個人的にこの選手だけは、敬称なしで呼ぶのは今でも憚れるのです。私の中学校の2年先輩(つまり私が中学校のサッカー部に入部した時の3年生...つまり圧倒的な大先輩です)が、卒業後仙台二高サッカー部に入部後、我々に伝えてくれました。
「おらぃの加藤さんっつうのは、ホントにすんげーど。いいから、おめぇらも一回試合見に来い。」
で、今はなき宮城県営サッカー場に見に行った訳ですよ。凄かった。
その後、郷土の英雄加藤さんは、ドンドン偉くなっていきました。1年生で早稲田のレギュラ、3年で代表選手...気がついてみたら、代表の中心選手と言うか超大黒柱になっていました。
85年ワールドカップ予選の敵地香港戦、試合後に監禁されていた我々のところに選手達が登場。加藤さんは1人1人に「応援ありがとうございます。」と丁寧に挨拶していた。私が直立不動で「加藤さん、私はライバル高校の出身なんですけれど、中学校の時に加藤さんのプレイを見て尊敬してました!」と語ると、私にだけは「おお、そうか」と完璧な「上から目線」で肩を叩いてくれたのです。誇らしかった。
したがって、「日本サッカー史上最大のキャプテン」加藤さんの足跡を印刷物にしっかりと残す事ができた喜びは格段のものがあった訳です。
1985年11月3日。ソウル五輪スタジアムで行われたメキシコW杯最終予選。国立競技場での初戦を1−2で落としていた日本は、敵地でも0−1とリードされ、試合は終盤を迎えていた。後方でボールを回す韓国に対し、センタバックの主将加藤久は最前線に飛び出し、フォアチェックでのボール奪取を試みた。メキシコへの可能性は、ほんの僅かになっていた。だが、その小さな可能性に賭けてボールを追い続けた加藤の火の出るような気迫は、スタンドから見ている私にも直接伝わってきた。しかし、無情にも試合は終了。歓喜する10万大観衆に包まれビクトリーランが始まる。その最中、加藤が都並敏史と共に韓国選手達に近づき、主将の朴昌善とエースの崔淳鍋の肩を抱き祝福する。正にグッドルーザ、絶望的な思いの中、敵の勝利を称える事ができるとは。
93年にJリーグが開幕。80年代以前とは比較にならぬほどサッカーの人気は高まり、日本代表の戦闘能力も飛躍的に向上した。だが98年や02年の見事な日本代表と比較しても、選手の能力の合計以上の戦闘能力を発揮したと言う観点では、この85年のチームは何ら遜色を感じない。そしてこのチームの戦闘能力の基盤となったのが、安定した守備能力と卓越した知性による加藤の抜群のキャプテンシーだった。少なくともここ30年間の日本サッカー界は、加藤以上の「キャプテン」を生み出していない。
加藤は1956年、宮城県の利府町に生まれる。塩釜スポーツ少年団(現塩竃FC)に加入した少年加藤は、小学校時代にリフティングの日本記録を作った事があると言う。将来発揮される恐るべき集中力は、既に幼少時代に見受けられたのだ。塩釜一中時代に全国大会で活躍した加藤は、小学校以来のチームメート鈴木武一(後に読売クラブ、引退後はブランメル仙台の監督を2度務める)と共に地元の受験校の仙台二高に進む。後年加藤は高校時代のサッカーを「レクリエーションのようだった」と語るが、2人が3年生の時にインタハイに出場、加藤自身は技巧的なMFとして3年時にユース代表候補に選ばれている。卒業後は名門早稲田大に一般入試で加入するのだが、毎日放課後に教室に残り1人自習しするなど、学問に対する集中力も人一倍だったと聞く。
早稲田加入後は、肉体を鍛錬する事で、高校時代のプレイ振りからスタイルを代え、豊富な活動量と激しい当たりを武器とする守備的MFとして1年時から注目を集め、3年時にはA代表に選考される。大柄ではないが空中戦も強く、激しく粘り強い守備、正確なフィードに加え、後方の各ポジションもこなせる柔軟性も評価され、78年12月に行われたバンコクアジア大会では代表のレギュラも獲得する。この大会日本はクウェート、韓国に完敗し、代表の二宮寛監督は辞任を余儀なくされてしまうのだが。
卒業時に加藤の理論性を高く評価した早稲田大から勧誘され、加藤に大学に助手として残る事になる。ところが「企業色」が強いチームでのプレイは許可できないと言う大学の判断により、加藤はプレイする場を失ってしまう。結果的には、1年後に「企業色」の薄い読売クラブでのプレイが許可されるのだが、加藤は20代前半の貴重な時期に1年間のブランクを経験する事になる。それにも関わらず、読売加入後、加藤はすぐに中心選手として活躍する。プレイできるクラブがないと言う難しい状況にもかかわらず、克己心の強い加藤はウェイトトレーニングなどを主体にした自主トレーニングで鍛錬を重ねていたのだ。
読売への加藤の加入は双方にとって幸いな事だった。当時の読売は、ジョージ与那城、ラモス、小見幸隆ら技術と判断に優れた選手を多数抱えていたが、強さ、高さを武器として、かつ精神的に戦い続ける事ができる選手が欠けていた。加藤の加入はこれらの問題点を解消し、読売は80年代半ば以降日本屈指の強クラブとして成長する事になる。一方加藤にとっても、与那城、ラモスらと共にプレイする事で、ボール扱いの技巧をさらに磨く事に成功する。努力家の加藤は、貪欲に学べるものは学び続けたのだ。
そして約4年の準備を経て準備された84年のロサンゼルス五輪予選最終予選に日本はかなりの自信を持って臨んだ。ところが、初戦のタイ戦、若きエースピアポンの爆発力の前に守備が崩壊、2−5と完敗する。この初戦の完敗を皮切りに、日本は全く調子を崩し5チーム総当りのリーグ戦で4連敗。これ以下は考えら得ないと言う無様な成績で敗退した。加藤も守備の中核として奮戦するも、劣勢を挽回するには至らなかった。
引責のための辞表を出すも慰留された森孝慈監督は、85年のメキシコW杯予選を前にある決断をする。それは、加藤久を主将として、完全に加藤を軸にしたチームを作る事だった。
ロス五輪本大会には、初めて西欧や南米のトッププロに出場した。予選惨敗で失意に沈んでいた加藤久は、森孝慈代表監督と共に本大会を視察する。加藤は、眼前で繰り広げられた激しい戦いに「落ち込んでいる場合じゃない」と感銘を受けると共に、従来から森氏が指示していた「素早く両翼に展開する」事が重要な事を再認識したと言う。代表選手がW杯本大会を視察する事は過去もあったが、このロス五輪の視察は、代表監督と主将が、予選突破が現実的だった世界大会を見て、本大会レベルと日本の差を把握できたところに意味があった。
そして、森氏はメキシコW杯予選に向けて、守備の強化に取り組む。前線からのフォアチェック、宮内、西村の守備的MFの精力的な運動量、最終ラインの加藤を中心にDFの粘り強い守備、当時の韓国監督金正男氏が「アジア最強の壁」と評する守備ラインが完成した。攻撃は加藤、宮内らの高速展開からの木村の個人技とセットプレイが武器。森氏と加藤がロスで学んだ、激しさと早い展開を具現化したチームが完成したのだ。
迎えた1次予選。事実上の北朝鮮との一騎打ちは、雨中の国立の泥濘戦を1−0で勝利、「完全敵地」でのアウェイ戦は、人工芝のピッチ、8万人の敵サポータと言う苦しい状況にも耐え無得点引き分けに持ち込み、堂々の突破。余談ながら、W杯予選、五輪予選で、アジアのサッカー強国に勝ったのは、59年のローマ五輪予選以来、正に歴史的な勝利だった。2次予選の相手は、予想外にも1次予選で中国を破った香港。初戦は神戸で3−0で快勝。敵地でも1−1から終了間際原のヘディングが突き放し、最終予選に進出を決めた。
最終予選の韓国戦、2連敗して加藤と仲間達の冒険は夢と散る。初戦の国立、木村のCKに加藤が合わせた2度の逸機が痛かった。0−0で迎えた序盤、フリーで飛び込んだ加藤が僅かなズレでボールに触れなかった場面と、1−2でリードされた後半、二アサイドからの完璧なヘディングがバーに阻まれた場面だ。大黒柱の加藤が決め切れなかったのだから、これもまた運命と考えるべきなのかもしれないが。
日本代表は、続いてソウル五輪予選を目指す事になる。新任監督の石井義信氏はJSLフジタで3回JSLを制覇した実績の持ち主。帰国した奥寺康彦の代表復帰、ホスト国ゆえ韓国が予選に不出場と言った理由から世界大会出場との期待は高まった。ところが、86年アジア大会でイランとクウェートに完敗した事で、石井氏は自信を失ってしまったのか、木村を外し極端に守備的に守備的なチームを作った。最終的なチームは、危険察知力が抜群で自陣前の1対1に強さを見せる加藤をスイーパにして、残りのDF3人と守備的MF2人が敵をマンマーク、後方からのつなぎはほとんどなく、不正確なロングボールを多用する前時代的なサッカーだった。
それでも日本は勝ち上がり、中国との一騎打ちで出場権を争う。敵地では原の一撃で1−0で逃げ切り、国立中国戦を引き分ければ、五輪本大会出場にまでこぎつけた。しかし、日本の守備戦術を読んだ中国のポジションチェンジに守備陣が混乱、2点を失い日本は涙を飲んだ。いずれの試合でも加藤の抜群の守備能力は光ったが、極端な守備重視は押込まれる時間を増やし逆に状況を悪くした感もあり、疑問も後悔も残る予選敗退だった。
続く代表監督の横山謙三氏は、32歳の加藤を代表から外す。しかし、読売での加藤は、守備能力の強さに加えて老獪な読みも充実していたのだ。もし、イタリアW杯予選に、加藤と若き井原正巳の2人が守備を固めるチームで臨んでいれば、日本サッカー史いやアジアサッカー史は違ったものになっていたかもしれない。
94年日本協会は、現役選手の加藤を強化委員長に抜擢する。加藤協会委員長は、70年代より継続していたトレセン制度を改善し地方と中央の強化を連動させるなど具体的な成果を次々と上げた。代表選手として戦い続けた事によるサッカー強国との差の皮膚感覚、体育教育の研究者とのしての学識、日本の「キャプテン」として幾多の勝利を収めてきたリーダシップ、これらの成果が技術委員長として一気に花開いた感があった。しかし、抜群の手腕を見せていた加藤氏は、早々に協会を去る事になる。95年、代表監督人事に関して、加藤氏自身の権限を含めた問題で、当時の協会首脳と対立した事による。
その後加藤氏は、V川崎、湘南の監督を歴任後、現在はヴィクサーレ沖縄総監督として、地方の総合クラブの運営現場で活躍、先日の国体で初優勝した沖縄代表にも優秀な人材を送り込むなど、着実な成果を上げている。
日本サッカー史上最高の「キャプテン」だった男である。地方の現場での経験を積み上げた後、いつかは中央復帰して日本サッカー全体をリードしてもらいたいと考えるのは私だけだろうか。