2013年02月26日

ACL開幕、仙台スタジアム、ブリーラム戦前夜

 ACLである。
 私のベガルタ仙台が、こんなにも早くアジアの大会を戦う事ができるようになるなんて。ちょっと前までは考えた事もなかった。高揚している。98年に「明日はトゥルーズだ!」と、友人とリヨンで一杯やっていた時の、あの何とも言えない興奮を思い起こす。
 そして、明日仙台に帰る新幹線では、翌朝アヴィニョンの宿を出発し電車が次第にトゥルーズに近づいていった時の興奮を思い起こす事だろう。
 初めての機会と言うのは、たった1回しか味わう事ができない。本当に幸せな事だ。何とすばらしい時代になってくれた事だろう。いつもいつも語っているが、こんな幸せな時代が到来するなんて、若い頃は思ってもいなかった。

 一般的に考えて、このグループの本命はFCソウル。我が軍は江蘇舜天と2位争いをするのが、常識的予想と言うものだろう。そうは言っても、当然FCソウルの首をかき切る事を狙うのは当然ではあるが。
 とにかく、最初の2試合、明日のホームブリーラム戦と、続く敵地の江蘇舜天戦が、非常に重要なのだ。ブリーラムに勝ち、江蘇舜天と引き分ける事ができれば、グループステージ2位以上に大きく近づく事ができる。しかも今期より、1/16ファイナルはホーム&アウェイになった。たとえ、グループリーグが2位でも、1/16ファイナルをユアテックで戦う事ができる。Jのライバルを含む、どんな強豪との対戦でもユアテックでは勝ち点3をかなりの確率で期待できるのだから、グループリーグの1位抜けに拘泥する必要はない。
 そうこう考えると、初戦のブリーラムに勝ち切る事が、いかに大切な事かと、改めて思えてくる。

 昨日、北日本は今世紀始まって以来の寒波に襲われたと言う。
 そして、在仙のベガルタサポータの多くは、スタジアムの雪かきに追われたとの事だ。遠方にいて、何の手伝いもできない己がもどかしい。皆さんの努力により、芝の状態を含め、最低限のコンディションは整ったようだ。寒さは相当だろうが。だいたい、2月の厳寒期に、ナイトゲームでサッカーを行うと言う概念そのものが、わが故郷にはなじまないのだけど。
 しかし、考えてみれば、その極寒のコンディションは、南国から遠来のブリーラムには相当厳しい環境となる事だろう。寒ければ寒い程、当方は有利なのだ。参戦者にとって、つらい事は確かだが、ここは素直に喜ぶ事にしよう。

エルゴラッソによると、キャンプ中に、鎌田、菅井、角田らの中心選手に負傷が続いた事もあり、移籍加入の石川と佐々木、獲得したばかりのジオゴ、新人の蜂須賀(特別指定選手として、昨期から出場していたが)、若手(と言っても、他のクラブの常識から言ったらそうは若くはないが)武藤と奥埜ら、昨期とは随分異なるスターティングラインナップが予想されているようだ。
 これはこれで、長く厳しいシーズンを戦っていくためには、とても大切な事だ。潤沢な資金であり余る余剰選手を抱えるような贅沢は我が軍には許されない。すべての選手を戦力化し、厳しい日程のシーズンをこなしていく必要があるのだから。そして、それが即、アジアチャンピオンへの唯一の方法だ。

 Jリーグを目指すクラブが故郷にできた事そのものが嬉しかった黎明期。各種の不運と放漫な経営で迷走した90年代後半。清水秀彦氏一世一代の手練手管とマルコスによるJ1昇格の歓喜。清水氏の美しい自転車操業を堪能した2シーズンのJ1時代。色々な監督を試す事で、みんなで無常観を学習した「けさ位」時代、中でも世界サッカー史にも稀な「算数事件」を経験できた幸運。あのヤマハスタジアム。J1復帰、J2優勝、天皇杯ベスト4。震災と上位進出。そして、私たちはここまで来た。
 視点を変えれば、私たちにできたと言う事は、日本中の誰にでもできると言う事だ。カネはなくても情熱だけでここまでできる。もちろん、日本最高のスタジアムと、日本最高(と言う事は世界最高)のマスコットに、私たちはまだまだ追いつけていないかもしれないが。いや、日本中の誰にでもできるのではないな、世界中の誰にでもできると言う事だろう。
 だから、私たちは走り続けるのだ。他から追いつかれないように。明日の極寒のユアテック、じゃなかった仙台スタジアム。モロッコへの旅が始まる。
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2013年02月02日

欧州移籍が止まらない

 大前元紀、小野裕二、永井謙佑、そして金崎夢生。
 いわゆるロンドン世代の攻撃タレントが、次々と欧州クラブに旅立っている。いよいよ、日本の優秀なタレントの欧州流出が止まらない雰囲気になってきた。しかも、ロンドン世代と言っても、実際のロンドン五輪代表は永井のみ、他の3人はロンドンには行ってない。いや、3人とも、関塚氏に、ほとんど試される事なかった。つまり、そのような国際的に無名の(しかし、日本サッカー界にとっては宝物の)選手が、20代前半で欧州に買われて行く時代になったと言う事だ。
 日本サッカー界がいかに他国から高く評価されているかと考えると喜ばしいが、Jリーグから次々にスタアがいなくなる寂しさもある。何とも味わい深い、複雑な心境。

 圧倒的な実績を誇るのは大前。高校選手権を制した流通経大柏高で大スタアとして活躍し、エスパルスに入団。最初の2シーズンは出場機会がほとんどなかったが、2010年シーズンに使われ始め、2011、12年シーズンは完全にエスパルスの大黒柱に成長。高校時代からのシュートの巧さ(ボールを止める場所のよさと冷静さがすばらしい)、セットプレイの精度、小柄な体躯を活かしたシャープな突破、小柄ながら飛び込むタイミングが絶妙なヘディング。まぎれもなくJ屈指の機動的な攻撃タレント、この2シーズンのJリーグの彩りを鮮やかにしてくれた選手だ(いや、どうしてもエスパルスに勝てないベガルタサポータの感想で、誉め過ぎかもしれませんが)。ともあれ、この選手が、五輪代表に不在だった事そのものが、一種のスキャンダルに近い。メキシコ戦や韓国戦の終盤、「ベンチに大前がいてくれれば」と思ったのは私だけではないだろう。国際経験は少ないが、欧州に買われて行っても何ら不思議でないタレント。
 小野裕二の狡猾さは、新しい息吹を感じさせてくれる。日本の前線の選手と言えば、カズ、中山、久保、寿人のように得点を狙うために動くタレント、柳沢や高原に代表される多様な能力を見せるタレント、大久保、田中達也、石川ナオのような突破力を武器にするタレント、鈴木隆行や巻のようにひたすら労働するタレントなどがいた。それに対し、小野の魅力は、したたかな位置取りからの受けの巧さ。無理をしたい時は得点をそのまま狙うし、我慢する時はキープに転じる事もできる。もちろん、いずれの英雄達も30歳前後になれば、そのような柔軟な対処がとても上手になる。しかし、小野裕二は、それを20歳そこそこで実現していたのだ。このような狡猾な若者は、中々登場しない。ベベットやラウルなどの系譜に入る才覚を持った若者だと期待してきた。
 永井謙佑の五輪での活躍はすばらしかった。数mのダッシュが鋭い選手はいるが、永井はその加速が30mくらい落ちない。往々にして日本の俊足選手はブラックアフリカと対戦すると、見事なアジリティで敵を抜きさっても、フィニッシュ前に追いつかれてしまう事が多かった。しかし、永井はフィニッシュまで、フリーで走り切れるし、シュートもそこそこ巧いし、プレイの選択も上々だ。そう考えると、永井の潜在能力は格段のものがあり、世界屈指のFWになる可能性も秘めていると思う。個人的に永井のプレイで大好きなのは、長駆疾走で攻め込んだ後に、敵ボールとなって全軍が守備に入った時に、最前線からヨタヨタとオフサイドになる事を注意しながらジョギングで戻る場面。身体のエネルギーを振り絞って全力疾走+もう一仕事した後のヨタヨタは、大変美しいものがある。
 金崎夢生は、この世代の選手としては、(ほんの3年くらい前は)香川と並び最高の実績を誇っていた(2人共89年早生まれの同級生)。ナビスコ制覇を含む、トリニータでの幾多の栄光。南アフリカ大会のメンバ入りも期待されたタレントだ。当時は、プレイ面でムラが多い香川よりも、安定感があり信頼できると言う向きも少なくなかった。ふてぶてしいボールの持ち方と高速ドリブルが魅力。背を立てた姿勢から突破を図るのか、パスを選択するのか、守備者からすると非常に読みづらい。不運にも、負傷での離脱が多く、五輪代表からもほとんど声がかからなかったのだが。
 永井は五輪代表で、金崎はトリニータで、それぞれ監督が彼らを軸にした攻撃を作り込み、彼らも輝く事ができた。しかし、スタアがずらりと揃うグランパスでは、そうは行かなかった。しかも、ピクシーは、よい選手を並べて総合力で敵を圧倒するサッカーを好む、そして闘莉王と言う圧倒的存在が中軸として機能する(欧州トップクラブの監督は、ファーガソン氏を典型に、こう言うやり方を好む人が多い、モウリーニョ氏やベンゲル氏が例外なのだ)。結果的に、2人ともいわゆる「駒」としての起用に終始、大化けはできずにいた。確かに2人とも「河岸を変えるタイミング」にも思う。

 繰り返すが、永井を除いては、皆必ずしも豊富な国際経験を積んだ選手ではない。しかし、大前に代表されるように、皆がJでの実績は相当なレベルの選手たちではある。欧州クラブが、まだ代表に定着していないこれらのタレントの素材を見抜いて(代理人のお勧めに「トライしてもよいか」と考えて)、欧州に連れて行っているのだから、これは大変な事態だ。「国際経験が乏しくても、日本での活躍、実績があれば、欧州のトップレベルで通用する」との判断が普通になっていると言う事か。冒頭にも述べたが、結構な時代になったものだ。
 もちろん、代表未満の彼らが欧州に買われて行く事そのものが、Jのスタア不足につながるのは言うまでもない。ベガルタサポータとしても、エスパルス戦で大前の恐怖に怯える快感は何ものにも代え難いものだったし。彼らがいないJリーグは、いる時と比較すれば少々寂しいものになるのは否定できない。

 しかし、我々は割り切らなければならない。

 スタアの流出は確かに寂しい。けれども、仕方がない事なのだ。彼らを国内につなぎ止めたかったら、最低限相応のサラリーを約束しなければならない(もちろん、名誉、やりがい、歓喜なども重要だけれども)。そして、そのためにはJの観客が増えて行く事が全てなのだ。ブンデスリーガ級の観客動員があれば、ほとんどの問題は解決するのだ。
 それには時間がかかる。今、やれる事は、Jの観客数を増やして行く事につきる。
 今となれば、ピッチの上で、長谷部達がラーム達を上回る事は、不可能でないと思う。けれども、我々がかの国のサポータ達を上回るには、まだ時間をもらわなければならないと言う事だ。早く、長谷部達に追いつかなければ。
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2012年06月30日

イタリアに近づくためには

 イタリアが来た。
 試合前に、「ドイツが17年間イタリアに勝っていない」との前宣伝が流れていたが、私からすれば「重要な試合でドイツがイタリアに勝った姿を見た事がない」としか言いようがない。最近では、2006年の準決勝が印象的だが、82年の決勝や、70年の準決勝など、あの勝負強いドイツが、イタリアには勝てないのだから、本当におもしろいものだ。

 終盤、ドイツが攻めようとすればするほど、イタリア守備陣は嬉しそうにはね返す。私は何とも複雑な気持ちになった。
 スペインやドイツと我々とでは大きな差がある。しかし、我々が従来どおりに努力を重ね、日本中にサッカーの裾野を広げ、まじめに選手育成をして、エリートの絶対数を増やし、できるだけ多くの人々にサッカーの魅力を伝え、皆で心底サッカーを愉しむ事を続ければ、スペインやドイツに追いつく事は不可能ではないようにも思う。すさまじい時間が必要かもしれないけれど。さらには、そのような環境を作る事ができれば、いつか突然変異のようにメッシのような選手が生えてくるのではないかとも期待したりもする。
 けれども、今日のイタリアのサッカーを見ていると、今の延長線上でどんなに努力をしても、イタリアには追いつく事ができないと思ったのだ。もう1つ適切な日本語にならない自分がもどかしいのだが、イタリアの強さには、我々がまだ把握できていない、あるいは適切な日本語に落とし切れていない、何かがある。

 今日の試合を一言で語れば「巧みに先制したイタリアが、強力な守備で勝ち切った」となる。こう書いてしまえば、よくある「守り勝ち」となってしまう。けれども、この試合は通常の「守り勝ち」ではなかった。
 だいたい「守り勝ち」と言われる試合にも、色々なパタンがある。強いチームが無理をせずに確実に勝つために守りを固めるパタン。同格のチーム同士の戦いで、勝者が守備を充実させて勝ち切るパタン。弱者が必死に守りを固め、隙を突いて奪った得点を守り切るパタン。乱暴に分ければ、この3つのパタンとなるのではないか。
 しかし、この日のイタリアは全く違う。特にこの日の試合終盤は、見ていてドイツが点をとれる雰囲気がほとんどなかった。イタリアの守備者達は余裕綽々、実に愉しそうに守っていた。しかし、ドイツとイタリアの戦闘能力を比較すれば、同格、いやドイツの方が上かもしれない。ドイツは2010年に若返りに成功し、優秀なタレントが経験を積み今大会に臨んだ。一方のイタリアは、2010年に若返りに失敗し惨敗したのは記憶に新しい。さらに、大会前の準備も芳しくないと言う報道が、もっぱらだった。
 つまり、今日のイタリアの試合ぶりは「弱者が強者をなぶる」ようなものだったのだ。こんな勝ち方ができるのは、イタリア以外考えられない。
 そして、繰り返しになるが、我々が、このままいくら努力を重ねても、この日のイタリアのような強さ「弱者が強者をなぶる」は身に着ける事ができないように思うのだ。誤解しないで欲しいが、それはそれで問題はない。サッカーは多様性の競技、全てを身に着けなければ勝てないと言う事ではない。弱点を最小にして、長所を最大にすれば、世界制覇できるのは、昨年澤達が証明してくれたのだから。

 ともあれ、そこを目指さない、あるいは目指す事は叶わないにせよ、「イタリアの本質」を考えるのは、我々の将来にとってとても重要でかつ、最高の知的遊戯だ。
 もちろん、ピルロ(やっぱり、悔しいけれど、ピルロは遠藤よりも上手かなとも思うし)もバロテッリも最高だが、やはり「イタリアの本質」は、あの守備だろう。上記したが、どうして選手達は、あのように嬉しそうに守れるのだろうか。あれだけ攻め込まれても、点が入る気がしないのだろうか。
 これを伝統とかDNAとか言ってしまうとそれで完結してしまう。その伝統、DNAの背景にあるものを何とか見抜きたいのだ。ただ、これが難しいんですよね。本当にこの国は守備が強いのだけれども、過去の守り方が、世界のサッカーの発展とあいまって、どんどん変わっているから。

 60年代から70年代にかけては、いわゆるカテナチオ。マンツーマンで各BK(今風に言うと、「マンマークで各DF」と読み替えてください)が敵FWにピタリとついて、スイーパが後方をカバーする。突破されそうになると、情け容赦なくファウルで止める。言わば「上品なギリシャ」みたいな守り方。一方でファケッティが、先端的な攻撃参加を見せてくれたのだが。余談ながら、当時のミランの映像を見ていて、すごい知的なボランチ?がいて感心した事がある、トラパットーニと言う選手だったな。
 70年代後半から80年代にかけては、ゾーンとマンマークの併用。最高の成功例が、82年に黄金の4人を打ち破った試合だが、カブリニが左サイドをゾーンで守り、他の選手はマンマーク。ジェンチーレが、今日の審判基準ならば1試合に5回くらいは退場になる手斧士ぶりを見せてジーコをつぶし、あいたスペースをシレアが埋めて守り切った。自分がマークをする選手を止める技術、自分が担当している地域を固める技術、全く異なる守備技術を持った選手の鮮やかな並立。
 90年代は、いわゆるゾーンプレス。およそ、2、30年前とは正反対の守備振りになってしまった。最前線から追い込み、中盤の選手は上下動をいとわず、次々に敵の攻撃のコースをせばめる。敵のロングボールは、フランコ・バレーシの知的なラインコントロールによる浅いラインで、無力にしてしまう。94年のブラジルとの決勝戦では、世界サッカー史に残る「おもしろい0対0」を披露してくれたのが忘れ難い。
 同じ90年代後半からは、ゾーンによる3DFと言う守り方も登場する。上手で守備能力の高い3人のDFがフラットに並び、前線や中盤の選手がコースを追い込み、3人のいずれかが最後ボールを絡めとる。言わば、古きよきカテナチオの守備ラインを前に出して、3人のスイーパがいるような守り方。そして、ラインが浅いから、ボールを絡めとったら、即速攻が開始される。長年世界最高のサイドバックだったマルディニが、中央左サイドでこの守備方法確立に寄与した。この守備方法を編み出した監督が率いるイタリア代表を見たかったのだが、その期待が叶わなくて本当によかった。今、そのカードは我々の手元にあるのだから。
 00年代に入ると、史上最高の守備者、カンナバーロが君臨する。とにかく、最後はカンナバーロのところに敵が迷い込めば必ず止まると言う、実にわかりやすい守備戦術。もちろん、そのわかりやすい目的のためにとる手段は最高級、敵を追い込む残りの9人の動きは格段に先端的で洗練されていた。そして、06年のイタリア優勝は、トッティ、デルピエロの攻撃スタアが大不振だったため、完全にカンナバーロの君臨が引き立ち、一層「守備の勝利」となったのが味わい深かった。
 そして、今回の決勝進出。また異なった守備の魔力。今回のチームの特色は、中央に絞り込んで行って絡めとると言う意味では、過去のイタリアとの類似性はあるが、上記したような歴史的な守備者が不在なところが、ひと味異なる。また1次リーグのスペイン戦、中盤を制して圧倒的攻勢をとったイングランド戦など、ドイツ戦とは異なる守備網を引いた試合も多い。

 かくも多様な守備ぶりを見せて来た「イタリアの本質」はどこにあるのか。個々に粘り強い守備者を多数集める事ができるのが、イタリアの特色である事は間違いないが、これは他の国でも何とかなる事。90年代後半から00年代序盤にかけてのフランスの守備者達の能力はすごいものがあったし、ウルグアイ、パラグアイなどの南米の守備強国も常に知的で強力な守備タレントを幾人も輩出している。しかし、そう言った他国の強力守備網と、イタリアのそれは、何か決定的に違う。
 まあ、こう言った事を考え込んでしまうから、サッカーは愉しいと言う事だな。そうこう考えながら、イタリア対スペインを愉しむ事にするか。
posted by 武藤文雄 at 22:58| Comment(30) | TrackBack(0) | 海外 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年05月31日

ジャカルタにて

 70分過ぎ、カンビアッソがいかにも彼らしい読みのよさと、鋭い出足を発揮、ハーフウェイラインを越えたあたりでインタセプトに成功。インタセプト直前に前線をルックアップしていたカンビアッソは、落ち着いて持ち出し、再度頭を上げて前線をチラリと見るや、迷わず素早い動作からバックライン後方にロブのボールを送る。そのボールは、インタセプトの瞬間にオフサイドライン後方より動き出していたパッツィーニにピタリ。パッツィーニは落ち着いて、飛び出しきたゴールキーパを小さな浮き球でかわすシュートを決めた。
 ああ、正にカンビアッソのプレイ。狙いどころの的確さと、勝負どころでの思い切りのよい飛び出し、間髪いれない前線へのラストパス。この一連のプレイを見ただけで、旅の疲れがすべて癒された。

 2012年5月26日、ジャカルタ、セナヤンスタジアム。10万人収容のアジア屈指のこの競技場には、ぜひ1度訪ねたいと思っていた。齢51にして、その機会に恵まれた。それもサネッティ付きで。
 この週末は、たまたまジャカルタに滞在する事になり、熱狂性で名高いインドネシア国内リーグを観戦したいと考えた。現地の同僚にその希望を伝えたところ、何と今週はリーグ戦はなしとの事で、あろう事か、インテルミラノ、インドネシアツアー、インドネシア代表戦に案内されてしまった。正直言って、国内リーグの真剣勝負の方がずっと好みなのだが。
 まあ、これも縁と言うものなのだろう。考えてみれば、生マイコンは初めてなのだし。

 競技場のぐるりは公園になっており、体育館なども併設されている。そして、驚いたのは、公園をウロウロしている観衆のほとんどがインテルのユニフォームを着ている事。正直ちょっとショックだった。この日、コルドバとその仲間たちと相対するは、あなた達の代表チームなのですよ。それなのに、どうして皆が敵の装束を身に着けるのでしょうか。
 余談ながら、私はこの青黒縦縞には独特の思い出がある。実は高校時代のユニフォームがこの青黒だった事があるから。当時わが母校のユニフォームは極めていい加減。毎年、上級生が好きな色柄を決めるやり方だった。つまり、毎年チームカラーが変わるのだ(笑)。そして、私の5代上の先輩たちが、この青黒縦縞を選定していた訳。私が引き継いだ時は、色あせていて青と灰色の縦縞になっていたが。まあ、そんな訳でインテルと言うクラブには、何の想いもないが、このユニフォームだけはちょっと特別な想いがある。だから、私にとってこのクラブのサイドバックは、長友でもサネッティでもマイコンでもブレーメでもベルゴミでもなく、やはりファケッティなのだ。
 入場して、さらにショックは深まった。立錐の余地なく埋まったゴール裏の1階席もまた皆青黒装束、そして、声を張り上げ息が揃ったインテルの応援をしているのだ。それもただのチャントだけではない。歌あり、ジャンプあり、選手コールあり、発煙筒あり。さらに貼られている弾幕もすべてイタリア語。スタジアムは陸上トラックのスペースががあるので湾曲しているから間違う事はないが、遠景で見る限り一瞬ここはサンシーロなのかと錯覚しそうな雰囲気だった。
 オーロラビジョンにバスの映像が映り、ガムを噛んだサムエルが降りてくる。それだけで、場内はすごい熱狂となる。インテルのスタッフがピッチに登場するだけで、場内は大声援に包まれる。
 正直言ってイヤだった。確かにこの試合の目的は、ミリート達スタア選手を眺める事なのかもしれない。インドネシア代表は、そのスパーリングパートナに過ぎないのかもしれない。でも、あなた達の代表チームだろう。我々よりも、60年も前に本大会に出場した代表チームだろう。それなのに、どうして...

 インドネシア代表がアップのために入場してきた。
 突然、今までインテルコールをしている人たちを含め、全員が総立ちになる。
 そして「インド!ネシア!インド!ネシア!」の大音響が鳴り響いた。

 懐かしかった。
 ああ、そうなのだ。彼らは30年前の私なのだ。
 学生時代、東北新幹線はまだ開通していなかった。そして、数千円出すと東京フリーキップとか言う名前(違っていたかも知らん)のキップが買えて、仙台東京往復の急行乗車と山手線エリア(もうちょっと範囲は広かったかもしれない)の自由往来が可能となっていた。たとえばたとえばクライフ率いるワシントンディプロマッツが、たとえばディエゴ率いるボカジュニアーズが、たとえばソクラテス率いるコリンチャンズが、それぞれ来日するたびに私はその切符を買って5時間余かけて東京に行き、高校時代の友人のアパートに泊まり、スーパースタアを堪能しに行った。そして、(今思うと「花相撲」と呼ばざるを得ないのだが)そう言った試合が、当時の日本サッカー界にとって、年に何回かある「ハレ」の舞台であり、同時に代表チームの強化イベントだった。
 日本代表の試合だった。当然私は必死に代表を応援していた。けれども、一方で私は崇め奉っていた。クライフの視野の広さを、ディエゴの加速の凄みを、ソクラテスの一泊の間合いを。当時の彼らは、車範恨や許丁茂ではなかった。
 彼らも同じなのだ。彼らはインテルのスーパースタアを、彼らなりのスタンスで堪能しながら、自国の英雄たちを声援していたのだ。当時とは時代が異なる。彼らはネットで、多チャンネル化したテレビで、インテルを知っている。したがい、彼らは現代風にインテルを歓迎したのだろう。それが、疑似サンシーロなのだった。

 さて試合。インテルのスタメン4DF。右からマイコン、コルドバ、サムエル、サネッティ。「まるで世界のベスト11みたいだな」と一瞬思った。いや違う。ボランチを含めた後方6人、マイコン、コルドバ、サネッティ、カンビアッソ、サムエル、そして長友。これが世界のベスト11だ。などと、ノンビリした想いを抱きながらの観戦となった。
 インドネシアは、9人でペナルティエリア前方にブロックを作り、丁寧に守る。前方の選手は皆俊足。うまくボールを奪うと、よく息の合った速攻で、インテルを脅かす。また、ボランチの主将サクティの知的な位置取りとボール回しは見事だった(後から聞いたら38歳だとの事、なるほどね、60分過ぎに交代したのは体力的な問題だったのかもしれない)。インテルのコウチーニョの先制弾直後の左サイドからの逆襲速攻、左サイドのマニアーニの大胆なえぐりからのクロスのこぼれ球を、引き気味のストライカのワンガイがペナルティエリア外から見事なミドルシュートで決め、1度は同点に追いついた。
 ただ、守備がどうにもいけない。せっかくブロックを作り、稠密に人数を揃えているのだが、お互いの距離をとるのが精一杯なのか、いわゆる3人目の動きについていけないのだ。だから、後方から進出する選手をつかまえられずに、失点を重ねた。インテルも、その弱点を冷静に見極め、無理に運動量を増やす事なく、中盤後方ではフィジカルの強さを活かして落ち着いてキープ。前線の選手がダミーとなり、2列目の選手の前進に合わせる攻撃を執拗に狙った。これならば、高温多湿でも、運動量を増やさずに戦える。
 だからこそ、冒頭に述べたカンビアッソ製のパッツィーニの得点は嬉しかった、あの得点だけは「リアル・カンビアッソ」を堪能できたから。
 この得点で3対1と2点差にしたインテルは余裕綽々のプレイ。パッツィーニがもう1点を決め、終盤がんばったインドネシアが1点を追加、4対2でインテルが快勝した試合だった。
 一度ボールをキープして前を向く事ができれば、インドネシアの攻撃はなるほど鋭かった。けれども90分間のほとんどの時間、そのような場面は作れず、大観衆にインテルのスーパースタア達の個人技を堪能させる試合になってしまった。

 ともあれ、「フェスタ」としては最高だったと思う。熱狂的なゴール裏。鮮やかな個人技による得点の数々。上記カンビアッソのアシスト以降は、ゴール裏がインテル選手の名前をコール、選手も両手を上げてコールに答え、大観衆が一層熱狂する。これの繰り返しだった。
 不満はない。冒頭のカンビアッソで、私はお腹一杯だった。そして、皆がこの日の「フェスタ」を愉しんでいた。これはこれで悪くない。

 改めて己の幸せに感謝したい。
 サネッティもカンビアッソもサムエルもコルドバもマイコンも、私は尊敬している。でも、彼らを崇め奉りはしない。今の私にとって彼らは、ワールドカップ本大会で打ち破らなければならない難敵中の難敵なのだ。
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2012年04月08日

本田圭佑には会えなかったけれど

 市街地南西部のモスクワ川に囲まれる形の、いわゆるオリンピック公園。その中央部に位置する、モスクワ五輪の主会場だったレーニンスタジアム。いや、今はレーニンスタジアムではなく、ルジニキスタジアムと言うらしいが。でも、入退場したバックスタンド側の入口には、高さ10mもあろうかと言うレーニン像があるのだから、ここはレーニンスタジアムと呼ばせていただこう。
 競技場は、ベージュ色の長方形の大理石の組み合わせで覆われており、多数の細い正方形角の柱がそれを支えるような形態。30年以上前に作られた(改装されたが、正しいのか)建造物だが、外観はとても美しい。ちょっと上部のすりガラスが、デザイン的には興ざめだが、これは好みの問題だろう(デザイナだって、まさか極東のサッカー狂の注文は気にしないだろうし)。少なくともモスクワ五輪当時、この国は世界最強を競っており、国の威信を賭けてこの競技場を改装したはずだ。その歴史は重い。
 モスクワ五輪と言う単語に、私の世代の人間は何とも言えない重苦しさを感じてしまう。「政治とスポーツ」と言う陳腐な単語を使いたくはない。でも少なくともあのボイコットにより、山下泰裕、高田裕司、瀬古利彦と言った当時世界最高級の実力を誇った私たちのスーパースタアが、栄冠を狙う前にその機会を奪われた。

 何のためにいるのかわからない警官が無数に周囲を固めているが、いずれも(当たり前だが)英語を使えないし、案内をする気もない。皆、いかにもロシア人らしい彫の深い顔つきをしており、実に恰好いい迷彩の制服を着ているのだが、ただ、私たちを威圧しているだけだ。この威圧がなければ危険が高まるほど、サポータたちの振る舞いは「危ない」とは思えなかったのだが。それとも集団による「無言威圧」が危険を未然に防ぐ効果をしていると言うのだろうか。
 警官10人に対し、1人くらいの割合で「steward」と言う英語を表記した蛍光色のビブスを付けた人々がいるのだが、彼らが一生懸命我々観客を、案内してくれて、重層に囲んだ制服警官を突破し、ようやくスタンドに入ることができた。

 CSKAモスクワは、この日はアンジと言うクラブをレーニンスタジアムに迎えた。CSKAが2位で、アンジは7位、リーグ戦では典型的な中位のチームの模様。調べてみたら、このクラブはいわゆるロシアの南端のダゲスタン共和国のカスピ海に面したマハチカラと言う都市のクラブとの事だ。このダゲスタン地方、西にはチェチェン、南にはアゼルバイジャン、南西にはグルジアと言う位置。
 旧ソ連のサッカーを支えた地域と言えば、誰もがキエフを軸にしたウクライナを思い浮かべる。しかし今日のグルジアの首都でもあるトビリシのクラブ、ディナモ・トビリシは、ソ連リーグやカップウィナーズカップを制した事もある。そして、グルジア出身の名手と言えば80年代(オレグ・ブロヒンを後方から支えた)ダビド・キピアニあるいは、最近のカハ・カラーゼなどが思い起こされる。その、グルジアのすぐそばの、カスピ海沿岸都市と言われれば、サッカー的見地からすれば、何となく期待できるのではないかと言うものだ。
 観衆は熱狂的だが、8万人は入ろうかと言う競技場に観衆は2万人くらいだったのだろうか。観客席を完全に屋根が覆っているため、数千人のCSKA、千人足らずのアンジ、それぞれのサポータの声援はよく反響し、雰囲気はよい。ただ、あれだけスカスカだと、日産スタジアム現象は否めず、もう1つ盛り上がりに欠けたのも確か。でかい入れ物と言うのは、いずこの国でも難しいものだ。
 本田圭佑は、今節もベンチ外。諦めてはいたが、せっかくレーニンスタジアムまで来たのだ。「本田圭佑に会いたかった」のは確かだ。でも仕方がない。まずは、じっくりと負傷を直す事だ。

 ホームのCSKAは、全く攻勢をとれない。
 CSKAは、センタバックのイグナシェビッチとアレクセイ・ベネヅキーのロシア代表コンビの強さは格段で、右バックのナバブキンは堅実なタレント、左バックのシュチェンニコフは左足でのサイドチェンジを狙う。ボランチのアルドニンの配球は巧みで、リトアニア代表と言うシェンベラスはよく動いて穴を埋める。GKのチェプチュゴフを含め、シェンベラスを除いては後方は、皆ロシア籍の選手だ。守備面におけるこの後方の7人の連携、個人的な守備の対応のうまさは、やはり相当なレベルだ。特にイグナシェビッチの、とっさの読みは格段。これだけでも、長旅の疲れが癒されると言うもの。
 一方の前線は、おなじみドゥンビア(同時期にJ2にいた友人がこうやって出世したのを観るのは何とも嬉しい、コートジボワール)、ネツィド(チェコ)、トシッチ(セルビア)、ムサ(ナイジェリア)そして後半ムサに代わって起用されたオリセー(リベリア、あのナイジェリアのオリセーの甥御さんらしい)と、まあ多国籍の代表選手がズラリ。そして、この前線の「個人能力系」のタレントの連携がひどい。と言うか、これらのタレントのほとんどは「連携意識」に欠如を感じるのだ。乱暴な例えだが、どこかの国の五輪代表チームに似ている。
 だから、ボランチのアルドニンが苦労して前線に好配球しても、前線の彼らが強引な突破を狙うところを、アンジの組織守備に刈り取られてしまう。そのボールを、イグナシェビッチが落ち着いて跳ね返し、アルドニンが苦労して...(以下同文)。たまに、アンジの多人数攻撃をかけてきた時に、シェンベラスあたりが見事にボールを奪い、速攻を仕掛けるのだが、そこでも連携不備が目立つ。最前線のドゥンビアが適切な位置取りで敵DFの薄いところを狙うのだが、それに呼応したパスは出ずに、せっかくの速攻も生きない。かくして、逆にまたアンジの速攻を食らい、それをイグナシェビッチが...まあ、イグナシェビッチがいるところが、どこかの国の五輪代表と異なるところとも言えるのだが。
 ちなみに、ヴォルティス&レイソルOBについて。完全なエースのようで、周囲のサポータも彼がボールを持つと「どぅんびあああ」と大騒ぎになる。日本時代とはややプレイスタイルが変わったように見えて、あまり強引には行かない。ボールを1回引き出しておいて、丁寧にはたいて、敵DFの隙を狙い裏を突く。ここで、裏を突いたところで、よいパスが出ればよいのだが...

 一方のアンジ。
 これが期待以上の内容。トップ下に位置するブスファと言う選手がすばらしい。小柄だが、技巧的で、ボールを受ける動きもよく、パスもうまい。中村憲剛の視野を少し狭くして、清武の前進意欲を加えたような選手だ。後から調べたらアヤックスの下部組織出身のモロッコ代表との事、「なるほどね」と言いたくなるような選手だった。イグナシェビッチに加えて、このブスファを堪能できたのだから、長旅した甲斐があると言うものだ。
 ボランチの大柄なムハンマド(アフガニスタン系ロシア人らしい、この選手がまたいい)のボール奪取から、ブラジル人のジュシレイが展開、ブスファがさばいて、両翼からロシア代表のジルコフと、我々を過去幾度も悩ましてきたウズベク代表のアフメドフ(アフメドフがこのクラブにいるなんて全然知らなかった、不勉強を反省すると共に、再会を喜ぶ)が攻め込む。これらの攻撃の連携と洗練は、CSKAを格段に上回っている。
 またアンジの守備もよい。ムハンマドの読みのよさは格段だし、コンゴ代表のサンバの高さは抜群(ブスファのボールに合わせるセットプレイも脅威だった)。コンビを組むガジベコフも位置取りがすぐれたCB、両サイドバックのタギルベコフとロガショフも堅実で4DFのラインは非常に安定している。GKのガブロフも守備範囲の広さが目立つ。
 結果的に、試合は完全にアンジペースで進んだ。上記したように、CSKAの非組織的な攻撃をアンジがスマートに奪い、ブスファを軸にした攻撃を、イグナシェビッチが跳ね返す。この展開が試合中ずっと継続した。どちらがホームかわからない内容だが、野次馬として面白いのだから、文句を言う筋合いではない。
 すると、注目はアンジのフィニッシュと言う事になるが、アンジのトップは技巧は抜群だが、やや運動量が少ないストライカだった。

 ちょっと話題飛びます。
 本業で幸運が重なり、この日モスクワに降り立てた訳です。ところが、ここの所本業が忙しく、せっかくの生観戦ですが、ロシア訪問前に両チームの予習をする時間は全くなかったのです。だから、事前におさらいしたのは、上記した対戦相手のアンジの概要と、本田圭佑の動向くらい。だから、本田との再会は「難しそうだな」とは覚悟しての観戦となりました。
 初めてのチームの試合観戦は、その程度の前知識だけ持っておいて、後は実際の試合で選手の背番号とプレイの特徴や勝負どころをしっかり押さえ、試合後に各種のサイトでそれらの選手を復習する方が、時間的に各段に効率がよいのです。もちろん、時間をかけて予習してから観るのがベストなのですがで、今回も、そのような(サボる)やり方を採用した訳です。
 だから、ここまで述べてきた内容も、選手名などの多くは(ドゥンビアを除いては)、すべてこのやり方でホテルに戻ってから勉強したものです。上記したように勉強不足で恥ずかしく、アフメドフがこのクラブにいる事すら、試合後に確認し、「ほお、あのボールの持ち方は」と思い起こした次第です。
 話を戻します。

 そのトップの技巧派、ホテルで名前を調べたら...この人だったのだ。「でえぇぇぇぇ!」とこのクラブを調べてみると、監督はこちら、選手兼コーチにはこんな方まで。いや、参ったね。
 後悔もちょっとある。このストライカの事を前もってわかって観ていれば、もっとボールの受け方や挙動を丁寧に観察できたのではないかと思ったりする。たとえば、終了間際にペナルティエリアぎりぎりで倒されながらも、審判が笛を吹かなかった場面(これはその直後の写真と思われる)を、もっと味わえたのではないかと悔しいのだ。
 でも、監督の存在を知ってこの試合を観ていたら、「何か」を期待して観てしまった事だろう。そうすると、逆にブスファの能力への感動や、ムハンマドとジュシレイの連動の観察が逆におざなりになってしまったような気もする。監督そのもののインパクトが大きすぎるから。今思えば、ムスタファが削られて動きが鈍くなった場面、ムスタファに変えてシャトフと言うウィングを起用。ブスファを後方に下げて、大きな展開から決勝点を狙った采配など、「ああ、ナルホド」感が一層強かったりして。まあ、そう思って不勉強を反省しつつ、事後のホテルでの新たな感動を堪能しつつ作文している次第。

 さてCSKAに話を戻そう。
 ホームでの苦闘は続くが、終盤になっても攻勢をとろうとしない。とれなかった、と言うのがより正しい表現だろう。
 アディショナルタイムに入る頃、つい先日36歳になったボスニアヘルツェゴビナ代表でもあるラヒミッチを投入、過去このクラブに多大な貢献をした大ベテランらしく、サポータの声援は最高潮となった。実際、ラヒミッチは闘志あふれるプレイで再三ボールを奪い、攻撃の起点ともなって、オリセーの突破から決定機も作られた。けれども、その交代はあまりに遅いものだった。
 上記したように、ドゥンビアにパスが出ないのだ。
 本田圭佑の復帰を心待ちにしているのは、我々だけではない。
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2011年12月20日

バルセロナのひみつ

 ちょっと多忙なので(いや、本業が片付かない割りに、明日から忘年会が3連荘と言うだけなのですが)、簡単に。
 バルセロナについて。
 すごいのは毎週のスペインリーグを見ているから、ある程度は理解していたつもりだった。しかし、今回のサントスは、最近のブラジル経済の好調もあり、ほんのちょっと前だったら、欧州のクラブに移籍しているようなタレントがかなり所属している。トヨタカップの伝統にのっとり、しっかりと準備した南米の強豪に、バルセロナと言えども、相当苦戦する事も予想された。いや、正直言いますが、私はサントスが勝つと予想していたのですが。

 バルセロナの強さには、秘密も何もない。全選手がまじめに位置取りを修正し、しっかりと周りを見て、自分が次にどうしたらよいかを考えてボールを受ける、そして状況によっては敵の対応を見て計画を修正し、精度の高いパスを丁寧に出し、すぐに最もよさそうな場所に移動する。もし、ボールを奪われたならば、すぐに切り換えてしつこく奪い返しに行く。ただ、ただ、それを繰り返すだけ。
 いずれも、サッカーの基本である。ただし、この基本を徹底して繰り返せるだけの選手を11人+αだけ、並べた事がすばらしい。
 5年前のバルセロナもすごかったが、当時はロナウジーニョとかデコとか、舶来物の高級酒が揃っていたのだが、今回のチームは自前の下部組織で育て上げたスペイン代表選手がズラリ。そして、彼らを軸とした代表チームが、欧州も世界も制しての登場だった(それも、スペイン代表がタイトルを獲得したのは初めてだった、彼らのグループが大変な事を成し遂げたのは、今さら言うまでもないだろう)。そして、なるほど、すべての面で「世界一」の妙技を堪能できた事になる。

 もう1つ、バルセロナの長所の1つに、後方の守備の強さがあったのもまた確か。
 ボールを思うように持てないサントスは、ネイマールを軸にした速攻に活路を見出そうとした。しかし、それをプジョルが、ブスケツが、ピケが、そしてマスケラーノが(このオッサンが控えにいるのだから、恐れ入るよな)、ことごとくつぶした。ハンマーのようにネイマールをつぶすプジョルを見て、5年前の彼の失態を思い出し、この月日で彼が積み上げた経験と、持ち上げたカップの、重要性を改めて感じ入った。

 バルセロナがここまで見事なチームを作り上げた要因が、よい下部組織の所有にあるのは間違いないだろう。しかし、重要な事はよい下部組織の所有が、バルセロナクラスのチームの形成を約束しない事は言うまでもない。
 陳腐な言い方だが、バルセロナ固有の下部組織のあり方、言わばその土壌に、大きなカギがあるのは間違いない。そして、先日も述べたが、そこで重要な事は、「教え方」や「メソッド」や「ポゼッションの哲学」などの各論ではなく、もっと本質的な「何か」なのだと思う。その「何か」を求めて、我々の模索は続くのだが。まあ、ゆるゆる勉強していきたいものだ。
 最近はよくしたもので、本屋に行ってスポーツ本のコーナに行くと、無数の「バルセロナ本」を見つける事ができる。ただ、本屋で立ち読みしただけなのだが、それらの多くはどうも方法論しか言及していないように思える。もし、方法論ではなくて、土壌を説明したような本質論を書いてあるような書物をご存知の方があれば、推薦お願いします。まずは、そのあたりの勉強から始めてみたいので。
 
 決勝の先制点直前。シャビが後方に流れた浮き球を、見事なヒール(あるいはアウトサイドの)トラップで収めた場面。通常、シャビもイニエスタもセスクもチアゴも、普段はあのような大技を見せる機会はなく、淡々と味方の正確なパスを処理して、味方にまた正確なパスを出す。ところが、あの場面だけはシャビは大技で正確なボールコントロールを見せた。シャビの凄みを改めて感じる事ができた。
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2011年12月17日

ネイマールは、どうやったら生えてくるか

 レイソルは拡大トヨタカップ準決勝でサントスに完敗した。
 決して内容そのものは悪くなかったが、いきなり2失点してしまい、追い上げたところでまた2点差に突き放されたのだから、どうしようもなかった。

 試合の流れそのものは上記の通り完敗だったものの、試合展開そのものは悪くなかった。先制して、余裕を持って引いていたサントスに対し、落ち着いてボールを回して分厚い守備網をかいくぐる工夫を見せ、うまくよい体勢でボールが奪えた時は的確に速攻を狙っていた。そして決定機に近い好機を幾度か掴んだ。しかし、最後の最後のところで決め切れなかった。
 田中の左足の一撃、澤のポスト弾と空振り、左から飛び込んだ北嶋の右アウトサイドシュート、アディショナルタイムの大谷のシュートが浮いた場面。どれも本当に惜しかった。しかし、いずれの好機にも共通して言えるのは、シュートを打った選手が、シュートよりも前に相当な無理をしていた事だ。たとえば長駆したり、たとえば難しい体勢を立て直したり、たとえば敵DFを振り切るのに相当な労力を使ったり。唯一の得点が、ジョルジ・ワグネルの高精度セットプレイに、若き好素材の酒井宏樹の肉体能力の組み合わせだったのは、非常に示唆に富む。
 要は献身的に努力はしたが、崩し切れた決定機はあの酒井の一撃の場面だけだったのだ。

 一方でサントスの3得点。ネイマールの先制弾は冗談の斜め上の世界だった(これはこれで後述)。しかし一方で、ボルジェスの鮮やかなドリブルシュートも(「お前、レイソルから得点するならば5年前だろう」と思わず吠えてしまったが)、ダニーロの壁外巻きも、上記のジョルジ・ワグネル+酒井クラスの一撃、と見る事ができる。つまりこの試合は、「ネイマールの冗談」+「2対1」の試合と解釈可能と見る。

 ただし私は、この後者の「『2対1』の方を同点にする事」については既に「日本サッカー界は世界トップに対しては、それなりに対応可能になってきている」と見ている。もちろん「状況次第では」と言う前提が必要だけれども(だいたい、今回にしてもホームで試合をすると言う「有利なハンディキャップ」を持っていたのだし)。まあ、楽観的過ぎるかもしれませんけれど。
 実際、レイソルがサントスと同様の日程で戦う事ができていれば、序盤からより稠密な組織守備網を確立する事ができていただろう。また南アフリカワールドカップ時の日本代表のように、事前にオランダ、イングランド、コートジボワールなどと準備試合を積めていれば、あのように立ち上がりに守備が不安定だったのは避けられていた事だろう。
 つまり繰り返すが、「『2対1』の方を同点にする事」については、南アフリカ大会同様、既に我々は相当なレベルまで来ているのだ。

 けれども、「ネイマールの冗談」の差は、まだまだ大きい。昨年スナイデルの一撃に屈したのも同じである。

 つまり、我々が完璧に「世界一」を目指すためには、ネイマールが必要なのだ(いや、スナイデルでもシャピでもイニエスタでもメッシでもいいですが)。
 そのために日本サッカー界はどうあるべきなのろうか。
 個人的には、そのクラスのスーパースタアを「育成する」のは不可能だと思っている。そのようなタレントは豊富な土壌がある中から、勝手に生えてくるものではなかろうか。だからこそ、我々は土を耕す、いや耕し続ける必要があるのではないか。
 たとえば、サントスよりもさらに一枚上と言われているバルセロナは、自分たちの育成組織から、シャビもイニエスタもメッシと(その他のタレントも)育成している。そして、多くの報道は「どうやって彼らを育てたか」ばかりに注目しているようだ。しかし、もっと重要なのは「何が彼らを育てたのか(あるいは何の上で彼らが育ったのか、生えてきたのか)」なのではないか。
 そのような「土壌の充実」が、改めて重要な事を、レイソルの大奮闘から感じ取った次第。レイソル関係者の方々、ありがとうございました。
posted by 武藤文雄 at 01:44| Comment(26) | TrackBack(0) | 海外 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年12月14日

がんばれレイソル

 レイソルは拡大トヨタカップ準決勝でサントスと対戦。
 言うまでもなく、サントスと言うクラブは、我々の世代にとって、他に代わりなき「夢のクラブ」だ。
 バルセロナもクライフがいたので、相当な憧憬の対象である事は間違いない。そう言う意味ではアヤックスは当然の事として、ユナイテッドもバイエルンもボルシアMGもインテルもミランも、それに続く存在だ。
 しかし、やはりサントスは、そのようなクラブと比較しても、やはり特別な存在なのだ。
 そのサントスと、レイソルが、日本のトップクラブが、公式戦で対戦する。世界最強クラブを決める決勝戦への出場権を賭けて。

 すごい。
 
 どうでもよい蘊蓄。
 72年にサントスが来日した時に、ペレをマークしたのは、山口芳忠だった。言うまでもなく、スッポンマーカとして、メキシコ五輪の栄光にも大貢献した、レイソルの前身、日立所属の日本サッカー史に残る名サイドバックだ。当時、「40年後に日立が公式戦でサントスと対戦する」と予言しても、誰も相手にしてはくれなかっただろう。まあ「35年後に日本がワールドカップでブラジルと対戦する」と予言しても、同じだったかもしれないが。
 ついでに言うと、今大会レイソルが来ているパンツも黄色のユニフォームは、正に日立の全盛期の70年代前半に来ていたものだな。

 それにしても、11日のモンテレイ戦はすばらしかった。
 立ち上がりにモンテレイが猛攻を仕掛けてくるが、菅野の冷静な対応と、ほんのちょっとの幸運で何とかしのぐ。以降は、凄絶な、しかし双方が創意工夫を凝らした、中盤戦をすっかり堪能させていただいた。
 この試合のMVPは、何と言っても大谷だろう。元々、中盤での読みがよくボールを奪うのがうまく、落ち着いた展開が魅力の選手。この日は、その読みのよさが冴えまくった。モンテレイは立ち上がりの猛攻にしても、この日唯一の得点にしても、FWの大きな動きに合わせて比較的深いところからボールを出す攻撃が強力だった。大谷が、その出所を120分間ほとんどの時間帯でうまく押さえたのが、この勝利のポイントとなった。27歳の大谷だが、ここまで中盤で敵攻撃の芽を摘む能力を見せられると、代表入りも視野に入ってくるはず。細貝とは(角田も比較に入れたいのだが)、また違う魅力を持ったタレントだ。
 もちろん、レアンドロ・ドミンゲスをめぐる攻防、モンテレイのエースのスアソをめぐる攻防にも興奮させられた。モンテレイの中盤タレント達が、執拗にレアンドロ・ドミンゲスに絡み自由なプレイを許さない。一方、大谷、栗澤、田中、工藤らが手変え品変え、変化をつけて、レアンドロ・ドミンゲスをフリーにしようとする創意工夫の攻防。あの先制弾は、その典型的成功例だった。もちろん、増嶋と近藤が全知全霊を振り絞ったラインコントロールと、スアソに得点をとらせるためのモンテレイ攻撃陣の攻防も、また絶妙。デルガドやカルドソのような抜群の個人能力を誇る選手達が、自らの技巧をチームプレイに活かす献身もまた感動的だった。上記同点弾は、正にその典型。いや、おもしろかった。
 期待の酒井宏樹は若さを露呈。モンテレイが、酒井の横パスを奪ってそこからの速攻を狙っていたのが明らかだったのだが、とうとう120分間、対応できなかった。これは負傷は関係ないはず。よいクロスを頻繁に挙げていたのは確かだが、大いに不満の残るでき。ネルシーニョ氏は、そこまでわかって、我慢しているようにも思うのだが。
 メキシコと日本のトップクラブが、お互いの長所をつぶされながらも、敵の僅かな隙を見つけて、その長所を発揮しようと言う攻防。最後のPK戦の歓喜を含め、最高級の娯楽を3時間、じっくりと堪能させていただいた。ああ、羨ましい。

 サントス戦。
 中2日で2試合を戦った後ゆえに、状況は非常に厳しい。けれども、そんな事を気にしても仕方あるまい。先方はバルセロナ戦にターゲットを合わせているだろうし、突ける隙はあるはずだ。茨田も北嶋は完調だろうし、ネルシーニョ氏はまだまだ策を持っているだろう。もっともっと、レイソルサポータの友人を羨望する機会がサントス戦にとどまらない事を期待しよう。
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2011年12月05日

ドトール・ソクラテス逝去

 ドトール・ソクラテスが亡くなったと言う。
 あの82年のブラジル代表の主将。言うまでもなく、黄金の4人の一角として、サッカーの愉しさ、美しさを世界に見せつけてくれたオッサンだった。合掌。
 
 あの82年のブラジル。中盤最後方でファルカンが美しい姿勢と抜群の視野の広さから、壮大な展開。トニーニョ・セレーゾが、あきれるほどの上下動で持ち上がる。そして、その前でソクラテスが何とも味わい深い位置取りと蹴る前に一泊おく独特のインサイドキックで全軍の溜めを作る。そして、ジーコが長短自在なスルーパスを通す。何か、言葉で説明し切れないのがもどかしいが、あの4人があちらこちらから火をつける攻撃で、列強を圧倒した。
 78年ワールドカップでは、大ベテランのリベリーノの負傷もあり、技巧の粋を尽くしたサッカーを見せられなかったブラジルだが、81年正月にウルグアイで行われたコパデオロ(黄金杯、ワールドカップ歴代優勝国を集めた大会、もっともイングランドは日程都合で出場できず、オランダが代替出場だったが)で、テレ・サンタナ氏率いるブラジルは、美しい攻撃的なサッカーを再び見せる。
 その中軸がソクラテス。コパデオロではCFを努め、長身を活かした懐の深さでのボールキープ、スローテンポだが独特のターン、正確で独特の溜めの後のインサイドキック、落ち着いた位置取りが猛威をふるった。
 そして、負傷が癒えたジーコ、ローマでプレイし「ローマ皇帝」と評されていたファルカン(当時欧州でプレイしていたブラジル人はファルカンを含め数える程しかいなかった)が加わり、ブラジルは82年大会の優勝候補筆頭と目される事となる(もっとも、ブラジルはいつも優勝候補筆頭なのですが)。

 我々との最も深い縁は84年年明け、コリンチャンズでの来日か。近々行われるロス五輪予選の準備試合として来日したコリンチャンスは、日本代表と3試合を行った(当時の強化試合はこのような形態で、欧州南米のブロチームを呼んで行われ、ここにソクラテス的スーパースタアがいる事で、観客動員を狙うやり方だった)。この3試合、コリンチャンスは明らかに体調が悪かったが、木村和司をウィングから中盤に下げる策が大当たり、「これはロス五輪行ける!」などと勘違いしたのが、懐かしいな。
 ソクラテスと黄金の4人を組んだパートナの3人はすごく日本に縁がある。2人は代表の、1人はトップクラブの監督を務めたのだから。ソクラテスもまた親日家だったと聞いた事があるが、それを含めて、あの夢のようなスーパースタア達が、ここまで身近になるとは、これはこれで感慨深い。あと、ソクラテスの実弟のライーが92年トヨタカップで活躍した。クライフのオッサンが率いたバルセロナ(グアルディオーラが展開し、バケロが受けて、ストイチコフやラウドルップが突破する)に前半チンチンに圧倒されたサンパウロだが、ライーを中軸にミィーレル、カフー、トニーニョセレーゾ爺さんらが反撃。ライーの嘘みたいな直接フリーキックが決勝点、テレサンタナ氏が高笑いした試合だった。

 色々ソクラテスのプレイを思い浮かべて、ハッと気がついた。攻撃的MFに起用された遠藤のプレイと、ソクラテスのプレイって、かなり似ているように思える。ただ、ソクラテスの方が懐が深いから後方からのボールの受けがうまい。一方で、遠藤はソクラテスに比べて守備が格段にうまいが。
 ジーコがいない時のソクラテスは自らが主役、ジーコがいる時はしたたかな脇役、また局面によってはCFでのポストプレイも絶妙。つまり、いわゆるブラジルの8番(今風だと引き気味の7番か11番か)も9番も10番も、完璧にこなせるタレントだった(もっとも10番をつける事はなかったようだが)。しかも、あのタレント集団では主将を務めた事でもわかる通り、リーダシップも抜群だった。
 ソクラテスのプレイで、一番印象的なのは、失敗場面。あの「史上最高の戦い」と言われた86年の準々決勝のフランス戦。延長で、プラティニのパスから抜け出したベロンを、ブラジルGKカルロスがペナルティエリア外で大ファウルで止めるが、ベロンが何とか倒れぬように頑張ったので主審はファウルを取らない!(今日のルールではもちろん、カルロスは一発退場)。そのこぼれ球をブラジルがつなぎ、決定機を作る。しかし、疲労困憊のソクラテスが見事に空振り。もし、あそこでソクラテスが決めていたら、あの「史上最高の戦い」は「史上最悪の主審」と共に語られる事になっていたであろうと(笑)。
 皆様ご存知の通り、ジーコのインサイドキックのスルーパスは長短自在。一方でソクラテスのインサイドキックは一拍置くタイミングが絶妙で、10mくらいの距離にピタリと通るのがおもしろかった。この2人の同世代のブラジルのスーパースタアのインサイドキックの比較だけでも、一晩語り尽くせるな、うん。
posted by 武藤文雄 at 23:30| Comment(1) | TrackBack(0) | 海外 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年06月10日

フィリピンにて

 先週は豪州に、今週前半はフィリピンに、それぞれ滞在していた。
 豪州では、先日も述べた通り、テレビでオーストラリアンフットボールを堪能する羽目になった。これはこれで、貴重な体験だった。正直言って、最初から生観戦を計画すべきだったとも思う。もっとも、現実的にあれを20分4クゥオター観戦すると結構飽きそうにも思えた。大量点が入るために終盤には大差がつきやすく、どうしても大味な展開になってしまう。

 フィリピンでは、テレビ桟敷で、フィリピン代表対フィリピンリーグ選抜の試合を愉しむ事ができた。これは言わば、「日本代表対Jリーグ外国人選抜」のような試合だ。ただし、花相撲では全くなく、ワールドカップ予選に向けた準備試合だった。観客の熱狂振りは相当なものだったし、選手の真剣な姿勢もすばらしかった。レベルなどはだいぶ異なるが、97年のフランスワールドカップ最終予選直前に、浦和駒場スタジアムで行われた試合を思い出したりした。
 ちなみに、フィリピン代表は通称「Azkals」と呼ばれているようだ。最初映像でこの通称を見て、一体どこのチームだろうとネットで調べたら、この大一番が行われているの知った。テレビ局が、我が代表を「サムライブルー」、「なでしこ」と連呼するのと、同じなのだろう。
 それにしても、この試合の生観戦を逃したのは痛恨の極み。大学のグラウンドで行われたとの事だが、比較的近い地域のホテルに滞在していたのだ。本業での滞在の場合も、海外に行く折には必ずそのタイミングでの現地での重要試合を事前確認するのだが、ついフィリピンと言う事で事前調査を怠ってしまったのが敗因となった。やはり、どんな時も几帳面に戦う事を忘れてはいけないと反省した次第。
 ちなみに、試合は最終的にはリーグ選抜が勝利、フィリピン代表は守備の課題を露呈した試合だったが、厳しい親善試合の目的は問題点を明確化する事。近づく、ワールドカップ予選に向けては格好の強化試合だった模様だ。

 ちなみに、フィリピン代表は、今月下旬から始まるワールドカップ1次予選に望む。相手はスリランカ代表。既にチケットは売り切れとの事。この国は、東南アジアには珍しく、ナンバーワンスポーツはサッカーではなくバスケットボールだとの事だが、サッカー人気が高まっているのは結構な事だ。
 もしスリランカに勝つ事ができると、2次予選でクウェートと言う難敵と当たる。これは厳しい戦いになる事だろう。これを突破できれば、日本が登場する3次予選進出となるのだが。やや失礼な言い方になるが、フィリピンにとっては、スリランカに勝ち、クウェートへの挑戦権を掴む事が、ブラジルワールドカップの目標となる事だろう。

 つい1年前に南アフリカでの死闘は終わったばかりだ。
 けれども、ブラジルへの戦いは、正に始まろうとしている。間抜けな日程設定により、このキリンカップを棒に振った訳だが、ブラジル大会への息吹をフィリピンで感じる事ができたのまた事実。
posted by 武藤文雄 at 23:30| Comment(2) | TrackBack(0) | 海外 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする