2025年05月04日

ヴァンフォーレ甲府戦参戦に伴う諸事を楽しむ

 4月29日のヴァンフォーレ甲府対ベガルタ仙台、ベガルタサポータとして、甲府を訪問、参戦しました。試合の内容についてはこちらの連載を参照いただきたい(会員登録が必要ですが、無料で読めます)。また、この連載稿を書くにあたり事前に整理したこと、久々にこの街を旅して思ったことなど、いくつか記録したいことがあるので、本稿にまとめたものです。

 ヴァンフォーレ甲府は、前身の甲府クラブとして1965年に設立、日本屈指の歴史を誇る名門クラブ。
 1965年に発足した日本リーグ(以下JSL、当時は8チームでスタート)は、1972年に2部制を採用。全国社会人大会(今日でも、国内屈指の大事な大会となっている、いわゆる「全社」です)の上位チームなど10チームでのJSL2部が結成された。甲府クラブは、このJSL2部に結成時から参加している。また、1969年、70年(全社から進出)、73年(JSL2部で2位)の3回、1部の下位チームとの入替戦に出場しているが、1部入りは叶わなかった。後述するが、当時の国内強豪は、すべて東海道山陽新幹線沿いの企業チーム。その時代に、複数回に渡り、新幹線沿いではない地方都市の、それも潤沢な活動資金もないチームが、当時トップリーグにあと一歩まで迫ったことそのものが、快挙と言ってもよいだろう。
 余談ながら、JSL1部27年間の歴史において、所属したチームのうち、東海道・山陽新幹線沿いに本拠がなかったのは、藤和不動産(現湘南ベルマーレ、72年〜74年栃木県を本拠としていたが、75年以降は親会社のフジタ工業として東京に本拠を移す)と住友金属(現鹿島アントラーズ、当然ながら本拠地は茨城県鹿島市)のみ。強いサッカーチームの地域偏在は、高度成長期からバブルに至る1960年代から90年代の日本経済の状況を示唆している感がある。一方で、今日日本中ほとんどすべての県に、JクラブあるいはJを目指しているクラブがあること、それにより日本の多くの都道府県であまねく毎週末サッカーを楽しむことができる環境があること。これらは、Jリーグの地域密着政策の正しさと成功を明確に示している。
 クラブチームの先駆的存在としても、甲府クラブが重要なのも言うまでもない。当時、JSL1部はすべて企業チームで構成されていた。企業チームでは、全選手はその企業の社員で運動部に所属する方式だった。一方、当時の甲府クラブは、建設会社を経営していた実業家の川手良萬氏がオーナとして運営費を支える形態で、各選手はまったく独立した立場。JSLのトップチームとは異なり、企業からはまったく独立した形態でクラブ運営が行われていた。
 今日のJリーグ各クラブは、スタート時(要はJSL時代)の企業チームが発展したクラブも多い。しかし、これらのクラブのほとんどが、当初企業はあくまでも主要出資企業となり、他企業からの出資を仰ぎ、よい意味でのリスク分散を行なっている。当時の甲府クラブが川出氏に頼り、氏の没後様々な苦労があったことは確かだが、甲府クラブと言う存在が日本サッカー界において一つのモデルケースになったのは間違いない。
 ちなみに、JSL2部結成時のクラブチームは、甲府クラブの他に、読売クラブ(現東京ヴェルディ)、紫光クラブ(現京都サンガ)があった。読売クラブが、読売新聞の強力な出資の下、70年代後半以降、国内屈指の強豪となっていくのは、よく知られた話である。一方、紫光クラブは78年に入替戦でヤマハ(元ジュビロ磐田)に敗れ地域リーグ落ちしてしまった。当時のヤマハは企業チームの典型、潤沢な資金で優秀な選手を獲得し、80年代JSL屈指の強豪への道を歩むことになるのだが。一方で、紫光クラブは、その後も関西リーグで中位を保ち、1989-90シーズンJSL2部に復活、その後のサンガにつながっていく。
 そのような中、必ずしも資金面で恵まれていない甲府クラブ。それでも、20年に渡り粘り強く戦い、JSL2部の地位を確保し続けた。さらにJリーグ開幕後も、実質的な2部リーグのJFLでプレイ。これだけでも大変な実績と言えよう。
 そして、甲府クラブは、99年J2結成時に、ヴァンフォーレ甲府として改めて、Jリーグに参画することとなる。ところが、県内にいわゆる大手企業が少ないなどの事情もあり、J2昇格直後本格的プロフェッショナリズム導入時に、大幅な赤字を計上、経営危機に見舞われたことになる。しかし、社長に就任した海野一幸氏を中心に、地元の小スポンサーを徹底して集めるなど、丹念な活動で立て直しに成功。この草の根地元密着活動と言うべき諸活動は、多くのJクラブの参考となる活動となった。海野氏を中心とした甲府関係者が果たした功績は、単にこの歴史あるクラブを立て直したことにとどまらず、今日の全国的Jリーグ発展への寄与とも言うべきだろう。
 経営に安定に伴い競技力も向上。複数回J1にも昇格している。そして、生神様山本英臣のようなレジェンド、日本サッカー史屈指のFW伊東純也のようなスーパーな選手も輩出。さらには、2022年には天皇杯を制覇、続く23-24年のACLでは、堂々2次ラウンドまで進出したのは記憶に新しい。
 支えてくれる大企業があったわけでもなく、交通の便が格段によいわけでもない地方都市、人口が多いわけでもない。その山梨に、半世紀以上前から地域に根ざしたクラブチームが継続して活躍し、多くの成果を挙げてきたていたことにには、尊敬の念しか思い浮かばない。

 ここからは違う話。
 実は私は戦国時代の歴史ものの愛好者。と言っても歴史小説や新書本を読む程度だけれども。学生時代からの愛読書は新田次郎氏の「武田信玄」「武田勝頼」だった。と言うこともあり、若い頃から甲府クラブの試合観戦など含めて、幾度か甲府の街を訪れ、あちらこちらを観光してきた。ただ、4月下旬に訪問するのは初めて。
 甲府駅から歩いて30分ほどにある武田神社は、武田信玄公の居館の跡地に建てられている。その居館は躑躅ヶ崎館と言われていた。と言うことで、「この季節に訪ねれば、さぞやツツジの花が美しいだろう」と期待して武田神社に向かった。ところが、ツツジの花はあることはあるし、ちょうど満開のよい季節だったのだが、物量は大したことない。よくある、生垣の一部でツツジが咲いている程度なのだ。このくらいのツツジならば自宅近傍で堪能できる(笑)。武田神社自体は結構広いので、どこかにツツジツツジツツジ的な場所があるのかもしれない。土産物屋に入り「あのう、ここは躑躅ヶ崎と言うだけあって、さぞやツツジが多い場所があると思って来たのですが、どこいらに行けばそのような景色が見られるのでしょうか?」と尋ねる。すると土産物屋のお姉さん、怪訝な評定で「ツツジですか?いや、そんな場所はないと思いますねえ、確かに躑躅ヶ崎とは呼ばれていますけれど。あちらの方に行けばハスの花はきれいですけれど」と返してきた。加えて「そんなことを問われたことも初めて」とも付け加えてくれた(笑)。と言うことで、「そうだったのね。躑躅ヶ崎はそのような場所でなかったのね」とガッカリした次第(笑)。この愚痴をX(旧Twitter)で語ったら、甲府サポータの方が「大昔、館を建てた尾根にツツジが咲き誇っていた模様」との情報をくださり、裏がとれてしまったw。
 とは言え、前日の雨のおかげもあったのだろうか。春先には珍しいカラッとした気候で訪ねた武田神社の木々の緑は美しかった。武田信玄公には「あのー、大変申し訳ないのですが、今日はベガルタ仙台が勝たせていただきますね」と、100円の浄財と共にお参りさせていただいた。
 さらに美しかったのは街を取り囲む周囲の自然の景色。盆地独特の周囲を緑の山々が囲む大外に、雪化粧が残る高山が望める。西側に南アルプス、南側には富士山(8号目より上だけですけれど)。これが何とも美しい。市街地で建屋の合間合間から見えるこれらの山群も見事だった。また、広々とした土地に建てられた高さのある競技場からの景色がまた絶品だった。メインスタンドで観戦したのだが、試合中バックスタンドの背景に、常に緑の山々が視界に入る。メインスタンド最上段まで上がれば、後方にアルプスの雪景色が広がる。少々失礼な言い方になるが、1980年代に作られたJITリサイクルインクスタジアム、いささか古くなってしまったことは否めない。屋根がない、陸上トラック、遠くて低いゴール裏など、耳が痛い指摘も多かろう。しかし、晴れた日のこのすばらしい景観は何にも変え難い。

 もう一つ違う話。
 今回の甲府遠征では嬉しい出会いもあった。
 甲府駅から競技場までのシャトルバスの乗車口で、「バス小瀬新聞」と言う新聞が配布されている。同誌についてはこちらを読んでいただくのがよいと思う。試合前に縁あって同誌に「小出悠太との別れと再会」と言う文章を寄せさせていただいた。こちらにアクセス、ダウンロードすればお読みいただます。
 小出悠太は、シーズンオフになってからベガルタからの移籍が発表されたこともあり、サポーターは別れを惜しむことができなかった。また、このオフは中島元彦の移籍(いや、正確には所有権を持つセレッソ大阪への復帰ですけれども)が焦点となり、小出との別離はあまり語られなかったきらいもあった。しかし、小出は1年目は主将を務め、2シーズンに渡りチームの中核を担ってくれた。私たち仙台サポーターにとっては、とても大切な選手だった。何かしら、自分としては文章としてまとめたかったのだが、格好の場をいただけた形になった。
 不勉強で恥ずかしいことだが、今回同誌の存在を初めて知った次第。過去もシャトルバスを利用したことはあったのだが。驚くことに、同誌が20年以上に渡り発刊を継続されているとのこと。さらに、そのコンテンツの充実がすばらしい。甲府サポータはもちろん、アウェイチームを応援に来たサポータにも配慮した内容がビッシリ。両チームのサポータに対して、次のアウェイゲームの行き方指南まで掲載されているのだから恐れ入りました。
 Jリーグ、言い換えるとサッカーと言う人間が発明した最高級の玩具を通じて、信頼できる友人が増えてい。本当に幸せなことだと思う。
posted by 武藤文雄 at 22:00| Comment(0) | TrackBack(0) | Jリーグ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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