エルゴラッソ8月23日号発売号に掲載いただいた、鈴木淳に関する文章です。
鈴木淳と言う人は、私にとって典型的な「先方は私の事を全く知らないだろうけれど、私は先方の事を一生忘れない」因縁(笑)がある人です。エルゴラッソの連載を持たせていただき、鈴木淳について印刷物に書く事ができたのは、とても嬉しい事でした。
着実に監督として実績を上げている鈴木淳、今後も書き続けたいと思っています。
<以下本文です>
79年に日本で開催されたワールドユース。開催国ゆえ出場権を得た日本は、36歳の松本育夫監督の下徹底した強化を行った。宮内聡、水沼貴史、柳下正明、田中真二、柱谷幸一ら、メンバの多くが、後に日本代表やJSLで活躍した上で指導者としても活躍しており、この大会が日本サッカー界にとって貴重な経験となった事がわかる。鈴木淳はその代表に、風間八宏(当時清水商業高)、名取篤(当時帝京高)と共に最年少の高校3年生で選考された。風間、名取が高校サッカー屈指の名門校の所属だったのに対し、鈴木は仙台向山高と言う当時は全国大会の出場経験のない受験校の所属。宮城県内では亘理中時代から期待された逸材だったが、全国大会には県代表として国体に出場したのみ。このような地方の無名選手が抜擢された事は、鈴木の能力が抜群だった事は当然だが、当時から日本サッカー界が全国から満遍なく選手選考できる体制を確立させていた事を示している。
そのワールドユース、初戦スペインに0−1で敗れた日本としては、続くアルジェリア戦はどうしても勝ちたい試合となった。スペイン戦は交代出場だった鈴木は、この大事な試合に2トップの一角としてスタメン起用される。前半終了間際、主将の尾崎加寿夫のFKに合わせ、鈴木は完璧なダイビングヘッドを見せたが、敵GKの奇跡的なセービングで防がれる。結果的にこの試合の引き分けが痛く、日本は2分け1敗で1次リーグ敗退。大会後、サッカーファンの間で「淳のヘディングが決っていたら」としばらく語られ続ける程惜しい場面だった。
鈴木のプレイの特色は、落ち着いて姿勢のよいドリブル。最初のボール扱いが正確な事に加えて、胸を張った姿勢での軟らかいドリブルは、懐の深さと合わせプレッシャの厳しい敵陣近くでも猛威を振るった。そのため、一度よい姿勢でドリブルを開始すれば、余裕を持って周囲を見る事ができるので、突破もパスも選択できる。FWでも攻撃的MFでも非常に有効なプレイを見せる選手だった。
その後、鈴木は筑波大に加入。81年のワールドユース予選となるアジア1次予選、同時に筑波に加入した風間と共に活躍し最終予選進出へ大きな貢献をする。ところが2次予選にこの2人は大学の試験のために不出場。今日では考え難い事態だが、日本は出場権を逸する。一方で、当時の筑波大には、他にも充実したメンバが揃っており、81−82年の天皇杯では、JSLチームに割って入り準決勝まで進出している。
鈴木は、筑波卒業後、フジタに加入し、すぐに中盤のリーダとなる。最終予選まで進出した85年メキシコW杯予選でも、出番こそなかったがメンバ入り。同年に神戸で開催されたユニバーシアードでは、主将としてチームを率い4位入賞に貢献する。この時のユニバー代表は地元開催のため、大学卒業後の選手も相当数招集されている事実上のB代表チーム。チームメートには松永成立、松田浩、勝矢寿延、関塚隆らがいた。さらに、85−86年シーズン、フジタは天皇杯決勝に進出、決勝で日産に敗れたものの、鈴木は中盤の中核として活躍した。
順調に成長してきた鈴木だけに当然A代表への定着が期待された。ところが、86年あたりからフジタの方針が微妙に変動、頑健な選手を多数起用するチームとなってきたために、鈴木の出場機会は段々と減ってしまう。
他のJSLチームからの勧誘もあったが、鈴木はその才能を地域サッカーへの貢献へ活かす道を選択する。89年に、故郷宮城県に戻り、松島クラブ(東北のトップレベルのクラブ、80−81年シーズンには天皇杯本大会に出場した事もある)に加入。その後、上位リーグ進出を目指していた東北電力に移籍。さらに「宮城県にJクラブを」と言う33万人もの署名に基づき、東北電力はブランメル仙台(ベガルタ仙台の前身)に発展的に解消する事になり、鈴木はコーチ兼任選手として、ブランメル黎明期に大きく貢献した。
選手引退後の鈴木氏は、同じ宮城県のソニー仙台のコーチとしてJFL昇格に貢献、日本協会の若年層のコーチを幾度か務めた後、04年にモンテディオ山形の監督に就任。戦闘能力的に恵まれていない山形を2シーズン続けて上位争いに進出させると言う見事な手腕を見せる。そして、今シーズン、アルビレックス新潟の監督に抜擢された。前任の反町氏は、この地方クラブをJ1に進出させ、新潟においては神格化されて語られる存在。鈴木氏は、堅実なチーム作りと采配を見せ、この難しい役割を鮮やかにこなしている。
鈴木氏は日本代表を含めたトップレベルでのプレイに加え、小クラブの苦闘を含めた地方の実状も実体験した非常に貴重な存在。しかも、監督として明確な実績も残している。このような豊かな経験を持つ鈴木氏には、指導者としての成功に加え、日本サッカー界全体のリーダとしても多いに期待できるのではなかろうか。
2006年08月23日
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