近衛文麿と言えば、1次内閣時には盧溝橋事件に始まる日中戦争の泥沼に日本を引き入れ、さらに2次内閣時には仏印進駐、日独伊三国軍事同盟、日ソ中立条約を締結などにより、日米関係を決定的に悪化させ太平洋戦争を導いた首相である。本書はその近衛が20代の折に、第一次大戦後のパリ講和会議に西園寺公望全権特使の秘書として帯同、その後ライン占領地域、英国、米国と外遊を重ねた際の記録である。
後年の我々から見れば、近衛は首相として考え得る最悪手を次々に行った男である。私自身、本書を読む前は、軍部に引きずられた世界観のない貴族出身の政治家と思っていた。ところが本書において、当時20代半ばの近衛は、第一次大戦終結時の世界観、英仏米3大国の現状と今後、労働運動と社会主義の蔓延と資本家との関係などについて、実に怜悧で的確な分析を行っている。
中でも、因習にとらわれず発展をしようとしている米国が今後世界最強国になろう事、さらに日米関係を阻害するものとして(当時日本にとって様々な面で対立的関係にあった)支那の的確なプロパガンダ工作(様々な手法による情報公開によるアピール)の指摘など、1920年以降の世界の展開予測を実に正確に行っている(中国の広報戦略に苦しむには、今日の日本も変わりないのだが)。
そして、そのような的確な分析を若年時に行った政治家が、首相となってその分析と正反対の施策を次々に実施して、日本を破滅に導いていく(その責を1人に押し付ける気はないが、近衛に相当な責があった事を否定する人は少なかろう)。物事を適切に実行していくためには、的確な現状把握は必要条件だが、十分条件ではない事を、如実に示す実例となっている。
北京五輪を前に、中国と他国の関係はどうしようもない状態に落ち込んでいる。一方でインタネットを軸に世界の平滑化は進み、日本にしても中国にしても、お互いに相手との連携なしでは国民の豊かな生活は望めない状況になっている。日本と中国は、いやいずれの国も、理想と現実の折り合いをつけながら、相互の関係を構築していかなければならない現状において、約90年前に正確に世界情勢を把握し、その後全く正反対の道を歩んでしまった政治家の記録を学ぶ事は多いに意味のある事ではなかろうか。
サッカー界に限定しても、若き近衛が指摘したように、情報公開を進め、権謀術数に捉われるべきではない、と言う考えは非常に参考になると思う。審判が出来の悪かった時にはそう発表すればよいし、いずれかのクラブのサポータが不適切な行為を行った場合はオープンに処罰を検討すればよい。隣国が国際試合で反則や狼藉の限りを尽くしてきたら、その旨を英語のWEBサイトで公開し問題視するくらい行ったらよいのではないか。情報を公開し発言をオープンにする事こそ、メディアが発達した今日重要ではないかと思うのだが。
アマゾンによると在庫はない模様だが、2006年に文庫本として再刊されたので入手性は悪くないと思うのだが。興味のある方は是非。
余談
本書には解説が2本載っている。1つは近衛の秘書官を務めたこともある細川護貞氏(夫人は近衛の娘、2人の間の子が細川護熙元総理大臣)、もう1つは仏文学者の碩学鹿島茂氏。
近衛が本書の末尾近くで強く主張した今後の日米関係構築への提言
要するに米国及び米国人に対する要訣は、包みかくさず何事もよく語るにあり。希望もこれを語り、不平もまたこれを語る。さすれば排日の妖雲も遂に一掃せらるるの時あるべきこと余の信じて疑はざるところなりに関して、首相時代の近衛の活動に対する、この2人の評価が対照的なのが興味深い。細川氏が岳父の事を悪くは言いたくない気持ちはわからないでもないのだが。
まず細川氏
彼が太平洋開戦前自ら米大統領と会見して実情を訴えんとした心境は、正にここに淵源がある。しかも、この事は尚今日的課題であるであろう。続いて鹿島氏
近衛はまさに正論を述べている。
だが、近衛内閣が、日中戦争の泥沼から抜け出るために実際にやったことは、ここに書かれているのとは正反対の権謀術数だった。すなわち、援蒋ルートの遮断という名目で仏印進駐を行ったが、それが日米関係を決定的に悪化させてしまったのである。
たしかに、近衛は、開戦直前にルーズベルトとの直接会談を希望したが、「包みかくさず何事もよく語る」と言う態度は、やはり、仏印進駐の前に示すべきではなかったか。ハルノートが出されてしまってからでは遅かったのである。
「戦後欧米見聞録」は読んだことがなく、武藤さんの書評を大変興味深く拝読しました。一点だけ重箱の隅を突くとすれば、「近衛に対して厳しすぎるのでは…」と感じました。もちろん彼の責任が非常に重いのは言うまでもないのですが、「たとえ、昭和16年12月8日に始めなくても、遅かれ早かれ軍の暴発は起こっていたはずだ」との保坂正康氏の見解に同意するためです。
一般国民にも「草の根の軍国主義」(佐藤忠男氏)がはびこり、それを背景に軍部がやりたい放題だった時代、近衛にそれを押しとどめる力はなかった(押しとどめようとすれば暗殺されていた)と考えます。現代のサッカー界も、”軍部”的な勢力ないし人物がのさばることのないよう、注意したいですね。
いずれにしても「戦後欧米見聞録」、図書館等で探して読んでみます。貴重な本のご紹介、ありがとうございました。
馬鹿殿がのさばって、多くの人が困っています。
近衛内閣のブレーンで近衛をロボットとして操っていたとされる人物です。
その尾崎の活動の様が描かれているのが、GHQ発禁本となった「大東亜戦争とスターリンの謀略−戦争と共産主義−」(三田村武夫・著)という本です。(なお「戦争と共産主義−昭和政治秘史」も同じ内容です)
私も読書途中ですが、ぜひお読みください。
(多くの図書館になく非常に入手しにくいかもしれません。アマゾンのコメントでは購買方法が書いてあります。また都内の図書館ではいくつか存在します。杉並区と武蔵野市にはあります)