の広さは抜群だった。おもしろい試合ではあった。
しかし、サッカーの質と言う視点ではいかがだったか。
たとえば当時のヴェルディ。90−91年シーズンに、カルロス・アルベルト・ダ・シルバ氏が率いた読売のサッカーと比較し、むしろ連動性や変化は悪くなっているように思えた。
と言うか、別にJリーグと言う衣を着なくても、日本リーグの質は存分に高かった。既に80年代半ばに古河と読売はアジアを制していたし、ハンス・オフトと言う上質な指揮官が常識的なチーム作りをするだけで、短期間で強力な代表チームを作る事もできていた。そして、Jリーグになったからと言って、サッカーの質が格段に上がった訳ではなかった。
ピッチの外でも、感心しない事は多かった。
毎週2試合と言う異様な日程のみならず、延長戦にPK戦。必然的に訳のわからない勝ち点計算。
突然にあり得ないような収入を選手に約束し、まともな経営状況ではなかった各クラブ。
明らかな盛りを過ぎまともな鍛錬をしていない外国から来たベテラン選手(いや、ジーコとディアスは、すばらしかったけれども)。
常識的な評論もできないマスコミが、跳梁跋扈しているのもいらだちの要因だった(え?!今でも…)
だから、不安で不安で仕方がなかったのだ。こんな、訳のわからん状況がいつまでも続く訳がないだろう、と。
残りの人生で、1回はワールドカップを経験できるのだろうか。
再度アジアカップを制する機会は来るのだろうか。
井原の後にアジア屈指のタレントは登場するのだろうか。
あの派手な派手な開幕戦を観ながらも、不安感ばかりが心を占め、周囲が騒げば騒ぐほど、白けた気持ちになっていたのだ。
それにしても、先見性のない男である。
私の眼前には、これ以上ない至福の光景が展開されている。
日本全土津々浦々に、プロフェッショナル選手を揃えたクラブが存在している。そして、毎週末にはよく計画された通りにリーグ戦が行われる。その試合一つ一つは、皆どこの国の人々に見せびらかしたい内容だ。全選手が技巧にあふれ、勤勉で組織的、攻守のバランスもしっかりしており、そして何より全員が少しでもよい結果を目指し、健全に戦い抜く。まあ、個々の判断力にいくばくかの改善余地はあるかもしれないが。
サポータの我々は、週末に試合を堪能する。試合後、たいがいは愚痴を、たまには歓喜を、それぞれ酒の肴に語り合う。
「だから、どうだったのだ」と口泡を飛ばしているうちに、気がつくと次の週末が来る。
日本代表は、今や世界屈指の存在となりつつある。
ドーハ。帰国後、日本中が悲しみに沈んでいた。近親者が亡くなった訳でも、傷ついた訳でも、多額の金銭を失った訳でもない。でも、あんなに悲しい想いを抱く事ができた。サッカーのすばらしさを再認識した。
ジョホールバル。人生すべての涙と絶叫を出し尽くしたあの晩。昨年所要でシンガポールを訪れた。対岸まで行った。あの地を見るだけで、いくらでも涙を流す事ができる。
利府。故郷で敗退を経験する事ができるなんて。ワールドカップの2次ラウンドで敗れ、飲み明かし、最後は実家で絶望感を味わえるなんて。これは、私のためのワールドカップだったのだ。
そして、私の日本代表は、今や世界屈指の存在となりつつある。2次ラウンド以降、いかにもがくか。いかに粘り強く戦うか。いかにイタリアるか。愉しみは尽きない。
そして、私のベガルタ。
正直言って90年代のあれこれは、インサイダ情報を含め、語りたくない事、語れない事が多過ぎる。でも、清水秀彦氏が来臨した以降の七転八倒は、もう最高、超絶、至高だ。
マルコス、マルコス、マルコス、マルコス、マルコス、マルコス、マルコス。そして財前。
初めてのJ1。清水氏の創意工夫による究極の自転車操業。
何かしら必然的にも思えたJ2降格。愚かなるフロント、1億円の違約金。算数ができない監督。無駄な有能ブラジル選手。そして反転攻勢。
磐田の夜。
千葉直樹の矜恃。朴柱成のロスタイム。関口のクロス、平瀬の老獪。
あってはならない自然の脅威。
湧き出る速攻。組織的で激しい守備。粘り強いボール回し。ピッチ上の戦士達も、スタンドの我々も最後の最後まで諦めなず戦い抜く。
とうとうたどり着いたACL。
もう単純に愉しくて愉しくて仕方がない、異国の強豪との死闘。失態、安堵、諦念、絶叫、苦闘、そして痛恨。あと1つ、あと1つ勝ち点を積む事ができていれば、20年間を振り返るような悠長な講釈とは無縁だったのに。くそぅ。
我々は世界最高峰のリーグ戦を所有しているのだ。
この幸せをじっくりと堪能しよう。
何回でも語ります。私は、幸せで幸せで、仕方がありません。
これ以上の幸せな人生は考えられません。
だから。
井原正巳のすべてに。プレイヤとしてのジーコに。カズに。福田正博に。中山雅史に。堀池巧に。名波浩に。薩川了洋に。大森征之に。あの晩の中田英寿に。明神智和に。松田直樹さんに。鈴木隆之に。中澤祐二に。遠藤保仁に。中村俊輔に。中村憲剛に。佐藤寿人に。岡崎慎司に。
マルコスに。千葉直樹に。木谷公亮に。菅井直樹に。萬代宏樹に。朴柱成に。そして、梁勇基に。
そして、すべてのサッカー人に。
本当にありがとうございました。幸せな幸せな20年間でした。皆で愉しく、もっともっと愉しい時を過ごしていきましょう。
2013年05月16日
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これから先の20年もめちゃくちゃ楽しみです。
サッカーを好きになれて良かった。
歳を重ねることが、こんなに楽しみなんですから。
こうして、いろんなことを経験しながら歴史を紡いでいくのですね。
したがって勝ち点計算はなかったので、むしろプロ野球
みたいで単純明快だったわけですが。
20年の歴史って、こういう記憶の混線を生むことも
含みますね。
ともかく、20歳、おめでとう。
私のために、このような素晴らしい文章を書いていただき、ありがとうございます。
私もこれから年老いて、厳しい暮らしを強いられるかもしれませんが、Jがあれば、そしておらが町のクラブが続いてさえいれば、少なくとも一つは生きる楽しみが保証されている。なんと素晴らしいことでしょう。
20年前の開幕戦。光景が浮かびます。そして私も同様にどこかに不安を持って観ていました。
それにしても、この手の文章、ますます磨きがかかったね。
つい涙腺が...
ありがとう。
ですね。
どうもありがとうございました。
鈴木隆之→鈴木隆行
私も同姓で武藤です。
これからもベガルタ19への叱咤激励よろしくお願い致します。
いつの日かご挨拶したいと思っておりました。
武藤さんのサッカーバカぶりに感激し、コメントさせていただきました。
私も会社で、思わず涙腺が崩壊してしまいました。
サッカーが大好きです。
これからも楽しみにしております。
ありがとうございました。
これからも精進いたしますのでどうぞよろしくお願いいたします。