この両クラブの黎明期の戦いについて、ちょっとしたエピソードを軸にまとめたものです。
(2008年5月3日)
実は入稿前に、エピソードをより多数入れた文章も書いたので、せっかくなのでそちらも公開します。
(2008年5月5日)
(エルゴラッソに入稿した文章)
1992年1月1日、天皇杯決勝、読売対日産。J開幕を1年後に控え、80年代から日本サッカー界をリードしてきた両チームの直接対決、国内チーム同士の試合では史上初めて満員の国立競技場が実現した。
両チームが公式戦初対決は77−78年シーズンのJSL2部時代に遡る。読売はブラジル出身のジョージ与那城、ユース育ちの小見幸隆、松木安太郎らを軸に悲願の1部昇格を狙っていた。一方、関東リーグから昇格したばかりの日産は加茂周監督を招聘し、坂木嘉和、清水秀彦ら学生選抜のスターが中軸。特に後期の対決は乱戦になり、与那城と来日直後のルイ・ラモスが退場、PK戦にもつれ込み14対13で日産が競り勝った(当時のJSLは同点時はPK戦を行っていた)。この試合後、激高したラモスが坂木を追い掛け回し、1年間の出場停止処分を食らっている。この事件にも関わらず、最終的に読売は優勝後入替戦にも勝ち悲願の1部入り。一方の日産は、翌シーズン早野宏史らを補強、読売を追うように1部に昇格する。
その後も両チームは着実に強化を推進。読売はユース出身の戸塚哲也、都並敏史、代表の加藤久が加入。日産も代表の中核を担う金田喜稔、木村和司を獲得。両チームとも着実に地位を上げていった。そして83年、読売は川勝良一の移籍獲得が奏功、念願のリーグ制覇を果たす。一方、移籍でマリーニョ、新卒で水沼貴史、柱谷幸一、田中真二らを補強した日産は天皇杯を獲得。以降Jリーグが始まるまで、他のチームが優勝したのはJSLが2回、天皇杯に至っては僅か1回、両チームの強さが理解されるだろう。代表も加藤久、木村を中軸に85年にW杯出場まで後一歩まで迫るなど両チームを中心に活躍。また読売は87−88年のアジアチャンピオンズカップを、日産は91−92年のアジアカップウィナーズカップを制覇している。
冒頭で述べた天皇杯決勝。前半は加藤久、井原正巳を軸に双方がよく守り0−0。後半エバートンの得点で日産の先制直後に読売のペリクレスが退場。それでも10人の読売はポジションチェンジを駆使して反撃、終了間際に北澤豪とラモスの組立から武田修宏が決め同点。延長で読売はカズをサイドバックに使うなど最後まで抵抗するが、木村に強烈なシュートを決められ力尽きた。
両チームが、ヴェルディ川崎、横浜マリノスとなり、Jに加入した以降、互いに覇を競ったのが95年のチャンピオンズシップ。両チームは全盛期のカズと井原の両エースを軸に虚虚実実の2試合を戦った。初戦は後半開始早々、川崎のミスを拾ったビスコンティが決めた横浜Mが先勝。第2戦は川崎が横浜M攻撃陣をマンマークすると言う奇策に出る。しかし、それが仇となったか、自陣近くのFKに攻撃参加した井原をフリーにしてしまい、敢無く敵の大黒柱にヘディングシュートを許す。その後は焦る川崎の攻撃を井原を軸に横浜Mが押え、終了間際に柱谷哲二が退場になり川崎は万事休した。
かくも日本サッカー史を彩ってきた両チーム、未来に向けたさらなる発展を期待したい。
(ついでに...字数制限を考えずに最初に書いた文章)
1992年1月1日、天皇杯決勝、読売クラブ対日産自動車。Jリーグ開幕を1年後に控え、国内チーム同士の試合では史上初めて満員の国立競技場が実現した。試合も期待通り白熱したものになった。前半は加藤久、井原正巳を軸に両軍がよく守り双方無得点に終わるが、後半試合は一気に動いた。エバートンの粘り強いシュートで日産が先制。直後に読売の名ボランチのペリクレスが退場。それでも、読売は交代とポジションチェンジを駆使して反撃、後半終了間際に北澤とラモスの組立から、武田が決め同点に。延長戦では、無理攻めでバランスを崩した読売は、カズをサイドバックに使うなど最後まで抵抗するが、木村に強烈なシュートを決められ力尽きる。その後、日産は新人の山田、エースのレナトが加点し優勝した。80年代から日本サッカー界の中心を担い、再三JSLの優勝争いを演じていた両チームは幾多の名勝負を演じてきたが、この決勝戦はそれらの集大成とも言える素晴らしい試合だった。
両チームが公式戦で最初に戦ったのは77−78年シーズンのJSL2部時代。数シーズンJSL2部で上位を占めながらも入れ替え戦の壁が破れずにいた読売。ブラジル出身の日系人ジョージ与那城、自クラブのユース育ちの小見幸隆、松木安太郎らを軸に、悲願の1部昇格を狙っていた。そこに立ち塞がったのが、関東リーグからJSL2部に昇格したばかりの日産。事実上のプロ監督契約をしている加茂周監督を招聘し、坂木嘉和、清水秀彦(新卒)ら学生選抜クラスのスター選手を軸にしていた。両チームは前期第2節でいきなり激突。2部昇格早々の日産が読売に快勝、番狂わせが話題になった。後期は激しい試合となり、与那城と来日したばかりのルイ・ラモスが退場、引き分けの末PK戦にもつれ込み14対13で日産が競り勝っている。試合後、激高したラモスが日産坂木を追い掛け回すと言う大立ち回りを演じ、1年間の出場停止を食らう事になる。最終的にそのシーズン、読売は優勝、日産は2位、入替戦に勝った読売は悲願の1部入りを決める。一方の日産は、翌シーズン早野宏史らの補強に成功、読売を追うように1部に昇格する。
1部昇格後も両チームは着実に強化を推進。読売にはユース出身の戸塚哲也、都並敏史、そして早稲田大学の講師を本業とする日本代表の大黒柱加藤久が相次いで加入する。一方の日産は、大学生時代から代表のレギュラだった金田喜稔、木村和司が加入。両チームとも着実にランクを上げていった。
両チームが明確に日本サッカーのリーダシップを取る事になったのは83年シーズンだった。このシーズン、読売には川勝良一、日産にはマリーニョと、他チームでトップクラスの実績のあるタレントが当時としては珍しく移籍の形態で加入。さらに日産は新卒の水沼貴史、柱谷幸一、田中真二らが加入している。そして読売がJSLを、日産が天皇杯をそれぞれ初制覇する。以降Jリーグが始まるまでの両チームが優勝を逸したのはJSLが僅か2シーズン、天皇杯に至っては1シーズンと、両チームがいかに日本を代表するチームだったかが理解されるだろう。また85年に日本代表はワールドカップまであと一歩まで迫るが、この頃に日本代表は守備は加藤久を軸にした読売勢が、攻撃は木村和司を軸にした日産勢を中心にしたチームだった。
この頃の両チームの対戦で印象的だったのは、86−87年シーズンの天皇杯準決勝。マリーニョ、木村との連携から作った好機から水沼が強烈なシュートで、日産が先制。読売も、都並からポジションを奪った千疋美徳の見事な得点で追いつく。以降も両チームが非常に高いレベルのサッカーを展開し、試合はPK戦に。PK戦では水沼と清水が失敗し、読売が決勝進出し、決勝で日本鋼管を下し優勝する。PK戦敗退後、敗れた加茂監督は「もっとも信頼していて活躍もした2人がPKを外したのだから仕方がない」と語ったと言う。
また両チームはアジアでも好成績を挙げている。読売は87−88年シーズンのアジアチャンピオンズカップを制覇。日産も89−90年シーズンのアジアチャンピオンズカップでは決勝進出、91−92年シーズンのアジアカップウィナーズカップを制覇している。
読売がヴェルディ川崎、日産が横浜マリノスとなり、Jリーグに加入した以降、両チームが覇を競ったのが95年シーズンのチャンピオンズシップ。ちょうど、その頃はカズと井原の全盛期。両チームは両エースを軸に、虚虚実実の2試合を戦った。初戦はヴェルディが押し気味の展開、しかし後半開始早々ミスパスを拾ったビスコンティが速攻を仕掛け、山田隆裕の突破からビスコンティ自らが決め先制。井原を軸に冷静にマリノスが守りきる。第2戦は追い込まれたヴェルディがマリノス攻撃陣をマンマークすると言う奇策に出る。しかし、それが仇となったか、自陣近くのFKで攻撃参加してくる井原をフリーにしてしまい、敢無く敵の大黒柱にヘディングシュートを許す。その後は焦るヴェルディの攻撃を、この試合も井原を軸にマリノスが完封。試合終了間際には、柱谷哲二が退場になり、ヴェルディは万事休した。
かくも歴史的な戦いを演じてきた両チーム。その歴史は未来に続いていく。
高校サッカーも「国内チーム同士」の試合には違いないでしょうから、編集部、見落としましたね。
帝京高校、恐るべし。
編集部の責任じゃあないですよ。私が悪いんです。