元々は日本サッカー狂会報に投稿した作品ですが、記念すべき狂会報の第100号に掲載されたのもよい思い出です。
オリヂナル版は、狂会員の友人達が皆本名で登場しますが、さすがにBLOG版ではそれは拙いので、頭文字での登場とさせていただきました。皆、日本サッカーの暗黒時代から諦める事なく日本代表を応援し続けた戦友たちです。
なお、日本サッカー狂会創設者であられる、故池原謙一郎先生と、鈴木良韶和尚だけは本名で登場いただきました。お2人はサッカー界においては完全な公人と考えているからです。なお、当時病気療養中だった池原先生は、約4年後の2002年3月に、地元でのワールドカップ開催を待たずに逝去されました。
ジョホールバルと言う単語を聞くだけで、今なお目頭が熱くなる気がします。本当に幸せな一夜でした。
(2007年4月2日)
<以下本文です>
1.その瞬間
逆行性健忘症と言う言葉を聞いた事がある。あの瞬間の事を思い起こそうとすると、思い出せないのである。もう一度おさらいして見よう。
アベドザデが城との交錯で負傷(今なお、本当の負傷だったかどうか確認は取れていないが)し、何度も転倒する。それまで再三、彼我のGKの差を痛感させられてきており、PK合戦と言う単語を何より恐れていた私がつぶやく。
「これでPK合戦になっても大丈夫だろうか。」
隣にいるHE氏が反駁する。
「そうではないわ。このまま行ったらPKに持ち込まれてしまうじゃないの。」
しかし、時計は回る。
その時、今まで眠っていたかのようなマハダビキアが挙動を開始する。相馬が止められない。クロスが上がる。上がった瞬間、ボールの緩やかな挙動が、秋田を越えアリダエイに到達する事がわかる。そして、アリダエイ!その瞬間、メルボルン遠征が頭に浮かぶ。このような一方的なゲームで押されっぱなしのチームの大エースにボールが届けば勝負が逆につくことを何回経験した事だろうか。しかし、この日のサッカーの神様はシーア派ではなく、神道系だったようだ。なすすべのなくボールの軌跡を見送る川口をあざ笑うように…ボールは枠を外れていった。
その後の記憶がないのである。
ただし、岡野が遮るものがない地点から、全身を硬直させてサイドキックをしようとした瞬間から、この日6回目となるゴールネットの揺れまでの間ははっきり記憶している(開始30秒にもう1点入っていたことを忘れてはいけない)。数mの距離をボールがころがる時間が、何秒にも何十秒にもいや無限の時間に感じられた。それから、副審が旗を上げていない事、主審の試合終了の動きは間違いなく確認したのは間違いない。
そして、またそれ以降の記憶がない。
つまり、中田のドリブルシュート、岡田氏の全力疾走に関して何も記憶がないのである。
記憶が戻るのは、数人隔てたところで応援していた、長年の僚友、FS氏と肩を抱き合い座り込みながら号泣していた時である。それ以降は覚えている。
ただ、FS氏と抱き合いながら、
生涯で最も、興奮し、恐怖し、快感を味わい、そして疲れた3時間が、
そして、上下激しくつらく楽しい2ヶ月半が、
それぞれ終わりを告げたこと、
そして、37年間の人生で追い続けてきたものを間違いなく掴み取る事ができたこと、
それらのことが、少しずつ、少しずつ、心に染み込んできた。
2.試合前
朝からジョホールバルの街には日本人があふれていた。この街に日本人がこれ程たむろするのは、今をさること55年前、山下中将が3個師団を率いて、昭南島を目指した時以来ではなかろうか。ま、そんなことはどうでもよい。とにかく、ジョホールバルは中立地ではなくなってしまった。今の日本人サポータのパワーを考えると、アジア内で真の中立地を求めるとしたら、基本的にビザが出てこないイラクくらいしかないかもしれない。この試合など、いっそ東京でやった方がイランの応援は多かったのではないか。上野公園で怪しげなチケットが大量に出回り、国立競技場は立錐の余地無く7万人の大観衆で埋まったりして。4年前のカップウィナーズカップ決勝の日産対ピルズィ戦がなつかしい。
競技場も会場直後から青一色に埋まってしまう。そして、その青一色の中で異様な集団が存在する。バックスタンド正面ハーフウェイライン延長線上に、狂会席が実に広島アジアカップ決勝のサウジ戦以来5年ぶりに復活したのである。TS氏、GK氏、OT氏、AN氏、ST氏、TH氏、OS氏、KT氏、SH氏、SN氏、HH氏、HY氏、OI氏、KH氏、前述のFS氏、HE氏、少し離れた所にはKJ氏、OS氏、UE氏等々…いずれのお歴々も、豊富な国際経験と敗戦経験を誇り、その存在感は1人で凡庸なサポータ10人分以上とも言われ、日本サッカー界の暗黒時代を底辺で支えてきた、ただのサッカー狂である(抜けた人がいたらごめんなさい、記憶に頼って書いているものですから)。これだけの顔ぶれが一同に会すのは、いったい何年ぶりであろうか。一つ残念だったのは、1人で100人分に値する鈴木和尚が(ジョホールバルにいらしたにもかかわらず)連絡不足で合流できなかったことくらいか(Jリーグ以前、日本サッカー狂会員はいずれの競技場でも、バックスタンド中央やや上方に集まるのを常としていた、国立競技場で言うと19番ゲートやや上方、我々はそこを狂会席と呼んでいた)。
もちろん、諸般の事情でジョホールバルに来られなかった方々もいる。例えば、前日学芸会があった会報編集のAO氏、翌日に裁判を控えた風俗事件訴訟で横浜に名高い弁護士SH氏、その理由は明らかにされていないが海外のゲームは観戦しないことにされていると言う女帝GH氏など、来られなかった方々の悔しさはいかほどであろうか。ざまあみろ。ま、来られなかった新旧狂会員の方々にお願いしたい事は、やはり今後ジンクスと言うものを信じて、一切代表の試合を生で観戦しないことである(と、死者に鞭打つのであった)。
それにしても、ここまでの道のりの長かった事。2次予選前、私は各国の戦闘能力を分析し、極めて楽観的な予想を行った。ただ、気がかりだったのは、昔から友人たちに「お前の予想は一見もっともらしくて納得させられるが、当たったためしがないではないか。」と厳しく指摘、糾弾されていたことだった。そして、今回の予選もその通り、私の予想は大きく外れ続けた。東京でのUAE戦の直前には、SY氏(あ!この人も来ていなかった)から
「武藤さんは今後試合の予想を一切行ってはいけない!」
と叱られてしまった。ま、いろいろあったが、無事予想は大きく外れ、ここまでの8試合と言う分厚いステーキに、生きるか死ぬかのスリルとサスペンスと言うソースと、監督更迭劇と言う素敵なスパイスまで加わり、2ヶ月半をたっぷり楽しむ事ができたのであった。しかし、この時点では、その2ヶ月半をさらに凝縮したエンタティンメントを、これからたっぷり3時間楽しめるとは誰も予想していないのであった。
3.前半
試合は、いきなりハクプールの目の醒めるようなダイビングヘッドによる自殺点(結局オフサイド)で幕を開ける。いかにも、荒れそうな予兆である。隣のGK氏、HE氏と語る。
「きょうもまた疲れる試合になりそうだ。」
そして、その通り疲れる試合になっていく。
試合は日本の猛烈な中盤でのプレッシングをイランが中盤でしのぐと言う予想通りの内容で進む。
イランの新監督バドゥ氏とは、朝ホテルでサインをもらった時会話する事ができた。
「きょうは是非頑張らないで下さい。」
と言った私に対して、ニヤリと笑いながら、
「所詮私は監督です。私はあなたの希望通り頑張りませんが、選手たちがあなたの希望を打ち砕いてしまうでしょう。」
バドゥ氏は、日本対策と出場停止のやりくりであろう、3:4:3できた。岡田氏が試合後「イランが3トップで助かった」と言うコメントを発した事もあり、このフォーメーションはイランの作戦ミスと言う声が多い。私はそうは思わない。ただし、この作戦がこのエキサイティングな試合の様々なアヤとなったことは間違いないとは思う。
この日のイラン守備陣は北沢を押さえる人間がはっきりしないため、そこを基点に前半から日本の攻め込みの頻度は相当多かった。これは、イランのフォーメーションが日本にとって有利に働いた点である。しかし、そこからなかなか決定機につながらない。北沢から日本の2枚看板である名波と中田の攻め上がりにつなげないのである。それは左右のボランチに起用されたザリンチェ爺さんとマンスリアンが、見事に左右のスペースを押え込んだからである。特にマンスリアン!適切なポジショニング、球際の強さ、さばきの早さ、日本の右サイドは見事に封印されてしまった。
ただし、イランは日本の右サイドを押え込むことはできたが、中田を押え込むことはできなかった。これがこの大一番の勝負を決める事になったのは、皆さんご存知の通りである。
反対側のゴール前では逆の展開が続いていた。イランの攻め込みの多くは日本の中盤のプレッシングに引っ掛かり、頻度は少ない。しかし一度中盤を何とか抜け出すと、トップが強力なだけに確実に川口を脅かす。
右ウィングのマハダビキアはとにかく速い。まともに1対1で正対すると、相馬は歯がたたない。しかも、後方からあのザリンチェ爺さんがサポートしてくる2次攻撃。イランは、どんなに日本のプレッシングに押し込まれても、何度か右サイドに起点を作り、前線へ持ち出す。
アジジの抜け出し、ポストを直撃したマハダビキアのシュート、前半2回も日本は完全に崩された。もし先制点を許していたら…私は3トップが日本に有利に働いたなどと断言できる程の度胸はない。
一方で、アジジが左サイドに貼りついたために、名良橋がマークする事になったのは日本にとって幸いだった。名良橋ならばアジジのスピードに対応できる。もし、前半消耗していないアジジが中央にポジションを取っていたら、山口が対応することになったはずだが、想像したくない程恐ろしい事態になっていただろう。
手数の日本、一発のイランとお互いが特長を出し合っての美しい攻め合いが続いた前半だったが、中田がやってくれた。絶妙なスルーパス、しかもそのバウンドは中山のぎこちない疾走とリズムが一致する。蹴る直前に私は中山のゴールを確信した。
一同熱狂、阿鼻叫喚、抱合転倒、日丸散逸、旅券在腹、先週のカザフ戦でさんざん中山を愚弄した私に、ジュビロフリークHE様(別名柳下の愛人)のお怒りが下りる。土下座して謝る。はいはい、土下座して中山が点を取ってくれるならば何回でもいたします。
かくして、前半は終わった。暑さと湿気に加えて、異様な緊迫感。胃はキリキリ痛み、呼吸するのも苦しい。応援し続けるだけでもしんどい、疲れるあまりにも疲れる45分間だった。
4.ハーフタイム
ドーハはアルアリスタジアム、4年前のあの日。きょうと同じスコアのハーフタイム、一緒に見ていたTS氏、OS氏と語り合ったのを今でも覚えている。
「ババは後半立ち上がり仕掛けてくるのではないか。」
「柱谷はラーマンナディを止めきれなくなっている。」
「北沢を起用して守りを固めねばならない。」
「ラモスがいつまでもつだろうか。」
このまま終わらない事はわかっていた。3人共わかっていたのである。理屈の上では。でも、私は2人に言った。
「ともあれ、このままあと45分過ぎれば、ワールドカップって言うのに出られるんですよね。」
あの経験豊富なお二方も認めた。
「そうだねえ、あと45分だねえ。」
3人とも感情的にはわかっていなかったのである。
TS氏からは翌朝、OS氏からはその後の天皇杯決勝で前園が素晴らしいドリブルでアントラーズの守備を切り裂いた頃、それぞれ言われた。
「選手たちだけでなく、我々も経験不足だったねえ。」
もう違う。我々も経験を積んだ。誰もが皆わかっていた。このままでは終わらない。終わってはくれない。だからこそ、しっかり守って欲しい、とにかく最初の10分をしのいで欲しい…
5.後半
なんと井原が…
しかし、日本の攻め込みは続く。後半になり、目に見えてザリンチェ爺さんの運動量が落ちてくる。名波のサイドチェンジ、マンスリアンのカバーリングを逃れて左に流れる中田、イランの守備ラインが崩れる。北沢の動きが、さらに中田の自由な動きを呼ぶ。
中山のヘッドは見当違いの方向に行く。北沢のシュートも入らない。中田ならばどうだ。でも入らない。
そして、マハダビキア…アリダエイ!
やはり勝てないのか、フランスへは行けないのか、メルボルンに行かなくてはならないのか。
ロペスと城がタッチライン沿いに立つ。まさか、また3トップにしようと言うのか、落ち着いてくれ、岡田よ。
しかし、予備審判の交替板には「11」と言う数字が表示されていた。カズが叫ぶ。
「本当に俺なのか?」
私も叫ぶ。
「本当にカズなのか!」
まさにこの場面は、日本サッカー史に残る名場面の一つだった(もっとも、この場面意外にも歴史的名場面が満載の、実に疲れる試合ではあったけど)。
なるほどカズは、調子を崩していた。もともとカズの存在意義はゴールにあり、点を取らないカズは何の意味を持たない事は、皆分かっていた。確かにカズのシュートは入らなかった。でも、他の選手のシュートはもっと入りそうになかったことも事実なのである。今まで、苦しい時、つらい時、何回この11番に助けられた事だろう。最も実績があり、大舞台に強く、苦境時に冷静さを保つ事のできる男を、この大事な試合、リードを許している場面に、何回も試されながら後一歩のところでシュートを決められない事で定評のある城彰二に代える岡田氏の決断力。私は驚き、そして「思わしくない結果になるのではないか」と恐怖した(ただ、私は城に捨て切れない魅力も感じている。とにかくシュートは入らないが、シュートに持ち込む時冷静にプレイしようとしているから)。
試合後、この交替を当然と評価する向きが多かった。繰り返すが、私にはとてもそうは思えない。この交替を当然と思う人には、カズの偉大さも、岡田氏の決断力も、そして中田のすごさも、いずれも本当の意味でわからないだろう。増して、最近、中田と対比させてカズバッシングをする馬鹿どもとは口を効きたいとも思わない。
全く関係無い話、帰国してからテレビで見ると、ベンチで観戦するカズの落着かない素振りはとても可愛らしかった。どうも、このカズと言う男の気持ちは、我々と近いものがあるようだ。
イランの疲労はいよいよ目立つ。コンディショニングの失敗(直前のマレーシア入り、もっとも試合があるかどうか決まったのが直前だけにやむを得ないか)、マレー半島独特の湿気、日本の猛烈な中盤のプレス。中田が逆転前にも増して自由に動く。名波が後方から高精度のロングパスで組み立てる。中盤からのサポートがなくなったイランの攻撃陣は、井原と秋田の前に沈黙する。
そして、城。やはりシュートが入らない。入らない。井原のシュート、やはり頼れるのは君だ、でも入らない。これだけ押し込み、チャンスを作っているのに入らない。とにかく入らない。
このあたりの時間帯になり、声を出し、立ち続けるだけでもつらくなってくる。でも座れない。プレーが切れるたびに、腹の底から「ニッポン」と言う声が出てくる。このまま終わるのか、終わらないでくれ。
隣でHE氏が両手を組み合わせ神に祈る。彼女の神への祈りは、今までの彼女の華麗な観戦キャリアを考えると、神にとってかなりのプレッシャになるのではないか。神が動く。
中田が左から切れ込んだ時、ちょうと中田の位置は私とゴールを結んだ線上となった。DFライン後方へきれいなロブ、城が入り込む。中田のパスも、城の走り込みも完璧なのは、見ていてよくわかっていた。でも、いつも城はここまでは素晴らしいのである。何か入らない予感がした。予感は見事に裏切られた。
FS氏が震えながら叫ぶ
「行ける、行けるぞ。」
そうだ、行けるぞ。でも同点の直後というのは一番危ない。落ち着いてくれ。選手は落ち着いている。同点になる直前から、イランが守備固めと中盤選手の疲労を考慮したのだろう、マハダビキアを中盤に下げ2トップにしたのも、幸いした。マーカがいなくなった両サイドバックの押し上げが円滑になり、日本の素早い組み立てが生きてくる。さらに山口との前後での役割分担が明確になり、いよいよ名波の配給は冴え渡る。アジジは負傷上がりのためかキレがなくなり、アリダエイにはボールが届かない(並みのストライカならばここでボールをもらいに中盤に引いてしまう。アリダエイは最前線で味方の奮起を待ち続け、冒頭の恐怖の一瞬につなげたのだが…)。
しかし、どうしてももう1点が奪えない。城も、秋田も、名波も決められない。コーナキックの度にファーサイドの井原がフリーになる。
「名波、反対側に蹴れ!それでこの試合は終わるぞ!」
何故か、名波はニアにこだわる。このペースの中で押し切りたい。延長になれば、イランに休憩の時間を与えてしまう。このまま押し切りたい。押し切れない。レフェリーの笛が鳴った。
6.延長戦
疲れる、本当に疲れる試合だ。お互い虎の子のミネラルウォータを回し飲みする。肉体的にも厳しいが、精神的にもつらい。でも楽しい、いや嬉しい。井原と秋田で守備は完璧。名波の組み立て、中田の突破。日本代表を見続けて25年。私はとうとうここまでやれる代表チームを所有する事ができたのだ。使い古された言葉だが、「あと我々に必要なものはただ一つ。それはゴールなのだ。」
TS氏が、SN氏が、FS氏が、再び立ち上がる。そうだ、サドンデスだ。
イランは交替も使い切り、疲労困憊。しかし、サドンデスである。最前線に強力な武器を持つだけにイランはまだ死んでいない。ここで岡田氏は最後の切り札を起用する。立ち上がりから押し込み、押し切るしかない、イランを前掛かりにはしたくない。妥当な采配である、と思ったのだが…
延長戦は、岡野とアベドザデのパフォーマンスで流れていったと言っても過言ではなかった。我々は岡野の全て(これはTH氏のコメントのパクリです)を見せられる事になったのである。
ゴール前でボールを足元に入れジャストミートできず。
敵DFを振り切りフリーになってアベドザデへバックパス。
再び敵DFを振り切りフリーになって弱気のパスミス。
こぼれダマをフリーで受け、場外ホームラン。
その度に悲嘆に暮れ、ズッコケ、点を仰ぐ。でも、後から落ち着いて考えてみたならば、それぞれの場面は普段Jリーグで岡野が見せているパフォーマンスそのものではないか。当然のことが当然のように、大舞台で再現されているだけなのである。岡野にいったい何の期待を抱こうと言うのか、それは日本にワールドカップの優勝を期待するのと同じではないか。
しかし、時計は回る。
PKに持ち込まれるのはまずい。ロペスのシュートも、城のシュートも入らない。時計は回る。アベドザデが横になる。時間よ止まれ。生命のめまいの中で。
そして、冒頭の場面へと…
さすがに、無人のゴールへのサイドキックだけは大丈夫だった。
7.それから
正気に戻ってからは、まさに熱狂、興奮の世界だった。FS氏と抱合いながらも、お互い言葉はなかった。TS氏が、ST氏が、AN氏が、GK氏が、私以上にドツボの経験をお持ちの諸氏も、皆目を真っ赤にしている。だれかれとも無く抱擁し、号泣する。後から思うが、人間いい歳になってから、ここまで単純に喜べる事はそうない。いや違う、これほど幸せな瞬間は全ての人生においてかつてなかった。いや、もうないかもしれない。お互い幸せな人生ではないか。
OT氏が笑いながら語りかけてくる。
「そんなに泣くなよ。」
このような時は、宴会と全く同じ、先にトランス状態(言わば酩酊状態)になった方が勝ちのようですな。
そして、ビクトリーランが始まる。
岡田氏の満面の笑顔が印象的。今を去ること11年半前、古河がJSLを制覇した時以来ではないか(おそらく10年半前アジアチャンピオンズカップを制覇した時も同様の笑顔だったろうが、なんせリヤドだったもので見に行っていません)。それにしても、岡田氏の采配は見事と言うしかない(しかしながら、私は氏をフランス本大会の監督として最適とは思わない、それについては別途)。ともあれ、もし10年前に狂会員にアンケートを取ったとしよう。
Q「今の現役選手で将来代表監督を任せるとしたら、誰が最適だと思いますか?」
岡田が最高得票を取ったであろう事は間違いない。あの素晴らしかった古河のキャプテン、岡田、おめでとう、そしてありがとう。
中田はビクトリーランには参加しない。
そして、井原。思いは複雑である。思えば、9年前の東京での日韓戦、井原の持つ限りない素質を見出した時の喜びは忘れ得ないものだった。その時、井原は私をイタリアワールドカップへ連れていってくれるのではないかとすら思ったものである。井原が欧州のトッププロとして活躍する日を思ったものである。しかし、そうはならなかった。イタリアはおろかUSAにも連れて行ってくれなかった。ようやく、ようやくのこと、井原は私をワールドカップへ連れていってくれる。9年の月日はあまりに長い、日本におけるサッカーの存在は大きく変わった。私の社会的立場も大きく変わった。9年前のように毎週国内のトップリーグを観戦する事はかなわなくなってしまった。おそらく、今後の生涯において、井原に接したように若い頃からじっくりと一人のプレイヤの成長、完成、熟成を楽しむ事はもうできないだろう。だから、井原にはもっともっと高いところまで行って欲しかった。どうして、井原はただのアジア最高のセンターバック程度で終わろうとしているのか。でも救いはある。井原の物語はまだ終わっていないからだ。ともあれ、繰り返すが、ようやく、ようやくのこと、井原は私をワールドカップへ連れていってくれる。
少し離れたところにいたKJ氏と視線が合う。近づいていく私に
「近づくんじゃない。また泣けてくるではないか。」
人のことは一切言えないが、何と口の悪い男だ。無口な2人はお互い言葉無く抱擁した。
呆れ顔の現地日本人会の方々とマレーシア人たちを尻目に、騒々しく夜は更けていくのであった。
8.その晩、そしてそれ以降
その晩、ジョホールバルのホテルで、師匠とTH氏と3人で朝まで飲んだ酒の味はまた格別なものだった。前述したように、この日は無数の新旧狂会員が参戦していたが、この3人以外は皆シンガポールのホテルに滞在していたために合流できなかったのである。それだけは、ちょっと残念だった。
同じホテルにはイランの選手たちが泊まっていた。何はともあれ、アジジである。この男は、どうもこの日の試合の意味がわかっていなかったらしい。あの衝撃的な敗戦直後だと言うのに、ロビーで大はしゃぎ。もしかしたら、ワールドカップと言う大会のことも理解していないのかもしれない。ケルンの試合前のミーティングが目に浮かぶ。コーチが怪しげにささやく。
「ゴール、ゴールね。そしたらオンナ、OKよ。」
「うん、わかった。俺、頑張る。」
かくて、ケルンは連戦連勝。なんちゃって。と言う事で、アジジは快くこの日のチケットにサインしてくれたのでありました。もちろんオークションには出しません。
当然、ほかのイラン選手は疲労しきっており、かつ精神的にも落ち込んでいた。中でも、バシャルザデ(後半ザリンチェに代わったDF)は、ロビーで騒ぐ私に因縁をつけてきた。後一歩イランの役員のダッシュが遅く、役員氏がバジャルザデを羽交い絞めし損なっていれば、バシャルザデに殴られることができたのだが。ワールドカップ予選で打ち破った敵選手に殴られると言う千歳一隅の好機を逸したのは残念だった。
繰り返すがうまい酒だった。師匠は記者席でアベドザデと交錯した城に対して
「とどめを刺せ!」
と大声で指示を飛ばし、周りにいたライターたちに
「先生、落ち着いて下さい。」
と、たしなめられたそうだ。狂会席での狼藉ぶりを聞く師匠は、かなりうらやましそうだった。成功すると失うものもある。
それにしてもうまい酒だった。そして、つらかった日々に思いをはせた。釜本、小城、横山(選手の時だけ)、森(監督の時も)、山口、落合、藤島、永井、前田、小見、加藤久、木村、原、水沼(横の机で飲んでいた)、もちろん宮内、松井、森下、ラモス、都並、柱谷、福田、堀池…(師匠の場合は長沼とか川淵から始まるだが…)
しつこいようだが、うまい酒だった。とにかく、ワールドカップに出られるのある。ワールドカップへ初めて出ると言う機会は、どの国の国民も史上で1回しか経験できない。例えば、同年齢のブラジル人やイタリア人は経験できないのである(もちろん、彼らは私たちが経験できない事を経験できるが)。そのような経験をまさに人生半ばで経験できるのもまた幸せだが、その権利をつかむまでの道のりが、何とも険しく、上がり下がりがあり、楽しかった。
それだけではない、最後の最後、その権利をつかむための試合が、本当に素晴らしかった。この日の日本の試合ぶりならば、世界のどこに出しても恥ずかしくない、絶えず前進し、テクニックを駆使し、変化をつけ、ゴールを狙う。ま、正直、欧州や南米の手厳しいプレスは「最高のアタック、驚くべきシュートの下手さ」などと言うだろうけれど。そして、イランも素晴らしかった。上述してきた名手たちのプレイぶりと言ったら!
これだけの試合を、これだけの価値がかかった状況で見る事ができて、しかもワールドカップに行く事ができる。今後の人生において、これ以上の至福の時を味わう事ができるだろうか。
師匠は多忙である。翌朝6時からラジオ局の電話取材、7時から某誌の座談会である。シンガポールへ向かう師匠夫人から、
「うちの旦那はあした朝早くから仕事だから、あまり飲みすぎないように。大体、あなたち2人はソウルでもへべれけになって…」
と厳しく言われていたので、早めに切上げることにした。すっかり酔っ払って、記憶がはっきりしていないが、5時半前には切り上げたような気がする。と言う事で、某誌上で1人師匠の顔が真っ赤なのは私の責任です。ごめんなさい。
ところが、そのあたりの酒が醒めはじめたあたりから、何とも奇妙な感覚に襲われてきた。何もする気が起こらないのである。
仕事で複雑な交渉ごと(一応、そういう仕事で妻子を食わせているのです)をするのがしんどい。ややこしい文章を読むのでさえ骨である。とにかく、面倒なことをする気が起こらない。苦痛でないのは、子供と遊ぶくらい。はっきり言って、こんな感覚になった経験は皆無である。最初は、
「なんなんだこれは。ついに俺も心身症か。」
などと真剣にあせりを感じたこともあった。しかし、妻の一言で正確に状況を把握できた。
「要はやる事がなくなったのね。」
その通り。つまり、人生の目標がなくなったのでありました。さらに妻の追い討ち
「あの瞬間、そのまま心臓麻痺で死んでしまったら、本当に幸せだったんじゃない。」
おっしゃる通り、先程も触れたが、我ながら何と幸せな人生でありましょうか。
しかしながら、わずか2週間でこの苦境から無事脱出することができた。2週間と言えば皆さんお分かりでしょう。その通り、ジョホールバルですっかり親友となったアジジ君のメルボルンでのゴールをテレビで見たからである。
「うむ、サッカーは奥が深い。」
最後まで奮闘したオーストラリアの皆さんに合掌…
9.結びに
私が狂会に入会したのは、社会に出た年、あの1985年だった。初めて行った究極のアウェイゲーム、香港戦。私はあれで完全にはまった。その後の12年は、この小原稿にたびたび登場する師匠夫妻、TS氏、FS氏などを始めとする新旧の狂会員の方々に遊んでもらう日々だったと言っても過言ではない。この場を借りて、迷惑をかけ通しだった皆様に改めて感謝の言葉を捧げるとともに、今後の人生にもお付き合いいただく事をお願いしたいと思う。
また、この予選期間中の日本国内の盛り上がりは尋常なものではなかった。現在、病気療養中の池原謙一郎先生が、ワールドカップ進出の必要条件と昔から唱えられていたことが、USA予選と続けて実現したわけである。もう2度続けば本物と言ってよいのではないか。そして、2度目にとうとうワールドカップ本大会へ行き着いたのである。ジョホールバルのあの真っ青なスタジアムで池原先生と一緒に応援できていたならば、どんなに素晴らしかった事だろうか。先生の一日でも早いご回復を祈りたいと思う。
そして、新たな人生の目標に関しては、今度は気楽である。何故ならば絶対にかなうことがないことがわかっているからだ。でも、ほんの僅かながら助平心がないわけではない。77歳まで生きるとすれば、あと10回もワールドカップがある。40年間七転八倒すればあるいは…
と言う事で、登場人物の皆様も登場しなかった皆様も、頑張って長生きして41年後よぼよぼの敬老会狂会席を設営、決勝でイタリアを屠った瞬間に皆で心臓麻痺で…
私もどうやってあの晩シンガポールへ辿りついたか?のままです。
至福のときの再現をありがとうございます。
本当に嫌らしい。