エルゴラッソに連載させていただいた、「サッカー講釈今昔版」の第1回。お題は「西野朗氏」です。
BLOGをご覧になっている方ならよくご存知の通り、私は西野氏が大嫌い。その理由は簡単なのです。日本代表の中軸として活躍してくれるはずだった西野氏が、結局期待にこたえてくれなかった事。その最大の要因は、自己主張の弱さだと言われていました。その西野氏が、指導者になった後は非常に自己主張の強い不遜な態度をしばしば取っていらっしゃる。「だったら、その自己主張を現役時代から出してくれよ!」と言う思いだけなのですが。(2008-3-4)
1977年3月26日、アルゼンチンワールドカップ予選、アジア、オセアニアブロック、1次予選、第2組。国立霞ヶ丘競技場で行われた日本−韓国戦の事だった。
同組は、日本、韓国、イスラエル(当時はまだアジア連盟に所属)とホーム&アウェイの総当り戦のレギュレーションだったが、当時の政治的事情で日本−イスラエルは2試合ともテルアビブで行われ、いきなり日本は2連敗。この時点で、日本のトップは消え、僅か2試合で日本のアルゼンチンへの夢は潰える事になった。
帰国した日本は、唯一のホームゲームである韓国戦を迎える。たとえアルゼンチンへの道が途絶えているとしても、日本としては何としても意地を見せたい試合となった。そしてこの韓国戦、日本は見事な試合を見せる。そして、その主役は、大黒柱の釜本邦茂でも、欧州進出前の奥寺康彦でもなく、西野朗と言う大学生だった。
当時も今も、韓国のサッカースタイルは変わりない。最終ラインは頑健で粘り強い。最前線には車範根(翌シーズン、ドイツに移籍し欧州のトップスターとして活躍する、現代表の車ドゥリの父親)を初めスピードをある選手たち。そして中盤には技巧に優れ活動量豊富な選手が並ぶ。若い方々には信じられないかもしれないが、当時の日本には、国際試合で敵を抜き去る技術を持った選手はほとんどおらず、韓国の厳しいプレッシャで中盤を思うように構成できず、苦戦を続けていたのだ。
ところが、この日の韓国戦は異なっていた。日本の中盤に若き西野朗がいたからだ。攻勢を取ったのは韓国だが、車範根を清雲栄純が執拗にマークし、日本はよく粘る。そして、西野が再三再四、韓国の厚い中盤を、強引だが柔らかなそして疾走距離の長いドリブルで突破し、幾度か好機をつかんだ。試合は、両国の守備陣の奮闘により、0−0の引き分けと終わった。
当時、西野は満21歳、早稲田大学の3年生だった。180cmを超える大柄で、ボール扱いにすぐれ技巧的なドリブルを武器にする西野は、浦和西高校時代から将来の日本の大黒柱として期待を集めていた。そして、この韓国戦で再三見せた、中盤からの長いドリブル突破は、ようやくこのスター候補が、本当のスターになりつつあるとの印象を与えてくれた。歴戦の韓国の中盤選手たちが、あのドリブルを止められないのだから(最近の選手で強引にたとえると、浦和の長谷部のドリブルをイメージしてもらうとよいかもしれない)。もちろん、この日の西野のプレイはすばらしかったが、課題も多かった。敵ペナルティエリア近傍で、体力が尽きてしまったのか、もう一工夫ができなかったのだ。しかし、今後フィジカルを鍛え続ければ、ものすごいプレイヤになるのではないかと期待は高まった。
このワールドカップ予選後、代表チームは大きな変動に見舞われる。まず、77年の6月に釜本が代表を引退。さらに同年秋口には、奥寺がドイツの1FCケルンに移籍。代表は攻撃の要を失ってしまう。西野への期待はいっそう高まった。
78年に入り、西野は早稲田を卒業し、日立製作所(現柏レイソル)に加入する。当時の日立は、代表経験のある高林、横谷、早稲田の先輩碓井など、若手中堅のスター選手が多数所属していた。大学よりも厳しい環境の日立に加入し、西野の潜在力は一層成長するのではないかと期待された。
ところが、日立加入後の西野は、ほとんど印象的なプレイを見せなくなってしまう。日立の活動量を重視したサッカーと西野の技巧を活かすサッカーとはなじまないのが要因と言われた。そして当時は、チームと選手のスタイルが合わなくても、移籍で環境を変えるという選択肢はなかった。そして、西野は79年頃を最後に代表にも呼ばれなくなる。
西野はその後、85−86シーズンのJSLで、8試合連続得点と言う記録を作る。このシーズン、西野は30歳になっており、ようやくチーム内で誰にも遠慮せずに、己のサッカーを演じる事ができるようになったのかもしれない。ただし、そのシーズンのプレイ振りもパスを回しながら2列目から得点を狙うスタイルで、あの77年の韓国戦のような中盤からの長いドリブルを見る事はほとんど叶わなかった。
引退後、西野氏は92年のユース代表監督を経て、アトランタ五輪代表の監督に抜擢される。そして、28年振りの五輪予選勝ち抜き、アトランタ本大会でのブラジル撃破などの実績を挙げる。その後、柏レイソルの監督として99年のナビスコカップ優勝。さらに、、ガンバの監督となり昨シーズンは遂にJリーグ制覇。日本人監督としては屈指の実績を挙げている。
西野朗と言う選手は、当時の日本代表サポータにとって、幻のような選手だったのだ。けれども、あの77年の韓国戦での西野の輝きは消えるものではない。そして、あの試合での輝きと、その後の苦闘の対比もまた忘れられるものではない。
その苦闘の対比の実経験こそ、今日の監督西野朗の基盤となっているはず、監督としても相当の経験を積んできた今シーズン、西野氏が久々のアジアチャンピオンズカップのタイトルを日本に奪取してくれるか、注目したい。
2006年03月22日
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