2020年10月04日

声を出さずにサッカーを愉しめるか

 まあ60歳となり、改めてこれまでの人生を実り豊かにしてくれたサッカーに感謝し、これまで以上にサッカーを愉しみたいと考えた次第。

 とは言え、最近真剣に悩んでいるのです。Covid-19下の世界で、どのようにしてサッカーを愉しんだらよいのかと。さらにその悩みを具体的に説明すれば「いつになったら、絶叫してサッカー観戦できるのだろうか」と言うことになる。

 7月にJリーグが再開して以降、私は1試合も生観戦していない。正確に言えば、生観戦は辞退してきた。理由は簡単だ。「Jリーグ 新型コロナウイルス感染症対応ガイドライン_9月24日更新版」を守る自信がまったくないからだ。ガイドライン曰く
禁止される行為は以下の通りです
 声を出す応援(禁止理由:飛沫感染につながるため)
 例:指笛・チャント・ブーイング
 例:トラメガ・メガホン・トランペットなど道具・楽器を使うことも当面不可

 そう、私は声を出さずにサッカーを観戦する自信がないのだ。 上記禁止事項には「指笛・チャント・ブーイング」と記載されており、「野次」はない。だが世論を伺うに、Covid-19下の世界下でのJリーグは野次を飛ばすのは歓迎されない模様だ。
 まあね、Covid-19云々とは別問題だが、野次と言うのは今日のサッカー界ではあまり有効ではない。数千人以上入っている競技場で、いくら辛辣な野次を飛ばしても、ピッチ上の選手や監督や審判に聞こえる可能性は低いのだから。でも、サッカーを見ていると、何かを吠えたくなるではないですか。卑怯なプレイをした相手選手、納得できない笛や旗を操った審判、ただの八つ当たりだが納得いかない協会やJリーグ当局への批判。サッカー観戦と言う究極の至福を味わいながら、これらの野次を飛ばすのはとても幸せなことなのだ。たとえ、先方には聞こえなくとも。
 もっともそうは言っても、相手選手や審判や当局批判、これらは我慢できる。けれども、絶対自分で我慢する自信がないことがある。それは、味方への賛辞だ。もし眼前で、ベガルタの選手や日本代表選手が、知性や妙技で素晴らしいプレイを見せてくれた時。私は絶叫し称えたい。そして、その絶叫を我慢する自信はない。
 なので、関東在住の私は、7月復活後のJリーグ敵地でのベガルタ観戦を控えてきた。ベガルタが敵地で戦う際に、ベガルタの好プレイに快哉を叫ぶわけにはいかないから。

 で。
 10月14日のユアテックでの横浜FC戦、諸事案を片付けるため、当日の晩私は仙台にいる。久しぶりの生観戦の絶好機だ。チケット購入手段など、複雑怪奇でよくわからないが、何とかユアテックにたどりつきたいと思っている。たとえ、ベガルタ選手への絶賛にせよ、できる限り絶叫は自粛したいとは思っている。できる限り。
posted by 武藤文雄 at 22:12| Comment(0) | Jリーグ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年07月07日

再開戦の快勝

 Jリーグが再開した。
 ベガルタは開始3分の幸運な得点を守り切り、ベルマーレに敵地で1-0での勝利。結果もよかったが、内容も上々だった。木山新監督に変わった今シーズン、中断前は、ルヴァンの敵地レッズ戦、リーグ初戦のホームグランパス戦、いずれも芳しい試合内容ではなかっただけに、まずはめでたしめでたしである。
 
 勝負を分けたのは開始3分間に代表される右サイドの攻防だった(以降、左右はすべてベガルタから見て)。
 開始早々、ベルマーレは、左足のクロスが魅力的な売り出し中のサイドバック鈴木冬一がかなり高い位置取り。落ち着いたボールキープからの崩しから右サイドのCKを奪われる。そこからショートコーナ絡みで強シュートを打たれるが、ユース出身で抜擢された18歳のGK小畑裕馬が冷静にさばく。
 その直後、ベルマーレGK富井大樹の甘いフィードを関口訓充がカットし、右オープンに展開。ジャーメイン良が、前掛かりの鈴木と(昨シーズンまでベガルタに所属していた)大岩一貴の間隙を付いて突破。余裕をもって上げたクロスが、よい方向に飛び逆サイドのゴールネットを揺らした。強風が幸いしたのだろうか。ベガルタにとって幸運と言ってしまえばそれまでだが。

 とは言え、敵地で先制したベガルタは、余裕をもって試合を進めることができた。3DFをとるベルマーレに対して、右のジャーメイン、左の欧州帰りの西村拓真の両翼が大外に開いてボールを受けることで、幾度も好機を作る。一方で、ベルマーレとした自慢の両サイドMFの鈴木と主将を務める岡本拓也を前に進出させてペースをつかみたいところ。しかし、早々に先制して余裕が出たこともあり、ベガルタはボールを奪われるや否や、アンカーの椎橋慧也が的確に位置取りを修正し、ベルマーレにペースを渡さない。それでも、20分過ぎに鈴木が左サイドから好クロスを上げ、タリクにヘディングに合わされるが、幸運にもボールは枠に飛ばなかった。タリクはノルウェー代表主将経験もあると言うストライカ、ベガルタDFの間に飛び込む感覚は中々のものがあった。
 その後もベガルタは、ジャーメインが鈴木の後方を再三突いて好機を演出。ジャーメインは、ボールを受ける位置取りとトラップの方向が格段に上達した感がある。従来は敵DFに密着されると収めきれない欠点があったが、いわゆるアウトサイドFWに起用されれば、相当やれそう。もちろん、この日は対面の鈴木が攻撃ばかり考えて、後方への備えが甘かったことは割り引かなければならないだろうし、4DFのチームに対してどこまでやれるか、まだまだこれからなのだが。ちなみにジャーメインがサッカーを始めたのは、この日の会場BMWスタジアム近隣の厚木市の小さな少年団。少年時の指導者達がジャーメインの晴れ姿を生で見ることができなかったのは、何とも残念だったが。
 一方でベルマーレ監督浮嶋氏は、55分ついに鈴木をあきらめ交代。冒頭に述べたように、この右サイドの攻防が勝敗を分けたと言うことになる。
 その後の時間帯も、椎橋の安定した中盤守備が奏功、吉野恭平と平岡康裕のCBがベルマーレの単調な攻撃をしっかりとはね返しシマオ・マテの負傷離脱の不安を払拭。さらにユース出身で抜擢されたGK小畑祐馬が安定した守備と球出しを披露。最少得点差の1-0ではあったが、ベガルタとしては快勝と言ってよい内容だった。

 何より、椎橋がアンカーで、完璧に近いプレイを見せたのが嬉しい。椎橋は、一昨シーズン定位置を確保し天皇杯決勝進出貢献。昨シーズンは完全な中心選手と期待されながら、序盤の負傷やシーズン半ばの軽率な退場劇などがあり、シーズンのほとんどを控えとして過ごした。開幕戦もスタメンから外れ心配していたのだが、この日はすばらしかった。五輪代表のライバルとも言うべきベルマーレの斉藤未月を圧倒できたのも重要。元々五輪代表は中盤後方の有力選手の多くが伸び悩んでおり、椎橋がこのレベルのプレイを継続できれば、大いに期待できる。
 いわゆるCFタイプと言われていた新外国人アレクサンドレ・ゲデス。後半から起用され、いわゆるトップ下で起用され、守備のタスクをキッチリとこなしながら、上々の球さばきを見せてくれた。この新外国人選手を含め、すべての選手が90分間組織的な守備を演じ切ったのはすばらしかった。
 唯一の不安は、中盤で見事なパス展開を見せ主将を務めた松下佳貴が、後半半ば過ぎに複数回自陣でミスパスからショートカウンタのピンチを招いたことか。このあたりは、いわゆる試合勘もあろうし、やむを得ないこともあるだろう。ゲデスやこの日ベンチ入りしなかった道渕諒平、佐々木匠の2人、さらに長期離脱中のイサック・クエンカを含め、今後どのような併用がなされるのか期待したい。
 また、シーズン当初から期待されていた新外国人パラの体調が整わず、急遽柳貴博を補強した左DF。ここには、いわゆる攻撃的アウトサイドのドリブラ石原崇兆が抜擢され上々のプレイを見せてくれた。終盤守備固めに起用された飯尾竜太郎を含め、4人による定位置争いも楽しみとなる。

 考えてみれば、4か月の長きにわたる中断期間だった。
 トレーニングもままならない中、木山新監督のやり方が各選手に徹底され、渡邉前監督時代とは異なるやり方がほぼ定着した快勝は、本当に嬉しい。豊富な攻撃陣がそれぞれの特長を活かしながら、忠実な組織守備を見せてくれた。新監督の手腕への期待も、ますます高まろうと言うもの。
 COVID-19禍の中、クラブの経営状態は相当厳しいものがあろうが、再開戦で、現場がこれだけすばらしい質のサッカーで結果を出してくれたことを、まずは素直に喜びたい。
posted by 武藤文雄 at 00:05| Comment(0) | Jリーグ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年04月26日

サガン鳥栖の経営危機問題

 サガン鳥栖の昨年度の経営情報が公開されたが、衝撃的な赤字額だ。このままでは、サガン鳥栖がなくなってしまうのではないか。covid-19で試合が行えず、未曾有の危機にあるJリーグにとっては、さらなる頭痛が加わったことになる。極めて深刻な事態だ。

 公開されている「経営情報」は、おおよそ昨シーズンの損益計算書と推定した。26億円の売上に対して、支出が46億円で約20億円の赤字と言うことになる。この報道によると、今シーズンは人件費を約24.3億円から約11.6億円に圧縮したと言うが、大幅な赤字を垂れ流しているのには変わりない。また、同じ報道によると、債務超過には至っていないとのことだが、純資産は約0.2億円で単年赤字総額の約1/100であり、これは極めて債務超過に近いと言うことだ。そもそも、負債総額はいったいいかほどのなのだろうか。
 貸借対照表も資金繰表も公開されていないので、即断はできないが、経営継続は相当厳しいとしか言いようがない。そうなると、最も重要なのは、短期的な資金投入と言うことになるが、この赤字体質に加え、再開の目途が中々立たないJリーグなのだ。赤字の見通しの上に計画通りの売り上げも立たないリスク下で、快く融資をする金融機関があるとは思えない。
 そうなると、Jリーグ当局からの支援が必要と言うことになる。けれども、Jリーグ当局は、既にcovid-19で各クラブがダメージを受けており、それらのクラブの経営を支えること手一杯のはずだ。Jリーグを合理的に再開させ、経営規模の小さなクラブの経営破綻(特にキャッシュ不足)を防ぎ、関係者(選手や職員)の収入を維持するのだけでも、未曾有の難題なのだ。健全な経営のクラブだって危機的状況なのだ、まずは彼らの救済が優先されるのが常識と言うものだろう。
 さらに言えばこの未曾有の難題の被害を最小限にすることに、J当局の事務方のエネルギーは相当費やされているはずだ。それに加えて、サガン鳥栖の経営破綻を防ぐ手だてを検討する余裕があるのだろうか。

 サガン鳥栖の経営陣も、何か腹案はあったのかもしれない。順調にJの試合が行われれば、新規のスポンサがつき赤字幅を圧縮できる目鼻があったのかもしれない。しかし、残念ながらその道は絶たれてしまったのだろう。
 サッカークラブが赤字を減らす最も有効な手段は、選手の売却である。そうすれば、支出の最大費目である人件費を減らすことができる。しかし、リーグ戦が中断している今、たとえJ当局が移籍を手伝う手立てを講じても、今から短期的な人件費を上げる意思決定をするクラブは少ないだろう。
 キャッシュが足りなくなれば、以前とは同じ条件で企業は活動を継続できない。成り行きで行けば、我々は大切な仲間を失うギリギリのところにいるのだ。何とかしたい、何とかしたいのだが。

 打ち手が限定される中、まずやるべきことは貸借対照表と資金繰りの明確化だろう。その上で、J当局でも関係者でもよいから、より小規模なクラブも納得可能なサガン鳥栖に対する救済案を作れるか。
 今さらの愚痴であるが、ここまでの赤字幅であれば昨シーズン終了時には、ある程度明らかだったはずだ。せめて、この危機の公開がもっと早ければ、より穏当な打ち手があったように思えてならない。
 まずは、一層の情報開示、それに尽きる。
 フリューゲルスの消滅から20年以上の月日が経った。あの時の友の涙など、もう2度と見たくないのだ。
posted by 武藤文雄 at 17:41| Comment(4) | Jリーグ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年03月08日

大野忍引退。


 もう先月の話となるが、大野忍の引退が報道された。
 女子選手では、一番好きな選手だった。男女含めて、日本サッカー界が育んだ最高の知性派選手と呼んでも過言ではないと思っている。

 元々、大野は格段の得点力を誇る純正のストライカだった。技巧も確かだが、何よりすばらしいのは、その狡猾な位置取りと駆け引きの巧みさだった。
 ところが、当時の代表監督佐々木則夫氏は、大野を中盤に起用することが多かった。中盤に起用された大野は、一番肝心な敵ゴール前で息切れし、再三決定機を外すことが多かった。あの2011年初戦でニュージーランドを振り切った試合後に、私は佐々木氏の大野の中盤起用に疑問を呈した。
そう言う意味で鍵を握るのは、大野だと思う。大野は、開始早々敵陣でボールを奪うや、美しいロブのパスで永里の得点をアシストしたのは見事だった。けれども、その後幾度も好機をつかみながら、ことごとくシュートを枠に飛ばすの失敗。これは、小柄で必ずしもフィジカルに恵まれているとは言えない(本来最前線でプレイする)大野が、相当後方から疾走する事で最後のフィニッシュまで体力が残っていないと言う事だと思う。
 しかし、私の視点はあまりに狭く、佐々木氏は正しかった。あの決勝戦の前半、アメリカ合衆国が澤穂希と阪口夢穂のボランチ2人に強烈なブレスをかけてきたことで、日本は完全に押し込まれる。しかし、大野が強引かつコース取りが絶妙なドリブルで、幾度も単身攻め込むことで、日本は苦境を脱した。
ここで苦境を救ったのは大野だった。他の中盤の3人が、合衆国のプレスに押し込まれる中、忠実に守備をこなしつつ、幾度も前進し好機を演出した。判断のよい素早い前進と、正確なファーストタッチと、加速のよいドリブルを駆使して。安藤に通したスルーパスが、もう数10センチ内側に通っていたら、日本は前半に先制できるところだった。もちろん、合衆国の守備陣の網が、その数10センチを許してくれなかったのだが。この大野の奮闘があったからこそ、合衆国の序盤の猛攻は、30分過ぎにとだえた。最も得点が期待できる大野の中盤起用には再三疑問を述べてきたが、佐々木監督の慧眼に脱帽。これはワールドカップの決勝戦、大野のプレイに78年のアルディレス、94年のジーニョを思い出した。
 サッカーの常識では、点をとれる選手に「いかに点をとらせるか」がメインの課題となる。しかも、中盤には澤穂希と宮間あやと言う飛び切りのタレントがいたのだ。しかし、佐々木氏はこの2人を抱えながらも、格段のストライカだった大野の知性と言う格段の能力を、得点以外の機能に活用し、世界一を我々に提供してくれた。それにしても、あの大野の単身ドリブル。今でも目をつぶれば思い出がよみがえってくる。
 こうなってくると、大野の知性を楽しむのは最高だ。例えば、世界制覇直後の皇后杯決勝。この試合の後半、大野が几帳面に味方守備ラインの後方を埋めるのを見ているのだけで、最高だった。

 世界一を獲得したのだ。そして、大野のプレイは見るのは、本当に楽しかったのだ。澤穂希と言う完璧なサッカー選手、宮間あやと言う究極の技巧派、この2人と同時代に、ここまで知性に優れたタレントが出た幸運に、感謝すべきなのだろう。
 冒頭にも述べたが、男子選手を含め、ここまで知性を感じさせてくれる選手は、そうはいない。いや、男子選手の場合は、肉体的な強さ、格段の技巧、屈しない精神力など、別な要素を知性でまとめることとなる。大野のように、その知性が圧倒的に前面に出るタレントが登場することそのものが、女子サッカーの特徴なのかもしれないな。
 でも、ほんのちょっと思うよね。世界のトップレベルとなった日本代表で、ストライカとしての大野忍が丁々発止するのを見たかったかなと。そう言う叶わなかった思いを考えるのがまた楽しい。

 大野は指導者の道を志し、INACの首都圏の育成世代の指導者からキャリアを積んでいくとのことだ。あれだけの知性的なプレイを見せてくれた選手だ。格段の指導者になってくれることを期待したい。それもトップレベルの選手を、さらに高めることのできる指導者になってほしい。たとえば、堂安律や相馬勇紀の域に達した選手を、さらにもう一段、いや二段、三段さらに高めるような指導者に。
 あの知性あふれるプレイを思い起こせば、ついついそのような期待を抱いてしまうのは、私だけだろうか。
posted by 武藤文雄 at 00:30| Comment(0) | Jリーグ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年02月08日

名手たちとの別れ@2019-20

 毎年、毎年のことでもあるけれど。このオフにも、ベガルタに貢献してきてくれた幾多の名手たちが仙台を去った。まとめて講釈を垂れ、惜別の辞としたい。


 石原直樹は、2017年シーズンにベガルタに加入した。加入当時既に32歳、前所属のレッズでは負傷のため僅かなプレイにとどまっていたこともあり、どこまで活躍してくれるのか不安もあった。今思えば、そのような不安を感じることそのものが、大変失礼だったと深く反省しています。

 石原は、ベガルタに加わるや否や、完璧なエースストライカとして活躍してくれた。持ち前のボールの受けのよさと、巧みな前進。もちろん、シュートのうまさは往時と変わらない。肝心な場面できっちり敵ゴールネットを揺らしてくれた。

 さらには、豊富な経験からくる老獪な判断も格段になっていた。敵がボールポゼッションしている時間帯、マークする敵DFと駆け引きしながら、したたかに自陣に引き、ボールを奪ったベガルタDFからのフィードを丁寧に受け、着実にマイボールに。ファーストディフェンスの巧みさと併せ、相手がボールを保持している時のプレイが魅力的になっていたのだ。冗談抜きに、1年前のアジアカップ、大迫勇也のバックアップに石原直樹を推薦したい思いがあったくらいだ。

 ブランメル時代を含めたベガルタの歴代のFWを考えてみても、チームへの貢献と言う意味では、石原は最高クラスだったのではないか。あのマルコス、ウイルソン、赤嶺真吾と、同等に評されると言っても過言ではなかろう。

 19年シーズンは負傷がちで出場機会が減ったこともあり、退団を迎えた形。ベガルタから見れば35歳と言う年齢も、長期契約は難しいと判断し、石原側と話がまとまらなかった可能性もあろう。ただ、負傷が癒えた終盤戦、起用されれば当然のように、最前線でいやらしいキープで攻撃に変化をつけ、ベガルタに貢献してくれた。昨シーズンの終盤、幾度か愚痴を語ったこともあるが、渡邉晋前監督には「もう少し大事なところで、石原を使って欲しかったな」との思いもあった。まあ、このあたりの隔靴掻痒が、サポータ冥利に尽きるのですが。

 石原はJデビューを果たした古巣のベルマーレに復帰する。35歳になったとは言え知性あふれるプレイはまだまだ健在。ベガルタから離れることは残念だが、石原のプレイを楽しむ機会が継続することを喜びたい。


 大岩一貴は、4シーズンに渡りベガルタで活躍、18年シーズンからは主将も務め、天皇杯決勝進出の立役者となった。落ち着いたカバーリング、単純にはね返す強さ、リーダシップ、中央もサイドもこなせる多様性、持ち上がりもフィードも上々の攻撃など、頼りになるDFだった。

 ただ、俊敏で加減速のよいFWに対する応対が極端に苦手で、中島翔也、武藤雄樹、仲川輝人などと相対すると、見事なくらい簡単に抜かれるのがご愛敬でもあった。

 19年シーズンは、当然のように中心選手として期待されたが、開幕直後より1対1の弱さが目立つようになり、定位置を失い期待にこたえられず、チームを去ることとなった。

 天皇杯決勝進出に、直接的な貢献したことから、他の金満クラブから強奪の恐れもあるのではないかと危惧し、早々に契約延長が報道され安堵したのは、ほんの1年ちょっと前のことだ。まだ30歳でもあり老け込む年齢でもないはず。新天地のベルマーレで適切なトレーニングを積むことでの再起を期待したい。


 ドイツ、韓国を含む幾多のクラブを転々としてきた阿部拓馬。2シーズンにわたりベガルタに在籍。独特のボールを縦横に大きく動かすドリブルで、貴重な控えFWとして活躍してくれた。特にDFに疲労が出てくる終盤での交代出場は有効だった。

 19年シーズン後期の名古屋戦、1-0の状況下で交代出場、直後にしたたかにPKを獲得してくれた場面は忘れ難い。

 あの天皇杯決勝、「阿部のミドルシュートが、もう少しよいコースに飛んでくれていれば」と、今でも嘆息したくなる。

 19年シーズンは負傷がちで、若手のジャーメインの成長もあり、出場機会が限定され、琉球への移籍が発表された。32歳となったが、負傷さえなければ、J2クラブでは完全な中心選手として活躍できる能力は間違いない。


 何よりあの強烈な左足が魅力のハモン・ロペスは、ベガルタサポータには特別な存在だ。

 来日前の経歴が、少々怪しいのが楽しい。ブラジル国内での活躍は少なく、東欧(ウクライナ、ブルガリア)でプレイし、2014年シーズン途中、唐突に中盤選手として加入した。

 入団当初は、ツボにはまった時の左足の一撃は格段だが、ボールの受けも、位置取りも、戦術的な動きも、ヘディングも、いずれもうまくこなせなかった。しかし、渡邉前監督の指導の賜物か、いずれもどんどん上達し、気がついてみたら、16年シーズンは最前線でポストプレイを巧みにこなす得点力あふれるストライカに成長してしてくれた。

 そのような成長もあり、17年シーズンレイソルに移籍。しかし、翌18年シーズン途中で、レイソルの他外国人選手獲得もあり、早々にクビとなってしまった。

 しかし、同年、西村拓真をシーズン半ばでロシアへの移籍で失ったベガルタは、急遽ハモンと再契約。復帰したハモンは、再びエースとして活躍してくれた。今でも悔しいが、あの天皇杯決勝に、ハモンが起用できていれば歴史は変わったのではないか(レイソルで天皇杯に出場していたため、出場権利がなかった)。

 マークする相手のレベルが高いと沈黙するが、ちょっとレベルが低いと圧倒する能力。J2で比較的経済的に余裕があるクラブに移籍すれば、相当光り輝く可能性があると思っていたのだが。そうか、君はドバイに行くのか。あの左足が見られなくなるのは、ちょっと寂しい。


 永戸勝也は大卒で3シーズンベガルタで戦い、鹿島への移籍を決めた。悔しい思いもあるが、見事なステップアップだ。おそらくそれなりの違約金も残してくれたのだろうから、ここは快く送り出したい。

 言うまでもなく、永戸の最大の武器はその左足の精度。ハモンの「当たれば凄い」とは異なり、それなりの頻度で精度高いキックができるのがw、ありがたかった。そして、その精度はセットプレイでいかんなく発揮された。特に魅力的なのは、振りが非常に速いため、球足が非常に読みづらいこと。例えば、昨シーズン残留を決めた大分戦のCK、通常の高いクロスを予想させるスイングから、グラウンダで低い球足の速いキックを、バイタルで待つ道渕諒平へ通したアシストが、その典型。いや、見事なキックだった。また、切り返しての右足でも振り足の速いキックを持つことから、敵DFへの応対で優位に立てるのも特長となっている。

 19年は、シーズン途中からベガルタが4DFを採用したことで、最も得意な4DFの左バックに完全に定着、課題だった後方から進出してくる選手への応対も上達し、気が付いてみればセットプレイの精度と合わせ、国内屈指の左DFと言われるに至った。

 残る課題は、縦に強引に出ての左足クロスのタイミング、球足の速さは申し分ないのだが、中央の選手へ中々合わない。ベガルタ最前線の中央では、石原直樹や長沢駿と言った合わせの巧みな選手がいたのだから、もう少し流れの中からのアシストが増えてもよかったように思うのだが。

 要は、いつパスを出すかと言うほんの僅かな「タイミング」に課題があるのだ。そこを習熟できるかどうか。これが改善されれば、3バック時のサイドMFも、もっとうまくこなせるようになるだろう。22年のカタール行きは、そこにかかっていると思う。まあ、がんばれ。


 正直言います。このシーズンオフ、梁勇基の退団、そして渡邉晋監督の退任。衝撃が多過ぎました。

 この2人がいなくなることばかりに捉えられ、上記ベガルタに幾多の貢献をしてくれた名手たちへの感謝が、おろそかになっていたと反省しています。

 石原、大岩、アベタク、ハモン、そして永戸。長い間、どうもありがとうございました。そして、新天地でも見事なサッカーを見せてください、とても楽しみにしています、もちろん、ベガルタ戦以外で。

posted by 武藤文雄 at 16:55| Comment(0) | Jリーグ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年01月28日

渡邉晋監督の退任

 梁勇基との別離のインパクトがあまりに強かったのだが、渡邉晋監督の退任も、我々ベガルタサポータにとって大事件だったのは言うまでもない。
 まずは、渡邉監督のこの6シーズンに渡る鮮やかな采配に感謝したい。ありがとうございました。

 監督としての渡邉氏の実績はすばらしいものがあった。14年シーズン、豪州人のアーノルド氏の後任として、0勝2分4敗の不信を極めていたチームを引き継ぎ、チームを立て直しつつJ1残留。移籍による補強が不調で、チームは明らかに高齢化しており、非常に難しい戦いとなったが、「よくもまあ残留してくれた」と言うシーズンだった。
 余談ながら、先日のアジアU23選手権、東京五輪出場を決めた豪州を率いたのがアーノルド氏だった。氏が監督として並々ならぬ能力を持っていることが、図らずも示されたわけだ。そう考えると、当時のベガルタフロントの見る目の確かさや、監督とチームの相性の難しさを考えてしまうのだけれども。ついでに言えば、渡邉氏はアーノルド氏より優秀な監督であることは、既に6年前に証明されているw、なので残念な監督に困っているどこかの国の代表チームが…
 話は戻る。以降、チームの若返りを推進、決して経済的に潤沢ではないチームながら、中位を維持してくれた。いや、ベガルタサポータとしてぶっちゃけ言ってしまえば、この6シーズンの間、きっちりJ1の地位を維持してくれただけで感謝の言葉しかない。
 結果のみならず、戦い方、内容も見事だった。16年度シーズン頃から、ボール保持を基盤とする戦い方を定着させた。これにより、17年度にはルヴァンカップで準決勝進出、18年度には天皇杯で決勝進出と言った成果を挙げることができた。
 奥埜博亮、西村拓真、シュミットダニエル、そして永戸勝也と言ったいわゆる自前タレントをJのトッププレイやに育て(より経済的に豊かなクラブへの移籍を含め)、渡部博文、三田啓貴、野津田岳人、松下佳貴、道渕諒平と言った選手たちを移籍加入させ、大きく成長させたのも、渡邉氏の功績と語られるべきだろう。

 これだけの実績を残してくれた監督だけに、留任を望むサポータも多かった。いや、私だってそう思っていた。
 加えて、退任への経緯も何か不透明な印象があった。ホーム最終戦の大分戦後のDAZNインタビュー、およびサポータへの挨拶で、「守備を固め逆襲を狙うやり方は将来性を欠き、時計を戻したような感があり、自分としては不本意」、「クラブは、将来のビジョンを明確化すべきではないか」と言った趣旨の発言を行った(いずれの発言も武藤の意訳ですが)。
 その後、シーズン終了後に、少々唐突感のある発表があり退任が発表された。
 さらに、退任時会見によると、最終的にクラブから氏に対して、20年シーズンの契約を行わない旨の通達が行われたと、渡邉氏が明言している。
「12月7日の広島戦が終わり、仙台に戻りました。戻ってから、クラブから連絡を頂き、クラブの事務所にて話し合いがありました。そこでクラブの決断を通知され、それを私は受け入れるという形になりました。」
 そのため、サポータ界隈からは、「ベガルタは優秀な監督を、わざわざ手放すのか」的な発言も目立った。

 どのようなやり取りが、クラブと渡邉氏の間で行われたのかは、未来永劫闇の中なのは言うまでもない。ただ、私はこの別れは、クラブと氏の間でギリギリの議論が行われた上で、双方納得を得たものと想像している。以降はその想像について、講釈を垂れる。

 まず、渡邉氏が大分戦後に語った「時計の針を戻した」発言。私は、この発言には、相当な違和感を抱いている。必ずしも2019年シーズンにベガルタが見せてくれたサッカーが「時計を戻した」ものとは思えなかったからだ。確かに17年シーズン以降、ベガルタは3DFとボール保持を基軸としたサッカーをするようになった。上述のように18年シーズンに天皇杯決勝に進出できたのも、このやり方が奏功したからだろう。
 それに対して19年シーズンは、奥埜博亮や野津田岳人を放出したこともあり、中盤から気の利いたパスを出したり、個人能力で抜け出す選手が、松下佳貴くらいとなってしまった。また道渕諒平と関口訓充の両翼が充実していたため、そこを起点にした速攻が有効だった。そのためもあったのだろうが、ラインを後方に下げ、敵を引き出して速攻を狙うやり方が増えた。そして、(渡邉氏が不満を述べた)大分戦の2点目のような切れ味鋭い速攻は、これまでのシーズンでは中々見ることができなかったものだ。
 むしろ、14、15年シーズンは、後方に引いて逆襲を狙っても、そのスピードと精度でバランスがとれず得点し切れないところもあった。そのために、ボールを保持するやり方に変え成果を出したわけだ。
 サッカーのやり方はあくまでも手段であり、後方に引き速攻を志向するやり方への切り替えが、必ずしも後退とは言えないのではないか。サッカーは常に相対的なものだと思うのだ。

 以下は、渡邉監督との別れに対する私なりの解釈(あるいは諦め)である。
 まずは契約条件、言い換えればカネである。
 考えてみれば、6シーズンに渡り上々の成績を収めてくれたのだ。毎シーズンごと上々の成績を収めてくれたのだから、渡邉氏のサラリーも毎年毎年上げていかなければならない。例20年シーズンも渡邉氏に采配を託そうとするからには、それなりに年俸を増やす必要がある。長期間成果を出し続けた政権とは、そう言うものだ。例えば、シーズン終了後20%ずつ年俸を上げていけば、6年間で1.2の6乗=3.0、つまり6シーズン前の3倍の年俸が必要となる。
 しかし、残念ながらベガルタは、この6年間で経営規模を大幅に増やすことはできていない。むしろ、他のJ1クラブとの比較においては、マイナス気味の傾向すらある。その状況下で、6シーズン継続して好成績をあげてきた監督のサラリーを増やすのは、クラブとして限界に近づいていたのではないか。
 自分の収入だけではない。1年前、ベガルタ仙台は天皇杯決勝まで進出した。しかし、それだけの成果を挙げながらも、奥埜を引き留めるほどのサラリーを提供できず、セレッソへの流出を許した。他に替え難いユースから育て上げたスタアを留められない経済力しか持たないベガルタに対し、渡邉氏がどう考えたか。

 もう1つ、渡邉氏としても将来のキャリア構築を考えたのではないか
 渡邉氏は、選手時代を含め19年仙台に在籍した。4シーズンの現役生活を終え、引退後の指導者としての経歴を、15年間に渡り仙台のみで築き上げてくれた。
 仙台と言う都市は、新幹線を活用すれば、東京から1時間40分。しかし、首都圏のように人口が集中し、多くのクラブがあり、日本協会もある場所ではない。渡邉氏はそのような都市に、27歳の時に降り立ち、19年間戦ってくれたのだ。
 今後の飛躍を考えると、氏が新たな経歴構築を考えてもおかしくない。氏は桐蔭学園出身と言う人脈はあるものの、指導者としての経歴を地方の単一クラブで立ち上げてきた以上、より幅広い経歴作りを考えても不思議ではない。

 そのような渡邉晋氏に対し、我がベガルタ仙台は、引き留めるだけの条件を提示できなかった。
 新監督の木山隆之氏は、J2で見事な成果を挙げてきた。そして、J1クラブの采配は初めて。並々ならぬ思いで戦ってくれることだろう。このオフの上々の補強と合わせ、よい成果を挙げてくれることを期待したい。楽しみでならない。

 渡邉氏は仙台を去った。
 どんな監督ともいつかは別れが訪れるのが、世の摂理というものだ。そして、どうせ別れるならば美しく別れたいと思うのは山々だが、中々叶わないのもまた真実なのだ。そもそも、これだけの実績を挙げてきた男を、いつまでもつなぎ止められるものではない。
 近い将来、他のクラブを率いる渡邉氏と相まみえることがあることだろう。昨年の天皇杯で、手倉森誠氏にしてやられた痛恨の再現は避けたいところだが。いや、最近同じ兼任監督の不首尾が問題視されている迷彩服のチームが2つあるが、もしかして…
 繰り返そう。渡邉氏の6シーズンに渡る鮮やかな采配に感謝したい。ありがとうございました。
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2019年12月31日

梁勇基との別離

 ベガルタが、梁勇基との契約の満了を発表、レジェンド中のレジェンドが、我がクラブを去ることとなった。

 いつか別離の日が来るのはわかっていた。そして、その日が少しずつ近づいているのは、最近の梁勇基のプレイを見ていれば、わかっていたことだ。残念ながら、最近の梁のプレイは、明らかに肉体的な衰えを感じさせるものだったのだから。
 今シーズン、ホーム最終戦の大分戦、2対0で迎えた88分、事実上勝利とJ1残留が近づいていた時間帯、梁は約3ヶ月振りに起用された。さらに翌週、J1残留が確定したリーグ最終戦の敵地広島戦、約5か月振りにスタメンで登場した。何かしら、最後の挨拶感が漂っていた。繰り返すが、その日が近づいていることはわかっていたのだ。
 そして、最終戦から3週間後、冒頭の契約満了が発表された。
 どんな特別な選手でも、いつかスパイクを脱ぐか、契約が折り合わなくなる日が来る。
 そして、今回の梁との別離は後者にあたる。「自分は現役としてプロサッカー選手の継続を望み、ベガルタが選手としての契約継続を望まなかった」と梁が明言しているのだ。
ベガルタからはありがたいお話もいただいたのですが、選手としてチャレンジしたいという思いが強く、このような形になりました。
 私は、この別離を素直に受け入れたいと思っている。ベガルタは、必ずしも潤沢とは言えない懐事情のクラブだ。そして、来シーズンの梁については、(格段の実績と貢献はあるものの)高額の年俸の価値がないと判断し、それを明確に伝えたわけだ。その正直な態度こそ、このベガルタ仙台クラブ史上最高のタレントへの誠意と言うものだろう。それに対し、現役続行を望んだのも、いかにも梁らしいと思う。これでよかったのだ。
 これでよかったのだ、と理屈では理解している。けれども、物事は理屈で捉えられるものではない。ユアテックスタジアムで、ベガルタゴールドを身にまとった梁の雄姿を見ることができない。そう考えるだけで、空虚感に胸が張り裂けそうになる。

 梁のことは幾度も書いてきた。例えばこれなのだが。そこで書いた梁の特長を抜粋したい。
梁の武器は、精度の高いプレースキック、豊富な運動量な事はよく知られている。けれども、いわゆるドリブルで敵を抜き去るような、瞬間的な速さは持っていない。だから、攻撃的MFとしての梁のプレイは常にシンプル。まじめに守備をして、マイボールになった時に素早く切り換え、速攻の起点となる。ハーフウェイライン前後でボールを受けてドリブルで前進したり、早々に敵DFの隙を見つけて裏を狙い後方からのロングボールを引き出したり。重要なのは、動きの質のよさと、ボールを受ける際のトラップの大きさと方向の適切さ。大向こう受けをするような派手な技巧はないが、プレイにミスが非常に少ない。これは丹念な反復練習の積み重ねと、しっかりとした集中力の賜物だろう。それが、そのまま、セットプレイの精度にもつながっている。
 ところが今期、特に夏場のチーム全体の不振を抜けた後の梁は、さらに一皮むけてくれた。それは、プレイの選択が実に適切になったのだ。前に飛び出すか、後方に引くべきかの、ボールの受けの位置の選択。ドリブルで前進するか、前線の赤嶺あたりに当てるべきかの選択。同サイドで突破を狙うか、逆サイドを使うかの選択。強引に速攻を狙うか、無理せず散らすべきかの選択。これらの選択が、格段に向上してきた。だから、ベガルタの速攻は(いや遅攻もですが)、格段に精度が向上してきた。言わば、梁は今期半ばあたりから、フィールド全体の俯瞰力が格段に向上してきたように思うのだ。
 豊富に動き、適切に位置取りしてよい体勢でボールを受け、丁寧にボールを扱い、最善の選択をして展開する。また往時には、決してスピードは格段ではないが、得意の間合いのドリブルで左サイドから敵ペナルティエリアに進出し、振りが早くて正確なインサイドキックで流し込むシュートが猛威を振るったのも忘れ難い。もちろん、セットプレイの正確さも言うまでもない、直接FKのみならず、精度の高いCKで、歓喜を幾度味わえたことか。まとめて語れば、サッカーの基本をただただひたすらに、的確に実現するのが梁の真骨頂だった。
 そして、ベガルタはこの全盛期の梁のリードの下、2011、12年と連続して上位進出に成功し、遂には13年シーズンのACLにも歩を進めることができた。当時、梁は29歳から31歳。正に全盛期だった。
 Jリーグの歴史を振り返っても、日本リーグ時代の基盤がほとんどないクラブが、ACLに進出したのは、この13年シーズンのベガルタを除けば、日本屈指のサッカーどころをホームとする清水エスパルスと、豊富なスポンサを抱え潤沢な経営資金を持つFC東京のみ。この時のベガルタの成果が、日本サッカー史においても屈指なものであることは言うまでもない。そして、その偉業の中心が、正に梁勇基だったのだ。

 もう1つ。梁は私たちに素敵な思い出を残してくれた。北朝鮮代表選手として、そう、梁は敵として、我々に恐怖味わわせてくれたのだ。2011年9月2日は、50年近い私のサポータ歴でも忘れ難い日だ。埼玉スタジアムに北朝鮮を迎えたワールドカップ予選、梁は我々の前に立ち塞がった。いつも私に最高の歓喜を提供してくれている梁が、自陣に向けて前進し、ミドルシュートを放ち、CKで蹴り込んでくる。人生最高の恐怖感だったかもしれない。
 いいですか。レッズサポータは福田正博の恐怖を、ガンバサポータは(完成後の)遠藤保仁の恐怖を、フロンターレサポータの皆さんは中村憲剛の恐怖を、それぞれ味わう事はできません。俺たちベガルタサポータだけが、自らの王様が提供する恐怖を感じることができたのだ。

 ベガルタは1994年に、前身の東北電力からプロを指向したクラブに転身した。90年代は、あまり愉快とは言い難い時代が続いたが、清水秀彦氏が監督に就任し見事な丁々発止でJ1に昇格し、02、03年はJ1で戦うことができた。しかし、自転車操業には限界がある、ベガルタは2シーズンしか、J1の地位を保つことができなかった。
 梁はJ2に降格した04年にベガルタに加入した。6年間のJ2生活、ベガルタは紆余曲折を経ながら、梁を軸にしたチームを作りでJ1再昇格を決めた。そして、気が付いてみたら、ベガルタも梁もその後10年間J1でプレイしたことになる。
 この10シーズンの間、ベガルタは手倉森氏と渡邉氏の采配で戦ってきた(短期的にアーノルド氏の時代があったけれど)。サッカーのやり方には、シーズンごとに違いはあるが、よい時のベガルタは、いずれの選手も生真面目に戦い、丁寧にプレイし、位置取りの修正を繰り返し、最後まであきらめない。このような戦い振りは、梁のプレイそのものだ。繰り返そう。25周年を迎えるクラブの歴史の中、梁はその後半16年ベガルタに在籍した。そして、気が付いてみたら、ベガルタと言うクラブの戦い振りそのものが、この梁と言うスタア選手のプレイ振りと一致している。梁はベガルタと共に成長し、ベガルタもまた梁と共に成長したのだ。
 その梁イズムは、ベガルタのトップチームにとどまらない。先日、あと一歩でプレミアリーグ入りを逃したベガルタユースの戦い振りは心打たれるものがあった。先日、全日本U-12選手権でベスト4に進出したベガルタジュニアの戦い振りは堂々たるものだった。いずれも各選手が知性と技巧と献身の限りを尽くして戦ってくれていた。梁がベガルタと共に築き上げてきた梁イズムは、若年層にまで引き継がれているのだ。
 以前、在日コリアンである慎武宏氏の「祖国と母国とフットボール」と言う本の書評を書いたことがある。その中で梁は以下のように述べてくれいた。
「監督、チームメート、サポーター。それに仙台在住の在日の方々も本当によくしてくれてる。(中略)そういう方々の支えがあって、今の自分がある。だから、僕は”大阪の梁勇基”でもなければ、”在日の梁勇基”でもない。”仙台の梁勇基”というのが一番ピンときますね。」
 梁勇基と言うサッカー人と、ベガルタ仙台と言うクラブが出会ったことは、本当に幸せなことだったのだ。そして、私たちは16年と言う月日を、梁勇基と共に、その幸せを味わいながら戦うことができた。今はただ、我々のために見せてくれた幾多の好プレイに感謝するのみ。16年間、どうもありがとうございました。
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2019年08月17日

ベガルタの現在位置2019年8月

 前節ベガルタは敵地でFC東京に0対1で苦杯を喫した。
 現地の蒸し暑さは相当だったこともあろうが、東京の長谷川健太監督は極端な守備的布陣を敷いてきた。
 元々、今期の東京の強さは林彰洋、森重真人、橋本拳人の後方縦のラインの強さを軸に、ディエゴ・オリベイラと永井謙佑の強力2トップを活かすことにあった。ただし、久保建英の離脱でこの2トップに有効なラストパス(あるいはその一つ前の決定的パス)が出なくなったところが、最近の課題。実際、ベガルタは、16節のユアテックでのホームゲームでは、(久保不在の)東京の起点をうまく押さえることに成功。速攻から鮮やかな2得点で快勝することができた。
 さて、この試合、上記した通り東京の超守備的布陣は、私にとっては相当な驚きだった。東京は首位独走中なのに対し、我がベガルタは何とか下位から中位に駆け上がろうと言う状況。両軍の経済力差もあり、個々の選手の格も、どう考えても先方が上。その我々に対して、ここまで慎重な戦いをするとは。
 実際、長谷川氏の策は奏功した。橋本を軸にした中盤は、三田啓貴、高萩洋次郎、東慶悟の3人の攻撃から守備への切り替えの早さが格段で、ベガルタは速攻を完全に封印された。それでも、ベガルタはサイドチェンジと両翼に人数をかけるやり方でそれなりに攻勢をとるが、変化が乏しく、森重の格段の位置取りを、どうしても破れなかった。
 もちろん、ベガルタが無失点に押さえられれば、それはそれで勝ち点1を確保できたのだが、サッカーだからあのようなPKもあり得るし、ディエゴ・オリベイラとの駆け引きに完勝したスウォビィクに対する判定もしかたがない。負けは負けである。
 ベガルタに対し、ホームであのようなやり方を選択し、「勝ち点1でもよし」と割り切る作戦を採用し、上記の名手たちに己の作戦を徹底した長谷川氏に土下座するしかない。個人能力に優れた選手たちが、守備を徹底したサッカーを演じたときの強さを思い知った(余談ながら、アジアの国際試合で、多くの国々が、最近の日本に対しても同じ印象を感じているのだろうが)。
 ダメなのは、森重を破るような変化を作り出せなかった我が軍である。悔しくて悔しくてしかたがない敗戦だったが、このような悔しさを味わえるから、サッカー観戦はやめられない。究極の快感である。

 一方で。3節前に、ベガルタはホームでアントラーズに0対4で完敗した。
 この試合、ベガルタは攻撃の起点となる松下が徹底してつぶされる。さらに、左サイドバック永戸が、アントラーズの右MFレアンドロに引き出され、そのスペースを土居聖真に突かれ、次々に崩された。アントラーズが変則な仕掛けをしてきたこともあり、幾度か速攻で好機をつかむこともできたが、逆にそれが少人数での無理攻めの頻度を増やし、状況を悪化させ、前半で2失点。ホームと言うこともあり、後半さらに強引に前進した裏を突かれ、大量失点につながった。守備の要として格段の存在になってきたシマオが負傷で出場できないのも痛かった。
 アントラーズ大岩監督の注文相撲にうまうまとはまってしまった訳だが、対応策はあったはず。具体的には、前半無理な速攻をねらわずに我慢するべきだった。ただし、残念ながら、そこまで気の利いた判断をチームとしてできなかったと言うことだ。

 今シーズンは、序盤に新規獲得選手が機能しなかったこともあり、苦しい展開が続いた。特に、敵地のベルマーレ戦やマリノス戦などは、形容しようのない完敗。終わってみればスコアこそ、1点差だったが、それこそ5点差くらいつけられてもおかしくない内容だった。実際、5月までは最下位争いを演じていた。
 それでも、渡邉監督は丹念に強化を継続、シマオ、松下、道渕、石原兆らを完全に戦力化し、6月に攻勢をとり、中位いや上位をうかがえるかな、と言うところまで勝ち点を積み上げることに成功した。
 しかし、アントラーズにせよ、東京にせよ、徹底したスカウティングで、見事なベガルタ対策を講じてきている。これらのやり方を当然、他のチームもしっかり観察しているわけで、今後も難しい戦いが続くことになる。
 もちろん、悪いことばかりではない。ジャーメイン、阿部ら、負傷離脱していた選手も、天皇杯カターレ戦で復帰するなど好材料もある。そのような正負両面の状況下で、ベガルタがどう戦っていくのか。現在リーグの1、2位を走る両クラブの監督に明示された課題への対応策が問われているわけだ。
 過去、幾度も語ってきたが、私は渡邉晋と言う監督を、サッカー狂としては高く評価し、ベガルタサポータとしても深く信頼している。渡邉氏が今後どのような施策をとってくるのか。正に、サポータ冥利に尽きる戦いを楽しむことができるのだから、ありがたいことだ。
 まずは、中村憲剛が率いるリーグチャンピオンをユアテックに迎える一番での、氏の采配に期待したい。
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2019年07月15日

シュミット・ダニエルとの惜別

 シュミット・ダニエルが、ベルギー、シントロイデンへ移籍、ベガルタを去ることとなった。シュミットは生まれ育ちが仙台と言う意味でも、ベガルタにとって特別なタレントだ。その惜別の試合が、何とも言えないホームでの0対4での惨敗だったのだから、何とも我が軍らしいか。

 シュミットは、森保氏が代表監督に就任して以降、常時代表に選好されるようになり、ここまで5試合に出場。アジアカップこそ定位置を権田修一に譲ったものの、先日のキリンチャレンジではトリニダード・トバゴ戦、エルサルバドル戦とゴールを守り、少しずつ定位置確保に近づいている感もある。
 ベガルタにとって、過去A代表に出場したのは、2003年韓国戦の山下芳輝、2010年アルゼンチン戦の関口訓充以来のこと。ただし、2人ともそれぞれフル出場ではなく、その後出場機会も得られなかった。改めてそう考えると、シュミットが代表に定着しかけていることそのものは、まだ四半世紀と言う歴史の浅い私のクラブにとって、着実な積み上げの成果と言っても過言ではないだろう。
 簡単にベガルタのゴールキーパの歴史を振り返ってみる。14年シーズンに林卓人が移籍した後、関憲太郎が定位置を確保するが、必ずしもよいプレイを見せられなかった。翌15年シーズンは移籍加入した六反勇治が定位置を奪い、日本代表合宿にも呼ばれるなど活躍した(出場はなかったが)。しかし、翌16年シーズンは関が定位置を奪い返し、ここからは激烈な競争が行われる。一方、14年にベガルタに加入したシュミットは、定位置争いには参画できず、14、5年にはロアッソ、16年には山雅にレンタル移籍し経験を積む。そして、17年にベガルタに復帰したシュミットは、以降関と激しい定位置争いを演じる。シュミットがほぼ定位置を確保したのは、昨18年半ばのこと。そこから、シュミットは一気に代表の定位置争いまで駆け上がったことになる。ここで重要なことは、関と言い、17年にエスパルスに移籍した六反と言い、ここ数年ベガルタのGKの定位置争いが非常にレベルの高い強化が行われていたことだ。

 本人が移籍時のコメントとして述べたように、27歳と言う年齢を考えると、欧州で活躍するにはギリギリの年齢と言うことでの、決断なのだろう。日本のトッププレイヤあるいはトッププレイヤを目指そうとするタレントが、欧州でのプレイを望むのは、ここ最近のサッカー界を考えれば、当然のこととなっている。短い現役時代の収入を最大限にすると言う意味でも、己の能力をより厳しい環境で限界まで伸ばし日本代表で中核として活躍すると言う名誉を考慮しても。
 ただし、そのためには欧州のクラブに移籍するだけではなく、そこで活躍しステップアップしていく必要があるのだが。そして、シュミットが移籍するクラブはベルギーのシントロイデン。日本企業が出資し、積極的な経営をしつつ、遠藤航、冨安健洋、鎌田大地らの日本代表選手も活躍経験があり(さらに冨安のステップアップもあり)、何か日本人選手の移籍先として安心感のあるクラブではある。
 しかし、だからと言って、シュミットの活躍が担保されているわけではないのは言うまでもない。シュミットは197cmのサイズが話題になるが、そのプレイの最大の特長は左右両足のボール扱いのよさと、正確なキックにある。また大柄にもかかわらず、低いボールへの対応がうまく、敵のシュートに対しギリギリまで我慢できるのも見事なものだ。ただ、一方でその大柄な体躯にもかかわらず、時折クロスへの判断を誤ることがあったのは、ご愛敬か。ともあれ、昨シーズン最終盤からはそのようなミスも減ってきて、代表でも出場機会を得ることができてきたわけだ。ここまで、丹念に能力を向上させてきたシュミットの努力と、そのための知性は、すばらしいものがある。
 その長所、短所が、欧州でどのように評価されるか。欧州でプレイした日本人ゴールキーパと言えば、川口能活と川島永嗣と言うことになるが、シュミットは川島と異なり語学にも課題があるようで、どうなるだろうか。
 楽観も悲観もしていない。しかし、シュミットが努力を重ね、正確なボール扱いとフィード、広い守備範囲、シュートへの的確な対応を誇る、Jでも屈指のGKとなったのは間違いない。そして、この個人能力が、まずはベルギーの中堅クラブでどこまで評価されるのか、期待を持って送り出したい。
 もちろん、違約金もそれなりに入るはずだし、ベガルタにとって、決して悪いことばかりではない。昨シーズンの西村拓真に続き、生え抜きのタレントが欧州に旅立ったことそのものが、単純にうれしい。加えて、西村にせよ、シュミットにせよ、ベガルタ加入前に同世代の中で格段に飛び抜けた評価を受けていたタレントではない。彼らは、ベガルタと言うクラブを選んだからこそ、ここまで来られたのだ。
 これは、若い逸材にとって、ベガルタと言うクラブが、己の能力を高めるいかによい環境であるかの証左となるだろう。

 ベガルタフロントは、シュミットの移籍と前後して、ジュビロのカミンスキーをも上回るとの噂もあり、ポーランド代表経験もある、ヤクブ・スウォビィクを獲得した。これはこれで大いに期待できるタレントだ。もちろん、シュミットと激しい定位置争いを演じていた関憲太郎もいる。また、ここ最近関は負傷離脱していたわけだが、常に安定した第3キーパとして機能していた川浪吾郎にとっては、シュミットの移籍は、定位置確保の大きな好機なのは言うまでもない。
 選手の移籍放出は寂しいことだし、戦闘能力的なマイナスも起こる。しかし、サッカークラブは生き物であり、選手の出入りは常なるものだ。愛するクラブのために尽くしてくれた選手のステップアップは何よりもうれしいものだし、それにより新しい選手の活躍機会の拡大もまた楽しみなものだ。

 2022年ワールドカップ、世界屈指のゴールキーパとなったシュミットと共に、ベスト8、いやそれ以上を戦えることを祈念してやまない。
posted by 武藤文雄 at 23:47| Comment(0) | Jリーグ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年04月30日

あまりに幸せだった平成の日本サッカー

 平成の世が終わろうとしている。

 私はサッカーでも本業でも、西暦を使っているし、人生の区切りを毎回のワールドカップで認識しているような人間だから、元号でのカウントはピンと来ない。ともあれ、人生2度目の元号切替と思うと、感慨深い。
 平成元年の初日(1989年1月7日)のことは、よく覚えている。年休をとって、高校サッカー選手権の準決勝を観に、駒沢競技場に向かったのだ。そして、競技場で見たのは、「昭和天皇崩御のため、準決勝延期します」とのメッセージだった。
 先日からマスコミを中心にお祭り騒ぎだが、国民が元号の切替を楽しむことができるのは、今上陛下の退位の決断の賜物。そもそも80歳を超えた両陛下に今なお活躍いただいたことに感謝。そして、同年代の皇太子殿下が、50代後半のこれから重責を担うことに、何とも複雑な思いを持つ。
 日本と言う国のこの約30年間を振り返ると、産業構造転換の不首尾で残念な期間だったとか、少子化が決定的になったとか、自然災害に悩まされた期間だったとか、ネガティブな評価は少なくない。一方で、いわゆる近代以降(明治以降)で、初めて対外戦争がなく平和な時代だったと、ポジティブにとらえる方もいらっしゃる。
 ともあれ、日本サッカー界にとって、この平成の30年が、本当に幸せな時代、それも昭和からは、まったく信じられないすてきな時代だったことに、異議を唱える人はいないだろう。 
 とにかく、昭和と平成の日本サッカー界は、まったく異なるものになった。昭和には、強い日本代表チームも、実り豊かなJリーグも存在しなかったのだから。

 私は昭和時代から、日本代表が大好きだった。
 そもそも、昭和時代は、ワールドカップ及びその予選に向けて、強いチームを作るための、長期強化をしたことは、実質的にはなかった。これは、1980年代半ば過ぎ(いわば昭和末期)までプロフェッショナリズムの導入が遅れたこともあり、強化の主眼はオリンピック及びその予選が強化の主眼だったためだ。そのような考え方もあり、アジアカップに至っては、予選に出場を見送ったり、B代表を派遣したりしたこともあった。主眼を置いていたオリンピックにしても、1936年(昭和11年)のベルリン五輪、1968年(昭和43年)のメキシコ五輪で、そこそこの成績を収めたことはあったが、出場はその他には1956年(昭和31年)のメルボリン五輪のみ。
 もちろんメキシコ五輪の銅メダルは誇らしいものだったが、そこに向けての東京五輪からの集中強化の貯金が途切れたところで、アジア内で勝つのも難しくなっていた。韓国、北朝鮮、中国、イスラエル(当時はアジア協会所属)、中東勢に勝つことはもちろん、フィジカルでやや優位に立てるビルマ(当時、現ミャンマー)、マレーシア、タイと言った東南アジア諸国に対して劣勢の成績しか収められなかった。単純に、70年ごろから80年代前半(昭和40年代半ばから50年代後半あたり)まで、日本代表は弱かったのだ。
 いや、勝ち負けだけではなかった。そもそも、定期的な代表試合を他国との間で行う機会も少なかった。これは、経済的な課題と観客動員の乏しさの両面からから来るもの。そう言うものだったのだ。…なのでね、平成に入ってから、あれこれ広告代理店がサッカービジネスで金儲けばかり考えて、成績不首尾を招き、結果的に商売面でも下手を打つのを見ると、複雑な気持ちになるのよ…彼らがいたからこそ、日本サッカー界はここまで大きくなれたのだし。
 それでも、私が見た昭和の日本代表は、各選手は、皆が己の限界まで戦ってくれた。今の時代から思えば、コンディション調整も、敵へのスカウティングも、稚拙だったかもしれない。けれども、彼らが堂々と各国と戦ってくれた歴史は色あせるものではない。

 私は、昭和時代から、日本リーグが大好きだった。
 日本リーグは、1965年(昭和40年)に開幕した。これまで、国内のトップクラスの試合が、勝ち抜き戦で行われているのを見て、デッドマール・クラマー氏の提言で始められたものだ。黎明期こそ、東京、メキシコ両五輪の勢いなどもあり、一定の人気を得ていたが、観客動員は伸び悩んだ。日本リーグは、多くのサッカーファンの興味を集めることができず、20余年間運営されたのだ。サッカーの日本リーグ創設は、バレーボール、バスケットボールなどの他球技への、国内リーグ創設にも、大きな貢献を果たしたのだが。
 それでも、毎シーズン、私たちは当時最高レベルのサッカーを、日本リーグを通して楽しませてもらったのだ。東洋工業(現サンフレッチェ)の4連覇、三菱(現レッズ)、ヤンマー(現セレッソ)、日立(現レイソル)の3強時代。古河(現ジェフ)の復権、フジタ(現ベルマーレ)の台頭。そして、読売(現ヴェルディ)、日産(現マリノス)の先駆的プロフェッショナル導入。ヤマハ(現ジュビロ)の強化、全日空(消滅させられたフリューゲルス)の参画。
 実際、80年代半ば以降(昭和60年代)、日本リーグの各チームの攻防は本当におもしろかった。読売、日産に、古河、ヤマハ、全日空などが絡む上位争い。もちろん、ラモス・ルイ、ジョージ・与那城、戸塚哲也、木村和司、水沼貴史、マリーニョと言った攻撃のスタアたちのプレイは色鮮やかだった。一方で、加藤久を筆頭に、小見幸隆、岸野靖之、清水秀彦、岡田武史、宮内聡、柳下正明、石神良訓と言った、最終ラインあるいは中盤後方で知性を発揮するタレントが次々に登場し、毎週末を彩ってくれた。
 そして、古河、読売が2年続いてアジアチャンピオンズカップを制覇、「もしかしたら、俺たち、結構強いんじゃないの?!」と、思いながら時代は平成を迎えた。

 けれども、平成に入った序盤は、正に日本代表の暗黒時代だった。
 1989年は、翌90年のイタリアワールドカップ予選の年だった。1次ラウンド、日本は、香港、インドネシア、北朝鮮と同じグループに入り、H&Aの総当たり戦で1位が2次ラウンドに抜けるレギュレーションだった。結果は北朝鮮に1勝1敗、インドネシアに1勝1分、香港に2分で、北朝鮮の後塵を拝し2次ラウンド進出に失敗した。一番痛かったのは、ホームゲームの香港戦、単調な攻撃を繰り返し、有効な交替策もとられないままに0対0で引き分け。翌週、平壌での北朝鮮戦を0対2で落とし、敗退が決まった。
 当時、日本リーグで活躍していた、加藤久、木村和司らのベテランスタアを起用しなかったこと、当時欧州ではやっていた3-5-2のフォーメーションを採用したのはよいが両サイドに足は速いが判断力に乏しい選手を起用し、事実上3-3-2で戦ってしまった失態など、残念なことが多々あった。
 けれども、このような事態は勝負ごとだから、仕方がない。勝敗は時の運だし、準備が不適切で負けることもある。何がガッカリしたかと言うと、このワールドカップ予選敗退から2週間後に、日本代表が目的不明の南米遠征に向かったことだった。現地ではエスティアンデス、ボカ、インデペンディエンテ、コリチーバと言ったトップレベルのクラブチームに加え、ブラジル代表とも対戦。セレソンは、ハーフタイムで選手を大量に入れ替えたが、ドゥンガ、ロマリオ、ベベットらトップ選手を起用してくれた。試合は、後半あのビスマルクに決勝点を許し敗戦。この時点で、次の五輪は若年層の大会になると報道されており、この南米遠征が何の目的で行われたのか、本当に不思議である。と言うか、腹が立ってならない。
 その後も当時の日本代表監督は辞任も退任もせず居座る。そして、90年、91年と低調な活動が続いた後、92年(平成4年)ハンス・オフト氏が代表監督に就任した。以降は平成の歴史である。
 大会前誰も予想していなかった広島のアジアカップ初制覇(92年)。ドーハの悲劇(93年、平成5年)、UAEアジアカップクウェート戦の失態(96年、平成8年)、ジョホールバルの歓喜(97年、平成9年)、フランスでのチケット騒動と堂々たる敗戦(98年、平成10年)、トルシェ氏騒動、日韓ワールドカップのベスト16(02年、平成14年)、ジーコさんのアジアカップとワールドカップ(06年、平成18年)オシム氏を襲った病魔、岡田武史の奮戦(南アフリカは10年、平成22年)、ザッケローニ氏のアジアカップの歓喜とブラジルでの失態(ブラジルは14年、平成26年)、幻のアギーレ氏、そして…

 日本リーグは、平成に入っても充実していた。88-89年、89-90年シーズン、万年優勝候補と言われていた日産が連覇。木村和司、水沼貴史に加え、セレソンの主将経験あるオスカー、柱谷哲司、井原正巳らが機能し、強力なチームを編成した。それに対し、読売はブラジル屈指の名勝、カルロス・アルベルト・ダシルバ氏(1988年ソウル五輪でブラジル代表を指揮)を招聘、「トップクラスの知将は、ここまで知的なチームを作ってくれるのか」と、我々に強い印象を与えてくれた。もっとも、ラモスがダシルバ氏に反旗をひるがえし、氏が僅か1シーズンで日本を去り、読売首脳がラモスを溺愛するペペ氏を招聘したのは、ご愛敬だった。まあ、キングファーザ、納谷宣雄氏の面目躍如と言うところか。
 そしてJリーグが開幕した。
 平成に入り、日本リーグは、地域密着を指向したJリーグに発展的解散。当初10クラブからスタートした、この人工的リーグは、次々に仲間を増やした。
 そして、我が故郷宮城県も、仲間に加わった。当時の東北電力を主体としたチームをプロフェッショナルクラブ化。ブランメル仙台としてスタートしたクラブは、Jリーグ黎明期のバブル的な強化で経営破綻しかけたこともあった。それでも、鬼才清水秀彦氏を監督に招聘、マルコスと言う偉才を獲得したこともあり、2001年(平成13年)J1に昇格。2年でJ2に降格するも、丁寧な強化を継続。梁勇基、菅井直樹と言ったトップスタアの育成にも成功、2010年(平成22年)にJ1に復帰するや、手倉森誠氏の采配よく、2012年(平成24年)シーズンはJ1で2位になり、翌シーズンACLも体験した。私が宮城県でプレイしていた1970から80年代、宮城県にはまともな芝のグラウンドはなかったことを考えると、隔世の感がある。

 平成が終わろうとしている。
 この平成時代、30年間の日本サッカーが放った光芒の鮮やかさを、どう説明したらよいのだろうか。いや、どう理解したらよいのだろうか。
 2018年(平成30年)、7月2日。ロシア、ロストフ・ナ・ドヌ。我々は、アディショナルタイムに失点し、ベルギーに敗れ、ワールドカップベスト8進出に失敗した。繰り返すが、98年本大会に初出場、02年地元大会、10年南アフリカ、それぞれでベスト16に進出成功していたのだが、ここまで欧州の強豪に粘った試合は初めてだった。ベルギーはその後、セレソンを破り、ベスト4に進出した。
 2018年(同じく平成30年)、12月9日。埼玉県、埼玉スタジアム2002。天皇杯決勝。我がベガルタ仙台は、初めての決勝進出を果たし、浦和レッズと対戦した。序盤にセットプレイ崩れから失点したものの、創意工夫を凝らし、幾度もレッズゴールを脅かす。けれども、武運つたなく、どうしてもレッズのゴールネットを揺らすことできず。優勝はできなかった。

 平成元年に戻ろうか。
 私が観ることが叶わなかった、高校サッカー選手権準決勝、決勝は2日順延して行われた。決勝は、三浦文丈、藤田俊哉、山田隆裕らがいた清水商が、野口幸司、小川誠一らがいた市立船橋を破って優勝した。また、準決勝で清水商に敗れた前橋商が米倉誠、服部浩紀、鳥居塚伸人らで演じた攻撃的サッカーは印象深かった。余談ながら、同日決勝する予定だった高校ラグビーの決勝戦は、延期ではなく中止となり、両校優勝となった。
 これらを思い起こすと、繰り返すが、ご自身で退位と言う選択をされた今上陛下には感謝の言葉しかない。30年前は、昭和天皇が9月に体調を崩され(楽しみにされていた大相撲観戦を直前に闘病生活に入った、せめて最後の相撲観戦を楽しまれていればと思ったのは私だけか)、以降は自粛、自粛の重苦しい元号の切替だったのだから。

 日本サッカーにとって、平成は、本当にすてきな時代だった。
 新しい時代を明日から迎える。サッカーと言う究極の娯楽を得た幸せを感じつつ、令和の新時代を生きていきたい。
posted by 武藤文雄 at 23:55| Comment(1) | Jリーグ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする