1999年01月17日
フリューゲルス消滅
1999年1月、横浜フリューゲルスが消滅した直後にまとめた文章です。当時は、それなりに評価された文章だと思っています、発表後20年経った中で、今回自分のBlogに再掲載するにあたり、今となればわかりづらい表現や描写に少し手をいれました、例えば選手名をフルネームにする、ボイコット事件のその後、名将塩澤敏彦氏の実績の付加など。
また読み直してみて、当時は自分自身がJリーグの将来についてかなり悲観的だったのがおもしろいと思いました。その後の20年間で我が故郷の愛するクラブがトップリーグに定着し、隣県のクラブとそこでダービーができるなんて、想像だにしませんでした。そして、その自分の将来予見能力の低さを、この文章を読み直して再認識したものです。うまく語れないのですが、未来は想像するよりもずっと明るいものなのだなと。
なお、本稿執筆と前後して、大分トリニータ(旧大分トリニティ)と我が愛するベガルタ仙台(旧ブランメル仙台)の両クラブは、それぞれの商標の関係で現在の名称を変更したのも付記しておきます。
(2020年6月14日、日本が初めてW杯本大会の試合をアルゼンチンと戦ってから22年、つまり5.5ワールドカップ後の日)
1.はじめに
フリューゲルスが消滅した。
ここ最近日本のトップチームとして、アントラーズ、ジュビロに次ぐ実績を残し、素晴らしいサッカーを見せてくれてきたチームが消滅したことはただ悲しい。また、フリューゲルスのサポータのやり場のない感情を思うとやりきれない。
しかし、私の心の中には、一連のマスコミの論調と相容れない物も多々あるのだ。
天皇杯の優勝に対して「伝説」と言う安易な言葉を選択し、「得体の知れないパワーがフリューゲルスを優勝させた」と言う論調が渦巻いた。また、もう一種類の論調として、選手たちに対して「もっと早くからこの気持ちをもってプレイしていたらこんなことにはならなかった」と言うものもある。もういい加減にして欲しい。こういうことを書く人たちは、フリューゲルスの試合を見たことがないか、見る目を持っていないのだろう。
フリューゲルスが優勝したのは、もともと強いチームだったからであり、チームがなくなることで結束したからではない。むしろ、決勝戦、特に前半の出来はほめられたのものではなかった。私は、もっと良いフリューゲルスを何回も見たことがある。
また今回の悲劇の原因は、決して、選手やチーム関係者の熱意が足りなかったからではなく、佐藤工業の撤退、全日空(親会社)の独特なサッカーへの取り組み、そして何より、サッカーの常識では絶対に許容することのできない合併を承認したJリーグ当局にある。
本稿では、私なりに、この悲劇を多面的にそして本質的に見つめたいと思う。
なお、本稿では以降混乱を避けるため、「全日空」は親会社の運輸業を商っている会社を、「全日空クラブ」はフリューゲルスの前身のサッカーチームを示すこととする。
2.天皇杯優勝
はっきり言おう。決勝前半のフリューゲルスの出来はひどいものだった。
特に守備ラインの出来は最悪。中軸の薩川了洋を欠いていたとはいえ、原田武男、佐藤尽の2人はミスパスを連発するだけでなく、エスパルスの2トップの大きな動きについていけない。また右サイドのMFに起用された山口素弘は、エスパルスのエース澤登正朗の進出を押さえようとしない。チーム全体が決勝まで進めたことに満足し集中を欠いていたのかもしれない。
失点場面は目を覆いたくなった。直前のファインプレイ直後の交錯で楢崎正剛が負傷し膝をついていたにも関わらず、佐藤尽が気付かず(後日信頼すべき筋から得た情報によると、本人は気が付いていたが、タッチを割らせようとしたキックがミスキックになったと語ったと言うが罪が軽減する訳ではない)に無造作に前線へフィード。これが敵DFにさらわれたところから攻め込まれ失点。楢崎が正常ならば防げただろうシュートだった。
その後も再三守備ラインを破られる。前半で大差がつき勝負は終わるのではないかと言う内容だったが、セザル・サンパイオの広範なカバーリングと楢崎のファインプレイで堪え忍んだ。出来が悪い時に耐えることは、強いチームだからできることである。そして、耐えていれば流れは変わる。
前半終了間際の山口の好パスと久保山由清の個人技から同点ゴールが生まれる。守備面の不振と局面を打開する攻撃面の好プレイ、まさに山口らしいプレイではないか。
後半に入り、エスパルスの中盤を支えていたサントスの運動量が落ちるとともに、試合は小康状態に入る。前進できなくなったエスパルスに対し、山口とセザル・サンパイオが前線に顔を出す時間が増えてくる。左サイドにから崩してくる永井秀樹と三浦淳寛の
...個人技を、エスパルスの安藤正裕と斉藤俊秀が対応できなくなる。
余談だが、巷で斉藤が代表チームの中核を担うのではないかなど、高い評価を受ける理由が私にはわからない。代表選手として定位置を確保する可能性がないとまでは断定しないが、2002年彼を中心に日本の守備ラインを構成することがあり得るとはとても思えないのだが。それとも、彼の好調の時のプレイを私が見たことがないだけだろうか。
そして、素晴らしいゴールが生まれた。セザル・サンパイオが日本での最後を飾るかのような、永井へのセンチメータパス(このパスを見ることができた時点で、私はこの試合を見に来てよかったと思った)。そして、永井がドリブルで持ち出すフェイントからグラウンダの好パスを吉田孝行へ。吉田の素晴らしいトラップとその後の右足の振りの速さ。日本人によるこれほど素早く正確なシュートは滅多に見られない(このゴールが決まった時点で、私はこの試合を見ることのできた幸福を噛み締めた)。
一連のフリューゲルスの悲劇が進行する中、日本から世界を目指しうるストライカ候補がまた1人生まれようとしている。将来、「あの吉田が一皮剥けたのは、あのフリューゲルス消滅の時だったのだ」と呼ばれる日が来るのを期待しよう。
終盤の選手交替の混乱など、エスパルスに反発する力は残っていなかった。フリューゲルスは1点差を丁寧に守り、クラブの最後を飾った。
不思議なことにこの5シーズン、天皇杯決勝は終盤点差が開く試合が続いていた。この決勝戦は、久々の1点差試合となり、緊張感あふれた90分間を堪能することができた。思えば、点差が開いた5シーズン連続の決勝戦のスタートは、93-94年シーズンだった。若き前園真聖 の高速ドリブルが、延長戦でアントラーズ守備ラインを切り裂き、6-2でフリューゲルスが初めての日本一に輝いた試合だった。
強いチームが、出来の悪かった試合を丁寧に拾った試合、これがフリューゲルス最後の試合だったのだ。それでも、この優勝を「神の思惑」とおっしゃりたい人がいたならば、答えて欲しい。ジュビロとアントラーズを精神力だけで連破できると思っているのだろうか。
3.横浜フリューゲルスとは何だったのか?
では、この強いフリューゲルスがどのように形成されていったのか。少し歴史をおさらいしよう。
3.1. 全日空の「乗っ取り」事件
そもそも、横浜フリューゲルスは、前身の全日空クラブ時代、85-86年シーズンに日本リーグで大スキャンダル;8人ゲーム事件を起こしている。何と試合開始直前に出場選手3名、控え選手3名が、出場をボイコットしたのだ。キックオフ時はわずか8名、開始数分後に残っていた交代選手2名を急遽出場させ、退場処分もないのに残り約80分を10人で戦うと言う、トップクラスのゲームにはあるまじき試合を行った。日本サッカー史における大汚点と言っても過言でないスキャンダルだった。
その後の調査で、犯人であるボイコット選手が、チームに不利益な行為をされた腹いせに、そのような愚かな行為をしたことが明らかになった。もともと横浜の地域クラブから始まった同チームが、スポンサとして後からチーム運営に参入した全日空(親会社)に経営主体を乗っ取られたことへの反発がその要因だったと言う。
余談である。あの思い出すもおぞましい試合を観戦したサッカー狂としては、この事件の直接責任者:ボイコット選手たちを許すことはできない。トップリーグの権威を汚すと言うサッカー選手にとって、最も重い罪を犯したのだから。当時の日本協会が彼らに与えた「永久追放」と言う刑罰は妥当なものと考える。一方の加害者である全日空クラブは当然、管理責任は問われようが、もう一方にも責任があると言って、直接的な責任者の罪が軽減される訳ではない。
話題を戻す。この大スキャンダルは、「横浜」と言う都市のクラブを「全日空」と言うサッカーに対して不十分な知識を持った企業が乗っ取り、経営し始めたことが要因だった。この事実が13年後の事件の伏線となるとは、当時誰も思う訳すらなかった。
(上記の関係者の「永久追放」は後年免除された。その免除と言う判断に、個人的には納得できない思いもある。しかし、一方でサッカー狂として「許せない」行為を行った人を「赦す」と言う考えはあってよいのかもしれない)
3.2.トップクラブへ、塩澤敏彦氏と反町康治
上記のスキャンダルシーズンに、始めて1部へ昇格しながらも最下位となり2部へ転落した全日空クラブだったが、強力な新人補強を継続し、88-89年シーズンから1部に復帰し、いきなり2位に躍進。その後は、一気にトップクラブの座に上り詰めていく。
その最大の原動力は、積極的な(言い換えれば潤沢な資金による)選手の補強だった。前田治、反町康治、岩井厚裕、田口禎則、そして山口と言ったいずれも後年Jリーグでも活躍する大学のトップレベルのプレイヤたち、ホルヘ・アルベーロ、フェルナンド・モネールと言ったアルゼンチンのプロフェッショナルたちを逐次補強していった。
加えて、監督に就任した塩澤敏彦氏の適切な采配も見逃せない。氏は、日本リーグ時代に、名古屋相互銀行、永大産業などで選手として活躍、永大では監督として実績を挙げた。しかし、この2チームはいずれも、会社の経営状況から、サッカー強化をとりやめている。つまり、塩澤氏は2度も不運に見舞われたこといなる。その後、氏は80年代半ば無名選手ばかりの明治大学を、大学選手権で上位進出させるなどの実績を残し、全日空の監督に就任。上述の選手たちの特長をよく引き出し、80年代後半から90年代前半にかけ、日本リーグで読売、日産に次ぐ強豪チームに育て上げた。塩澤氏は、Jリーグ以前の日本サッカー界屈指の名将として評価されるべき存在なのだ。
中でも、攻撃的MFとしてチームを率いた反町のプレイは素晴らしかった。いわゆるトップ下に位置取り、ピッチ全体を視野に入れてパスを回しチームをリード、勝負所で自らが強引に敵ペナルティエリアに進出し、得点も決める。取り分け90-91シーズン前期、古河電工に完勝した時の反町のプレイは、今日でも好事家の語り草となっている。
3.3.低迷と天皇杯制覇
日本リーグのトップチームで、プロフェッショナリズム導入にも積極的だった全日空クラブは半ば当然のようにJリーグに加盟する。ただし、ホームタウンはマリノスと共に横浜であり、「特別活動地域」として九州の一部で活動すると言う、訳のわからないものとなった。これまた、98年の事件の伏線となった。
ところが、最後の日本リーグである91-92年シーズンからJリーグの序盤、93、94年シーズンは、凡庸なシーズンを送ることになる。選手補強は相変わらず積極的で、前園、薩川、三浦淳、楢崎、エズー、アマリージャなど内外のトッププレイヤを加入させていたにもかかわらずだ。
常識的に考えれば、この低迷は塩澤氏の後任監督のチーム作りや采配が不適切だったと考えるべきだろう。ただ、不思議なことに、当時そのような批判はほとんど目にしなかった。さらに言うと、後日その後任監督が日本代表の監督をしている時に、口汚なくその監督を罵ったサッカーライターたちが多数いた。けれども、そのライター達はこのフリューゲルスでの低迷にはほとんど触れていないのは、とても不思議だった。
ただし、フリューゲルスは上記の通り、93-94年シーズンの天皇杯を制覇している。若き前園の高速ドリブルとエズーを軸にした攻撃は実に美しかった。それは記載しておかないと、加茂周氏への批判としては不公平となるだろう。
3.4.ジーニョ、セザル・サンパイオ、そしてオタシリオ氏
フリューゲルスは、無事加茂氏を日本代表に送り出した95年、一層強力な補強を行う。セレソンの中核を担っていたジーニョとセザル・サンパイオを獲得したのだ。95年こそ木村文治監督が選手を使いこなせず低迷したものの(もっともアジアカップウィナーズカップは制覇したのだから、文句を言っては罰が当たるか)、オタシリオ氏が監督に就任した96年は、完全にJリーグのトップチームに復帰した。96年シーズンは、セザル・サンパイオ、山口、三浦淳、ジーニョ、前園と言った豪華絢爛たるMF陣を軸に、若きGK楢崎の成長もあり、最後までアントラーズと優勝を争った。またこの年の5月のアントラーズとの激闘は、日本サッカー史に残るものだった。97年シーズンのJリーグも、前園、ジーニョの連続離脱がありながら、上位進出。さらに白眉は、契約の関係で次々にメンバが抜けたにも関わらず、天皇杯で決勝進出したのも見事だった。日本での采配は僅かな期間だったが、このオタシリオ氏の手腕はもっと高く評価されてもよいと思うのだが。
そして迎えた98年シーズンは、監督に就任したレシャック氏が、(現役時代からの師匠である)ヨハン・クライフ直伝の3-4-3システムを導入しようとしたためか、混乱が続いた(全くの余談、70年代半ばバルセロナでクライフ大王の傘下で共にプレイしたレシャック、デラクルスの2人が、同時期にそれぞれ横浜のチームの采配を振るった事実だけで、クライフ教の私は感慨深い)。そして、その混乱を受けて、日本でも多々実績を残しているゲルト・エンゲルス氏がチームを立て直している矢先、今回の悲劇がチームを襲ったのである。
ここまで見てくれば、フリューゲルスがまぎれもない日本のトップチームの一つであること、そして天皇杯の制覇は決して「精神論」で片づけられるものでないことを認識いただけるのではないか。
4.全日空(親会社)のビジネスプラン
ここからは、今回の悲劇の背景を検討してみよう。
私の本業は(メーカの)商品企画、事業企画であり、それで妻子を食わせている。そのような立場の人間から見ると(サッカー狂と言う立場を抜きにすると)、今回の全日空の振る舞いは、なかなか興味深い構想だったように思えるのだ。
約15年間に渡って投資してきた事業があった。万年赤字だが広告宣伝と言う見地からは(節税の役には立たないが)、その投資は有用である。しかも、その会社の本業は旅客の運輸業であり、年後に開かれる世界的イベントにおいて、有力スポンサとしての立場は保っておきたい。ところが、共同投資していたビジネスパートナが本業の不振で撤退すると言う。この時点で、全日空として選択肢が(完全な撤退を除いて)4つあった。
1)事業を縮小し、継続する
ここで問題になるのは、上記のようにフリューゲルスは常時大量の資金で、選手を補強して強くなってきたチームだと言うことだ。上記のように、年後のイベントにおける何らかの権利が欲しい全日空としては、事業縮小によるチームの弱体化を、実際以上に恐れたのだろう。彼らには、昨年のサンフレッチェ、今年のベルマーレのような(サッカーの世界から見れば極めて常識的な)判断をする精神的余裕はなかったようだ。
多くのサポータが下位リーグに落ちてもチームの存続を願っていた。しかし、全日空が恐れた事態は下位降格だったのだから、話が噛み合う可能性はなかった。
増して、全日空と言う会社には、会社名の漢字を丁寧に読めばすぐわかるが、一地域に偏在した投資、つまり横浜市民に根差した小さなクラブを作ること、の必然性はないのだから。
2)(他チームのように)自治体に頼る
もっとも、ベルマーレが解散せずに済んだ背景、あるいは多くの赤字のチームを支えているのが自治体のサポートであることは言うまでもない。ところが、フリューゲルスはもう一つ別なチームを持つ横浜がホームタウンだった。横浜市は無理してフリューゲルスを支える必要もない。もしマリノスがなければ、フリューゲルスは自治体との連携の道を探れたのではないか。
また、Jリーグのあまりに無定見な「ホームタウン」制と、横浜と言う都市の位置づけが微妙な影を差したことも否めない。そもそも鹿嶋、磐田、市原と言った小規模な都市と、横浜、川崎、名古屋、大阪、そして東京と言う大都市が同じホームタウンとして、対等な比較が可能なのだろうか。また、東京を中心とする世界にも類を見ない大規模首都圏の一角を占める「横浜」と言う都市に、「Jリーグの理念」が詠うところのホームタウンの機能をどのように要求するべきなのか(一方で似た境遇の浦和のような成功例もあるのだが)。本件(「サッカー」と「地域」と「スポンサ(出資者)」の適切な関係)については、とても短いスペースでは書ききれないので、また別な機会に触れたいと思う。
3)新たな(出資)パートナを探す
これは不況と言うより、日本が当面している経済的な転換点が障害になった。時代が企業のスポーツ投資をしづらくしているのだ。既にサッカーは日本のメジャースポーツとして認知されつつあり、少々の不況、経営不振でもスポンサ企業は我慢してくれるかもしれない。しかし、女子サッカーを始め、バレー、バスケット、ハンドボールなどで、トップチームを伝統的に支えてきた企業が次々に後援を諦め始めている。これらのスポーツは、今存続の危機に見舞われている。
株主訴訟が定着しつつあり、戦後50年間独特の事情で競合企業同士が横並び戦略を取りさえすればよかった時代が終焉した日本と言う国で、従来のように企業が、税金対策にもならない数億円単位のカネをスポーツ振興に投資するのは本当に大変なのである。このことを理論的に説明するのは本来の目的からは逸脱するので結論だけ述べるに留めるが、佐藤工業の後任を務める企業が容易に見付からないことだけは間違いない。
増して、チェアマン自身が、「何年も赤字を覚悟して乗り込んで来い」と胸を張っているのである。「儲からないことが確実な」事業に先行投資する企業が、そうたくさんある訳ないではないか。
一部の報道で、全日空に対して、「真剣に後任のスポンサを探さないのはけしからん」と言う論調があったが、そう思う人がいるならば、日本中の一部上場企業に自分で話を持ち掛けてみたらよい。おそらく、すぐに乗る会社はほとんどないだろう。
スポーツ側から、企業にカネを出してもらいやすくする仕組みを考えていかねばならない時代となっているのである。これについては、後日別途議論したい。
4)他のチームとの合併(既にサッカーに投資している会社との共同)
これらの悪条件の中で迷走した全日空が考え出したのが、マリノスに吸収されると言うアイデアだった。これは、(もし私がサッカー狂でない一介の企画屋であれば)斬新で面白いアイデアと評価したろう。上記の親会社全日空の希望は、ほとんど叶えられるではないか。
しかし、サッカーの世界では、このようなことは許されないのだ。これは理屈以前の問題である。ただし、どこからが許されないのかを明文化することは案外と難しい。
例えば、フリューゲルスが横浜を捨て、福岡、札幌、仙台、新潟、大分と言った経済的に楽とは言えず、かつランクとしてはフリューゲルスより下のチームと合併し、フリューゲルスの名前を残すとしたらどう判断するのか。直感的に最適なのは、大分だろう。大分空港には全日空が連日乗り入れており、W杯の開催地でもある。トリニティと言う名がなくなっても、フリューゲルスとしてすぐにJ1に上がれるならば、抵抗は少ないのではないか。増して、フリューゲルスには大分出身のスター永井がいる。このプランはサッカーの世界では許されるのか、ギリギリ許されるのかもしれない。ただし、横浜であるがゆえにフリューゲルスをサポートしてきた人々の気持ちをどう考えるかだが。
また、フリューゲルスの今回の行動を、少し立場の異なるチームに置き換えて考えて見ても興味深い。もし、モンテディオ山形とブランメル仙台が合併し「モメテル仙山」と言う名前(笑)のチームを作ったらどうだろう。この二つの都市は、高速道路で僅か1時間足らずの距離でしかないのだ。東北から悲願のJチームとして、この合併を積極的に評価する人もいるかもしれない。もちろん、それぞれのサポータ感情を考えるとあり得ない計画なのだけれど。ここまで来ると、ホームタウン複数制を認めるか否かにかかってくる。
余談である。東北のチームを例に取ったが、昨シーズン将来のJ入りを目指していた「福島FC」が解散した事件は、日本のサッカー界の広がりと言う意味では、今回のフリューゲルスの消滅より痛手の大きな事件と考えることもできる。
話を戻そう。勘違いしないでいただきたいが、だからと言って、今回のフリューゲルスの消滅をやむを得ない事態と認めるつもりは一切ない。ただし、私が挙げた事例と併せて考えると、(決して褒められた物ではないにしても)全日空の考えたマリノスとの合併は、の立場からすれば必死の回答案だったのではないか。繰り返すが、サッカー的には認められない考えなのだが。
Jリーグは、何らかの明文化された規定と、明文化されていない常識で運用される、一種のビジネスゲームである。例えば、シーズン中の大事な時期でも、所有選手が代表チームに選考されたら、選手を供出すること、しかし入替戦を控えていれば供出しなくてよいこと、は常識の典型例だろう。
そして、今回の全日空の提案は、常識感覚からすれば、認める必要のない提案だった。つまり、その提案が持ち込まれた時、Jリーグ当局、あるいはチェアマンは拒絶さえすればよかったのだ。
5.J当局の弱腰は確かに問題だが...
だから、マリノスとフリューゲルスの社長に詰め寄られた時、川淵氏はあわてず「駄目!」と断言し、さらに「どうしても合併したいならJ2落ちだ。」と言い切るべきだったのだ。
よくここで、「物事には現実的な対応が必要で、日産と全日空の要望を川淵氏として蹴る訳にはいかなかったろう」としたり顔で言う人がいるが、それこそ、交渉術の基本を全く知らない人の発言である。
これは川淵氏が勝てる交渉なのだ。「駄目」と言って日産が下りる訳ない(日産が撤退しないだろうことは間違いない)。また、どのみち全日空もこのビジネスから下りたくないから、申し入れてるのだ。なぜならば、4年後に大イベントを控えているのだから。つまり、この2大スポンサは、結局川淵氏の軍門に下るのは明らかではないか。どうして、こんな簡単な交渉原理がわからなかったのだろうか。
川淵氏が、あるいは氏の周辺を固めるスタッフが、このような交渉のイロハの経験さえあれば、今回の悲劇は防げたのではないか、そう考えると悔しくてならない。
しかし、だから川淵氏が責任をとってやめるべきだと言うのは単純すぎる。代わりは誰がいるのだろうか。このような交渉をこなせる人間はいくらでもいるだろう。しかし、チェアマンのような役職は、サッカー界で育った人間でないと、一般サポータは納得しないのではなかろうか。
加えて、日本にはかつてのユぺロス氏のように、外部から呼べそうなスポーツビジネスの経営のプロもいそうにない。
結局、プロフェッショナリズムを充実させたリーグ戦を行い続け人材を育成していくしかないのである。慌てずに悠々と、チェアマンや協会の要職をこなせる人材を、Jリーグや国際大会の運営を行いながら育成していくしかないのである。
そして、それがワールドカップ優勝への唯一の道なのではないか。
6.結びに
フリューゲルスのサポータの気持ちを考えると耐えられない物もあるが、今回の悲劇は長い日本サッカーの歴史からすると、一過性の事件となってしまうのではないか。後年の人々は、今回の悲劇を、一種のJ黎明期のサッカーバブルの崩壊の一つの典型現象と見るのかもしれない。 フリューゲルスがなくなっても、我々には井原正巳も中田英寿もいる。日本のサッカーの灯はそう簡単に消える物ではないのだ。
欧州では、ボスマン判決とテレビの有料化にともなう大量の資金のサッカー界への導入で、サッカー界をうごめくカネの量が桁違いに増え始め、世界のクラブサッカーシーンは、欧州地域への一極化が進み始めている。
日本の選手の収入が実力と比較して目が飛び出る程でもなくなりつつある。むしろ、Jリーグ選手の収入は、分相応なものに落ち着きつつあり、世界の歴代のベスト11に残るかもしれないジョルジーニョ、あるいはワールドクラスそのもののドゥンガ、ストイコビッチ、ストイチコフと言ったクラスの大スターは、しばらく来日しないかもしれない。
また南米のクラブがトヨタカップで勝てなくなってきたのも、南米の名手のほとんどが欧州でプレイしていると言う欧州一極化を、裏付けているのだろう。
おそらく、近い将来中田は、日本では決して望めなかった収入を手にするに違いない。そして、小野伸二や稲本潤一ら若き俊英も名誉だけでなく、カネを求めて欧州へ行きはじめるのではないか。そして、Jリーグは実力相応に、イタリア、スペイン、イングランドなどの世界のトップリーグの次以降にに位置するリーグとして、金銭規模を含めて落ち着いていくのではないか。その状態から、欧州のトップリーグにどのように追いついていくかが重要である。これは決して悪いことではない。ようやく、健全な状況になってきたのである。
ブラジルやアルゼンチンの南米リーグも強化を継続するだろう。一方、欧州、南米に次ぐ、世界のクラブサッカーシーンとして第三の極として、最も可能性があるのは東アジアではなかろうか。北米とアフリカは欧州に近過ぎるため、独自のクラブリーグ文化を育みにくいのではないかと思えるのだ。日本はJリーグを健全に発展させながら、韓国、中国と連携し、この地域を(小さくてもよいから)世界サッカーの新たな基点として育んでいくことが必要だと思う。
今回の悲劇は、そのような背景の中、歴史となっていくのだろう。
だからこそ、私はフリューゲルスを皆で大事に記憶していくべきだと思う。素晴らしかったチームが、極めて不本意に幕を閉じてしまったのだ。
90年前後の反町の好プレイ、若き前園の高速ドリブルによる天皇杯制覇、96年のあのアントラーズ戦、満身創痍の97-98年シーズンの天皇杯決勝進出とオタシリオ采配、そして今年の天皇杯のセザルサンパイオと吉田。フリューゲルスの選手たちが私たちに見せてくれた名場面だけは決して忘れないようにしよう。
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