元日本代表監督石井義信氏が亡くなった。ご冥福をお祈りいたします。。
石井氏は、86年からから87年にかけて代表監督を務め、当時の目標のソウル五輪出場にあと一歩のところで、中国に破れ、退任した。
70年代後半に釜本が去った後の日本代表は、とてもではないがワールドカップ予選はおろか、五輪予選を突破できる戦闘能力はなかった。しかし、80年代前半から、日本全国に普及した少年サッカーのおかげで、しっかりとボールを扱える選手が増え、それなりにアジアで勝てるようになっていた。そして、85年のメキシコワールドカップ予選では、森孝慈監督が、加藤久と宮内聡を軸とする堅固な守備から、木村和司の好技を活かす見事なチームを作り、本大会まで後一歩まで迫ったのは、皆様ご存知の通り。そして、敗退後、森氏は自らのプロ契約を日本協会に要望するが、当時の日本協会首脳に拒絶され野に下る。
その後任として、石井氏が代表監督に就任する。石井氏はフジタ(ベルマーレの前身)の監督として、見事なチームを作った実績があった。特に77-78年シーズンは、平均得点3.6、平均失点0.9とJSL史に残るすばらしいチームだった。今井敬三の守備力、最終ラインから攻め上がる脇裕司、中盤の将軍古前田充の展開、マリーニョ(後に日産で活躍)とカルバリオの得点力、魅力的なチームだった。
当時の日本代表は、メキシコまであと一歩に迫ったチームだったが、どの選手もまだ20代半ばでこれから全盛期を迎えようとしていた。そして、欧州から奥寺が帰国、さらにはユース年代時代から期待された堀池巧、越後和男、武田修宏などのタレントも登場していた。しかも、ソウル予選には最大の難敵である韓国が不在。久々の五輪出場権獲得に向け、石井氏の手腕への期待は大いに高まっていた。
しかし、石井氏は予想外の采配を振るう。
極端な守備的サッカーを目指したのだ。これは、就任後数ヶ月で迎えたアジア大会で、イラン、クウェートに完敗したことも要因だったろう。また、木村和司が体調を崩し、日産で往時ほどの切れ味を見せられなくなったことも、要因だったのかもしれない。
迎えたソウル予選。1次ラウンドのシンガポール、インドネシアとのH&A総当りは、苦労もあったが全勝で突破。中国、タイ、ネパールのとH&A総当りの最終予選を迎えた。最終予選の基本メンバは、いわゆる5-2-3.GKは経験豊富な森下申一。加藤久、勝矢寿延、中本邦治の3CB。堀池巧、奥寺康彦を両サイドに配し、守備的MFが都並敏史(本来サイドバックなのですが)と西村昭宏、水沼貴史が引き気味で右サイドに開き、原博実と手塚聡の2トップ。加藤を余らせて、後方の6人が厳しいマンマークで後方深く守りを固め、攻撃は水沼を基点として手塚を走らせるか、原にクロスを入れるかと言うやり方だった。石井氏は、戦闘能力的に互角と思われる中国に対してだけでなく、優位に立てそうなタイにも同じ やり方を貫徹した。
守備力を主体とする選手を多く起用し、失点を最小限に止めようとするのは1つの考え方。しかし、後方の選手が前線に出すボールが、単調で精度を欠くものだったこともあり、その守備的な姿勢は少々極端なものとなった。
けれども、チームは順調に勝ち点を重ねた。
国立で行われたタイ戦は、水沼の鮮やかな得点で先制。以降、丁寧に守り、タイの大エースピアポンの強烈なシュートを森下がファインプレイで防ぐ。加藤を軸にした守備の組織力と安定感は、相当な完成度を見せていた。
そして迎えた敵地広州での中国戦。数十人の好事家と参戦したこの試合は一生忘れられないものとなった。大柄な選手を並べ縦に強引に攻め込んでくる中国に対し、丁寧に守っていた日本は、前半半ばに敵陣右サイド深くゴールライン近くでFKを獲得。水沼が上げたボールに、原が完璧なヘディングシュートを決めた。原は、中国の名DF高升(ガンバの高宇洋のお父上)の厳しいマークを、見事な駆け引きで打ち破ったのだ。その後、中国は強引に攻め込むが攻撃は単調。特に中国自慢の右サイドの朱波を奥寺が完璧に押さえたのが大きかった。しだいに、広州のサポータは、自国の変化に乏しい攻撃に不快感を隠さなくなる。終盤の5分間、数万人の大観衆が沈黙し、我々数十人の「ニッポン、チャ、チャ、チャ」が 、大競技場を制覇したのは、忘れ難い思い出だ。
後は国立で、引き分ければよかった。
0対2で敗れた我々はソウルに行かれなかった。
石井氏に言いたいことはたくさんあった。
運命の国立中国戦。もう少し、柔軟な采配はできなかったものか。中国は朱波では奥寺を敗れないと見て、逆サイドから攻め込んできた。結果、堀池が引きだされ、水沼が守備に追われ、と日本にとって悪循環が続き、とうとう先制されてしまった。あの悪循環の時間帯、いくらでも対応策はあると思ったのだが、石井氏はその状況を我慢し続けた。たとえば、堀池と水沼の2人はゾーンで守ることを明確化する手段もあった。守備ラインならばどこでもプレイできる西村を、いったん右サイドに置く手段もあったはず。
もう少し攻撃に変化をつけることも考えてもよかったはず。中国は、あそこまで守備的に戦うべき相手だっただろうか。
石井氏が、木村和司を招聘しなかったのは、木村の守備力の欠如からだったのだろう(木村が85年当時より調子を落としていたこともあったけれど)。けれども、やはり木村は木村であり、使い方を工夫すれば、間違いなく敵に脅威を与えることはできたはずだ。
FWの控えとして起用していた松浦敏夫は、2年連続JSLの得点王を獲得したストライカで、190cmの長身だったが、自分のチームNKKでは裏抜けの巧みさで得点を量産していた。それなのに、松浦を起用した際にクロスボールを多用したのは理解できなかった。
もっと、攻撃面で実効力のあるタレントを選考する手段もあったはずだ。たとえば、JSLで実績を挙げていた、吉田弘(古河)、高橋真一郎(マツダ)、藤代伸也(NKK)、そして戸塚哲也(読売)など。
かように、あれから30年の月日が経っても、そしてこの30年間当時は夢にすら見なかったすばらしいサッカー経験を積むことができても、敗戦を思い起こし悔しい思いができるのも、サッカーのすばらしいところだ。
ともあれ、石井氏は、「ソウルへの道」の獲得のために、自ら創意工夫した道筋を明確に作り、その実行を試みた。そして、狙い通りのチームを作り上げ、目標まで、あと一歩、本当にあと一歩までこぎつけてくれたのだ。我々の夢をかなえかけてくれたのだ。
歴史的には、85年メキシコ予選(木村和司のFK、メキシコの青い空)があまりに光彩を放っており、その直後の石井氏の冒険は、やや忘れられた感がある。しかし、上記つらつら述べてきた通り、その戦いぶりは、しっかりと日本サッカー史の記録されるべきものだ。
上記の通り、私は石井氏のやり方にいくつか不満を感じていた。しかし、石井氏には明確な意図があり、それを丹念に具現化していく姿を一歩一歩見ることができた。監督の意図を理解しながら、自分の思いとの違いを飲み込み、切歯扼腕、眼光紙背を重ねながら、ともに戦う。この感覚こそ、サポータ冥利。石井監督は、それを2年間、じっくりと味合わせてくれたのだ。
あれから30余年、7.5ワールドカップが経った。大観衆を圧倒した広州の夜の歓喜。豪雨の国立の敗退劇。水沼と森下に感涙したタイ戦。他にも、たくさんの試合で絶叫、失望、歓喜を味わった。
石井さん、ありがとうございました。私は忘れません。
2018年04月29日
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