この文章にも書きましたが、80年代敵地に観戦に行って、幾度ストライカ原に歓喜を提供してもらった事でしょうか。ストライカとしての結果のみならず、その努力の過程が忘れ難い選手です。
<以下本文です>
アジアの核弾頭。正にその言葉通り、80年代にアジア中のセンタバックを恐れさせたストライカだった。
80年代半ば、アウェイゲームの応援に敵地を訪ねる。前日のニュース、空港に到着する日本代表チームが放送される。常に大写しになるのは原博実だった。いかに敵国が原を恐れていたかの証左と言えよう。そして、その翌日その報道の予想は当たり、原の一撃で我らが歓喜する事が幾度もあった。
原が初めて代表に召集されたのは、78年11月に行われたソ連代表戦。当時原はまだ早稲田大学の2年生、180cmを越える長身によるヘディングの巧さには定評があったが、ボール扱いに難があったため、この召集は驚かされた。当時の日本代表は、釜本が代表チームを引退、奥寺が欧州に去るなど、攻撃ラインの弱体化が著しかった。時の監督二宮寛氏としては、空中戦に抜群の強みを発揮する原の個性に期待しての抜擢だったのだろう。原は続くバンコクでのアジア大会で碓井博行との2トップでほぼフル出場し、バーレーン戦で代表初得点を決めたものの印象的な活躍は見せられなかった。日本代表もクウェートと韓国に完敗して1次リーグ敗退、二宮監督はその責任を取り代表監督を辞任する事になる。
続いて代表監督に就任した下村幸男氏は原を代表には召集しなかったが、原は早稲田で順調に成長する。代表にも川淵三郎監督時代に再召集され、続く森孝慈監督は原をレギュラに起用する。原自身の得意の空中戦に磨きがかかった事もあるし、同じ三菱の気鋭のストライカ尾崎加寿夫とのコンビが期待された事もあったようだ。技術に優れ闘志を前面に出す尾崎と、高さを誇り常に冷静な原のコンビは、非常によい組み合わせだった。その後、83年に尾崎が欧州に移籍した以降も常にレギュラとして起用され、コンスタントに得点を上げるようになる。右サイドを金田喜稔と木村和司のコンビで崩し、そこからの正確なセンタリングを原が頭で叩き込む攻撃パタンが確立してきたのだ。そして、この頃になると、元々定評のあった抜群の空中戦と前線からの献身的な守備に加え、課題だった足技も上達し、日本の中心選手と言う風格が漂い始めた。
85年のメキシコW杯予選、国立で行われた北朝鮮戦。雨による泥濘戦となった試合、前半西村昭宏の縦パスが原と北朝鮮DFの中間の水溜りに止まってしまう。そのボールを素早くキープした原は、スライディングする北朝鮮DFを冷静に浮き球でかわし、飛び出してくるGKの脇の下を冷静にグラウンダで抜くシュートを決めた。この得点で1−0で日本は勝ち、2次予選進出を有力にする。エースの原が見事な足技で難敵との試合の決勝点を決めた事は、日本にとって非常に重要な事だった。その後も原は猛威を発揮、この予選8試合720分間にフル出場、5得点を決め名実共に日本のエースストライカと言える活躍を見せた。
87年のソウル五輪予選でも猛威を発揮。10試合で6点を決めている。敵地広州で1−0で勝った中国戦、右サイド水沼貴史のフリーキックを、アジア屈指のCB高升に競り勝ってヘッドで決めた得点は見事だった。
その後代表監督に就任する横山謙三監督は、守備の重鎮加藤久を外すなど意図不明の采配を行う。それでも、ベテランとして原は水沼と共にチームに残された。しかし89年に行われたイタリアワールドカップ予選を前に原は負傷で離脱。決定力を欠いた日本は、インドネシア、香港に大事な所で引き分け、北朝鮮の後塵を拝し1次予選敗退。そしてその後再び原が召集される事はなかった。
ストライカとしての原をレベルアップさせたのは以下2つの要因があったのではないか。第1に努力の積み重ね。あれほどの空中戦の強さは、ジャンプ力などの素質的な要因に加え、相当な量の反復練習と敵との駆け引きを考え抜いた事の賜物。さらに若い頃課題だった足技も上達振りも、努力の成果としか言いようがない。
第2に、周囲の人々に適切に気を配り、皆から尊敬される性格。「ストライカはエゴイストであるべき」とよく言われるが、原の言動や振る舞いはその正反対。むしろ、その性格が、周囲の選手に「原を活かそう」と言う狙いを明確化させ、典型的な「使われる選手」だった原に得点を重ねさせたのではないかと思える。
そして、その努力を積み重ねて自らのプレイを作り上げて行った経験と、周囲の尊敬を集める性格は、指導者としての資質そのものと言えるだろう。1年間の充電を経て、来期よりFC東京の監督に復帰する事が決まった原氏、未完の大器平山の育成を含め、その手腕には大いに期待がかかるところだ。