2008年02月28日

鈴木啓太、年間最優秀選手獲得

 各方面で報道されているが(例えばこれ)、鈴木啓太が年間最優秀選手(いわゆるフットボーラー・オブ・ザ・イヤー)を獲得した。啓太は、この他に昨シーズンはサッカーマガジンのクリスタルアウォードを獲得している(JリーグMVPは同僚のポンテに譲ったが)。
 昨シーズンのレッズ、代表での八面六臂の大活躍を考えれば当然の受賞だろう。以前も述べたが、日本の最優秀選手にとどまらず、アジアの最優秀選手として表象して欲しかった程の活躍振りだったのだから。

 啓太の活躍を称えつつ、今日はこの今まであまり議論される事の少なかった年間最優秀選手について少し考えて見たい。だいぶ前に述べた事があるが、この手の表彰は「優秀」な選手を選ぶのか「殊勲」の選手を選ぶのか、選考者の好みや考え方もまちまちだし、結構難しいものがある。
 そして、この年間最優秀選手と言うタイトルは日本では最も古く権威があるものとされている。歴代の受賞者はこちら(手元にこれ以外資料がなかったので、Wikipediaを用いた、少なくとも私の記憶レベルでは間違いはないと思うのだが)。こうやって眺めると、結構バランスの取れた選考をしているのがわかる。最近の受賞者の顔ぶれを見ても、それなりに納得できる選手が並んでいるではないか。
 無論、いささか疑問の残る選考が行なわれたシーズンも少なくないし、当然選ばれて然るべき選手が選ばれていないケースもある。選ばれていない事例としては、森孝滋、奥寺康彦、加藤久、井原正巳らが挙げられるが、彼らは選ばれるべき活躍をしたシーズン(つまりプレイも充実し、タイトルを獲得したシーズン)にそれ以上にマスコミ的に目立つ選手がいたために、選考されなかった訳だ。
 しかし、一方で見事な選考が行なわれたシーズンもある。例えば、79年の今井敬三は、分厚い守備でJSLと天皇杯を制覇したフジタの守備の中核でもあり、代表でも堅実な活躍をしていた選手で、このような選手がしっかりと評価された。87年の森下申一もゴールキーパとしては初めての選考だったが、JSLを非常に少ない失点で優勝したヤマハの中核としての活躍が評価されての受賞だった。このような選手の活躍が、このような個人タイトルとして残る事には大きな価値があると思う。
 そのような意味では、啓太の今回の表彰についても、過去の歴史を掘り下げた報道があればよいのにと思うのは私だけだろうか。

 70年代半ばくらいだっただろうか、牛木氏が昔サッカーマガジンにこの表彰を始めた時の経緯を書かれていた事がある。当時、少しでもサッカー界を盛り上げようとして、牛木氏を初めとする若い新聞記者たちがこの年間最優秀選手と言うタイトルを企画したそうだ。その時に心がけたのは「誰もが文句が言えないくらい活躍した選手がいるシーズンに始める」事だったとの事。そのような配慮をする事で、タイトルに権威をつけようとしたとの事である。
 と言う事で、改めて第1回の受賞者を見ると、このタイトルの深みを一層感じていただけるのではないか。
posted by 武藤文雄 at 23:00| Comment(1) | TrackBack(0) | 歴史

2008年02月27日

レアル・マドリードと浦和レッズの類似的失態

 大仰なタイトルを付けたが、もちろん今日のお題は、先日のレアル・マドリーがヘタフェ戦での失態について。 

 オフサイドポジションにいたラウールが敵GKのファンブルを拾って(この瞬間オフサイドだった訳だ)センタリング、ロッベンがダイレクトで決めたもの。ところが、オフサイドにもかかわらず、皆で喜んでいるうちにヘタフェがプレイを再開し、見事に得点を決めてしまった。
 私もそうだが、多くの方々が93年のアントラーズ戦での、レッズの福田の得点直後の失態を思い出した事だろう。ただ、この2つのプレイの大きな相違がある。15年前のレッズのそれは「正式な得点」の後だったのに対し、今回のレアル・マドリードは「反則により得点が認められなかった」後である事だ。得点後のキックオフ時は、得点したチームの選手は皆自陣に入っていなければならないのだが、当時のレッズは間違いなくその状態で大喜びしていた。そのような危険な状態を放置し、アントラーズにその隙を疲れた訳だ。つまり、レッズは喜ぶにしても、自陣より外で喜ぶとか、あるいは冷静な選手がセンターサークルに入ってキックオフをさせなければよかったのだが。一方で、今回のロッベン直後は、オフサイドでのノーゴール直後だけに、レアルの選手達がどこにいようが、ヘタフェはプレイを再開できたはず。唯一の可能性は間接FKの近くに立ち警告覚悟で妨害する事くらいだろうが、よほど良い位置にいる選手が鋭く切り換えないと難しいように思う。つまり、間抜け振りは五十歩百歩かもしれないが、今回のレアル側は一部の選手が得点と勘違いして大喜びしてしまった時点で、既に決定的な危機を迎えていた訳だ。そう言う意味ではグティが「4歳児並みのミスだ」と反省していたらしいが、このミスはいずれのチームにも襲いかかる怖れはある。そして一般論では、衝撃はレアルのケースの方が大きいかも。レッズのケースは1−0が1−1になっただけだが、こちらは1−0のつもりが0−1だからな。

 とは言え、15年前は懐かしいな。当時はアントラーズの実質監督ジーコのブラジル風の抜け目無さに感心させられたものだ。そして、その抜け目無さは「マリーシア」と言うポルトガル語と共に日本サッカー界に定着して行く事になる。ああ、あの頃はジーコも真剣に取り組んでくれていたのだなと。
 そして、ロッベンと異なり見事な得点を「決めた」福田。あの頃、福田はもがいていた。と言うのは、Jリーグ開幕直前に行われたワールドカップ1次予選で体調を崩したままリーグに入っていたからだ。当時の福田はまごう事なきオフト氏率いる日本代表の攻撃の中核。ダブルセントラルで行われた予選のUAEでの最終戦前、東京の直接対決で勝ちさらにバーレーン、スリランカから大量得点を奪う事に成功していた日本は、6点差で負けなければ2次予選出場を決めていた。その試合直前に福田は風邪で体調を崩していた。ところが、オフト氏は無理に福田を出場させてしまった。
 結果として、福田はボロボロの体調のまま、週2試合、延長PKありと言う狂的な日程のJリーグに参加する事になった。結果、レッズは開幕から連戦連敗を続けていた。このアントラーズ戦はそのような状況下で迎えた試合だった。そして、実に久しぶりに福田が強烈なドリブル突破から先制点を決め、チーム全体が歓喜に浸っていた直後に本件は起こった訳だ。その精神的ダメージは極めて大きく、(上記のように)単に1−0が1−1にと言うものではなかった。
 以下、余談の戯れ言。その後も福田は体調維持に苦しみ、その影響は秋口まで続き、ドーハに旅立つ事になる。当時のオフト氏の手腕は素晴らしいものだったとは思う。思いはするが、あの敵地UAE戦で福田に無理をさせた事が、オフト氏の最大のミスだったのではないかと、この15年間思い続けているのだが。
posted by 武藤文雄 at 23:00| Comment(5) | TrackBack(0) | 歴史

2007年12月31日

2007年10大ニュース

 今年もこの偏見あふれるBLOGにお付き合いいただき、ありがとうございました。年末ですので、恒例の10大ニュースを述べさせていただきます。実は年末に某所で暫定版を発表したのですが、その後少しアタマを整理してやや変更しています。
 毎年執拗に10大ニュースに挙げていた「破綻した日程」を敢えて外しました。それは選択した多くのニュースに、日程破綻問題が絡むからです。その負担を全て消耗していく選手達に押し付けている現状は、もはや看過できない状態になっているのですが。
 五輪代表の反町監督の迷走と言うか「天下の期待はずれ」は、08年に金メダル獲得で取り返してもらう事でチャラにすべく敢えて外しました。また、代表戦のチケット販売不振については入れたかったのですが着外と言う事で。

1.オシム爺さん倒れる

 最善の選択は、時に最悪の事態を生むと言う事なのだろう。
 「2010年に爺さんが手塩にかけたチームを世界に問う」と言う我々の願いは叶えられなかった。叶わない夢を持てた事だけでも幸せだったと考える事にしたい。
 幸い、回復は順調と聞く。どうやらあの笑顔を再び見る事ができそうだ。もうそれ以上の贅沢は言うまい。
 後任の岡田氏は(再三述べているが甚だ岡田氏には失礼だが)次善、三善の策だろう。しかし、その選考は間違っていないと思う。2010年は岡田氏と、1998年の復讐戦を戦うのだ。

2.アジアカップ3連覇ならず

 BLOGでも述べたが、私は決勝進出したら現地に行く計画をしていた。相当悔しかった。
 しかし、オシム爺さんが作ったチームは、芸術的なパス交換を基盤にしたとてもよいチームだった。そして、チーム作りも明らかに1,2年先を見ているのは明確だった。だから負けたのは仕方がない。
 でも、せめて1週間早くJを休んで準備できなかったものなのか。そのような時間が無いと言う日程破綻問題そのものが、極めて深刻な事態なのだが。
 やはり、それにしても、このチームの完成を見る事ができないのが悲しい。

3.ヴァンフォーレ甲府のビューティフルゴール

 J1前期、ヴァンフォーレ−ガンバ戦のヴァンフォーレのビューティフルゴール。15本ものショートパスをつないで、完全に守備ラインを崩したものだった。あれだけ、ひたすら短いパスをつないで同じサイドを崩した美しい得点は、ちょっと見られるものではない。
 ヴァンフォーレは結果的に今期J2に陥落した。しかし、あの美しい得点は永遠に記録にも記憶にも残る。

4.レッズのACL制覇

 レッズがACL王者を久々に日本に奪回。敵地で負けないしぶとさを見せて勝ち点を積み上げて1次リーグ突破。準決勝の城南戦は凄絶なPK戦を勝ち抜いての決勝進出と、決して楽な勝ち上がりではなかったが、それがまたレッズの強さを表した感があった。そのまま拡大トヨタカップに出場し、ミランと丁々発止。ミラン戦で、阿部と啓太と闘莉王のプレイが十分に通用したのが、嬉しかった。
 とは言え、日程破綻問題と、硬直したオジェク氏采配により、選手は疲労困憊、ガタガタになっており、ほぼ手中にしていたリーグタイトルを逸したのだが。

5.フロンターレのACL準々決勝敗戦

 あのセパハンのPK負け。何と言っていいか。負けた瞬間、私の記憶は白黒映像として鮮明に残っている。巧く言えないが、あのフロンターレが崩れ落ちたあの瞬間はそのような記憶なのだ。
 それにしても美しい試合だった。
 もっとも、あの美しさは、日程破綻問題ゆえもあったのだが。
 一方で、このセパハン戦周辺での協会首脳の信じ難い暴言は何だったのか。

6 我那覇のニンニク注射問題

 ドーピング問題を考慮した場合、ニンニク注射(点滴)はOKなのかNGなのかは、非常に微妙な問題だと言う。これ以上は専門家でない私が論じるべきではないだろうが、微妙な問題にも関わらず、事前にその情報を曖昧なままに扱っておいて、信じ難い高額な罰金と出場停止を宣告するJリーグ当局。さらに、以降の対応をアタマから拒絶する硬直性。何かおかしい。
 そして、我那覇がこの騒動以降すっかり体調を崩したのか、凡庸なプレイしか見せられないようになった事実は悲しい。

7.アントラーズ久々のJ制覇

 長期のリーグ戦と言うのものは、我慢を重ねて勝ち点を積み上げ最終戦終了時点で一番多くの勝ち点を取ったチームが優勝すると言う当たり前の事を、丹念にやり遂げた優勝。的確な監督選考と、毎期の堅実な補強が、ここに来て奏効したとも言えるか。
 個人的には、いよいよ狡猾で抜け目のないプレイをするようになった本山の成長が嬉しい。

8.サンガ−ベルマーレ、微妙な試合中止判断

 経緯はこちらに。
 もし、この試合にベルマーレが勝っていれば、J2の終盤戦は大きく状況が変わっていた。サガンのフロントが恣意的な事はしていないと信じてはいるが、結果から見れば何とも微妙な感想を抱かざるを得ない中断ではあった。悪しき前例にならない事を望む。

9.TOTOの危機

 経営不振が続いていたTOTOが、BIGを始めた事により、黒字化改善の目処が立ったとの事だ。しかし、これは何も喜ばしい事ではない。サッカーくじとしての「予想の愉しさ」が、世間に何も評価されていないと言う事だから。
 スポーツ振興財源のために、ギャンブルをいかに巧く使うのか。行政改革の俎上に乗る事もしばしばのTOTO。本質的な意義を問われている。

10.中村のスコットランド個人タイトル独占

 1人の選手が1国の個人タイトルを総なめする事はそうはない。それを日本の選手がやり遂げたのだから、多いに評価に値しよう。極端な言い方をすれば、日本の選手が国内の個人タイトルをここまで1人で総なめする事すら難しいのだから。
 今の中村は、代表においても、セルティックにおいても、登場するだけで「場」が変わる選手にまで成長した。体力的なピークを過ぎる年齢になったが、南アフリカで今度こそピークが来るべく鍛錬して欲しい。
posted by 武藤文雄 at 23:59| Comment(6) | TrackBack(0) | 歴史

2007年12月30日

2007年ベストイレブン

 従来であれば、ワールドカップの翌年と言うのは比較的落ち着いた年のはずなのだが、今年はアジアカップが1年前倒しになった事や、レッズの拡大トヨタカップでの奮闘など、インタナショナルマッチでもたっぷり愉しめる1年となった。自分なりに感じた「世界との距離」については近くまとめたいと思っているのだが。
 ともあれ、毎年やっている恒例の日本サッカー私選ベスト11を。

 闘莉王はアジアカップ直前の負傷を考慮して不選考。
 中澤については迷いに迷った(あの闘莉王が中澤とプレイするとおとなしくなるのが面白いのだが)。アジアカップを含めたA代表での堂々としたプレイ振りを考えるとベスト11決定!なのだが、マリノスと言うチームが今一歩だったので、思い切って外した。
 あと阿部について。本当に凄い選手だと思ったし、アジアカップでも巷で言われるほど悪くなかったし、城南戦の肉体能力を投げ出した守備は凄かったし、本来のMFで起用されたミラン戦でカカやアンブロジーニと見せた丁々発止には感動した。でも自己顕示欲が少なすぎる。ミラン戦でもアジアカップサウジ戦でも、試合終盤どうして前に出て行かないのか。と言う事で落選。
 あと、明神を選びたかったのだが。

都築龍太
 GKは悩んだ。豪州戦のPKストップの川口はさすがだったがあの1回程度でベスト11と言うのは何か失礼な記がする。楢崎はそれほど目立たなかった。川島も菅野もよかったけど何か今一歩。五輪の山本の国立カタール戦の超美技は反町を救ったがそれでベスト11と言う訳にもいかない。と言う事で、レッズの国際試合で2回PK勝ちした都築にした。あのエトワール戦のおバカは御愛嬌と言う事で。

森勇介
 あの右サイドの前進意欲。いささか落ち着いたとは言え、後先考えない闘争本能。A代表入りはさておき、本当によい選手になった。あのセパハン戦の負傷退場が悔しい。

水本裕貴
 あの「組織力は全くないが個の力だけで勝ち抜いた」五輪代表の象徴として。現在のA代表の中澤と闘莉王が強さではね返すタイプなのに対し、水本は読みとスピードで守る。この3人が連携を高めれば、日本サッカー史上かつてないスケールの守備ラインが期待できる(もちろん青山直の参加を拒むものではないが)。

岩政大樹
 アントラーズJリーグ制覇の立役者の1人。単純な強さ、高さでは相当なレベルに達した。その強さを活かしたまま、足下への対応をどこまで伸ばす事ができるか。中澤にしても、先ごろ引退した秋田にしても、20代半ばからその能力をガーンと上げた。岩政にとっては、09年は非常に重要な年になるのではないか。

安田理大
 ワールドユースの活躍とナビスコカップでの決勝点を評価して選考。この選手で嬉しいのは守備の着実な進歩。とにかく、スライディングの思い切りがよい。もちろん攻撃参加のタイミングもどんどん成長している。確かに都並敏史の若い頃を思い出させる。もっとも当時の都並はフライデー止まり、安田はしっかりお子さんも授かったようだが。

鈴木啓太
 文句ない今期のMVP。私選アジア年間最優秀選手でもある。それにしても巧くなった。五輪代表時代落選時に、私は「ミスパスの多さからA代表は難しいのではないか」と予測した。しかし、その予測は完全に間違えていた。ここに改めて、啓太には謝罪したいと思う。
 「ごめんなさい」

中村憲剛
 昨日のエントリで不満を述べた。代表でも不満は多い。中村俊輔はさておき、どうして遠藤にまであそこまで遠慮するのだろうか。遠藤は憲剛が要求を出せば応える技術も対応力も持っているのだから。とにかく要求する水準は高いから、どうしても不満が多くなってしまうと言う事か。でもあのスーパーアシストは凄かったので。
 「関塚さん、どうしてセパハン戦、あそこで交代させたのですか?」

遠藤保仁
 遅い事を武器にできる日本では真に珍しい選手。今年この選手の成長の経路己のスタイルへの拘泥について述べたが、語るに本当に愉しい選手だ。特に好きだったのは、アジアカップ1次リーグ第2戦の完璧な試合クローズ。おそらく、今後もこのやる気があるのかないのかわからない男を語り続ける事を、じっくり愉しめる事だろう。

中村俊輔
 1国の個人タイトルをここまで独占した日本人選手は、往時の釜本以来だろう(笑)。紛れもなく、欧州最高レベルと評価されたと言う事だ。不思議なのは、この偉大さの評価が、妙に国内で低い事だ。A代表でも、セルティックでも中村がちょっとボールに触るだけで、大きな変化が生まれる。
 1歳年上の中田が自ら戦場を去り、1歳年下の小野が不振にもがいている今、中村だけは着実に成長し、世界に明確な位置を獲得したのは、歴然たる事実なのだ。

本山雅志
 岩政同様、アントラーズ優勝を評価して。でも、本当によい選手になった。あのレッズ戦のサイドバック振りの見事な事。元々、技巧と狡猾さは優れていたが、戦略性も身につけてきた。2列目から前進できるタレントとしては、山瀬、羽生、そして若い柏木がいるが、経験に優れる本山は南アフリカの有力候補である事は間違いない。贅沢なのはわかっているけど、勝負どころで若い頃のようなカミソリドリブルも見せて欲しいのだが。

高原直泰
 あれだけドイツで点を取り、アジアカップでも大事なところで決めたのだから。
 あのテヘランイラン戦での無様なプレイ振りを散々非難した私だが、ここまで立ち直ってくれて、素直に嬉しい。とにかく、この人は体調を整える事が全てなのではないか。
 残念ながら、今期は負傷がちで欠場続き。慎重なコンディショニングを心がけ、南アフリカでピークにと思わずにはいられない。
posted by 武藤文雄 at 23:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史

2007年05月22日

鈴木武士氏逝去

 共同通信社の運動部記者として長年活躍されていた鈴木武士氏が5月13日に病気で逝去されたと言う。69歳だったそうだ。牛木素吉郎氏のBLOGで悲報を知ったのだが、まだ随分とお若かったのがちょっとショック。最近、氏の文書を見る機会が減っていたのだが、長い期間体調を崩されていたのだろうか。
 鈴木氏の文章は、賀川浩氏や牛木氏と比較すると、色がないと言うか非常に醒めた目でまとめられていたものが多かったように思える。それはそれで、若い頃にサッカーを勉強するために非常に役に立った記憶がある。

 とりあえず手元にある鈴木氏がまとめられた本を探してみた。

「サッカー世界のプレー −1970メキシコワールドカップー」
牛木氏が構成し自ら中心となる論点を著述しながら、、何と長沼健氏、さらには大谷四郎氏、谷口博志氏、そして鈴木氏も執筆している、70年大会のほぼ完全な記録。74年以降は牛木氏は単独でこのシリーズを書き続けるが、鈴木氏、牛木氏らが最初に本格取材したこの70年大会は分担執筆となっている。まともに映像を見る事ができていない70年大会を、「さも見たような」態度を取れるのもこの本のおかげか。

「私にライバルはいない −ベッケンバウアー自伝ー」
鈴木氏が翻訳し76年に出版されたもの。74年にワールドカップを獲得し、当時クライフと並び世界最高の選手と言われていた傲岸不遜なベッケンバウアの自伝(そもそもタイトルからして凄い表現だよね)。内容も中々愉しくて、嫌いなコーチの排斥、若い頃のだらしない女性関係なども、正直に語っている。これが出版された時は高校1年生だったのだが、非常に愉しく読んだ記憶が。

「世界サッカー史」
B5サイズで超450ページと言う大著。チェコスロバキア人(当時)が書いた本を、岡野俊一郎氏、牛木氏と共に鈴木氏が監修している。77年出版当時9500円もした。高校生サッカーオタク(当時はオタクなどと言う言葉はなかったか)のプライドを賭けて、小遣いを貯めて買った記憶がある。この本は穴が開くほど何回も読んだ本の1つだ。

 サッカーの魅力を我々に紹介してくださった大先輩が1人いなくなってしまった。ご冥福を祈りたい。
posted by 武藤文雄 at 23:50| Comment(2) | TrackBack(1) | 歴史

2007年04月25日

1986年1月6日の思い出

 23日の深夜、携帯が鳴った。エルゴラッソ編集部からではないか。
「あれ25日の連載はなくなったはずだが。」
と思いつつ電話に出ると、何とも愉しい依頼が。
「明後日は『みちのくダービー』で、そのプレビューをやるんですけれど、板垣さんが仙台好調の要因の1つである手倉森コーチ(双子の兄弟)のお2人について取材してくれたんです。ただ、手倉森さんと言っても、若い読者はほとんど知らないので、150字くらいの短い文章でよいのでちょっと書いてもらえませんか?」
で、私が
「手倉森兄弟と言ったら江尻でしょう。」
と、80年代サッカーファンの常識を言ったら、担当氏がすっかり面白がってくれて、結局400字の大作を書かせていただく事になった次第。と言う事で25日発売号の4面に記名記事で、若かりし頃の手倉森兄弟の思い出が出ています。ミニサッカー講釈今昔版だな。ただ、何となく板垣さんの本編を押している感じになってしまっているな。ごめんなさい、板垣さん、いつも出しゃばりで。

 もっとも、そのプレビューが仙台の読者の手に届くのは、試合終了後明けて26日との事。実はこの物流問題については、解決が非常に困難な事は、詳しい話を聞いた事があるのでよくわかっている。けれども、敢えて言わせていただこう。頑張れエルゴラッソ営業部!素人の戯言だが、宅配読者にはインタネットを併用した速報を併用するなど、何とかするのがプロでしょう。

 この記事で書かせていただいた85−86年シーズンの高校選手権。手倉森兄弟率いる五戸高校は、準々決勝で江尻、真田を軸とした清水商業の試合運びの巧さに敗れた。とは言え、三ツ沢で見たこの試合はとても内容のある見事な試合だった。両軍の個人技、戦術眼、鍛えられた肉体、面白かった。五戸のリーゼントの応援団長が試合開始前に清商にエールを送り、当然返礼のエールが帰ってくると思って清商の方に向かって応援団全員が頭を下げていたのにも関わらず、清商応援団は全くその事に気がつかずチャカチャカ自軍の応援に専念していたのも忘れ難いが。
 同じ会場でもう1つの準々決勝は、鹿児島実業−四日市中央工業。四中工の阪倉が攻撃的MF!で大活躍し完勝。こう考えると、1986年1月6日は、手倉森兄弟、真田、江尻、阪倉と好タレントを堪能できたよい思い出の日だったな。ちなみに、鹿実には前田浩二がいたらしいが、何も記憶がない。
 この日は偶然、スタンドで数ヶ月前にワールドカップ予選神戸香港戦日本サッカー狂会応援ツアーバスで隣同士になった大学生と再会したのも忘れ難い。中田徹と言う男だった。
posted by 武藤文雄 at 23:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史

2006年12月31日

2006年10大ニュース

 2006年も色々とお付き合いありがとうございました。年末ですので、恒例の10大ニュースを述べさせていただきます。何とも言えない残念なワールドカップでした。でも、これが日本サッカー界にとっての経験なのでしょう。



1.川淵会長嘘の上塗り...ミ!ジ!メ!



 日本サッカーの長い歴史の中で、ワールドカップの1次リーグ敗退そのものは必ずしも大事件ではないし、代表監督の選考を過つのもそれほどの問題ではない。ジーコ氏の選考そのものは間違いだったが、だからと言ってあの感動的なアジアカップの再三の逆転劇や、コンフェデでブラジルに対し攻撃的サッカーで対抗し後一歩まで追い詰めた実績もあったのだ。ところが、ジーコ氏のワールドカップでの失態を見て慌てたのかもしれないが、ジーコ氏選考の過ちを覆い隠すための論理破綻の発言を繰り返す川淵会長。会長の論理破綻は当然ながら、田島氏以下の日本協会の小人物達に伝播している。

 さらに悪い事に、川淵会長は、そうやって嘘を塗り固めているうちに、外部から何を批判されているのか、顧客であるJリーグのサポータ達が自らのどのような言動に苛立っているのか、すら理解できなくなってしまっている。

 川淵会長の居座り以降僅か数ヶ月が経過しただけだが、アントラーズ内田のアジアユース出場問題や、反町氏の五輪代表監督進退問題など、状況によっては協会会長の判断が必要になるような事態が出来した。しかし、どこの誰が、このような見苦しい居座りをした男の判断を信用するだろうか。

 事態は極めて深刻なのだ。



2.自らが不適任者であった事を示すジーコ発言



 上記したが、ワールドカップに敗れた事そのものは仕方がない事だ。しかし、公式戦を戦うまで、豪州の選手に比べて自分が選んだ選手の肉体能力が劣る事に気がつかないのでは、代表監督としての能力がなかったとしか言いようがないではないか。

 以前も述べたけど、「ここまで無能だったとは」と言う言葉につきるのだろうか。

 もちろん、代表監督としてのジーコが日本に何も残さなかった訳ではない。上記したアジアカップやコンフェデ。マスカットオマーン戦やマナマバーレーン戦で、技術的に圧倒的優位にある日本が守備的に戦う事で、勝利の確率を極端に高めるやり方も、日本にとっては目新しかった。

 決して、何もできない男ではなかったのだ。ああ、でもしかし。

 やはり、アントラーズの実質監督時代と異なり、やる気がなかったのだろう。



3.次々に登場する若年層のファンタジスタ



 一昨日にも述べたのだが、本田、水野、梅崎、柏木、柿谷次々と現れる技巧派の若手が次々と登場。確かに、世界に近づけば近づくほど、アルゼンチンやブラジルとの差を痛感するよ、でも協会会長がどんなにバカでも、これだけのタレントが次々に登場するのだから、我々の若年層育成システムは素晴らしいのだ。

 それなのに、福島に学校を作ってしまう事はさておき。



4.牛木氏の連載が終わる



 サッカーマガジン(もう愛読書ではないけれど)が、ビジネスの都合で牛木氏の連載をお止めになるのは仕方がない事だと思う。彼らは彼らで商売があるのだから。

 しかし、今回のサッカーマガジン編集部の判断により、我々は数十年間享受できていた日本サッカー界に対する定期的な定点観測のコラムを失った。日本サッカー界は、迷った時に戻る場所を失ったのだ。

 



5.オシム氏代表監督就任



 ジーコ氏の失敗と川淵会長の失態に関連すると言えば関連するが、やはりこの東欧の巨人が我が代表の指揮を執る事を素直に喜びたい。就任僅かに4ヶ月の札幌サウジ戦で、早くもその手腕の片鱗を味わう事ができたのだし。



6.祖母井秀隆氏、欧州への挑戦



 しかし、オシム氏の代表監督選考プロセスは論外だった。「川淵さんとは仕事をしたくない」との名セリフを残し、祖母外氏は日本協会への協力を拒絶。さらに10年もの契約(これはこれで信じ難い長期契約だったのだが)を完了し、ジェフを去る事になった。

 ナビスコの2連覇は、十分な実績と言っても構わないだろう。

 これだけの実績を残した男である。当然ながら、国内の金満クラブへ移るのかと思ったが、驚いた事に欧州はグルノーブルへの移籍。もちろん、日系のスポンサ絡みである事は間違いないが、考えてみれば「日本人の選手以外のタレント」の欧州進出は、初めてではないのか。

 



7.破綻する日程、放置する日本協会



 ここ数年続くアジアチャンピオンズリーグでの早期敗退。オシム氏就任以降の日本代表の日程は最早「消化する事」のみが目的かのようだった。遠藤が病魔に襲われたのも異様な日程故のものとしか言い様がない。

 最早、日本のトップリーグの日程は破綻しているのだ。その破綻を放置し続けている日本協会の罪は重い。今こそ、勇気を持った英断「J1を16チームにする事」を行うべきだと思う。



8.ヴァンフォーレの1部残留



 予算が十分で無いクラブがJ1に昇格するのは難しい。しかし、J1を維持するのはもっと難しい。



9.横浜FCの1部昇格



 とは言え、予算が十分で無いクラブがJ1に昇格するのはやはり難しい。



10.ワールドカップだけダメだった中村俊輔



 あのコンフェデ以降の1年半、中村が調子を崩したのはあの1ヶ月だけだったのだな。はー。それ以外の素晴らしさへの喜びを味わえば味わうほど、あのドイツでもがいていた中村を思い出す。はー。



 レッズのリーグ優勝さらなるビッグクラブへの成長への期待については、もう1年待ってからの方がよいかなと思い敢えて外した。拡大トヨタカップでのバルセロナの芸術と苦杯の堪能。中田の離脱。平山騒動。五輪代表監督反町氏の迷走、など語りたい事は多いが選外とさせていただいた。

 この十数年、常に右肩上がりで来た日本サッカー界。たまには停滞する事があるのも仕方がないのだろう。でも、本質的には強力そのものの若手選手が登場しているのだから、問題は少ない。来年のアジアカップ、中村と松井と憲剛と本田と水野を自在に使い切り、カップを照れながら抱えるオシム爺さんが堪能できるはず。
posted by 武藤文雄 at 23:21| Comment(1) | TrackBack(0) | 歴史

2006年10月29日

忘れたいが、忘れてはいけない過去2006

 ユース代表は初戦北朝鮮戦、下痢騒動などもあり心配されたが、内容、結果的にも完勝。およそ番狂わせの可能性すら見出せない完勝だった。しかもエース格の梅崎が体調不良で不在だったのだから、恐れ入る。まずは順調な立ち上がりと言うところか、



 さて、10月29日と言う日は、「横浜フリューゲルス消滅」と言う日本サッカー史上最悪と言っても過言ではない事態が正式発表された日だ。本件については、幾度となく過去から述べてきた。日本のサッカー界において、痛恨としか言いようのない人災だった。

 ところで、今シーズンは横浜FCが好調、ついにJ1昇格が現実的な状況になりつつある。横浜FCとフリューゲルスの関係については様々な見解があるけれど、私は横浜FCは「ある意味において明確にフリューゲルスと言うクラブの後継クラブ」と言わざるを得ないと考えている。その横浜FCが、あれから8年経った今、ついにJ1に上がろうとしているのだ。さらにそのチームの中核に、山口素弘が存在しているのだから、何と言うドラマなのだろうか。



 もしこのまま横浜FCがJ1に昇格すれば、来シーズンは最低2試合、公式戦でのマリノス対横浜FC戦が行われる事になる。考えてみれば、これはすごい事だ。両クラブの関係者は、過去は過去として全てを飲み込み、新たな港町のダービー戦としてその試合に臨む事だろう。それはそれでよいと思う。過去は取り返せないのだし、何よりも両クラブの現在の関係者のほとんどは、この人災の被害者であっても加害者ではないのだし。

 ただし、あのような悲劇が再発する事だけはなきように、当時を振り返り続ける事は非常に重要な事だと思っている。 そのような意味からは、興味を引かれるのは、J1昇格が決まった直後の山口素弘のコメントである。彼は、J1昇格決定が秒読みに入った今、どのような思いでプレイしているのだろうか。それはあまりに重いものだろうが、その山口の思いを記録に残す事は、今後の日本サッカーの歴史のためにも非常に重要な事だと思う。
posted by 武藤文雄 at 23:48| Comment(5) | TrackBack(0) | 歴史

2006年08月11日

デモに参加して

 このデモがテレビに取り上げられたのが、翌日早朝の民放局1回だけだった事が、テレビ局の「ニュース性の判断」によるものだと言う事を強く信じたがっている自分がいる。

 川淵氏ご自身は、「人の噂も75日」と言う方向で事を終えようとしているのだろう。しかし、あの文芸春秋への全く無意味な登場の仕方(「対談」である必要のない記事を無理やり「対談」にしている様子)を読むと、本人の焦りと言うか動揺が相当なものである事が理解できる。とにかく、このような無様な川淵氏を見るのがつらいのだ。



 ともあれデモの事。自分自身は準備に参加した訳でもないし、後方からトボトボと付いて行っただけだったが、「参加した」と言う事が自分にとっては重要だった。

  先日述べた15年前の振る舞いだが、あの活動が監督退任につながったのかどうかは、よくわからない。異論もあったのも認識している。けれども、当時の代表チームの結果、監督の態度や発言、その人事がなおざりにされた事を、許す事もできなかった。そして、そのために行動した事は間違っていなかったと確信している。

 今回のデモ、あるいは今後一連に重ねられるであろう活動は、周囲からの注目を含め、当時と比較すれば格段に大きな規模のもの。そして、今回のデモは、集団で整然と(まあ、お巡りさんたちに苦労をかけ、交通を妨害したりはしたが、法律で認められている行為なので、ご容赦いただくとして)「相当数の人間が『川淵会長に辞めて欲しい』と言う意思を持っている」と言う事を公に伝えられた事がまず重要なのだ。

 今後の川淵会長の態度、行動などがどうなるか次第で、一連の活動も変動する事になるだろうが、過日のデモは日本サッカー史にとって重要な1ページとして記録される事は間違いない。参加者の1人として、デモ開催に尽力した方々に改めて御礼申し上げたい。



 以下、15年前と比較してのアホな雑感。

 最大の発見は、この15年間で「ヤメロコール」のリズムが全く変わった事だ。「辞めていただきたい方」は、15年前も今回も4文字(4音節)。ヤメロと合わせて合計7文字(7音節)だから、当然同じリズムのコールになるのかなとだと思っていたのだが。

 15年前は、「タータタタ、タタタ」(これで7文字になる)と言うリズムでのコール、そして間をおかずそのコールを続けるやり方だった。今思えば、何かノンビリした牧歌的なコールである。中澤がドリブルで攻め上がる時のリズムとでも言っておこうか。実はこのユックリしたリズムには理由がある。日本サッカー狂会のノウハウと言おうか、少しでも静かな周りの人たちを引き込むために、コールしやすいゆっくりとしたリズムを採用していたのだ。

 ところが今回は、「タタタタタタタ」と7文字を連呼して、その後で「パッパッパパパ」と言う手拍子が入る。テンポはいいが、初心者にはやや入りづらいリズム。聞く方からすれば、格段にこちらの方が乗りやすいはず。田中達也のドリブルである。当たり前と言えばそれまでだが、このコールだけでも「応援慣れ」を感じる。さらに、最初は「カワブチヤメロ」だけだったのに、いつのまにか「Jリーグ舐めるな」と言うコールと、「カワブチヤメロ」が交互に連呼されるようになる。さらに、いつのまにか2種類の歌が始まる。まあ、デモに参加された方の多くは、筋金入りのJリーグチームサポータが多かったと言う事だろうが、ぶっつけ本番で集まった人々が即興的なコールなり歌を繰り広げるのだから大したものだ。

 ピッチ上で戦う選手たちのみならず、周辺を固めるサポータの実力もこの15年間で格段に向上したと言う事だ。もっとも、日本協会が15年前と変わっていない事(いや、悪くなっている事?)が、本質的な悩みなのだが。
posted by 武藤文雄 at 23:03| Comment(6) | TrackBack(1) | 歴史

2006年08月07日

ヤメロコール

 まとまりのつかない文章で申し訳ないが、約15年前の思い出と、最近の混乱状態についての雑感を述べる。



 早いもので、あの日本代表暗黒時代から、15年もの月日が経過した。つらい時代だった。

 85年メキシコワールドカップ予選、87年ソウル五輪予選(当時はA代表が出場していた)、いずれに日本は最終予選まで進出し、後一歩のところで出場権を逃していた。とすれば、89年に行われるイタリアワールドカップ予選こそ、適切な強化を重ね初出場と行きたいところだった。

 そのタイミングで88年早々に就任した新監督は、実に個性的な采配を振るった。当時、欧州で最新フォーメーションと言われる3−5−2を代表に取り入れたのだ。そして、いわゆる両サイドには、足の速さで敵DFラインの裏を付く事を武器にしているFWが起用された。ところが、これらの選手は味方からの好スルーパスを受けて敵守備ラインの裏を付く事を得意とする選手たちなので、サイドプレイヤのもう2つの重要な仕事、1つは敵のサイド攻撃を止める、2つ目は中盤の組み立てに参加する、は全く経験のない状態だった。結果として、これらのサイドプレイヤたちは、ほとんど代表では活躍できなかった。足の速い選手とスピードのある選手は違うのだ。極端な言い方をすれば、当時の日本は3−3−2と言うフォーメーションで戦っていたようなものだった。これでは勝つのは難しい。

 変わったやり方をしても、勝てれば文句を言う気はなかった。ところが、日本はほとんど勝てなかった。いや、弱くなった。85、87年と連続して世界大会の最終予選に出場していたにも関わらず、89年のイタリアワールドカップ予選は1次予選で敗退した。直接のライバル北朝鮮には1勝1敗だったが、香港に2引き分けだったのが痛かった。ちなみに4年前は北朝鮮に1勝1分け、香港には2勝だったのだから、相対的にも成績は落ちている。

 ところが、その監督はワールドカップ予選に敗退していも、居座ったのである。敗戦の弁は支離滅裂であったが、「日本サッカーのレベルが低かったから」と言う趣旨を実に不遜な態度で述べていた。さらに、1次予選敗退直後に南米遠征を強行したのだ。これまでならば、ワールドカップ予選の2年後には五輪予選があった。けれども、次のバルセロナ五輪からはアンダー23の大会になる事が決まっていた。とすれば、この南米遠征は一体何を目標にしたものなのか。

 しかも、選手の質はそれなりに高いのだ。次々に有力な若手選手が登場していたのだ。井原を筆頭に、堀池、柱谷哲二、阪倉、長谷川健太、黒崎、武田、菊原、福田、反町、北澤、そしてカズも帰国した。いや、加藤久も木村和司もまだ健在だった。ラモスも帰化してくれた。少し前には、古河や読売がアジアチャンピオンズカップも制していた。どう見たって、アジアの他国と比較して、負け続ける戦力ではなかったのだ。

 もう我慢できなかった。試合の度に、選手の能力は高いにも関わらず、相も変わらぬ3−3−2を見せられ、あえなく負け、監督は不遜な発言を繰り返す。

 そう、もう我慢できなかったのだ。でも、私たちには口があった。だから、競技場でも、記者会見席に聞こえるような場所でも、本人を目の前にしても、代表に関係ない試合でも、「ヤメロコール」をしたのだ。私たちは、周囲から見ればずいぶん迷惑な存在だったかもしれない。



 15年前の経緯なんて、こんなものだ。

 ちなみにあの頃に、インタネットがあったらどうなっていたのだろうか、ちょっと興味深いな。



 もう1つ。署名運動について。私の友人が発起人になり代表監督退任要望の署名活動をしたのも、比較的知られた話だと思う。当時集まった署名は約千人分。今から思えば、ほんの僅かな人数か。日本協会に友人が持ち込んだ時、当時の専務理事の対応は「困惑そのもの」だった。したがってこの文章の記述は事実と異なっている。確かに専務理事は、友人に同行してきた一部のマスコミの方が「自分も署名者の1人だ」と発言した事に対しては不愉快な態度を見せたのは事実だが。それこそ、専務理事が友人を一喝でもしていたら、いくら注目の少ないサッカーでも格好のマスコミの好餌となった事だろうが。

 当時の協会としては、そのまま握りつぶすしか選択肢はなかったのだろう。したがって、我々の「ヤメロ」コールはそのまま継続する事になる。一方で協会関係者が、公の席で監督を守る発言をする事もほとんどなかった。



 その暗黒時代を完了させたのは、92年にオフト氏を招聘した当時の強化委員長の川淵三郎氏だったのだ。あのオフト氏初戦のキリンカップアルゼンチン戦の喜びといったら。

 だからこそ一層、今日の現状は悲しいものがある。ここ数日、自分なりにも色々な事を考えている。私は国立で「カワブチ、ヤメロ!」コールをするつもりだ。試合終了後、間に合えばデモにも参加するつもりだ。ただ、やはり、悲しいのだ。結局、私は川淵氏の事が好きなのだ。尊敬もしているし、感謝もしているのだ。しかし、週刊文春や日本経済新聞でのインタビューを読み、「何が問題となっているのか」も「自分の論理に説得性があるのか」も、わからなくなってしまっている川淵氏を見るのが本当につらい。川淵氏の過去の実績を傷つけないためにも、すぐに辞めてほしいのだ。

 まあ、すぐには辞めそうもないから、継続する事になるのだろうけれど。



 ついでに余談。

 ちょっと最近気になるのが、本件に関して、インタネット上で他者を排する意見が頻繁に見受けられる事。

 年端も言っていないだろう若者が、論理も通っていない文章で「デモ反対」を唱えたって構わないではないか。そのような発言に対して、複数のBLOGが反論しているが、人それぞれ多様な考え方があってよいし、たとて拙い意見でも、自由に述べる事ができるのが、インタネットのよさなのではないのだろうか。そして、読者それぞれが自己責任で「正しいと思う意見」を選ぶのが、インタネットの考え方なのではなかろうか。むしろ、賛否両論ある方がよほど健全なのではないだろうか。
posted by 武藤文雄 at 23:08| Comment(29) | TrackBack(4) | 歴史