2003年09月03日

川口の移籍

 川口がようやく移籍する。

 何とデンマークのクラブと来た。デンマークは80年代になって急速に力を伸ばしてきた欧州の2番手クラスの強豪だが、国内リーグのレベルはよくわからない。中心選手の多くが、サッカーバブル全盛となる前の80年代から海外でプレイしていた事から考えると、資金力はそれほどないチームが多いのだろう。とすれば、実力的には全く問題ないはず。今度こそは是が非でも力を発揮して欲しい。

 各種報道によると、必ずしもレギュラGKとして迎えられた訳ではないようだ。しかし、この世界は実力の世界、前所属チームのように理不尽な理由さえ無ければ、必ずや正位置を掴み、代表復帰への礎としてくれると信じている。

 私はアトランタ予選やフランスワールドカップでの川口の安定感あふれる見事なプレイが忘れられないのだ。アトランタ予選の頃のミドルシュートの確実なキャッチングやクロスへの的確な対応には、本当に感心したものだ。A代表昇格後、特にフランス予選では、若さゆえから再三ミスがあり、日本の苦戦の要因の1つとなってしまったが、本大会では冴えまくった。アルゼンチン戦とクロアチア戦、バティステュータとシュケルと言う世界サッカー史に残る天才ストライカの技巧と知性から奪われた2点を攻める人はいないだろう。

 これだけのゴールキーパが、このまま終わってしまっては困るのだ。北欧の強国での復讐戦を期待したい。
posted by 武藤文雄 at 23:41| Comment(0) | TrackBack(0) | 海外 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2003年08月07日

続グイ・ティス氏の死

 亡くなったグイ・ティス氏についてはまだまだ書き足りないことがある。 



 ティス氏が見せてくれた中で私にとって最も忘れられない試合は、90年イタリア大会、1次リーグのウルグアイ戦。実は私が初めて見たワールドカップ本大会の試合。デレオン、グチェレスでCBを固め、フランチェスコリ、パス、ソサと言ったスター選手を並べ、ダークホースとも言われていたウルグアイ。ところが、この日のベルギーは冴え渡る。GKプロドーム、CBクライスターズらのロングパスを起点にクーレマンスの斜めの動きで、センタバックの2人を引き寄せ作った僅かなスペースを、シーフォが巧みにつく見事な攻撃でいきなり3点を奪い完勝した。トヨタカップで欧州のチームが散々破るのに苦労していた、ウルグアイの強力なゾーンディフェンスが、かくも易々と破られたのに私は感動した。

 これは決勝進出も望めるのではないかと思われたベルギーだったが、2次トーナメント1回戦のイングランド戦で散った。押し気味に進めた試合だが、ブッチャー(あれほど下手だが、しかし敵を止める能力の高い優秀な守備者は記憶にない)を軸にしたイングランド守備陣をどうしても破れない。そして延長に。ベルギーとしては、PK戦になれば当時世界最高のGKと言われていたプロドームを抱える分有利と判断したか、無理をしない。そして迎えた延長後半終了直前、ベルギーゴール前のFK、ガスコインの軟らかいチップキックからプラットに美しいボレーで決められた。

 実はあの試合、我々はイングランドの怖い怖いサポータたち(いわゆるフーリガンも含まれていただろう、当時は今日のようにフーリガンの観戦が防止されていなかった、現実にこの試合でも棒を振り回してベルギーのサポータを追い駆けまわすフーリガンがいた)に囲まれた場所で観戦していた。もし、あのままPK戦となり、イングランドが敗北したら、あの連中が大暴れして、無事に生還できるのだろうかと言う雰囲気だった。内心ティス氏のチームの決勝進出を期待していた私だが、とても恐ろしくて表立って「赤い悪魔」の応援はできなかった。正直言ってあのゴールには、「これで命は大丈夫だ」と心底ほっとした。



 ティスさん。あの試合、恐怖心から真剣に応援せずにごめんなさい。その埋め合わせに、12年後(つまり去年ですが)神戸でのブラジル戦、わざわざ赤いシャツを着て一生懸命貴国を応援させてもらいました。あの90年、メンバに入っていた(あなたから見たらほんの小僧っ子だったでしょうが)ウィルモッツを軸としたチームは、本当に見事なチームで、あなたの指導の伝統がよく活きているのがわかりました。

 と、ここまで書いていたら、天国の(地獄だったりして)ティス氏の声が聞こえてきた。「お前の意図はお見通しだ。あのベルギー−ブラジル戦で、ベルギーが勝てば、日本の決勝進出の確率が格段に高まると思っていたから、お前は赤いシャツを着ていたのだろう...」

 おっしゃる通りです。でも、私に「その感覚」を教えてくれたのは、あなただったのです。本当にありがとうございました。
posted by 武藤文雄 at 23:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 海外 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2003年08月05日

グイ・ティス氏の死

 かつてベルギー代表の監督で栄華を極めたティス氏が亡くなったと言う。享年80歳。考えてみれば、80年代に「赤い悪魔」が再三ワールドカップで猛威を振るっていた時、既に60代であり、老雄として尊敬されていたのだから、そう言うお年であられた訳だ。悲しい知らせでもあるが、一方あれだけの実績を残した偉大なサッカー人が天寿を全うした感もある。



 ティス氏率いるベルギーが最も猛威を振るったのは、86年ワールドカップ。1次リーグでは、地元メキシコ、パラグアイ、イラクと組み合わせに恵まれつつも、モタモタと戦い3位で2次トーナメント進出。そこから一気に調子を上げ、1回戦では1次リーグ好調だったソ連に点の取り合いで押し勝ち、準々決勝ではスペインの猛攻に耐えPK戦で振り切り、準決勝進出。準決勝は、ディエゴ率いるアルゼンチン。さすがにその前のイングランド戦で神技と悪魔の所業で2ゴールを上げていた全盛時のディエゴの個人技に屈したが、これは致し方なし。シーフォ、クーレマンス、ゲレツと言ったスター選手を軸にはしていたが、他の列強と比較して必ずしも戦闘能力的に必ずしも恵まれていないチームを率い、この86年をピークにワールドカップでも再三好成績を収めた采配の巧さは、まさに世界サッカー史に記録されるべき名将だった。

 この86年、ティス氏が世界最優秀監督と評された。ディエゴの絢爛豪華な個人技と陰険な組織守備で世界一になったビラルド氏、自国のジャーナリストからも「Only Fighting」と馬鹿にされたチームながらプラティニ将軍のフランスを下して決勝進出を果たしたベッケルバウア氏を、差し置いての評価であったが、当然だった。



 もっともティス氏はそれ以前にも、再三見事な采配を見せていた。80年の欧州選手権(8チームを2グループに分け、トップのチームが決勝進出と言うレギュレーション)では、同グループのイタリアとイングランドがトップを争う間隙を縫い、あのイタリアに最終戦引き分けて総得点数で決勝進出と言う離れ業。82年スペイン大会では、開幕戦で前回優勝チームにディエゴを加えたアルゼンチンをカウンタ一発で屠っている。



 このような神技としか思えない采配を振るう自国人の代表監督で、いつかワールドカップを戦える日が来る事を祈りつつ、心から氏の冥福を祈りたい
posted by 武藤文雄 at 23:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 海外 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2003年08月04日

藤田のオランダ行き

 藤田がオランダのユトレヒトへ移籍する事が、どうやら本決まりになったらしい。



 この選手の能力の高さは今更論ずるまでもなかろう。中でもここぞと言う時の勝負強さ、得点能力は驚異的。今期のリーグでも、終盤2試合を残してジュビロには勝ち点6がノルマとして残った。そして、その2試合をしっかりと1−0で連勝する訳だが、2試合とも得点を決めたのは、藤田だった。優勝を逸したのは結果論に過ぎず、藤田の能力は極めて高く評価されるべきだろう。

 しばしば議論される代表への縁の無さ。同じポジションのライバルに、自分より若いタレントが多数いたのが、あまりに不運だった。若い頃から名声を獲得していた藤田ではあるが、ジュビロで抜群の能力を発揮するようになったのは、案外と最近でここ数年の事。ところがその時点で、ジュビロの同僚(清水商時代からの1年後輩でもある)名波は既に代表に君臨しており、その上藤田のポジションである上がり目のMFには5歳年下の中田がいた。そして、中田よりもさらに若い中村、小野、小笠原が、スタンバイしていた。ではMFから前線に上がって点を取る仕事はどうかと言うと、ここには森島がいた(森島も藤田よりは1歳若い)。

 当時の代表監督トルシェ氏は、明らかにこのポジションバッティングを意識し、藤田を右サイドMFでテスト起用するなどトライをした。しかし、思うように機能せぬまま、次第に藤田は代表に呼ばれなくなってしまった。ただし、この頃は藤田が機能していないと言うよりは、トルシェ氏が率いるチームそのものが機能していなかったのだが。そうこうしているうちに、(ワールドユースや五輪代表でトルシェ戦術になじんでいた)上記の若いタレント達でトルシェ氏率いるA代表が機能し始め、藤田は代表にはほとんど選考されなくなってしまった。

 さらに遡れば、藤田の代表キャリアは不運の連続だった。バルセロナ五輪代表でも、1次予選ではほぼレギュラを確保。主将の澤登のやや後方で試合を組み立てる難しい役目を巧みに演じていた。ところが、最終予選直前に招聘された総監督に「プレイが小さい」と意味不明の判断で代表を外されてしまった。かくして、攻撃が単調になった五輪代表は、上記総監督の異様な守備戦術と迷采配で敗退してしまった。



 藤田がこの年齢(31歳)になってもなお、欧州での活躍にこだわったのは、以上述べてきた「『日の丸での不運』を断ち切り意地を見せたい」と言う気持ちが働いたからと想像するのは、邪推すぎるだろうか。新たな挑戦を選択したこのベテランに賛辞を送ると共に、相当な活躍を期待したい。
posted by 武藤文雄 at 21:18| Comment(0) | TrackBack(0) | 海外 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2003年07月04日

4度目のカルロス・ビアンキ

 コパ・リベルタドーレス決勝。サントス対ボカ。考えてみれば、20世紀後半のサッカー界を彩った2人の神の出身チーム同士の戦いではないか。もっとも、私からするとディエゴ(サントスの若きエースではなく、私と同年の神の方です)のチームと言うと、アルヘンチノスの方が印象が強いが。まあ、ディエゴご本人は、どうやら餓鬼の頃から、ボカのサポータだったらしい(今でもそうらしいな)からいいか。



 さて決勝第2戦。サントスがボカを攻めあぐみながら時計が淡々と進む試合となった。勝負は第1戦で2点差になった時点でついていたのだ。若いタレントを軸にしたサントスの攻撃では、守りを固めたボカを破るのは困難だった。サントスは立ち上がりから、オープンから攻めようとする狙いはあるのだが、オープンに開いた選手は、ボカのサイドバックに前を切られ魅入られたように中に切れ込んでしまう。結果、気がつくとペナルティエリアの幅での攻め込みとなり、最後は人海戦術の壁を破れない。さらにボカのフラットな最終ラインは、基本的な位置取りをペナルティエリアやや後方に置いているのだが、このラインが深過ぎず浅過ぎず絶妙。サントスのDFラインとGKの間を狙うパスが、どうしても通らない。そして20分過ぎには逆襲から、これぞアルゼンチンと言う形容し難い美しいワンツーで早くもとどめを刺されてしまった。85分のデルガドの40mシュートと言う、オマケも見事だったけど。

 この純白の南米の名門の苦闘を見ながら、ボカが3年前の国立で、純白の欧州の巨人相手に守り切った試合を思い出した。あの試合を率いたのも、カルロス・ビアンキ。思えば、ビアンキ氏がトヨタカップに登場する(今年もあるんだよね)のは、4回目。94年のベレスでチラベルトと共に、ミランを葬り去ったのが皮切りだった。毎回、毎回、守備の芸術を見せるチームを率いての来日。

 非常に乱暴な自己的分類だが、アルゼンチンの監督は、変化と勇気あふれる攻撃的な芸術を好むタイプと、慎重で陰険極まりない守備的な芸術を好むタイプに二分される。メノッティ氏、ジュディカ氏(あの85年のアルヘンチノス!)、ビエルサ氏は前者。ビラルド氏、ベイラ氏(86年リーベル)、そしてビアンキ氏が後者だ。私は、前者の美しい攻撃的サッカーが大好きなのだが、一方で後者の陰険極まりないサッカーも結構好きなんだよね。



 私の大好きなエメルソン・レオン氏についても、無数に講釈を垂れたい事があるのだが、今日はレオンの日ではなかったので、ビアンキだけ。



 と言う事で、トヨタカップ。マルディニは、ビアンキ氏に9年前の復讐を果たせるだろうか。さらに、我らがキャプテンがマルディニのチームメートになっており、かつ私がチケットを無事入手できれば、それは最高のエンタティンメントとなる。
posted by 武藤文雄 at 22:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 海外 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2003年07月02日

ベッカム騒動

 不愉快なニュースだ。

 先日の来日時の馬鹿騒ぎも不愉快だったが、この日のレアル・マドリード加入イベントも、馬鹿騒ぎに終始したようにしか見えなかった。

 私はサッカークラブが、金儲けをする事は否定しない。サッカーチームにとって、試合の勝利は究極の目的だが、サッカークラブにとって、金儲けは重要な仕事である。しかし、程度問題である。フィーゴを抱えるチームにベッカムが加わる事に何の意味があるのか。これこそ、アンチサッカーである。

 元々、現状のレアル・マドリードは、ただの脂っこいチームに過ぎない。確かに、この脂っこいチームは、昨シーズン再三再四美しいゴールを見せてくれた。生で見ることができたトヨタカップの1点目なり、チャンピオンズカップの準々決勝、マンチェスター・ユナイテッドとのアウェイで見せた2点目なり(4月24日の日記参照)。しかし、このチームはありあまる素材たちをただ並べただけのチームであり、チームとしての鍛錬がなされているようには見えなかった。チャンピオンズカップの準決勝、チームとして鍛錬されたユベントスに敗れたのは、サッカーの神が未だ良心を失っていない証左と見たのは私だけか。さらにチャンピオンズカップ決勝(ユベントス−ACミラン)は、緊張感あふれる重苦しいタイトルマッチだった。ところが、この決勝戦に対して、「失点のリスクを避ける腰の引けた試合、アンチサッカー」との酷評が多かった。しかし、私に言わせれば、この両チームはチームとして鍛錬されており、シビアに勝利を見据えて戦ったがゆえに、あのような試合となったのだ。それに対して、札束で良好な選手を集め、鍛錬したチーム作りを行っていないレアル・マドリッドの方が、よほど問題である。



 来月、レアル・マドリードは、我が国を始めアジア諸国を歴訪し、金儲けツアーを行う。そこには、サッカーの歓びはない。
posted by 武藤文雄 at 02:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 海外 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2003年06月29日

オセアニア勢から見たワールドカップ

 ドイツワールドカップ。常軌を失した36チーム案は無事否決されたらしい。南米連盟の怒りを収めるための犠牲が、オセアニアと言うのも、誠に気の毒ではあるが、やむを得ないと私も思う。先日のニュージーランドを見る限り、あのチームに勝った豪州が無条件でワールドカップ出場を是とする意見は少ないだろう。



 しかし、オセアニア勢から見れば、はらわたが煮えくり返る思いもあるのではなかろうか。オセアニア勢のワールドカップ予選史は、まさに「凄絶」と呼べるものなのだ。

 74年の豪州の初出場は、韓国との2引き分けの後のプレイオフ。82年のNZの初出場は、最終戦でのサウジに対する5−0の勝利で中国に追いつき、プレイオフで中国に勝つという絵に描いたような「奇跡」。ここまではアジアと同じブロックだった。

 ところが、86年「オセアニア」として「アジア」から独立してからは、毎回プレイオフの悲劇を味わう。86年オセアニアを勝ち抜いた豪州の敵はスコットランド。このワールドカップ常連の古豪は、予選の重要なウェールズ戦直後に、名将スタイン氏を心臓麻痺で失うと言う悲劇もあり、格下の豪州相手に長期の準備を行った。豪州はホームで引き分けるのが精一杯だった。

 90年は、「オセアニア」に複雑な政治事情が絡むイスラエルが参加し、勝ち抜く。イスラエルは今日欧州でも中堅レベルの強さを持つ強豪だけに、豪州が敗れたのもいたしかたなしか(イスラエルはプレイオフで、バルデラマ、アルバレス、故エスコバル、イギータらがいる全盛期のコロンビアに惜敗)。

 94年以降はいつも豪州が勝ち抜く。94年のプレイオフの相手は、よりによって本大会でも最高の戦闘能力保持と言われたアルゼンチン。まさかの予選の苦戦ぶりにディエゴが呼び戻された。これで豪州に勝てというのが無理。

 98年は1週間前にジョホールバルで日本に屈したイラン。敵地で引き分け、さらにホームで2−0でリードしていながら、終盤追いつかれ、アウェイゴール2倍ルールで沈没。あの2−2で追いつくアジジの同点ゴールをご記憶の方も多かろう。

 そして、02年。今度はウルグアイ。ご承知のように、ホームで1−0と勝ちながら、ウルグアイ警察も軍隊も、豪州選手の身を守る気持ちのないかのような雰囲気の敵地で、3−0と完敗。



 こうして、過去を振り返ると、1度枠として「1」を確保したオセアニア勢が、素直に「0.5」減を受け入れるものだろうかと思えてくる。
posted by 武藤文雄 at 22:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 海外 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2003年05月12日

最後の晩餐とサンシーロ

 昨日の「世界遺産」と言うTV番組で、ミラノに展示されているレオナルド・ダ・ビンチの「最後の晩餐」を取り上げていた。サッカー以外に何の趣味もない私だが、小学生の時に見たTVのダ・ビンチの伝記映画を見て、いつかこの絵のホンモノを見たいと思っていた。

 思いが叶うのは、90年ワールドカップ、1次リーグのサンシーロでの西ドイツ−コロンビア戦の日だった。そして、20年来夢見た絵画を目の当たりに見た感動。うまい日本語で表現できないのがもどかしいが、遠近法を駆使した構図の美しさ。

 昨日のTVを観ながら、13年前のあの感動を思い出した。そして、数日前にTV桟敷で感動した、チャンピオンズカップの準決勝のダービーマッチ、そしてその死闘の場であるあの美しいサンシーロをまた思い出した。最後の晩餐に感動し、昼飯のイタリアンに満腹して訪れたあのスタジアム。建造物としての美しさだけでも、「ああイタリアだ」と感動した。劇場としてのサンシーロは本当によくできている。90年大会にスタンドを増設した関係で、日当たりが悪くなり芝の育成に問題が出ていると言うが、一方であのスタンドは本当に美しい。螺旋形の4隅のスロープを少しづつ上がって席に近づいて行くのだが、1週回る度にフィールド側に面したエリアを通ると、スタンドの大声援が響き渡り、否応にも気分は盛り上がる。

 陳腐な言い方で恐縮だが、「最後の晩餐」を生める国(もとへ都市?!)だから、「サンシーロ」を作れる、と素直に納得した程、両者は素晴らしかった。



 そしてフィールド上で繰り広げられたバルデラマとマテウスの何とも言えない戦いも、あのつまらなかった90年ワールドカップには珍しい面白い試合だった。この試合についての思い出は、また機会があれば触れる事にしたい。



 この満腹感あふれる一日を締めくくったのは、夕食を堪能していたホテル近くのレストラン。TVでイタリア−チェコ戦を観戦していた時のこと。これまでヴィアリ−カンナバーロカルネバーれの2トップが思うように機能しない事に悩んだアズーリ監督のビチーニ氏は、2トップをスキラッチ−ロベルト・バッジョに切り替えた。開始早々のスキラッチのゴールで先制したイタリアは、終盤バッジョの芸術的なドリブルシュートで突き放し完勝する。バッジョとの10年余にも渡る出会いの日でもあった。

 観戦中、レストランの親父がTVの前に立ち塞がった。「どいてくれ」と言った私に対して親父がニヤリと笑って答えた。「私はイタリア人、あなたは日本人。この試合はイタリアの試合。私がよける必要はないでしょう。」

 この屈辱を晴らすためにも、代表選手には頑張ってもらわなければ困るのだ。



>>>>>

上記のカンナバーロはカルネバーレの勘違いでした。ただ、カンナバーロがトップをやったら一体どうなるのかと想うと、結構笑えるので、敢えてこのような直し方をしたものです。(2005.5.5)
posted by 武藤文雄 at 23:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 海外 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2003年03月31日

ビエリと柳沢

 欧州選手権予選のイタリア−フィンランド戦。ここまで調子が上がらず勝ち点を積み上げ損ねていたイタリアからすれば、背水の陣。戦闘能力的には落ちるがうるさい相手であるフィンランドから、確実に勝ち点3を上げる事がメインテーマとなるゲームだった。

 しかし、ゲームはあっけなく勝負がついた。あの「The モレノゲーム」でレッドカードを食らって以来のアズーリとなるトッティがゲームを支配。ビエリに巧妙なアシストを2発決め、前半で早々と勝負を決めてしまった。

 それにしても2点目である。自陣から僅かパス2発。自陣ペナルティエリアからのフィード(カンナバーロ?画面で確認し損ねた)をトッティが巧技を見せて前線へロブのパス、それだけでビエリが抜け出したしまった。この手のゴールは、イタリアがもっとも得意とするもの。昨ワールドカップのエクアドル戦の2ゴールは今なお記憶に新しいし、98年フランスではチリ相手にマルディニからの一発のフィードをロベルト・バッジョが巧みにつなぎビエリにアシストしている。はやり言葉で言うと「ダイレクトプレイ」、ボール奪取直後に精度の高いロングフィードを前線の大物に合わせ、大物の一仕事でゴールを奪ってしまう。

 この2点目の場面のビエリ、トッティの巧技を信じきって前線に向かい走り抜けたが、挙動開始の早さが絶品だった。いわゆる「動き出しの早さ」。



 それで思い出したが、今年の1月1日天皇杯決勝の、アントラーズの先制ゴール。イタリアほど極端な「ダイレクトプレイ」ではなかったが、小笠原の実に見事なフィードから、柳沢が抜け出した(全くフリーになりながらシュートをバーに当てて、エウレルのサポートを必要とするところがいかにも柳沢らしかったが)。あの場面の柳沢の動き出しの早さたるや、まさに絶品。フィンランド戦のビエリに勝るとも劣らなかった。このビエリを見て、柳沢を思い出し、何とも言えない隔靴掻痒感を抱くのは私だけだろうか。
posted by 武藤文雄 at 23:42| Comment(0) | TrackBack(0) | 海外 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2003年03月30日

藤吉中国へ

 藤吉のCリーグ入りが決まったらしい。素晴らしい。

 以前も述べたが、サッカーの能力も高く、サッカー以外のパフォーマンスもあれだけ見事なタレントはかつていなかったし、今後も現れないだろう。そのような藤吉がCリーグに参加するのは、大変大きな意味があると思う。

 先日、アジアチャンピオンズカップ、A3などで、再三JリーグのチームがCリーグのチームと戦った。しかし、隣国とは言え中国のサッカーは韓国ほどなじみ深い訳ではない。藤吉のように「語れる」プレイヤが、Cリーグそれも2部リーグで戦う事で、我々は相当Cリーグの事を知ることができるようになるのではないか。そのような形態での情報交友は、結果としてアジアのサッカーのレベルを大幅に引き上げる一助になるのではなかろうか。

 当面、なにがしかの形で発信されるだろう、藤吉情報に着目したい。



 ウルグアイ戦についてまとめた「見えてきた骨格 −ウルグアイ線−」を講釈本編としてまとめました。
posted by 武藤文雄 at 11:02| Comment(0) | TrackBack(0) | 海外 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする