私事ですが。60歳になった。これまでの好きなサッカーを楽しめる人生、それを支えてくださった方々に、改めて感謝の言葉を捧げたい。
思えば中学生になった折に何気なく始めたサッカーにはまり切って、50年近い月日を重ねたことになる。
74年西ドイツ大会、中学2年。断片的な映像で見たヨハン・クライフ。その天才に対抗するフランツ・ベッケンバウアーと言う異才と、ベルディ・フォクツと言う究極の労働者。サッカーマガジンとイレブンを暗記するまで読んだ後のダイヤモンドサッカーでの映像確認、ある意味この経験が「サッカーを見る」と言う基本を身に着けるものとなったように思える。
78年アルゼンチン大会、高校3年。多くの試合を深夜の生中継で堪能できました。マリオ・ケンペスの前進と、ダニエル・パサレラの闘志と、あの紙吹雪。数年後、日本サッカー狂会に入会した折に、あの紙吹雪を実体験した諸先輩の話を聞いた時の興奮と羨望。大会後の総評で、賀川浩氏の「要は中央突破するアルゼンチンと強烈なシュートのオランダが勝ち残ったわけや、サッカーは突破とシュートや」と言うコメントは、サッカーの本質を伝えていると思っている。大会中に襲われた宮城県沖地震の恐怖と併せての記憶として。
82年スペイン大会、大学4年。西ドイツとオーストリアの下手くそな八百長。4年前の優勝チームにディエゴを加えたアルゼンチンの惨敗。黄金の4人のセレソンを打ち砕くパオロ・ロッシ(黄金の4人のうち2人が日本代表の、1人がトップクラブの監督を務めるなんて誰が想像しただろうか)。シューマッハの大ファウルを含めた西ドイツのつまらないサッカーにPK戦で散るプラティニ。そして、冷静に勝ち切るアズーリ。このイタリア代表の優勝により、サッカーに何より重要なのは知性なのだと、改めて理解することができた。
86年メキシコ大会。社会人1年生。ある意味で日本が初めて参加した大会。自分で稼げるようになったのは重要だった。香港とソウルに行った。香港のアウェイゲーム、木村和司と原博美の得点での快勝。激怒した香港サポータに囲まれ、警官隊に保護されて1時間以上スタジアムに待機を余儀なくされた。ダイヤモンドサッカーで見たリアルなサッカーの戦いを実感でき、もう私はサッカーから離れられなくなった。10.26の木村和司のFK、そして翌週のソウルでの絶望。だから、本大会はずっと身近になった。水沼貴史を完封した金平錫が、ディエゴ・マラドーナをまったく止められなかった。そうか、ディエゴはやはり上手なのだとw。もっとも、都並敏史が対等に戦った辺柄柱が、結構アントニオ・カブリニを悩ませていたけれどね。
90年イタリア大会。日本代表史に残る暗黒時代を形成したクズ監督。全盛期の加藤久を使わず、調子を崩していたとは言え木村和司も呼ばず。単調な試合を重ねて1次予選で北朝鮮の後塵を拝した。それにしても、ここで登場した井原正巳と加藤久でCBを組んでさえいれば、ほとんどの問題は解決したと思うのだが。この2人の連動を楽しむ機会を奪っただけでも、このクズ監督を私は許さない。ちなみに日本が出ないイタリア本大会、妻と私は3週間半休みをもらって堪能した。まだ子供がいなかったこともあるのですが。日本と世界トップレベルのサッカーの差は、ピッチ上の選手の能力差ではなく、周辺で選手たちを支える環境の差であることを痛感できた。
94年USA大会。ドーハであんな経験できるなど、誰が想像しただろう。オムラムのシュートがネットを揺らした衝撃、ゴール裏では韓国やサウジの結果がわからないいらだち。でも、ドーハの前の信じられない歓喜を忘れてはいけないな。オフト氏就任から始まった快進撃、映像も何もなかったダイナスティカップの歓喜、あの広島アジアカップ。イラン戦、井原のパスから抜け出したカズの「魂込めた」一撃。中国戦、前川退場後の苦闘からのゴン中山の決勝点。攻守ともに完全にサウジを圧倒した決勝戦。日本がいない本大会が、あれくらい色褪せたものとは思わなかった。でも、井原や堀池が子ども扱いしていたサウジのオワイランがそれなりに活躍できたのだから日本のレベルが上々なのは確認できた、と負け犬の遠吠え。ブラジルとイタリアの重苦しい決勝戦。点が入らないサッカーがいかにおもしろいかを、改めて理解できたな、うん。
98年フランス大会。あの幾度も幾度も絶望感に襲われた最終予選。それでも、井原とその仲間たちは諦めなかった。そしてジョホールバル、改めて思いますよ。幸せな人生だったと。だって、最も幸せな瞬間があの時だったと言えるのだから。本大会、トゥールーズのアルゼンチン戦前夜、現地で友人と一杯やりながらの「ああ明日ワールドカップで日本の試合を見ることができるのだ」と思ったときの高揚感、本大会での君が代、バティストゥータにやられた一撃、80分以降の反抗、こんな夢のような体験を味わってよいものかと。何人かの友人がチケット騒動の悲劇に見舞われたことはさておき。クロアチア戦での中山の逸機と、シューケルが川口を巧妙に破ったシュートもね。
02年日韓大会。鬼才フィリップ・トルシェとの楽しい4年間。アジアカップの完全制覇。あの横浜国際のニッポン!チャ!チャ!チャ!勝ち。そして、森島スタジアムでの森島の先制弾。我が故郷宮城での凡庸な敗戦。敗戦後、学生時代のなじみの飲み屋、実家で父と飲んだやけ酒。故郷で絶望感を味わえるのだから、改めて堪能できた自分のためのワールドカップだった。それにしても、「ワールドカップで勝つ」と言う経験を味わうことができたのだから最高だった。
06年ドイツ大会。まあジーコさんね。あのブラジル戦、玉田の得点に歓喜した10分後のアディショナルタイム、CK崩れからロナウドの巧緻な位置取りにやられた中澤佑二の「しまった!」と言う表情が忘れられない。ロナウドと言う世界サッカー史上最高級のCFと、中澤佑二と言う日本サッカー史上最高級のCB。私たちはここまで来ることができたのだ。もちろん、ジーコさんが率いた、中澤佑二や中村俊輔や川口能活が演じたあのアジアカップ制覇は忘れてはいいけないけれど。
10年南アフリカ大会。病魔に倒れたオシム爺さん、でもアジアカップはもう少し何とかしてほしかったのですが。後任の岡田氏への大会前の自称サッカーライター達の誹謗中傷は、今思えば味わい深いな。カメルーン戦勝利後のオランダ戦。ほとんど完璧な組織守備を見せながら、スナイデルにやられてしまった。ある意味で、日本代表と世界のトップの差が見える化された瞬間だったかもしれない。しかし、デンマークには完勝、本田圭佑と遠藤保仁の美しい直接FKは、あの85年日韓戦の木村和司の一撃に感動した日本中のサッカー人の集大成と言えるようにも思えた。そして、パラグアイ戦。ある意味で私が若い頃から夢見ていた試合だった。ワールドカップ本大会で強豪と、相手のよさをつぶしまくる試合を行う。敗戦直後の選手たちの絶望的表情は感動的だった。
14年ブラジル大会。当時の技術委員長原博美氏が契約したザッケローニ氏は、トレーニングマッチでメッシもいたアルゼンチンに快勝するなど景気よいスタート、続いて堂々アジアカップを制覇。その後も順調にチームを強化する。最終予選のホームオマーン戦は3-0の快勝だったが、精緻な崩し、まったくピンチを作らない守備、日本サッカー史に残る完璧な試合だった。順調に予選を勝ち抜いたのちの準備試合の敵地ベルギー戦、当方のミスからの失点はあったが、柿谷、本田、岡崎のビューティフルゴールで完勝。「とうとう欧州の強豪に敵地で完勝するレベルまで来た」感を味わうことができた。でも、本大会ダメだったのだよね。スポンサとの兼ね合いを含めたコンディショニング、本田や香川の過ぎた自己顕示欲など、色々要因があったが、難しいものだと、改めて思わされた。
18年ロシア大会。86年地元メキシコ大会の英雄アギーレ氏は、メンバ選考の失敗などもあり、不運なアジアカップの準々決勝敗退。その後、曖昧な訴訟問題で退任となり、ハリルホジッチ氏が就任。ハリルホジッチ氏はよい監督だったし、本大会出場を決めた豪州戦は、長谷部、井手口、蛍のトレスボランチで完璧な試合を見せてくれた。しかし、大会直前謎の田嶋幸三判断で更迭後、西野氏が監督就任。酒井宏樹と長友と言う世界屈指の両サイドバック、長谷部と柴崎の知性あふれる中盤、乾、原口の強力な両翼、大迫と香川の独特のキープ、とそれぞれの一番得意なプレイを全面に押し出した美しいサッカーで、ベスト8直前まで行ったのだが。
こう振り返ると、やはり楽しい人生だったなと思える。多くの友人が還暦誕生日の祝辞をくれたのだが、嬉しかったのは「これで人生ゼロ年からのリターンだね」との励ましだった。たしかにその通り、ヨハン・クライフとベルディ・フォクツの丁々発止から、まだ50年足らずしか経っていないのだ。サッカーには汲めども尽きぬ魅力がある。これからも、じっくりと味わっていきたいものだ。
そう、まずは我がベガルタ仙台の七転八倒、サポータ冥利に尽きる苦闘など最高の快楽である。
2020年10月04日
この記事へのコメント
コメントを書く