2020年03月18日

キャプテン翼を読んだ

 先週の14日の土曜日は、せっかくの休日だったのだが、Jリーグは休止中だし、雨のために少年団の練習はお休み。何をしようかと考えていた折に「キャプテン翼」無料公開と言うのを見つけた。
 と言うことで通読させていただきました。3月20日まで無料公開とのことなので、興味のある方は是非。

 考えてみれば、この名作を、まともに読破したことがなかった。少年ジャンプに連載されていたのは、私が大学生から社会に出て働き始めた時期。さすがに、少年用マンガ雑誌はあまり読まなくなっていた。とは言え、日本屈指の人気雑誌における、日本屈指の人気マンガが、サッカーネタだっただけに、それなりにはフォローしていた。だから、主要登場人物や、よみうりランドでの全日本少年サッカー大会や大宮での全国中学校サッカー大会で七転八倒する流れは、ある程度理解していた。
 ただ、まとまって全編を通しで読むのは、齢59歳で初めての経験。

 いや、おもしろかった。
 中盤で組み立てるとか、サイドで手数をかけるとか、強引に縦に持ち出すとか、オフサイドトラップとか、しっかりしたカバーリングとか、ちゃんとしたサッカーの描写が続く。
 そこで油断しているとw、突然登場する3次元空間、いんや時間差もあるから4次元か、を駆使した1対1のバトル。さらにはゴール前の最終攻防に必ずからむ、すさまじい運動量と読みのよさを発揮する両軍の大エース。加えて、人知を超えた巧緻性による軽業で強力なシュートが発せられ、それに対し神業のような瞬発力を駆使したGKの反応。
 ここにサッカー狂のリアリティを持ち出すのは野暮と言うものだろう。とにかく、おもしろいのだもの。正に、マンガ界の正攻法。単純なバトルに男の子は興奮するのじゃ、たとえ60歳近くなっていても。

 さらに彩りを添えるのは、常に翼君が負傷を抱えベストコンディションでないこと。前途有為な若者が、負傷を抱えている場合、何があっても休ませる必要があるのは言うまでもない。そして、そのように出場を制御しようとするドクターも登場するのだが、そのような長期育成プランは常に否定される。全中決勝で負傷して医務室に下がったドクターと翼君の会話が秀逸だ。
「おまえがブラジルにいってプロのサッカー選手になること、そして日本のワールドカップ優勝、それにくらべたらこんな日本だけのそれも中学生の段階での大会の決勝戦なんてほんのちっぽけなものじゃないか(中略)無理をしてこのひと試合にでたばかりにこの先2度とサッカーができないからだになったとしても本当に後悔しないのか」
とドクターに説教されたのに対し、翼は反論する。
「夢…夢なんです、たとえちっぽけに見えてもこれがおれの夢なんだ。南葛のみんなでこの大会V3をなしたげようとちかった…これはおれたちの夢なんだ!!」
 いや、これがリアルの世界で展開されたら、さすがにいかがかと思うけれど、30数年前の少年マンガ雑誌で展開された物語に文句を言う筋合いはない。
 自らの身体がどうなっても、己の名誉のための勝利を目指す。そして、翼君は最後は明るくチームメートとも相手エースとも肩を抱き合い歓喜するフィニッシュとなるのが、また安心して楽しむことができるものだ。
 余談ながら、翼君よりもよほど身を危険にさらす顔面ブロックを得意技とする石崎君が、いつも上々のコンディションで試合に臨んでいるのは、さすがだ。

 フランスで行われたジュニアユース大会。これはこれで大会そのものの設定がおもしろい。ワールドカップ(ジュール・リメ)、欧州選手権(アンリ・ドロネー)、五輪(ピエール・クーベルタン)のような世界的運動会がいずれも、フランス人の提案によるものであることは、よく知られている。この大会もその系譜に位置するのか、と考えるのは深読みか。
 そう言えば、連載時に大会の組み合わせを見て、イタリア→アルゼンチン→フランス→西ドイツの順番に戦うことになるのを見て、私を含めた西ドイツ嫌いの友人たちと「日本協会の西ドイツ好きの弊害が出た」、「ブラジルが大会に出場していたら、決勝でブラジルに負けるだろうが、西ドイツならば勝てるのだろう」などと語り合ったのを、思い出した。
 ともあれ、西ドイツとの決勝戦。大きなポイントとなるロベルトノートの52ページのくだりが大好きだ。
なぜサッカーは、こんなにも楽しいのだろう
世界中でもっとも愛され親しまれているスポーツ、サッカー
おれが思うに、それはもっとも単純でもっとも自由なスポーツだからじゃなだろうか
グラウンドにたてば監督からのサインなどなにもない
自分で考え自分でプレイする、なににもしばられることなくほかの10人の仲間たちとただひとつのボールをめざし戦うスポーツ、サッカー
 高橋陽一氏のこのメッセージは、サッカー狂には堪えられない。ね、そうでしょ。
 この堪えられないサッカーの魅力、これを翼君たちを通じて描写してくれるのだから、最高ですよね。

 ただ、ジュニアユースで世界制覇した後のワールドユース編やバルセロナ編では、段々と読むのつらくなってきた。
 この手の物語は進めば進むほど新しいより強力な敵が出てくるのは、もうしかたがない。ただ、小学生や中学生が空を飛んだり、ゴールネットを突き破るシュートを打っている分には、夢物語で楽しめるが、後から後から新しい強敵が登場してくると、どうしても飽きが出てくる。バルセロナとかハンブルガーSVとかワールドユース日本代表とか、現実的な世界で行われると、次第に夢の実現の要素が薄れ、軽業の披露合戦としか読めず、感情移入ができなくなってくる。たとえば、若島津健やイタリアの名ゴールキーパが、西ドイツの山奥から出てきた選手と比較して、格段に劣っているかの描写は、いかがと思ってしまうのですよ。
 加えて、物語に強弱をつけるためだろうが、日向の母上が大会中倒れ重体とか、岬君が大会直前に交通事故に会うとか、松山君の恋人が大会中に交通事故で危篤になるとか、立花兄弟が再起不能とか、さすがつらい。
 キャプテン翼をさかのぼる十数年前、左腕が一生使い物にならなくなるまで投げ続ける読売巨人軍の投手とか、燃え尽きてまっ白な灰となってしまうまで戦い続ける世界チャンピオンを目指す 拳闘家とか…まあ、ありましたよ確かに。でも、あれは最終回の主人公だから許される荒技だと思うのだが。
 まあ続編と言うものは、そういうものなのだろう。

 どうしても、飲み込めない描写が2点ある。
 上記した日向小次郎の母上の重体時。日向の境遇とこれまでの心意気を考えれば、重体の報を受けた後、1試合プレイしてからの帰国は考えられず、即帰国のはずだ。小学6年生時代から、約7年間、我々は日向と時を共にしてきた。日向は、不器用な性格で言葉は少ない気立てかもしれないが、人一倍自分を育ててくれた母上には感謝しているし、何より周囲の人々に気をつかい、やさしい人柄だ。その日向が、その母上が重体に至って、「あと1試合したら、帰国する」などと意思決定するわけがないではないか。いや、それ以前に、母上を少しでも楽にするために、高給を提供してくれるJクラブに進んで加入していたはずだ。

 もう1つ。実は、登場人物の中で、一番共感を持ったのは、東邦学園の女性スカウトだ。彼女は私と同じ人種だ。全小の各試合を見ながら、各選手の将来性について、ネチネチと垂れる講釈振りが、我が身を見る思いだった。その内容はさておき、その態度に。
 ただ、納得できないのは、彼女の後の仕事だ。ワールドユース時に日本協会の広報担当、さらに日向がユベントスに移籍した際には日向の代理人なり個人マネージャとなっていた。広報担当や個人マネージャの職務は、それぞれが担当する選手に寄り添い、その選手のプレイをいかに現金化するが責務だ。極めて主観的業務だ。
 一方、チームのスカウトは違う。必要なのは、ひたすら客観的に、その選手を評価し、自部の雇用主に対し、その選手が役に立つかどうかを評価する立場だ。
 サッカー狂の皆さんには、私のイライラ感が理解していただけると思う。サッカーが好きであればあるほど、クラブのスカウトと、広報担当は、まったく異なる「サッカー好き要素」、対称的な位置づけになるはずなのだ。あれだけ、小学生の日向と翼君を冷静に見ていた彼女が、そのような転身ができるはずがないのではないか。

 野暮は言わないと語りながら、野暮ばかりですみません。
 翼君を筆頭に各選手が、時空を舞いながら人間離れした技巧を操り、時に自らの肉体を犠牲にしても、名誉を目指す。その基盤には、サッカーと言う、世界で最も多くの人々が楽しむ玩具がある。おもしろくないわけがない、なるほどこれは名作ですよ。いや、本当におもしろかった。
 80年代、当時の子供達、たとえばこいつ、を熱狂のとりこにしたのも、よく理解できた。そして、翼君にあこがれた多くの少年が、この泥沼のような魅力を誇るサッカーにはまってくれたおかげで、気がついてみたら我が国は世界でも類を見ない右肩上がりの急勾配でサッカー強国に近づくことができたということなのだろう。
 飛躍的に広がったサッカーの底辺を活かして発明されたJリーグは、我が国の文化を変えた。日本中津々浦々にプロフェッショナルのサッカークラブが登場した。それにより、日本中の週末の生活は、格段に彩豊かなものとなったのだ。
 いや、サッカーだけではない。地域に根ざしたクラブの魅力は、プロ野球を再生させ、バスケットボールを実り豊かなものとした。多くの競技で、企業がスポンサとして、各選手を支援する仕組みも、Jの成功があったことが大きい。

 高橋陽一氏は、翼君たちを通じ、当時の子供達に幾多の夢を提供してくれた。その結果として、私たちはJリーグを起点として、日本中でスポーツ観戦と言う娯楽を楽しむことができるようになったのだ。
 高橋さん、本当にありがとうございました。そして、あなたが築き上げてくれた、このステキな日本のスポーツ界を、一緒に楽しんでいきましょう。
posted by 武藤文雄 at 23:27| Comment(1) | サッカー一般 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年12月24日

さようならACL

「baron」さん、「あら」さん、それぞれご指摘のように、グランパスはリーグ優勝してないですね。すみません、ガッカリしていたのですよ。反省の意を含めて、字消し線での修正とします。(12月28日、武藤)

 リーグ優勝2位のグランパスが、天皇杯準々決勝でマリノスにPK戦で敗れた。結果、リーグで4位になったベガルタのACL出場が消えた。

 悔しい。悲しい。

 2009年シーズン、J1昇格を決めたベガルタが天皇杯で準決勝まで進出した時に、私はACL出場確率4%と盛り上がった。まあ、はっきり言って、今期J終了時点での確率は、当時よりは高かったと思う。わずか2年で、ここまでベガルタが「サッカー能力」のレベルを上げる事ができるなど、想像もしていなかった。
 
 正直に言おう。
 私は弱気な人間なのだ。
 来期以降もJの4位以上に、ベガルタが入れるなどど、大それた事を想像はできない。だからこそ、来期ACLに出たかった。
 いや、もっとはっきり言おう。来期以降、このような機会が、我々に訪れるだろうか。などと了見の狭い事を考えるから、サッカーは最高なのだ。
 だからこそ、獲得できなかったACL。まあ、仕方がないよね。弱いクラブにはそのような権利は来ないのだ。

 だからこそ、悔しいし悲しい。
 実力の世界。そう言う事だな。
posted by 武藤文雄 at 21:47| Comment(8) | TrackBack(0) | サッカー一般 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年07月17日

ラジオに出演

 FM小田原さんの番組に出演します。ワールドカップ全般について、好き勝手に語らせていただきました。インタネットを介して、聞けるとの事なので、興味のある方は是非。下記URLを参照ください。
 よりによって放送は、明日の21時からなので、私はみちのくダービー参戦直後なので聞けないのですが。

http://odawara-elephant.com/
http://www.simulradio.jp/asx/fmodawara.asx
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2010年04月19日

知的障害者日本代表チーム壮行試合

 昨日18日は、中々愉しい経験をした。知的障害者日本代表チームの試合の副審を務めたのだ。

 友人がtwitterで「知的障害者のサッカーの審判募集」と語っていたので、何気なく引き受ける事にした。ところが、会場のNHKの裏手の代々木公園競技場に到着してビックリ。代々木公園では、アースデイなる、大規模なお祭りが開催されており、フードコートやら露店やらが大量に出ていて、すごい人出。その流れで、観戦者?も結構多い。
 さらに、会場について友人から試合そのものの狙いを聞いてビックリ。数年前「プライドinブルー」なる映画でも取り上げられた「知的障害者日本代表チーム」の試合だと言うのだ。そして知的障害者ワールドカップが、本物ワールドカップより2ヶ月後に南アフリカで開かれると言う。そう言えば、故長沼健氏が名誉顧問を務めていたり、中村俊輔も支援活動をしていたのを思い出した。詳しい事情はよくわからないが、長沼氏が亡くなられた事もあってか、必ずしも日本サッカー協会の協力も円滑には得られてないらしい(たとえば、ユニフォームも例の「レッドカード」ではない)。そのあたりもあって、審判の確保も容易ではなく、私のような一介のおじさんにその役が回って来たと言う事らしい。
 しかも、驚いたのは日本代表の対戦相手。ジェイ・カビラ氏の率いる「レインボー」と言うチーム、望月三起也氏が率いる芸能人チーム「ザ・ミイラ」だと言う(望月氏はもちろん、ペナルティのワッキー氏、島崎俊郎氏、「コント山口君と竹田君」の山口氏らが登場)。試合終了後には、日本代表の遠征費のためのチャリティ・オークションが行われた。
 また日本代表の試合と言う事もあり、旧知の若いサポータ団体infinityの連中も来場、例の「我らが日本・可能性は無限大」ダンマクが貼られていた。どうして、若者がノンビリ観戦し、私のようなおじさんが審判しなければならないのはさておき。あ、ちなみに彼らは私の写真も撮ってくれた。これね。

 日本代表は、勤勉でよく走る選手が多いのだが、がんばり過ぎると言うか、生真面目過ぎると言うかで、どうしても攻撃は単調になっていたのが気になった。どちらの相手チームも体力に難があったのだから、ゆっくりとボールを回せばもっとよい攻撃ができたと思うのだが。おそらく国際試合でも、外国チームはロングボールでファイトしてくるチームが多いと思うのだが、もう少しテンポを落とせるかどうかがポイントになるのではないか。
 また守備では、中途半端なオフサイドトラップを突かれる事が多かった。ミイラとの試合では、格段に運動量が違い圧倒的な攻勢を取っているのだが、ワントップの巧妙な動きで再三裏を突かれていた。脚力のある選手が多いのだから、ラインの上下の意思統一が行われれば、一層よくなると思う。
 2試合とも副審を務めた訳だが(30分ハーフ2本は結構きつかった、疲れた)、少しでもお役に立てたかと思うと嬉しい。

 上記ミイラの島崎氏は、副審の私との相性は最悪。守備ラインに入っては日本代表にオンサイドの突破を許し、前線に残ってはオフサイドを連発。その度に、両手を広げて抗議する島崎氏と、表情を変えずに旗を振る不肖講釈師と言うのは、結構シュールな対決だったかもしれない。あと、試合集に実況?を務める山口氏は、私はミイラのオフサイドをとる度に「今日の審判は空気を読めない」と文句を言っていた。悪かったな。
posted by 武藤文雄 at 23:00| Comment(2) | TrackBack(1) | サッカー一般 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年02月04日

他山の石

 朝青龍が引退した。
 つい先日、この力士の鮮やかな勝利に感心する講釈を垂れたのだが。巡業をサボって、タレントとボール遊びをしている分には、内輪の約束事を守るか守らないかだから、その処分は内輪で意志決定される事も許されていた。けれども、格闘家が人を傷つけては論外。大変残念だが、どうしようもない。
 例のボール蹴りにしても、左手での手刀にしても、土俵でのガッツポーズにしても、敵にとどめを刺す態度にしても、それぞれは社会常識としては許容されても、相撲と言う家風の中では不適切な行動だったのだろう。しかし、高砂親方(2代目朝潮)も、北の湖前理事長も、武蔵川現理事長(三重の海)も、適切な指導を行う事はできなかった。そして、相撲界内での横紙破りの連発により、朝青龍の意識の鈍感さは極まり、社会常識から許されない暴行行為となってしまったと言う事か。
 あの鮮やかな相撲がもう見られないかと思うと残念だ。態度や振る舞いはさておき、私にとっての朝青龍は、大鵬、北の湖、千代の富士、そして2代目貴乃花に匹敵する強さを持った横綱だった。あの切れのある相撲はもう見られない。せめても慰めは、上記講釈で朝青龍最後の勝利をじっくりと語る事ができた事か。
 
 しかし、今後相撲界はどうなっていくのだろうか。
 先日の理事選挙で、外部の人間には「笑い話」としか言いようのない、見事な票割りを見る事ができた。あの「笑い話」そのものを攻める気は一切ない。人を傷つけたり(もっとも、以前には稽古に名を借りた殺人事件を起こしている、これは朝青龍顛末問題よりも格段に深刻で許され難い大事件なのだが)、脱税したり(もっとも一国の総理大臣が脱税と言う犯罪をそう重要に捉えていない国なのだが)しなければ、「相撲界」の中で何が起ころうが、特に問題ではない。
 けれども、あれだけ社会的注目を集めた理事長選挙で、あれだけ厚顔無恥に振る舞う事ができる発想は、結局「朝青龍を制御できなかった」事につながるのではないか。現に、諮問機関である横綱審議会に所属していた内館牧子氏は、幾度も朝青龍問題に警告を発していた。しかし、相撲界はそれを事実上無視して、結局今日のような残念な結果を招いたのだ。
 私が危惧するのは、このままの体制が続く事で、格段に深刻な事態が発生し、将来に渡り相撲を見る事が叶わなくなる事だ。そうなる前に、何らかの自浄力がはたらく事を切に望みたい。

 と、ここまで偉そうに書いてきて、急に不安になってきた。我々は大丈夫なのだろうか。
 代表チームが勝てないとか、代表試合に観客が入らないとか、若年層代表がアジアの突破に失敗したとか、テレビの視聴率が下がったとか、関連の雑誌が減っているとか、我々はいつも多くの問題に悩んでいる。しかし、落ち着いて考えてみると、これらの問題は重要ではあるが、戦術的、派生的な問題であり、結果的な事象でもある。そして、このような問題は、皆で真剣に議論、検討し、前進していけば解決できる事のはずだ。

 けれども、我々は、もっと戦略的で本質的な問題を多数抱え、それが放置されてきているではないか。
 ワールドカップで負ける事そのものは仕方がないし、重要だが致命的な問題ではない。けれども、その敗因の主因が監督選考にあった事を一切認めず開き直り、論理不整合の強弁を繰り返す。
 お抱え医師の能力不足から生じたドーピング濡れ衣事件は非常に深刻だが、それ以上に深刻なのは、第三者機関が「濡れ衣」と断定しても非を認めない態度そのものだ。
 ルール上許されているメンバ起用を行っているにもかかわらず、公の前でそのクラブを非難する、法治国家に生きている自覚のなさ。
 完全に破綻している日程問題を、何らかの改革で解決しようとしないどころか、論理的に考えれば実現不可能な他地域のシーズン制を強引に「導入するべし」と吠え続け、多くの人を傷つけ、無駄な努力をスタッフに続けさせる知能程度の低さ。

 我々だって、このような深刻な問題を放置し続けているではないか。相撲界の事を笑えないのだ。
 いや、相撲界よりももっと悪いかもしれない。相撲界は、たとえ「笑い話」と揶揄されようが「選挙」で理事を選び、互選で理事長を選んでいる。
 それに比べて、我々は...
 では、どうしたらよいのか。ブログで問題点を指摘すると言う事しかできない、あるいはしてこなかった自分を恥じる。そして、己の非力さを感じずにはいられない。
posted by 武藤文雄 at 23:50| Comment(14) | TrackBack(0) | サッカー一般 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年01月25日

遠藤保仁と朝青龍

 大相撲初場所で朝青龍が堂々の優勝を決めた。
 14日目に優勝を決めた一番の日馬富士戦は見事だった。がっぷり四つで胸が合うも、体力的にも不安がある朝青龍としては、難しい状態になってしまっていた。しかし、日馬富士が攻めに出てきたタイミングで下手から仕掛け、逆に日馬富士の体勢を崩してから攻め続け、最後は鮮やかな下手投げで仕留めた。
 日馬富士の攻め込みのタイミングギリギリで見事に仕掛け返した判断の見事さに感心したのだが、取組後のインタビューで「下手からの仕掛けは狙っていた」との趣旨の発言。冷静な判断と、敵の動きを利用しての技の冴えの、見事な連携による攻撃だった訳だ。
 この手の鮮やかな攻撃について、よく「相撲勘」とか「勝負勘」と言う表現が採られる事が多いが、実際には「勘」と言うよりは、やはり「知性」と「技巧」の組み合わせによるものだろう。稽古が足りないとか、横綱としての品格に欠けるなどの話は別として、完璧な攻撃の冴えは本当にすばらしい。

 で。この朝青龍の見事な攻撃と、取組後のインタビューをテレビで見ていて、天皇杯決勝の遠藤の舞いを思い出したのだ。
 決勝点となった2点目。二川のパスが完璧で、吉田麻也のプレイイングディスタンス外ギリギリで、トップスピードに乗った状態でボールを受ける事ができた所からスタート。ために、吉田を打ち破るのは比較的容易だったが、その後のバエリッツァの飛び出しをよく見てのドリブルのコースと、タッチの大きさの的確な事。さらに、バエリッツァを抜き去った後、利き足でない左足で強いボールを蹴る事ができるポイントに持ち出す精度の高さ。
 3点目のアシストもすごかったけれど、あれは明神と二川の演出でフリー過ぎたので、まあいいか。
 4点目、加地の好クロスを胸で受けながら、後方のバエリッツァとの入れ代わり反転し、強烈な一撃。これは、バエリッツァの当たりを察知して、ボールをトラップする場所を微調整するだけで、入れ代わりを成功させた。2点目にしても、4点目にしても、バエリッツァの動きを理解し、陽動動作で誘い出し、僅かな隙を突いてその攻撃を無効化し、最後強いシュートにつなげるべく正確にボールを起き直した。
 「何と強引な」と笑われるかもしれないが、朝青龍が日馬富士の仕掛けを逆利用したのと、遠藤がバエリッツァのアプローチを誘い出したのと、何か共通性を感じたのだ。この2人の類似性など、生まれた年が同じなのと、ヒゲが似合わない事くらいだ。しかし、飛び切りの判断力と技巧の冴えの連携による鮮やかな攻撃について、何とも言えない共通性があるではないか。

 それにしても遠藤は年々向上する。たとえば、ほんの2シーズン前遠藤は代表の中核選手ではあったが、シュートへのアプローチに課題があったのだ。あの2年半前の遠藤を見ていて、誰がこの天皇杯決勝の遠藤を想像できただろうか。
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2009年10月05日

東京五輪失敗から見たワールドカップ招致について

 東京五輪招致失敗をきっかけに、ワールドカップ招致について色々考えた事について、講釈を垂れたい。

 私は五輪招致に否定的だったし、ワールドカップ招致にも賛成していない。もっとも反対している理由は、高邁なものではないのだが。
 五輪については、都内勤務者としてあんな都心で五輪を開催されたら、経済活動が停滞する事を懸念するから。いや、もっと平たく言えば、道路や鉄道が混んで鬱陶しいだろうと思うから。都心でコンパクトな開催を訴求していたようだが、どうして異なる競技を狭い所でやる必要があるのか。サッカーを(私を含む)数万人が見に行って、さらに他競技の観戦者とバッティングしたら混雑するだけではないか。むしろ、広域で分散開催し、最先端のネットワーク技術(大昔、どこかで誰かが提案していたバーチャルスタジアムとかさ)やロボット技術を駆使して、リアルタイムで様々な競技を愉しむような五輪ならば、我が国にしかできないだろうし、単純な箱モノ行政とは異なるので、意味があるとは思うが。
 ワールドカップについては、もっと私的かつ深刻な理由だ。まず地元開催となると予選がなくなってつまらない。どうして人生最大の娯楽を02年に続いて取り上げられなくてはならないのか。また本大会の日本戦のチケットが手に入りにくくなるから。下手をすると、海外にワールドカップを見に行くよりもカネを準備する必要があるかもしれなくなるではないか。

 本件について、友人が興味深い意見を述べてくれた。要約すると「ワールドカップ招致そのもの、あるいは招致活動を通じてのサッカー界の盛り上がりの重要性、そしてワールドカップ招致とスタジアムなどのインフラ建設において連動していた五輪招致失敗の悪影響への懸念」と言う内容だった。
 これは正論である。箱モノ行政面を除いても、ワールドカップ招致活動は、一般の方々やマスコミの注目をサッカーに集める事になる。それにより、Jリーグや日本代表にも注目が集まり、サッカーを語る媒体も増えと、サッカー自体にも好影響が期待できる。したがい、私のような私的かつ偏屈な思いから、ワールドカップ招致に反対ばかりしていても仕方がないのも確かだ。
 ただし、五輪に頼らなければW杯を開けないならば情けない事だ。サッカーはサッカーで完結しなければワールドカップ招致も何もないだろう。また、手段として(主にインフラ面での環境を充実させるために)W杯を招致しようとするのは本末転倒なのは言うまでもない。ワールドカップ招致活動と言うのは、サッカー界にとって、一種のカンフル剤のようなものなのだ。劇的な刺激がなければ、維持できないサッカー界ならば、それは正常なものではなく、背伸びし過ぎと言う事になる。
 実際、カンフル剤を打たない事で失う何かが出てくる事はあるかもしれない。たとえば、経営破綻するクラブが出たり、代表が思うような成績を残せなくなるなど。それでも、(Jのトップクラブを不自然に消失させると言う論外の意思決定を行わず)経営破綻したクラブは活動を縮小すればよい。代表が少々弱くなっても、その国のサッカーは死なないのは言うまでもない。海外の3部リーグのクラブにホームで惨敗した代表チームが20年経てばワールドカップに出場する事もあるのだし。
 長期的な視野を持ち、近視眼的な思いつきの策を採らずに悠々とサッカー力を上げて行く事が、ブラジルやアルゼンチンに近付き、いつかワールドカップで優勝する唯一の道だろう。そして、その長期的視野を見失わない範囲で、カンフル剤を用いる事まで全否定しては道を狭めるかもしれないとは思う。要はバランスなのだ。

 ただし、新たにワールドカップを招致しようと言うならば、2002年をしっかり振り返り、成功した事、失敗した事を、それぞれ認識するのが重要ではなかろうか。それには色々な切り口がある。
 たとえば、あの愉しかった4試合。試合そのものの重厚な駆け引き。現在ではとても難しいのだが、長期に渡る代表強化の成功。あの時活躍した若手選手の伸び悩み。逆にメンバ落ちした選手の大成長。
 たとえば、我が国(共同開催した相方もそうだが)独特の高温多湿の環境。列強が次々に消えたのは、相方国のナニが主因ではあったが、やはり不思議な大会だった。もっとも、少々天候がサッカーに不向きの方が、フィジカル重視の国が落ちるのでよいと言う説もあるけれど。
 たとえばチケッティング。世界最高レベルのチケッティング企業がありながら、あのような無能なチケッティング企業のために散見された空席。チケット入手のための効率悪い事この上ない無駄な努力。それに対して、今度はヘマをせずに、FIFA胴元も我々も幸せになる方法を提案したい。
 たとえば、マスコット。世界最高レベルのマンガ大国が、あのような今では誰も覚えていない陳腐で格好悪くみっともないマスコットを受け入れなければならなかった屈辱。
 たとえば、各地での触れ合い。カメルーン代表と中津江村の触れ合い、デンマーク代表が残してくれたエピソード、イングランドのサポータ達が出した日本語のダンマク、「フーリガン」と誤解され逮捕されそうになった普通のアルゼンチンサポータ。そして、超一流選手たちの少年指導や高校生との練習試合。このような交流は、我が国が最も得意とするところではないか。
 たとえば、作られた競技場。宮城、静岡の大失敗は論外だが、横浜、鹿島、大阪、大分などは利用率こそ悪くないもの、様々な問題を抱えている。成功したと言えそうなのは埼玉、新潟、札幌(野球利用が本命なのが悔しいけれど)、神戸(大会前から将来を見越して収容人員削減の改造をする視点がすばらしい)。何がうまく行き、何が失敗だったか、それは次大会の運営計画そのものにつながるはずだ。
 たとえば、各国の練習場のために整備された各地の施設。私の在住地近傍の平塚は、ナイジェリア代表の招聘に成功、市内一等地の相模川河川敷にグラウンドを整備した。爾後、色々な経緯があり、今そこはは天然芝2面、人工芝1面のグラウンドが整備され、ベルマーレの練習場となっているのみならず、近隣の中学、高校の公式戦会場として頻繁に使われている。また天然芝グラウンドは稀にだが、我々の草サッカーでの利用も可能だ。ここまで、充実した利用がなされれば、オコチャやカヌーの妙技の記憶と共に完璧ではないか。
 いや、もっと色々あるだろう。とにかく、僅か16年サイクルでの同一国開催は、86年にコロンビアが開催辞退してメキシコが代替開催を行った時しかない。そのくらい、前代未聞の短サイクルでの招致活動なのだ。異例ではあるが、せっかくなのだから、記憶新しい前回の成功、失敗をしっかりと整理し、今度こそ史上最高のワールドカップを主管するくらいの気持ちで、招致活動を行うべきではないかと考えた次第。

 本エントリは、東京五輪失敗直後、友人のHさんとTwitterで交わした議論を起点にまとめたものです。Hさん、格好の議題を提示いただき、ありがとうございました。
posted by 武藤文雄 at 23:00| Comment(9) | TrackBack(1) | サッカー一般 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年12月04日

「世界一を目指す事」と「年またぎ開催」について

 しかし、「夢のない人」と言うのは本当に困りものだ。
 エルゴラッソに掲載中の犬飼会長の冬期開催推進意見に関する提灯記事については、完結してから感想を述べるべきかもしれないが一言。「夢がない」、「志が低い」のは、サッカーに対する知識や理解が低いのだから仕方がないかもしれないが、責任あるお立場なのだから「手段」と「目的」の相違くらいは把握した上で論理を展開されたらいかがたと思う。
 世界一を目指すためには、ブラジルやアルゼンチンを戦闘能力で凌駕する代表チームを持つためには、世界中いずれの国からも尊敬され羨望されるサッカー国になるためには、短期的で姑息な手段では不可能なのだ。そのためには日本中津々浦々から優秀な選手が登場する必要があり、そのためには今よりももっともっと分厚いピラミッド構成の選手層が必要であり、そのためにはプレイヤだけでなくサポータ、観戦者の層を今以上に格段に広げていく必要がある。その究極の目的のために、どのような手段を採るべきかを考える事こそ重要なのである。

 さて、過日Jリーグ実行委員会「シーズン制移行プロジェクト」が開催されたと言う。そして、結論(ではなくて方向性だそうだが)が反対多数になったのは、客商売と言う観点からすれば、当然予想された事だった。
 何回でも繰り返すが、寒ければ客の入りは悪くなるのだ、これは寒冷地だけの問題ではない。過日コメント欄で「夏期の入りが悪い」と勘違いされていた方がおられたが、それは平日開催の不入りが足を引っ張っての事である。加えて、現実的に豪雪地域での開催は不可能なのだから、会議の結論(方向性か)が「年またぎ開催否定」になるのは、当たり前の事で格段なニュースとは言えない(ちなみに、いつのまにか「秋春制」が「夏春制」に変身しかけているようなので、今後は「年またぎ開催」と呼ぶ事にする)。
 ただし(話のきっかけは理不尽でも)せっかくシーズン制について議論をするならば、もう少し踏み込んで寒い時期の試合について議論する事はできなかったのだろうか。いつも語っているが、現状の破綻した日本サッカー界の日程を少しでも改善するための方策を模索するためにも。

 例えば、欧州で冬期にいかに寒さをしのいでいるかを研究する事は、厳寒地域に限らず、寒い時期のサッカーにはプラスになるはず。
 関東以南でも、冬期の試合の観戦は厳しい。最近のトヨタカップや冬期の代表戦は、平気でナイトゲームで行われるため、相当厳重な防寒態勢が必要。ナイトゲームに限らずとも、昼の試合でも、日がかげり、風が強い時はつらい。熱燗を飲みながら大声を出し飛び跳ねるくらいすれば耐えられようが、冬期の試合の多くは、拡大トヨタカップにせよ、天皇杯の決勝近くにせよ、高校選手権にせよ、中立感覚で見る試合が多く、中々そうも行かない(ベガルタが拡大トヨタカップに出るとか、天皇杯上位に進出するとか、我が母校が高校選手権に出るとかが実現すれば問題ないのだが)。
 先日訪ねたオランダでは、屋根にヒータがついていて、寒い中でも中々快適に観戦ができた。また、当日同行した中田徹氏によると、その他にも欧州の競技場の多くは厳冬期での試合の対応のために風が通らない構造に工夫されていると言う。このような事例の調査や把握を日本協会はより積極的に行い、各地域のスタジアムへの導入を推進すれば(もちろんカネの問題はあるけれどね)、「年またぎ開催」云々とは関係なく寒い時期の観戦の快適化につなげる事ができるではないか。
 本来であれば、そのような具体的な調査は、冬期に強引にリーグ戦を行おうと提案するサイドが事前に行うべき。冬期開催を拒絶する側のコンサドーレの社長が見積価格を意見する事そのものが逆で、推進側が「いくらしかかからないから進めよう」と言うのが本来の筋なのだが。

 こう書くと、「お前は『年またぎ開催』を望んでいるのか」と誤解する向きもいるかもしれないが、もちろんそんな事を思っての意見ではない。物事を考える時に、他の事例を研究し、当方に織り込める事はないか考えるのは大切だと言っているだけである。
 大体、こちらを読めば、冬期豪雪地帯での公式戦が不可能な事は、まっとうな方なら誰でもすぐ理解できよう。
 豪雪地帯ならずとも、冬期には雪が降る事がある。そして望ましくはないが、代表戦は相手やAFCやFIFAの都合で冬期に行われる事もあり得る。今年の埼玉タイ戦も雪の中の試合だった。また、87年のトヨタカップ、ポルト対ペニャロール戦は、豪雪の国立競技場で行われたが、あれはあれで記憶に残る試合だった。あの程度の雪ならば、ハプニングとしての対応も可能だろう(もちろん、来年の豪州戦が雪になるのは、観客動員、勝負の両面からあって欲しくない事態だよ)。
 しかし、豪雪地帯の雪はあの程度のものではない。まともに試合はできないし、練習すら不可能だ。「その期間は敵地で試合」との発言が思い付き以外の何者でもない。先日のJリーグ実行委員会でも、「その期間は敵地で試合」構想は、豪雪地域外のクラブからも一考だにされなかったと言う。
 無理な事は無理なのだ。しかし、その中でできる事(他国の事例を研究する事など)を行うのはとても大切なはずだ。

 「ブラジル、アルゼンチン超え」を実現するための王道は、できない事を認識した上で何ができるかを、短慮に走る事なく粛々と考え続けるではなかろうか。
posted by 武藤文雄 at 23:00| Comment(18) | TrackBack(0) | サッカー一般 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年12月02日

日本協会トップの現状を推定する

 過日、犬飼氏の一連の発言について考察したが、ご本人の資質はさておき、あのような不適切な発言が連続すると言う事は周囲のスタッフに相当な問題がある事も間違いない。そうなると、前任者の事を考える必要が出てくる。

 川淵前会長の(東京五輪に代表される選手としての活躍のほかの)貢献については、後藤健生氏が3点まとめている。私もこの3点については全くの同意見。80年代前半の指導層を含めた代表若返り、90年代初めのJリーグ創設、外国人プロ監督のオフト氏の招聘。後藤氏は、その3点の共通点を
いずれの協会幹部の意見に対して、堂々と自説を述べて認めさせてしまう強引さ
と表現している。
 これをもう少し突っ込みたい。これら3点について、別種の共通点があるのだ。いずれも、当時としては難しい結論ではあったが、川淵氏が推進しようとした案件に対する反論はいずれも「時期尚早」ではないかと言う意見だったのだ。実際、当時の事を思い起こしても「いつかはやらなければならない事」なのは、心あるサッカー人には半ば常識だった。つまり、それらは「今やるのか、先送りして後でやるのか」と言う「2元論」だったのだ。そして、その「2元論」的問題を、川淵氏は独自の強引さによって見事に解決したのだ。
 したがって、細かな瑕疵はどうしても残った。たとえば、代表の若返りについては、後日森監督自身が行き過ぎと判断し、碓井博行や田口光久らベテラン選手を呼び戻した事があった。Jリーグ推進は、各クラブの親会社と地域密着のルールがいささか曖昧で、開幕から15年経った今でもその悪影響は残っている(具体的な話については非常にややこしい話なので別な機会に)。しかし、こう言ったほころびが少々あったにしても、当時の川淵氏のこの3点の決断と実行は正しかった。誤解しないで欲しいが、ほころびが出てしまった事そのものも、難しい課題だった事の証左であり、氏は貢献を称えられこそ、責任を追う必要はなかろう。

 しかし、川淵氏が協会会長に就任した後はどうだろう。以前指摘したように日本サッカー界の重要課題は未解決のまま惨憺たるありさまになってしまっている。今回の犬飼発言にも関連する「日程破綻問題」、今シーズンも幾多の問題が起こった「サポータ暴動問題」、さらには「審判権威問題」。そして、これらの重要問題に共通する特徴は、各種の利害が錯綜し、「二元論」では意思決定できない事にある。
 そして、「二元論」を強引に解決する事は得意だった川淵氏は、これらのように錯綜した重要課題は全て放置して任期を終えた訳だ。困った事だ。
 さらに言えばこれだけの難問が数年間放置されたと言う事は、川淵氏周囲の協会スタッフもこれらの問題の放置を容認した事になる。いくらなんでも、これらの問題が具体化している事に日本協会スタッフ諸兄が気がつかなかったとは思えない。つまり彼らはこれらの諸問題を顕在化させると、川淵会長に叱られるなり、排斥されるなり、降格されるなり実害があるから放置し続けたのだろう。つまり川淵会長の周囲にはイエスマンしかいなかったのだ。
 「我那覇ドーピング濡れ衣問題」は、その問題そのものも深刻で悩ましいが、後の対応の無様さには目を覆わされる。これこそ「錯綜する問題」に対応できないトップが「引っ込みがつかなくなった事」で開き直っているのを、周囲が諌める事すらできない悲劇的状況である。

 そして、そのイエスマンしか周囲にいない状態が、新会長になってからも継続しているのだろう。しかも新会長は、公選で選ばれたのではなく前会長の推薦と言うのだから...

 我々はそのような現状下にいると言う認識を持ちながら、粛々と日本サッカー発展のために日々努力していく必要があると言う事なのだ。
posted by 武藤文雄 at 23:00| Comment(4) | TrackBack(0) | サッカー一般 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年11月28日

一連の犬飼会長発言への感想

 犬飼会長が、サッカーに対する知識、理解が不足している事は、既にこの時点で、明らかだった事だ。ここ最近の発言で、それが再確認されたのに過ぎない。
 したがって犬飼氏が、欧州のトップチームは大変な試合数をこなすが各国代表クラスの選手を2チーム分近く抱えている事、それらのチームはそう言った超名手がターンオーバで試合をしている事、アジアにおける国際試合の移動時間や時差は欧州と比較にならないくらい厳しい事、中2,3日の連戦の継続は選手のパフォーマンスを落す事、などサッカーを愛好している人にとっての、常識的な知識、理解がない事は、もはや驚きではない。「ドイツではバックパス禁止云々」についても、知識不足の一環と捉えるべきであろう。

 しかし、ここ最近の犬飼氏発言の報道を読むと、さらに暗澹たる気持ちになる。いくつか氏の発言の特徴を列記してみよう。
(1)法令順守の気持ちに欠けている
 明文化されているルールを守っているにもかかわらず、処罰する事が可能だと発言するなど、法治国家に住んでいる事を理解していない。
(2)理論的裏づけがない事を口にする
 例えばシーズン制見直し問題については、私は過去幾度もその非現実性を論じた。私のような「素人」でも、簡単にわかる理屈すら全く考えずに、「秋春制にすればすぐに解決する」と理論的裏づけのない発言を繰り返す。上記3エントリを読んでいただければ「秋春制への切替は日程問題を一層深刻にする」事はすぐ理解いただけるはずだ。
 ちなみに「ナビスコカップ23歳以下云々」については、Jリーグチームの年齢構成すら確認せずに発言している事の証左と言える(ちなみに本件に関して「スポンサの了解云々」との発言もあったようだが、これは未決定情報のリークと言う意味でかなり拙い)。
(3)論理的整合が取れていない
 以下、具体例を箇条書きする。
−「天皇杯に(犬飼氏自身が納得する)ベストメンバ揃えろ」と言っておいて、天皇杯とワールドカップ予選をバッティングさせている。
−ハンス・オフト氏のように長年日本サッカーに貢献した人に対して、「外国人は自分の成績をあげればいいだけだから云々」と語る(もっとも犬飼氏は、レッズ監督としてのオフト氏しか知らないのかもしれないが)
−オシム爺さんや岡田氏のような「玄人」の発言は重要だと言いつつ、シャムスカ氏やミラー氏のような「玄人」の行動はケシカランと言う。
−「秋春制推進は選手休養のため」と言いながら、主力選手をターンオーバ的に休ませる事には反対する。

 上記3点に加え、氏は「スポーツ誌の記者達は『氏のご高説を賜りたくて集まっている』のではなく『氏の発言を面白おかしく取り上げて、新聞をたくさん売りたい』から氏の周りをウロウロしている」と言う事にも気がついていないフシがある。
 かくして、連日連夜スポーツ誌には、「犬飼暴言」があたかも連載かのように掲載されている次第。

 氏の一連の発言に対して「氏に何がしかの深謀遠慮があるのではないか」と推論する向きが多いようだ。たとえば、日本代表のスポンサ確保が主目的だとか、野球のオフシーズンの冬期のスポーツ露出を意識した構想の一環だとか、(それらを含めた)広告代理店の意図だとか、(氏が以前社長を務めていた)浦和レッズへの利益誘導だとか、さらにはAFCやFIFAとの政治的取引実現のためだとか、強引にシーズン制を改定しようとするための芝居だとか。
 そんな事ある訳ないではないか。
 既に氏が喋れば喋るほど、「シーズン制は見直ししない方がよいのだ」と皆が考えるほど、氏の発言の信頼性は失われているのだ。氏は、上記した一連の課題を持つ、大変正直な人なのだろう。たとえば「『落雷対策』『猛暑期の試合を無くす事』などが狙い」と言っておいて7月開幕が原案になると言う時点でもうアウトだろう。
 犬飼氏には甚だお気の毒だが、ご自身のお立場を考えるべきだと思う。発言には責任が伴うものであり、不適切な発言を連続すればするほど、自らの立場は悪くなるし、自らの意見は通らなくなる。実際、記名記事で氏の発言を肯定する事は事実上不可能なほど、氏の発言は信頼を失っているではないか。

 それでも、我が国のサッカー協会の会長なのだ。「過ちて改むるに憚ることなかれ」なり「聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥」と言うではないか。済んでしまった事は、しっかりと反省いただき、詫びる事は詫びて、信用を取り戻し、職務に励んでいただきたいものだ。
posted by 武藤文雄 at 23:00| Comment(16) | TrackBack(1) | サッカー一般 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする