2021年12月31日

2021年10大ニュース

1.湘南ベルマーレ対浦和レッズ戦、考えられないノーゲーム裁定
 日本サッカー100年の歴史でも愚かな意思決定。詳細はこちらを。
 浦和レッズが、自クラブの指定公式検査を受けていないU24代表帰りの選手(代表で必要な検査実施済みでCOVID-19リスクは指定公式検査で陰性だった選手と同じ)を湘南ベルマーレ戦に出場させてしまった。ルール上は、同等の検査を受診している申請をする必要があったがそれを怠ったとのこと。本質的な要因は日本協会と浦和の間で情報の連係がうまくとられていなかったためらしい。後日その件に気がついた浦和がJリーグ当局にその件を自己申告。そのため規律委員会が3-2での湘南の勝利に終わった試合結果をくつがえし、湘南の3-0の勝利と裁定した。
 試合結果をくつがえす以上は、その試合が完全に不公平な状況で行われ「なかったもの」と扱うしかない状況しか考えられない。例えば、登録不備や警告累積などで出場資格がない選手を使ったケースが考えられよう。けれども、このケースでは当該選手は適切な検査は受診済みでCOVID-19リスクは問題なかった。事務手続き不備はあったが、疫病拡大防止視点で出場権がない選手ではなかったのだ。したがって、この試合を「なかったもの」にする必要はなかった(もちろん、事務手続きにミスがあった浦和に何がしかの罰が与えられるのはしかたがないかもしれないが)。
 けれども、試合結果を覆すと言う適用はどういうことなのか。試合結果が覆ることで、(得点者などの個人成績は残ると言うが)死力を尽くして戦った両軍の試合結果が反故となり、リーグ戦を戦っているすべてのチームに影響を与えることになる。およそ、サッカー的見地から理解できない懲罰である。
 このような愚かな判断は日本サッカー界では聞いたことがない。強いて言えば、1970年代に完全なアマチュアの某国立大学テレビ出演公式戦による公式戦出場停止事件(「同大学サッカー部」として視聴者参加のテレビ番組に出演しアマチュア資格抵触したとされた)、1998年のフリューゲルス消滅事件が挙げられようか。ただ上記の2事件は、決定は愚かだったと思うが、その意思決定の目的は理解できなくもなかった。けれども、今回の判断の目的はまったく理解できない。ただただ起こった事態を機械的に処理し誰も得もしない。むしろ悪しき前例にすらなり得る(撤回されたが、類似事例の愚行をJ3でも起こしかけた)。このような判断しかできなくなった日本協会とJリーグ当局が悲しい。

2.冨安健洋と堂安律が輝かなかった東京五輪
 こちらでまとめました。本気で五輪をねらいにきたスペインやメキシコと個人能力で遜色ない選手を並べることができるようになったことを素直に喜びたい。冨安健洋と堂安律が期待通り活躍しなかったが故の4位止まりだった。この2人がこの痛恨を反省し、22年カタール大会、26年北中米大会、30年南米大会で復讐戦を演じてくれればそれでよい。

3.限界が見えた森保監督
 上記リンクでも述べた五輪での稚拙な采配に始まり、ホームオマーン戦、中立地中国戦、敵地サウジ戦と、森保氏の自滅的采配が継続したワールドカップ最終予選。それでも、地元豪州戦、敵地ベトナム戦・オマーン戦と最小得点差で3連勝し、自動出場権獲得の2位まで立て直し。現実的には1月末から2月頭の埼玉中国戦とサウジ戦には相当な確率で2連勝できるだろうし、そこで事実上のトップ通過も確定すると思っている、森保氏が妙な采配をしなければだが。ただ、幾度も述べたように森保氏の限界も明確に見えている。
選手の体調を見極められないこと、選手交代について計画性がないこと、勝っている試合のクローズが稚拙なこと。そして、五輪での最大の失敗である選手の消耗対応を反省していないこと。要は森保氏は、1試合ずつ丁寧に勝ち切る用兵が決定的にお粗末なのだ。
 また最近世界中で急速に発展している相手スカウティングによる用兵対応もあまりうまくない(これは本大会まで隠している可能性があったが、勝負をかけた五輪や最終予選での稚拙な采配により、隠しているのではなくできないことが明らかになってしまった)。ややこしいのは、森保氏が監督として完全に無能ではないことだ。少々守備重視で引き出しは少ないが長期のリーグ戦をしぶとく勝ち抜く能力は間違いない。今思い起こせば、アジアカップの準優勝もその長所と短所が顕在化したものだった。我々の目標はカタールでのベスト8以上、森保氏ではその実現は困難と見る。

4.川崎フロンターレの連破と強豪クラブの責務
 終わってみれば、2位横浜マリノスに勝ち点13の差をつけて独走体勢でJ連覇を決めた川崎フロンターレの強さが目立ったのが今シーズンだった。
 とは言え、ACLで苦杯を喫したあたりは、チーム全体の疲労、ACL帰りのバブル対応など、一時期極端に戦闘能力が落ち、横浜に追撃された時もあった。シーズン半ばまでは、ACL、J1、天皇杯、ルヴァンの4冠もねらえるのではないかと言われたこともあったのだが。
 しかし、中村憲剛の引退、守田英正、田中碧、三笘薫の海外移籍、大島僚太の負傷離脱などがありながら、後から後から有為な人材を輩出し、常に最強クラブとしての地位を確保してるのだから恐れ入る。来シーズンこそは、悲願のACL制覇は叶うだろうか。
 余談ながら、天皇杯準決勝での敗退も、この最強クラブらしく美しかった。90分間圧倒的な攻勢をとりながら、どうしても大分トリニータの守備を破れない。それでも延長の113分、控えの小塚和季の見事な突破から小林悠がゴールをこじ開ける。その後、負傷者が出て10人になり守備強度が落ちたところでアディショナルタイムに同点に追いつかれ、最後はPK戦で敗れる。このような毅然とした姿勢の猛攻と、ただ不運としか言いようがない敗戦。強豪チームの責務の一つにはこのような美しい敗戦があるのだ。

5.浦和レッズの天皇杯制覇とロドリゲス監督の冴え
 浦和レッズの天皇杯制覇も見事だった。
 開始早々の関根貴大と小泉佳穂の個人技からの江坂任の先制点。その後も大分トリニータの執拗な攻撃を巧みにいなし、ほぼ勝利を決めかけたところでパワープレイから失点。その直後に、柴戸海の落ち着いたミドルシュートを槙野智章が方向を変えるヘディングで決め勝ち切った。大分ペレイラに同点弾を食らった際にマークしきれなかった柴戸が強シュートを放ち、このクラブからの退団が決まっている槙野が決めたのだから劇的だった。槙野はこのような得点を決められる選手だけに、自己顕示欲という特長を活かす意味でもDFではなくFWとして育成すべきだったのではないかと思うのは私だけだろうか。
 ともあれ、明本考浩、伊藤敦樹、小泉、柴戸など、20代前半から半ばの大学出のJ2タレントを次々とJ1のトッププレイヤに仕立てるのだから、ロドリゲス監督の手腕恐るべし。さらに酒井宏樹、江坂、ショルツ、ユンカーと経験豊富な選手の補強も的確。浦和のような人気クラブが強いのは、リーグ戦の充実という意味では結構なことだ。
 また天皇杯決勝をリーグ戦終了直後に持ってくるこの日程を定着させたい。過去幾度も述べてきたが元日決勝は(1) 決勝進出チームのオフが極端に短くなる、(2)テレビや新聞の露出が少ない、などメリットは少ない、などから問題が多い。それを伝統とか恒例行事などの言葉で、曖昧に継続してきたのがまずかった。準決勝をリーグ戦終了後に持ってくるかどうかは議論が分かれるだろうけれど(大分対川崎のように凄絶な準決勝を見てしまうと、今年のように2週使って準決勝、決勝と行うのも一案だろうが、選手のオフをどう見るかが課題か)。また、クラブワールドカップが復活した場合も日程調整が難しいのだが。

6.名古屋のルヴァンカップ制覇とフィッカデンティ監督の謎
 元々名古屋グランパスは、ランゲラック、中谷進之介、稲垣祥、柿谷曜一朗と中央軸線は安定。攻撃ラインは前田直輝、マテウス、相馬勇紀、シュヴィルツォク、G・シャビエルと言った名手が脇を固める強豪。いかにもフィッカデンティ氏らしい堅固な守備を軸にきっちりとこのカップを制した。
 ただ不思議なのは、フィッカデンティ氏がこのオフにこのクラブを去ること。やり方は守備的なことは確かだが、見ていて退屈なサッカーをするわけでもない。今の名古屋ならば、さらにフィッカデンティ氏に強力なタレント(例えば守備力とラストパスを具備したタレント)を補強すれば、十分川崎に対抗できる戦闘能力を確保できそうな気がするのだが。名古屋の資金力を考えるとがあれば十分可能に思える。FC東京時代も好成績を収めながら、野次馬には不可解な理由でクラブを去った同氏、よくわからない。

7.大学卒選手の充実
 伊東純也、守田英正、古橋亨梧、三笘薫など、大学経由で日本代表の定位置をうかがう選手が増えてきた。しかも彼らは欧州のクラブで完全に中心選手として確立しつつある。
 少し歴史を振り返る。Jリーグ開始前の80年代まで、多くの日本代表選手は大学卒だった。当時、JSLの各クラブがプロフェッショナルではなかったこともあり、若年層代表チームに選ばれるようなタレントでも大学進学を好む傾向が多かった。ただ、JSLと比較し大学チームはトップレベルだとしても専従の指導者不在など環境は不十分、多くの人材が伸び悩み消えていった。そう言った難しい環境下で90年代の日本代表を支えた井原正巳、中山雅史、福田正博、堀池巧、名波浩、相馬直樹などは、大学で研鑽を積みJリーグでも大成したわけだ。当時高校終了後JSLに進んだ森島寛晃、名良橋晃は例外的存在だった(ブラジルで単身プロになって帰国したカズは別格ですが)。
 一方Jリーグ開幕後は、一気に高校終了後タレント達はJリーグ入りすることになる。いわゆるアトランタ五輪世代以降で、前園真聖、中田英寿、故松田直樹、田中誠、城彰二、中西英輔らである。当時服部年宏が大学を中退しジュビロ磐田に加入したのは、過渡期ゆえの事件だった。以降、大学経由のトップレベルの選手は限定的となる。もちろん、晩熟で代表に定着した坪井慶介、巻誠一郎、中村憲剛、岩政大樹、伊野波雅彦、東口順昭、武藤嘉紀と言ったタレントは継続して登場しているが。もっとも、彼らが育った大学サッカーは90年代以前とは異なり、いずれのチームにもプロフェッショナルの指導者がいて、トレーニング環境も非常に充実していたわけだが
 ここに来て、伊東、守田ら多くの大学出身選手が著しい成果を挙げているのには多くの要因があろう。10代選手の適正な育成が多くの若年層チームに広がったこと、大学チームの科学的指導体制が整ったこと、Jのレベルが上がり10代選手の出場機会が限られるため能動的に大学で研鑽することを目指す選手が増えたことなど。選手育成の多様性という視点では結構なことだ。
 ただ、大学チームというのは構造的な問題もある。チーム間の移籍が簡単ではないこと、大学に所属しないとチーム入りできないこと(当たり前と言われるかもしれないが、これはU18の選手が飛び級で加入できないわけで、サッカー的見地からすれば大きな問題なのだ)。またJクラブから見た競合と言う視点では、大学という存在そのものが税制優遇されて設備投資がやりやすいと言う不公平感もある。これらを含めて、日本サッカー界は一層合理的な強化体制をどうとっていくのか。

8. 残念だった女子代表
 多くの競技が好成績を収めた東京五輪で、女子サッカーは芳しい成績ではなかった。
 大会中2つ文章を書いたが、最大の要因は高倉監督の能力が足りなかったと言うことだろう。これは2019年のワールドカップでも顕在化していたことで、ワールドカップ後にもっと議論されるべきだったような気がするが、女子サッカーの批評というのは、男性の私からは中々難しい(という考え方が古いのかもしれませんが)。ただし、90年代日本女子代表の中心選手として活躍し、その後指導者に転身し若年層代表監督として実績あった高倉氏に一度代表監督を任せる選択肢が間違っていたとは思えない。むしろ、このような経歴の高倉氏でうまくいかなかったことそのものが、日本サッカー界の経験と言えるのではないか。
 女子サッカーは、男性と同じピッチやゴールで戦うことが普及してしまったが、本当にそれが正しかったのか。ピッチの大きさとゴールの高さを僅かでよいから小さくしていれば、単純な縦パスで裏を突くことができたり、バーすれすれのシュートをGKが止めきれない的なハプニング的な得点を減らし、判断力や技術の優れたチームに優位なレギュレーションにできたはず。その方が見せる競技としてのおもしろさを確立できたように思う。しかし、残念ながらそうはならなかった。結果、東京五輪でも大柄で頑健な選手を軸にした国が上位を占めることになってしまっている。日本が2011年を凌駕するチームを作りこの流れを止めない限り、「見せる競技」としての確立は簡単ではないかもしれない。
 とは言え国内の女子サッカーの普及は少しずつ進んでいる。日本中各地域で最大の課題だった中学生年代のクラブチームの充実などもあり、選手層は着実に厚くなっている。WEリーグの将来は予断を許さないかもしれないが、多くの心あるサッカー人が前向きに問題解決に取り組んでいる。上記した日本代表への期待と矛盾するかもしれないが、少しでも女性がサッカーをプレイできる環境の充実が、結局強化の近道のようにも思えるのだが。

9. カズはどこに行く
 横浜FCから下部リーグへの移籍が噂されているがどうなるのか。
 「晩節を汚す」という言葉があるが、この男はこの陳腐な言葉を完全に超越してしまった。カズの全盛期だった90年代半ばにデビューした選手も皆現役を去った。指導者や評論家を目指さず一選手と言うポジションで、天命を知る年齢を遥かに超えてしまい、もう誰も何もツッコミどころではない。「そろそろ引退するのだろうな」と思って、こんな文章を商業媒体に書いたのが16年前、カズが38歳の時だった。
カズの選手としての経歴は終わりに近づいてきている。そして、カズは我々の夢を再三叶えてくれてきた。
 あれから16年、4ワールドカップを経た。この文章を書いた直後の高校選手権は乾貴士を擁した野洲高校が優勝したのだから、大昔だなw。
 選手としての存在を継続することで自らをスターとして証明し続けてきたカズは、いつまで輝き続けるのだろうか。

10. 疫病禍下でのシーズン無事終了
 あれこれ日本協会やJリーグ当局にイヤミを語ってきたが、疫病禍下にもかかわらず今年も難しいシーズンを無事終えることができたことに最大限の敬意を表したい。
 一方で、トップリーグは何とかなったが、今年も地域リーグや全国社会人選手権など、中止を余儀なくされたメジャーな大会も少なくない。来年COVID-19がどうなるかはさておき、疫病禍3年目は極力中止となる大会を減らし、多くの人が観戦できる状態の復帰に、日本協会はもっと尽力してもらえないものか。
 例えば会場来訪者の管理を容易化にするデジタルツールを日本協会が開発し全国へ展開する。例えば、百人単位の人が集まる際のガイドラインを明文化し大会運営者に提供する、など。サッカーが行えば他競技にも応用はできるはず。単一競技団体として最も潤沢な経済力を持ち、組織力にも優れる日本サッカー協会がやれることは少なくないはずだ。
posted by 武藤文雄 at 22:51| Comment(0) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年ベストイレブン

 今年はとにかく冨安と堂安は選びません。東京五輪で勝てなかったのは、この2人がすべてを出し切ってくれなかったからw。そういう条件の下、W杯予選、東京五輪、Jリーグを見て選んだベスト11です。


GK 谷晃生
 あの五輪ニュージーランド戦のPK戦見たら、今年は谷しかいないでしょう。経験が重要なポジションだが、どこまで権田の域にせまれるか。

DF 菊池流帆
 球際の強さ、特に突破されそうになったところでの粘り強い対応がすばらしい。空中戦の強さと合わせ、代表でも試したい選手。

DF 吉田麻也
 五輪でもW杯予選でも、どんなに疲労していても忘れないすばらしいリーダシップに敬意を表したい。先日の敵地オマーン戦直後の監督のようなインタビューは感動的だった。

DF 板倉滉
 五輪で見せた粘り強い守備には正直驚いた。国内でプレイしていた際は1対1の淡白さが課題だったのだがすばらしい成長だ。代表で麻也から定位置を奪うことができるかどうか。

DF 明本考浩
 衰えない脚力、豊富な運動量、様々なポジションをこなす多様性、貴重な戦える左足タレントとして期待。東京五輪代表選考も考慮してよかったのではないか。

MF 稲垣祥
 ルヴァンカップ制覇時に代表される中盤での献身性。30数年前の帝京高校先輩の宮内聡を彷彿させる。このような戦えるタレントは代表でも貴重だと思うのだが。

MF 遠藤航
 東京五輪3位決定戦は疲労困憊で直接の敗因となったが、これは森保氏が遠藤航の疲労を何も考慮しない采配を行ったから。その疲労困憊下でも戦い続けた姿勢に敬服。

MF 田中碧
 ベッケンバウアとかファルカンとかピルロとかシャビとかイニエスタとかデ・ブライネの域を目指してほしいのですが。

FW 伊東純也
 2021年日本代表のエースと呼ぶに相応しいプレイ振り。この切れ味をそのままワールドカップ本大会に持ち込んでほしい。

FW 古橋亨梧
 抜け出しの速さを見せながら正確にボールを扱えるのが魅力。セルティックでゴールを多産。Jのレベルの高さを示すとともに、さらなるステップアップも望める地位を確保した。

FW 前田大然
 トップスピードに乗りながらちょっとした踏み替えやボールタッチができるタレント、Jの得点王を獲得し、古橋を追うようにセルティックに移籍。あの傍若無人な突破に期待。
posted by 武藤文雄 at 22:17| Comment(0) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年02月11日

川淵さん、この仕事はあなたには向いていません

 川淵三郎氏が、東京五輪の組織委員会会長に就任するらしい。私は憂いている、過去多くのことをなしとげてきたこの元日本サッカー協会会長だが、この仕事は向いていない。下手をすると、氏の晩節を汚すものにもなりかねないと。
 私の心配の理由は明白だ。川淵氏は「こちらに進むことが正しい」と明確な状況で、格段の推進能力を発揮し、成果を挙げてきた人だ。しかし、「どちらが正しいか不明確」な事態を軟着陸させることは不得手なのだ。そしてそう言った不明確な事案に不適切な判断をしてしまったこともまた多い。さらにその不適切な判断が明白になった後の態度は、とてもではないが褒められたものではなかった。
 疫病禍の世界の中、「やるのかやらないのか」意見が二分している東京五輪。その責任者は、典型的な「どちらが正しいか不明確」と言う仕事なのだ。繰返そう、川淵氏はこう言った「どちらが正しいか不明確」な仕事には向いていない。

 改めて、氏の業績を振り返ってみよう。
 まず言うまでもなく、Jリーグの設立である。これは、単にサッカーのプロフェッショナル化に成功しただけではない。地域密着を重視し、日本には従来定着していなかったクラブを軸にした、プロフェッショナルスポーツの確立に成功したことが重要だ。
 ただし、川淵氏の功績はJリーグの制度設計をしたことではない。制度設計をしたのは、森健兒氏や木之元興三氏だったことは、よく知られた話だ。けれども、川淵氏がいなければJリーグ設立がおぼつかなかったことは言うまでもない。既得権など多くの障害を、時には強引な手腕で取り除いていったのは川淵氏の功績だろう。
 中でも、各クラブ名から企業名を外し、地域密着を明確化することを定着させたことは、大きな功績だ。たとえば、ガンバ大阪は当初新クラブ名を「パナソニックガンバ大阪」にすると発表していた。そう言った参加クラブと所在地自治体を丁寧に説得した主役は川淵氏だった。さらにその施策に納得しなかった読売クラブの出資団体のトップと丁々発止を繰り広げたのも懐かしい。
 また、Jリーグ最初の10クラブの選択においても、氏は剛腕を発揮する。当時JSLの2部所属だった鹿島アントラーズ(当時住金)や、トップリーグでの実績がまったくない清水エスパルスを選考した政治的判断を行ったのだ。鹿島は選手ジーコを加入させ専用競技場を作りホームタウンとしての充実を訴求した。清水は、80年代以前から少年の育成プログラムを確立し優秀な選手を多数輩出しており、大人のトップチームの登場が期待されていた。これらの特殊事情を加味し、川淵氏は両クラブを選考したのだ。一方で、同様にプロ志向を持っていて両クラブより過去の実績が高かったヤマハ(現ジュビロ磐田)、フジタ(現湘南ベルマーレ)、日立(現柏レイソル)と言ったクラブが選考されなかった。しかし、結果論だが当時の政治的判断を評価すべきだろう。結果的に、鹿島、清水、磐田、湘南は後年アジアのタイトルを獲得したし、柏にしても複数回国内タイトル獲得したのみならずクラブワールドカップでも活躍、いずれも30年にわたり国内のトップクラブとしての活躍を継続しているのだから。
 チーム名と10クラブ選定は、「とにかく地域密着したプロフェッショナルリーグを成功させるべし」と、(サッカーのことを理解している人ならば)誰でも賛同する目標に向かった、川淵氏の精力的な活動の賜物だ。そして、このような強引にでもゴールを目指して突破し、ゴールネットを揺らす。これが川淵氏の最大の特長なのだ(残念ながら私は川淵氏の現役時代のプレイは知らないのだが、どうもそのような選手だったらしいが)。
 加えて、Jリーグ黎明期の成功の伏線として、技術委員長としての日本代表チームでの成功も挙げられよう。川淵技術委員長は、日本代表の初めての外国人監督としてハンス・オフト氏を招聘した。オフト氏はヤマハやマツダ(現サンフレッチェ)で見事なチーム作りを見せていた。オフト氏や、読売クラブを率いたカルロス・アルベルト・ダシルバ氏と言った外国人監督の卓越した指導実績を見れば、心あるサッカー人は皆「日本代表に優秀な外国人監督を」と願っていた。しかし、当時日本協会内には外国人に代表指揮を委ねることに反発する向きも多かったと言う。川淵氏は、そういった外野をねじ伏せ、オフト氏を招聘。直後、日本代表はダイナスティカップ(東アジア選手権の前身)、アジアカップを連続制覇。川淵氏とオフト氏は、誰も見たことのなかったアジア最強の日本代表チームを私たちに提供してくれたのだ。

 言うまでもなく、Bリーグを誕生させたのも川淵氏の功績だ。
 本件の詳細は、私の友人でもある大島和人氏の著書「B.LEAGUE誕生」を読んでいただきたい。20年にわたり混迷を継続していた日本バスケット界。川淵氏は、タスクフォースのトップ、さらには日本バスケット協会理事長として、圧倒的な行動力で問題を解決し、統合したBリーグを設立に成功した。
 この頃、日本バスケット界は完全に追い込まれていた。トップリーグが統合されていない(当時のNBLとbjリーグに分裂)ことなどを理由に、2014年11月に国際バスケットボール連盟(FIBA)より国際試合の資格停止を宣言されていた。そして、2015年8月までにその資格停止を解除できなければ、国際試合で好成績を収めている女子代表が、リオデジャネイロ五輪予選に出場できない危機を迎えていた。
 2015年1月にタスクフォースのトップに就任された川淵氏は、強引ながら見事な手腕を発揮。NBLでもbjでもない新たな第3のリーグを設立する方向で話をまとめ、8月には資格停止解除に成功した。
 女子代表はアジア予選を勝ち抜き、リオデジャネイロ五輪本戦でもベスト8進出に成功。2016年9月に開幕したBリーグは、NPB、Jリーグに次ぐ第3のプロスポーツとして成長を遂げている。
 「トップリーグ統一を具体化しなければならない(さもなければ強力な女子代表が五輪への夢を絶たれてしまう)」と言う、誰もが(バスケット好きでなくとも)解決しなければならないと思うゴールに向かい強引に突破を行い、ここでもゴールネットを揺らすことに成功した。正に川淵氏の真骨頂とも言うべき活躍だった。

 ここまで、川淵氏は「こちらに進むことが正しい」と明確な状況で、格段の推進能力を発揮した事例を述べてきた。改めて振り返ってもすばらしい実績ではないか。

 けれども、そうでない場合、「どちらが正しいか不明確」な事態への氏の対応は、必ずしも芳しいものではなかった。
 例えば、フリューゲルス消滅事件。経営危機から、当時の横浜フリューゲルスと横浜マリノスが変則合併を申請してきたことを、当時Jリーグチェアマンの川淵氏が認めてしまった事件だ。難しい判断が必要だったとは思う。しかし、当時も語ったが、「川淵氏(および氏の周辺)がサッカー的見地からしっかりした姿勢を保っていればこの事件は防ぐことはできたのではないか」との思いはぬぐえない。このような錯綜した事案については、思い切った判断より軟着陸が重要なのだ。結果、横浜フリューゲルスと言うすばらしいクラブが消滅、中途半端な合併により後継クラブも立ち上げられなくなってしまった。関係者の尽力もあり、横浜FCが立ち上がったが、以前も書いたがこのクラブは「ある意味において明確にフリューゲルスと言うクラブの後継クラブ」である。横浜FCはフリューゲルスとは別なクラブなのだ。そして、多くの人に引き裂かれそうな悲しい思いを残し、微妙な歴史を作った責任は川淵氏にある。

 日本サッカー協会会長時の業績も少々怪しい。何より、2002年ワールドカップ終了後のジーコ監督招聘周辺。川淵氏が、オフト氏招聘を行った1992年は「優秀な外国人監督を招聘すればよい」と言う時代であり、JSLで格段に実績あったオフト氏招聘は成功を遂げた。しかし、2002年ワールドカップ終了時は違っていた。「2回連続でワールドカップ出場し、地元大会で優秀な若手選手を軸に2次ラウンドまで進出した日本代表、誰を監督とするのが最適か」と言う非常に複雑な問題に最適解を求める必要があった。そして、氏はジーコ氏を選択した。
 結果的にはこの判断は失敗だった。2006年のワールドカップで日本は1次ラウンドで敗退してしまったのだから。私自身ジーコ氏招聘は失敗だったと思うが、ジーコ氏率いる日本代表は苦戦を重ねながらアジアカップを制覇したステキな思い出もあることも否定しない。まあ、代表監督選考に正解はないのだ。
 問題は2006年大会敗退後の川淵氏の振る舞いだ。氏は、ワールドカップ終了後、唐突に当時Jリーグのジェフですばらしい采配振りを見せていたイビチャ・オシム氏を強奪したのだ。川淵氏はジェフの前身古河の出身だが、このような発言をされている。
「今日、イビチャ・オシム監督と日本代表の監督としての契約をできることを非常に嬉しく思っています。その反面、千葉のチーム関係者やサポーターの皆さんには色々なご心配や、納得の行かないこともあると思いますが、オシム監督を日本代表チームに送り出してよかったと思える日が早くくることは間違いないと思っています。」

  悲しかったのはジーコ氏招聘の失敗ではない、自分の責任を取り繕うようにオシム氏の強奪に走ったことだった。

 ドーピング冤罪事件。詳細は木村元彦氏の「争うのは本意ならねど」を読んでいただくのが一番。一言で言えば、誤った報道からはじまり、関連した医師のミスから発生した事件。川淵氏は本件について不適切な収拾を行った。結果、1人のアスリートに極めて理不尽な対応をしたのみならず、日本のスポーツ医療界に不適切な事例を残しかねないまで事態を悪化させた。これは論外の失態と言えよう。川淵氏の本件に関する一連の態度は許すことのできないものだ。

 以上述べてきた通り、川淵氏は「どちらが正しいか不明確」な事態を的確に判断できる人ではない。もっとも、どんな人間だって不適切な判断をしてしまうことはある。しかし、川淵氏は、自身の不適切な判断が明白になった後の態度(あるいはその収拾策)が、自分の権力保持を目指しているとしか思えない非常に残念なものだったのだ。
 おそらくだが、この人はスポーツを愛し過ぎているのではないか。
 川淵氏は、サッカーにせよバスケットにせよ、よい意味でも悪い意味でも、スポーツがからむと格段の使命感を発揮する。まあ、目立ちたがり屋とも言うのかもしれないがw。そして、上記した論外とも言える権力獲得後の自己保身も、スポーツを愛するが故に己の権力を否定されることを恐れてのものだと思えてならない。
 そして、おそらくだが、己の過去の成功がどこにあったかは気がつかず、自分が「万能の神」と誤解しているのではないか。

 かくして私は憂慮している。「やることが正しいのか、やらないことが正しいのか、それとも延期なり異なるやり方を模索すべきなのか」どうするのが最適解なのか、誰もが判断に迷うこの疫病禍の中での東京五輪。84歳の川淵三郎氏は、およそ彼には向いていない仕事に取り組もうとしている。
 もちろん、IOC、JOC、日本政府、東京都、そういったステークホルダ間で、今夏の東京五輪は中止なり延期が合意に至っているならば、話は別だ。そこの収拾、特にアスリートへの説得や説明に、川淵氏が走り回るならば、川淵氏の一番得意な仕事となる。しかし、各種報道を読んだ限り、とてもそうとは思えない。「やるのか、やらないのか」最も厄介な意思決定はこれからなのだ。そして、幾度も繰返すが、そのような厄介な意思決定は川淵氏が最も不得手とするものだ。

 ここまで、辛辣な批判を含め、川淵氏への思いを語ってきた。
 最後にホンネを少し。私は何のかの言って、川淵氏が好きなのだ。80年代後半だったろうか、JSLの古河の試合、大雨で閑散とした競技場、偶然隣同士になって2人で傘をさして試合観ながら語り合ったのが忘れられない。「日本のサッカー、こんなにレベル上がったのに、どうしたら客が増えるだろうか」って私は尋ねた。「難しいですねえ、でも何とかしなければ」と答えてくれた川淵氏。
 川淵氏の大変な尽力で、我々はJリーグも強力な日本代表チームを入手した。ドーピング事件は許せないが、氏の過去の栄光には感謝の気持ちが大きいのだ。
 だからこそ、川淵氏に言いたい。この仕事は引き受けるべきはないと。
posted by 武藤文雄 at 23:30| Comment(6) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年12月06日

さようならディエゴ

1.君との思い出

 君の名を始めて知ったのは、78年アルゼンチンW杯大会直前、サッカーマガジンに載った代表候補選手リストだった。
 当時私は高校3年生、少々興奮した。17歳の同い歳(後日、さらに同年同月生まれと知る)の選手が、地元ワールドカップに備えるチームの候補選手になっていたからだ。しかし、大会直前、メノッティ氏は迷いに迷った末に、君をメンバから外したと言う。そして、熱狂的な全国民のサポートの下、ダニエル・パサレラとオズバルト・アルディレスとマリオ・ケンペスのチームは、颯爽とした攻撃的サッカーで初めての世界制覇に成功する。君が不在でも。
 79年5月、前年W杯決勝再戦となったオランダ戦、映像で初めて君を見た。君以外は世界チャンピオンメンバ、しかし君は格段の戦術眼と技巧を見せ、既に王様としてチームに君臨していた。ヨハン・クライフが事実上トップレベルの試合を去っていた当時、「新しい神」が登場したのか、期待は格段のものがあった。
 同年日本で行われたワールドユースで、君の名は世界にとどろいた。君はラモン・ディアスと共に格段の輝きを見せてくれたのだ。余談ながら、あの大会は私の世代のワールドユース。高校時代ピッチで幾度も戦ったこともある鈴木淳も出場した(いや、選手としては淳にはまったく歯が立たなかったのですが)。

 80年代に入り、君はボカやバルセロナで活躍するも、期待したほどのプレイは見せてくれなかった。82年ワールドカップでも体調も上がらず、断片的に輝くプレイはあったものの、敵の厳しいマークの下に沈んだ感があった。世界でも1、2の実力者であることは間違いなかったが。
 ちょっと余談をはさむ。85年のトヨタカップは、ミシェル・プラティニ率いるユベントス対アルヘンチノス・ジュニアーズ。このアルヘンチノスと言うブエノスアイレスの小さなクラブは、幼少の君の才能を見つけ、プロフェッショナルに育て、ボカに売ることで得たキャッシュでチームを強化。リベルタドーレスを制し、国立競技場に登場したのだ。ホセ・ジュディカ監督が率いたアルヘンチノスは攻撃的なすばらしい試合を展開、プラティニ(まだこの時点では、君ではなくプラティニが世界最高の名手と言われていた…そして、国立でプラティニが見せたプレイは本当に鮮やかだった)と仲間たちを後一歩まで追い詰めながらPK戦で敗れる。この試合は、私の50年近いサッカー観戦歴の中でも最も美しい記憶の1つとなっている。
 迎えた86年メキシコ大会。初戦のアルゼンチンの対戦相手は韓国だった。その半年前、我々は最終予選をこの隣国と戦った。森孝慈氏率いる日本代表の攻撃の切り札は水沼貴史、私にとっては日本人一番サッカーが上手な同級生だ。しかし水沼は韓国の名DF金平錫に完封された。このアルゼンチン対韓国で最初君をマークしたのが、金平錫だった。しかし、金平錫は君の前ではまったく無力、前半半ばで交代を余儀なくされた。アジアのトップレベルに近づきつつあった当時の日本代表と世界最高峰のレベル差を、君と金平錫と水沼で知ることができた。
 その後のこの大会の君は、皆が知っている。神は地に降りてきたのだ。悪魔と言う話もあったが、詳細は後述する。
 前後したナポリでの美しいプレイの数々、イタリア南部の風光明媚なこの都市での活躍は言うまでもない。

 90年イタリアワールドカップ。私にとって生観戦した初めてのワールドカップ。初戦のカメルーン戦の失態。2次ラウンド初戦圧倒的に攻め込まれたセレソン戦、カニージャに通した芸術的なラストパス。灼熱のフィレンツェ、イビチャ・オシム氏が率い、若きドラガン・ストイコビッチを中軸としたユーゴスラビアをPK戦で下し、君はナポリでの地元イタリアとの準決勝に進出した。
 フランコ・バレシが率い、圧倒的優勝候補と言われ、ここまで無失点だったイタリアは前半早々にサルバトーレ・スキラッチが先制。誰もが「勝負あり」と思ったものの、君は反転攻勢に出る。そして後半にカニージャが同点にして(この同点弾については後述する)、PK戦で決勝に。
 決勝の西ドイツ戦ではチームメートの半分以上が警告累積で出場できず(ここまで、君のチームメートは、ラフなのかタフなのか微妙でギリギリの激しい守備で戦い抜いてきた、6試合を経過し多くの選手が肝心の決勝で出場停止になっていた)、終始西ドイツに攻勢をとられる。それでも、アルゼンチンの組織守備は揺るがない。しかし、後半怪しげなPKをとられ、さらに不可解な退場判定で最後は9対11の戦いを余儀なくされ、万事休した。

 その後、麻薬関連が取沙汰されナポリを去った君は複数のクラブを転々とする。「もうトップレベルのプレイを見せてくれることはないだろう」とも思っていた。ところが93年アルゼンチンはW杯予選で苦戦、豪州とのプレイオフに回ると君は代表に復帰。そのまま、君は4度目のワールドカップに臨んだ。君は、バティステュータ、レドンド、シメオネと言った新しいタレントを率い、美しい攻撃サッカーを展開。ギリシャ、ナイジェリアに完勝。特にギリシャ戦の君の得点は、「正にアルゼンチン!」と感嘆する中央突破から。最初の2試合の圧倒的強さから、優勝候補筆頭とも語られた。けれども、1次ラウンド最終戦直前に、禁止薬物反応が出たとのことで、君はUSAを去ることとなった。

 間違いなく少しずつ引退は近づいていた。ボカに復帰した君は、95年ソウルでの韓国代表戦に登場した。当時、W杯招致合戦を繰り広げていた日韓両国。韓国はボカを招聘することが、世界のサッカー界への大きなPRとなると考えたのだろう。麻薬の前科がある君には日本政府当局は入国のビザを発行しようとしなかったからだ(94年のキリンカップ、アルゼンチン代表来日が内定していたが、君が入国できないためアルゼンチンは出場を辞退したと言う)。ソウルは近い、私はソウルオリンピックスタジアムに向った。往時の切れ味はもうなかったけれど、柔らかなボールタッチと、20〜30mの距離をきれいにカーブして味方の利き足に届く美しいパスは健在だった。君を見ることができるだけで幸せだった。
 また余談。翌日、帰国のための金浦空港。テレビ解説のために訪韓していたメノッティ氏に会うことができた。「私は日本のサポータです、昨日ディエゴのプレイを見られてうれしかった、たぶん私にとっての最後のディエゴです。ともあれ、私は86年のディエゴのチームより、78年のパサレラとアルディレスとルーケとケンペスのあなたのチームが好きなんです」。メノッティ氏は嬉しそうな表情でサインをしてくれた。
 引退後の君は、時折世界中におもしろいニュースを発信するおじさん、となった。たまに薬禍、反社会集団との関与、不摂生による病気などのニュースが混じるのは残念だったが。驚いたのは、08年にアルゼンチン代表監督に就任したこと。考えてみれば、アルゼンチン代表は君が去った後も強かった。規律厳しい戦術的な監督が率い、多くの名手が登場し、格段の戦闘能力でW杯予選を勝ち抜き、本大会でも格段の優勝候補と評された。けれども、98年、02年、06年、いずれも早期敗退。アルゼンチン協会も「どうにもこうにも世界一には近づけない。やはり神に頼るべきか」と考えたのかもしれない。しかし、神はピッチ上にいてこそ輝くものだったのだ。君が率いるチームはドイツに完敗した。試合はおもしろかったけれどものね。
 18年ロシア大会、サントペテルブルク。私はアルゼンチン対ナイジェリアを堪能していた。空回りするメッシ、明らかに衰えたマスケラーノ、私の席からメインスタンド中央の貴賓席が見えた。目を凝らすと、見慣れている体躯の君が踊っていた。踊る君を見るだけで、嬉しかった。

2.君の比類なき攻撃創造力

 何故君は「神」なり「悪魔」と称されるようになったのか。一言でいえば、誰も真似できない格段の攻撃創造力だと思っている。
 86年イングランド戦の5人抜き、90年ブラジル戦のカニージャへのアシストのような超人的なドリブル突破からのシュートやラストパス。これらならば、最近ならばメッシやクリスティアーノ・ロナウドが見せてくれる。
 86年決勝西ドイツ戦の決勝点、ブルチャガに通した一瞬のスルーパスならば、ジーコやプラティニが再三披露してくれたし、小野伸二や中村憲剛も得意とするところだ。
 94年ギリシャ戦のような卓越した個人技直後のの強シュートならば、ジダンやリバウドの記憶はまだ新しい。
 しかし、今から述べる攻撃創造は、君にしかできないものだった。

 まず、あの86年イングランド戦の「神の手」。あの場面、君はトップのバルダノにボールを当て、正確なリターンを期待してトップスピードでペナルティエリアに進出した。しかし、君の意図とは異なりバルダノはコントロールミス、イングランドDFが処理し損ねる形で偶然フワリと浮いたボールがイングランドゴールに。そのような偶然の浮き球が上がった瞬間に、君はGKピーター・シルトンと主審の位置取りを瞬間に見てとり、「これは手だな」と判断し冷静にボールを押し込んだ。
 思わず手を出すのでは「神の手」にはならない。瞬時の判断で幼少時から自分で築き上げた「神の手」を選択する引き出しの多さと判断の的確さ。さらに言えば、この「神の手」はいくら熟練していたとしても、そう頻繁には使えない。毎回試みればネイマールの寝っ転がりになってしまう。それをW杯の準々決勝で披露するとは。
 君は幼少時から幾度「神の手」を練習してきたのか。そして、それをずっと隠し、あの瞬間に使う判断を行ったのか。

 同じ86年大会の1次ラウンド、イタリア戦の得点。バルダノのチップキックの浮き球を外向きに斜行しながら、名DFのガエタノ・シレーア(フランコ・バレシの前のイタリアの名リベロ、82年世界制覇の最大の貢献者の1人)にコースを押さえられたにもかかわらず、ボールのバウンドの落ち際で身体をひねってシュートを決めた。外向きに走っていた君が、突然に早いタイミングでボールを引っ掛けるように蹴ったため、GKのジョバンニ・ガリはタイミングを外され、まったく反応できずボールを見送るばかりだった。
 シュートの際にいかにGKのタイミングを外すかは、世界中のストライカの課題。例えば往年の西ドイツの名ストライカ爆撃機ゲルト・ミュラーは、シュートのタイミングを一瞬遅らせてボテボテのシュートを決めるのが格段に上手だった。最近ではフィリッポ・インザギの落ち着いてGKのタイミングを外すシュートを覚えている方も多かろう。しかし、この君の一撃は、行動を遅らせるのではなく、早めることでGKの意表をついてしまったもの。
 あるいは遠藤保仁のコロコロPK。落ち着いたアプローチでGKの体重移動を見据えて動けない方に押し出すのが見事だった。ただし、遠藤のこの名人芸はPKと言う止まったプレイでのこと。しかし、君はトップスピードで外に開きながら、GKを無力化する技巧と判断を発揮してくれた。もちろんあのキックを枠に飛ばすフィジカルの充実と技術もすごい。しかし、シレーアとの駆け引きを行いながら、タイミングを早めるという発想に感嘆した。あれはどんな名DFや名GKでも防げない。言わば「動的なコロコロ」とでも呼ぼうか。

 さらに上記した90年大会準決勝のやはりイタリア戦、カニージャのゴール。得点までの経緯は比較的単純。君が左サイドに進出したオラルティコエチアに展開、切り返したオラルティコエチアのニアへのクロスをカニージャがヘッドでGKゼンガの鼻先で方向を変えて決めたもの。ただ、フランコ・バレシが率いるこの大会のイタリアの守備の堅牢さは尋常なものではなかった。1次ラウンドから準々決勝まで5試合で無失点。このイタリア守備が、こんな簡単な攻撃でどうして崩れたのか。私はこの得点が決まるゴール裏で観戦していたのだが、よく理解できなかった。
 後日、VTRを幾度か見て、ようやく理解できた。イタリアのDF陣はフェリ、ベルゴミ、若きマルディニと言った柔軟性と強さと読みに秀でたDFがペナルティエリア内を固めていた。そして、一番危ない場所をフランコ・バレシが埋める。ところが、オラルティコエチアに展開した直後、君はウロウロとイタリアペナルティエリアに進出する。フランコ・バレシは幾度も首を振りながら、君とボールを視野に入れながら引く。結果的にフェリやベルゴミが固め切れないニアのスペースが空いてしまった。そこはフランコ・バレシが埋めるべき場所だったのだが。
 得点を奪うために、攻撃のトップスタアが下がったり開いたりして敵の守備者を惹きつけると言うのは古典的な作戦だ。岡崎慎司が自分のマーカと他のDFと一緒に絡むとか、大久保嘉人が突然ペナルティエリアに進出をやめてマークを外しこぼれ球を狙うとか。しかし、こう言った陽動動作は敵DFの読みが格段だと「無視する」と言うやり方で無力化されてしまう。しかし、この時の君の「ウロウロ前進」は無視するわけにはいかず、バレシにもどうにも防ぎ難いものだった。あのような位置取りの発想は、一体どうやって出てきたのだろうか。

 サッカーの個人能力向上の秘訣は単純だ(もちろん、その実現はとても難しいのだけれども)。
 ピッチ上で行われることを想定し、執拗な反復練習を繰り返し、その技術をいつでも披露できるようにするしかない。そうやって練習で自分で作り上げた引き出しを、試合本番で局面局面の判断から選択し、丁寧にしかし高速で実現する。どんなレベルでも、それは変わりない。
 けれども、上記の攻撃創造力(言い換えれば「瞬時の時空判断力」とでも言おうか)を、君はどうやって築き上げたのだろうか。あんなアイデアは、どんな指導者も教えることはできない。また、ここ10年ならば、インタネットを活用すれば過去の名プレイをいくらでも映像で堪能できるが、君が自らを育んだ70年代は家庭用VTRも普及していないし、TVも多チャンネル化していない。先達のプレイを学ぶ機会も限定的だった。まして、君が次々に見せてくれた攻撃創造力を教えられる指導者など、世界中どこを探してもいやしない(ペレやヨハン・クライフならいざ知らず)。ブエノスアイレスのストリートサッカーで、ピーター・シルトンやガエタノ・シレアやフランコ・バレシの意表を突く信じ難いアイデアを育んだのだろうか。
 アルゼンチンとナポリのサポータからすれば、なるほど君は「神」だったろう(私のような野次馬にも)。しかし、それ以外のクラブのサポータからすれば「悪魔」としか言いようのない存在だったことがよくわかる。

3.君は何者だったのか。

 90年イタリアW杯。
 準決勝、ナポリ、サンパオロスタジアム。アルゼンチン対イタリア。
 ナポリの王様として君臨していた君が主将として率いるアルゼンチンと地元イタリアの対戦。地元サポータが他の地域ほどアズーリを応援しなかったのが、この試合のイタリアの敗因と見る向きが多いようだ。
 しかし、私にはとてもそうは思えなかった。確かに他の都市で感じたアルゼンチンあるいは君に対する圧倒的な敵対感はなかった。けれども、私の周りのイタリア人たちは当たり前のように、イタリアを応援していた。ただし、君の一挙手一投足を恐れ、何か君が能動的仕掛ける度に、嘆息の雰囲気は濃厚だった。言葉にならない恐怖感とでも呼んだらよいのだろうか。
 さらに余談。スケールはちょっと違うが、私は当時のナポリの方々と同じ経験を味わったことがある。2011年9月、埼玉スタジアムでのブラジルW杯予選北朝鮮戦。北朝鮮の中盤には梁勇基がいたのだ。いつも私に最高の歓喜を提供してくれている梁が敵の攻撃の中核として攻め込んでくる。人生最高の恐怖感だったかもしれない。
 PK戦終了後…試合中は私の真後ろで、声を枯らして「いたーりゃ、いたーりゃ」と絶叫していたおじさんの試合直後の絶望的表情は何とも言えないものだった。いや、きっと85年のソウルや、93年のドーハや、02年の利府や、18年のロストフ・ナ・ドヌの私も同じだったでしょうが。
 決勝、ローマ、オリンピコスタジアム。アルゼンチン対西ドイツ。
 驚いたのは試合終了後。西ドイツ選手が歓喜の渦に包まれる中、涙を流す君がオーロラビジョンに大写しになる。この瞬間、ローマ・オリンピコの満員の観衆は皆盛大なブーイングを行った。86年メキシコ以降、欧州の多くの試合で君がブーイングに包まれることはよく知っていた。この大会でも君はボールを持つ度に、ブーイングに包まれていた。しかし、それは試合中のことだ。試合中のサポータのブーイングは、恐怖と尊敬の表現でもある。しかし、この決勝終了後のブーイングは、明らかな悪意、軽蔑、嫌悪を表したものだった。ナポリを除くイタリア中が君に対し「ざまあみろ!」と言っているような思いを抱いた。さすがに驚いた。「君はここまで嫌われているのか」と。彼らにとって、君は神ではなく悪魔だったのだろう。悪魔の絶望的な表情は、多くの人々の歓喜だったのだ。

 君が亡くなった後の報道。何より違和感を持ったのは、君は反体制の闘士であったとか、権威におもねらない庶民の味方であったとか。そのような報道を見聞きすればするほど私は違和感を持つのだ。
 過去の報道を見る限りでは、君は人間として立派な人だったとはとても思えない。ただただサッカー選手としての能力に恵まれ、それでわがままな行動を許された。結果、不道徳な振る舞いは枚挙に暇ない。ただそういう男だったとしか思えないのだ。
 ただし、私は君の友達でも何でもない。だから、君がどんなに道徳的に不適切なことをしてしまったとしても、私は困りはしない。私にとって君は、ピッチ上で信じ難い舞いを見せてくれる、空前のサッカー選手だった。そして上記したようにその能力は本当に素晴らしいものだった。

 95年ソウル、五輪スタジアムの、ボカ対韓国代表戦に戻ろう。
 私はこの試合、78年大会アルゼンチンに女性1人で降り立ちレオポルド・ルーケが若きプラティニを絶望に追い込んで以来の筋金入りのアルゼンチンフリークGKさんと、86年大会10代でメキシコに参戦し以降の君のW杯全試合を応援しているディエゴ狂のCちゃんと、3人で観戦していた。
 89分、君は交代した。おそらく、試合直後の混乱を避けるため終了直前の交代は事前に決められていたことだろう。ピッチを去る君に向ってスタンディングオベーション。10万人の大観衆の誰よりも早く始めたのは、我々3人だった。
 この25年前が、私にとって君との別れだったのだ。むしろ、その後25年生き続けてくれたことに感謝したい。たとえ、世界中におもしろいニュースを発信するおじさんだったとしても、君の報道は読むのは楽しかった。過去の栄光と比較したほろ苦さと共に。
 歓喜と悲嘆、美しさと醜さ、正しいのか誤っているのか、そして君のことを好きか嫌いか。おそらく、ホモサピエンスの有史上に君ほどに、世界中の人に「何か」を提供した人はいない。

 しょせんサッカーさ。負けたところで命や豊さや今の生活を失うわけではない。けれども、耐え難いほどに胸が張り裂けそうな悲しい思いを味わうことができる。勝てばこれ以上ない喜びを堪能することができるのだが。サッカーはそれほどすばらしいものだ。
 君と私は、同年同月生まれ。毎年同じ年齢を刻むのを楽しみにしていたが還暦が最後になったわけだ。君と同時代を歩むことができて、とてもとても楽しかったよ。
 すべての一挙手一投足の思い出に献杯、いや君に暗い感情は似合わないな。乾杯。
 ゆっくり、天国で(地獄かもしれないな)休んでください。
 ありがとうございました。
posted by 武藤文雄 at 23:21| Comment(0) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年12月31日

2019年10大ニュース

1位 森保監督の迷走
 アジアカップの準優勝は高く評価されるべきだろう。大会前および大会中に、次々と中盤後方の選手に負傷者が相次ぐ不運を乗り越え、リアリズムに徹した采配で着々と勝ち進んだ。またワールドカップ予選も丹念に勝ち点を積み上げたのも大したものだ。冨安健洋、南野拓実、中嶋翔也、堂安律、伊東純也、橋本健斗らを、代表選手として確立したのも褒められてよいだろう。
 しかし、1年を振り返ってみると、2019年は「森保監督により代表ブランドが大きく毀損された」年として、記憶されるのではないか。先日の東アジア選手権韓国戦のように、森保氏の真剣に勝とうとしない姿勢、いや勝とうとしないことを隠さない態度は、将来に渡る痛恨となるかもしれない。
 さらに感心しないのは五輪代表の準備不足。未だチームの骨格は不明確なまま、いたずらに時間が経っている。冨安、堂安、久保建英と言ったレギュラ候補本命が欧州でプレイしており、準備試合への招集が困難。さらに、オーバエージも検討するとなると、通常集められる選手の多くは定位置確保が困難と言うことになってしまう。加えて、五輪代表強化の常となるが、10代後半から20代前半の選手は、いつ伸びてくるか、いつ停滞するかは、非常に読みづらい。しかも、地元開催で予選を有効に強化にも使えない。この東京五輪への準備は相当厄介なのだ。
 厄介なことは自明なのだが、森保氏はテストばかりを繰り返す。おそらく、7月の本番では、我々はぶっつけ本番で未完成のチームを見ることになるのだろう。

 まあ、所詮五輪だ。ワールドカップとは異なる。むしろ、その程度の大会なのだから、準備不足を嘆く必要もないのだけれども。そして、肝心のアジアカップでそこそこの成績を収め、ワールドカップ予選の勝点獲得は完璧。森保氏は、最重要事項は外してないのですね。にも、かかわらず、上記の通り代表ブランドの毀損、五輪代表の準備不足と文句を言われる。いや、文句を言っているのは俺だな。うん、代表監督とはつらい稼業である。
 本件は別に講釈を垂れたいと思います。

2位 若年層選手の欧州流出
 五輪代表の強化が厄介になっているのは、多くの五輪世代の若手が、欧州に流出しているためでもある。冨安、堂安、久保らJ1や日本代表で相応の実績を残した選手たちだけではなく、国内で僅かな実績しかない選手が多く欧州クラブに活躍の場を求めている。
 確かに、世界のトップレベルのメガクラブまで駆け上がろうと言うからには、20代前半でそれに次ぐクラブまでランクアップしておきたいところだ。そうだとすれば、10代のうちに、オランダ、ベルギー、ポルトガルと言った国のリーグ戦で活躍したい、と言う彼らの思いはよく理解できる。
 そう言った若手選手の流出が続いても、Jリーグでは充実したサッカーを楽しめるし、次々と前途有為な若手選手が台頭している。結構な時代だと喜んでよいのだろう。

3位 マリノス久々にJ制覇
 マリノスが久々にJリーグを制覇した。マンチェスターシティとの出資関係がスタートしておよそ5年が経過し、ポステコグルー氏が作り込んだ組織的な攻守が光輝いた。喜田拓也.、仲川輝人、畠中槙之輔と言ったタレントの成長も、氏の指導の賜物だろう。チアゴ・マルチンス、マルコ・ジュニオール、エリキら、外国人選手獲得の巧みさ。リーグ終盤の組織的な攻守は出色のもの、18年度シーズンまでのプレスの第一波をかわして薄い守備ラインを狙われる状況だったのが徐々に改善され、完成したと言えるのだろう。積極的補強に走るこのオフだが、来期のACLでどこまで勝ち進めるか。
 FC東京は長谷川監督が各選手に徹底した守備意識を植え付け、林彰洋、森重真人、橋本健斗を軸にした堅固な守備を軸に、優勝まであと一歩までに迫った。ラグビーワールドカップの影響で長期に渡りホームグラウンドが使えない不運も痛かった。
 優勝候補と目されたアントラーズは中心選手の海外流出を埋め切れず、フロンターレは集め過ぎた選手の交通整理が不調となり、それぞれ終盤失速。勝ちづづけることの難しさを感じるシーズンだった。

4位 女子ワールドカップでの得点力不足
 女子代表は、見事なサッカーを見せながら、結局決勝進出を果たすオランダに極めて不運な敗戦を喫した。
 オランダ戦、同点で迎えた後半、日本はいかにもなでしこジャパンと言う揺さぶりから幾度も決定機をつかみながら、どうしても得点できず、終了間際に食らったPKで敗れ去った。まあ、サッカーなのだから不運は付き物なのだが。あれだけシュートが入らない試合を演じると、なでしこリーグの連続得点王田中美南を高倉監督が選考しなかったことは、批判されるべきに思うのだが。

5位 レッズのACL準優勝と日程問題
 レッズは粘り強くACLを戦い、決勝までたどり着いた。決勝のアル・ヒラルは相当充実した戦闘能力を誇り、一方レッズイレブンには疲弊が目立ち、敗戦はやむなし感が漂った。
 とは言え、今シーズン終盤の日程は気の毒としか言いようがないもの。レッズだけは平日にJを消化する印象すらあった。大槻監督は、ACLにフォーカスした選手起用をしていたが、今のJリーグの戦力均衡も相当だから、ジリジリと順位を下げていただけに、リーグを完全に手抜きするわけにも行かなかったのもつらいところだった。
 結局のところ、ここ10年来日本サッカーの日程が破綻している犠牲者とも言える。来シーズン以降も、ACLで勝ち進んだクラブは、よほど巧みにターンオーバを使わないと、Jリーグを含めて非常に厳しい日程に悩むことになろう。
 毎年毎年指摘していることだが、J1チームの削減、天皇杯2年越し開催など、抜本策を講じる必要があるのだ。年またぎシーズン制など夢にも実現できないことを考えている余裕はないはずだ。

6位 レッズ対ベルマーレ、誤審騒動
 5月17日、J1レッズ対ベルマーレで、ベルマーレの明らかな得点を審判団が見落とすと言う誤審騒動があった。本件そのものは、ベルマーレと審判団には極めて不運な事件だったわけだが、サッカーのルールや考え方が、時代の流れについていけてないことを示すものとなった。観客の多くが手元のスマホで映像確認ができる時代。ある意味で、プレイしている選手たちと審判団のみが真実を確認することなく試合が進んでいるわけだ。
 少なくともこの誤審は、ゴールラインテクノロジが導入されていれば防げていたわけで、私のような年寄りには、中々なじみづらいことになってきたと思う。
 一方でトップレベルの試合では、VAR導入が進んでいる。ところが、コパ・アメリカの日本対ウルグアイでのカバーニのように、それを悪用するダイビングを見せる選手が出てくる。また、判定をVARに任せ副審がオフサイドを認識しても旗を上げないやり方も出てきているため、U20ワールドカップの韓国戦の日本の幻の得点のように、明らかなオフサイドなのに妙なぬか喜びで試合の流れが阻害される事態も生まれている。ゴールラインテクノロジは、審判の目を補完する技術だが、VARはサッカーそのものの魅力を減らすリスクもあるはずだ。FIFAも一度踏みとどまって考えて欲しいのですけれども。

7位 ゙貴裁監督パワハラ問題
 そのベルマーレを長年率いてきだ貴裁監督がパワーハラスメントで処罰をされ、監督退任を余儀なくされた。
 スポーツの世界は、どうしても旧態依然の徒弟制的な閉じた社会が作られがち。そこに透明性や客観性を持ち込む必要がある。類似の事態の再発をいかに防ぐか、日本サッカー協会が力を入れるべきは、このような事件への対応だ。

8位 J1、J2入替戦の制度矛盾
 上記パワハラ問題で、非常に苦しい戦いを余儀なくされたベルマーレは、浮嶋監督の下、苦労を重ねてJ1残留を果たした。
 一方で、ベルマーレが残留を決めた入替戦のレギュレーションが話題となった。4チームでのトーナメントを勝ち抜いたJ2クラブを、J1クラブがホームで待ち構え、引き分けでっ残留する。さすがにJ1クラブが有利すぎると議論となった(ベルマーレは、元々決まっていたレギュレーションで残留を決めのだから、何も恥じる必要がないのは言うまでもない)。
 元々J2クラブの3位から6位までが参画できる制度も、上位クラブの優位が損なわれると言う指摘と、多くのクラブが昇格の可能性を持ちリーグが活性化すると言う反論で、議論の余地がある。
 個人的には流動性の増加(落ちてもすぐ戻れる)が考慮され、下位リーグに落ちてもクラブ経営が安定しない制度が望ましいと思うのだが。

9位 大分トリニータの快進撃
 J1に復帰した大分トリニータが、現代的なパスワークを武器とする美しいサッカーで上位を伺ったのはすばらしい成果だった。片野坂監督の見事な手腕は、大いに称えられるべきだろう。
 トリニータと言うクラブの、2008年の現ルヴァンカップ制覇から翌09年シーズンの事実上の経営破綻に端を発する数奇なドラマ。この10年間にJ1昇格、J3降格を含めた上下動を蹴権。そして、通算3度目のJ1昇格後のこの見事な成績。
 せっかくのすばらしいチームに対して、金満ヴィッセルによるエースストライカの藤本憲明強奪(敢えて下品な表現をとりました)など、見事なドラマに敵役が登場したのも触れておきたい。

10位 梁勇基、ベガルタを離れる
 こちらに思いを書きました。在日コリアンの無名選手が、仙台と言う地方中核都市の、比較的歴史の浅いクラブに加入し、16年の長きに渡りにチームの中核を担う。そして、ACLにチームを導き、祖国代表選手として日本代表にも立ち塞がった。これはこれで、日本サッカーの歴史を彩る美しいドラマである。その梁勇基が、ベガルタを去る。
 ベガルタサポータとして、胸が張り裂けそうな思いにもとらわれるが、梁と共に戦った美しい16年を誇りに思う。
posted by 武藤文雄 at 23:27| Comment(0) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年ベストイレブン

 恒例のベストイレブンです。日本代表については、アジアカップ準優勝の成果があり、またワールドカップ予選は敵地の難しい試合が多いにもかかわらず全勝で終えることができた年でした。しかし、10大ニュースでクドクドと講釈を垂れますが、その後の森保氏の采配振りは、多くの試合で手抜きが目立ち、結果的に日本代表ブランドが毀損された年となった感があります。そんな状況下で選んだベストイレブンです。

GK権田修一
 アジアカップでも上々のプレイ振りだったが、何よりワールドカップ予選、敵地のタジキスタン戦、キルギス戦の前半の、決定的ピンチを落ち着いたプレイでしのいだのは見事だった。中々自クラブでは出場機会に恵まれていないとのこと、何とかこの状況を打開して欲しいところだが。
 
DF酒井宏樹
 ワールドクラスのFWを押さえきる守備能力と、若い頃から格段の右クロス。現在、欧州で最も高い評価を受けている日本人選手ではないか。そして、日本代表でも常に安定したプレイ、22年大会まで中心選手として君臨してくれることを期待したい。

DF森重真人
 FC東京の守備の強さの源泉。元々の読みのよさに加え、周囲の選手の使い方と知的な位置取りが一段と上昇した感がある。パートナの張賢秀が、サウジのアル・ヒラルに移籍した後も、若い渡辺剛と協力なCBを組んだあたりはさすが。

DF冨安健洋
 ボローニャでも、当たり前のようにトップレベルの守備を披露。サイドバックでプレイする映像を幾度か見たが、縦に高速で持ち上がり精度の高いクロスを入れるなど、この初めてのポジションをしっかりこなしているのには恐れ入った。ただ、コパアメリカのウルグアイ戦でヒメネスにヘディングシュートを決められたのは反省してください。

DF丸橋祐介
 若い頃から定評ある攻撃参加に加えて、自領域に進出してくる敵FWを押さえるのが格段にうまくなってきた。元々、90分間戦う姿勢は皆が尊敬するところ。年齢的に日本代表としてはちょっと厳しいかもしれないが、一度見てみたい。

MF喜田拓也.
 J1制覇したマリノスの主将。リーダシップ、精神的な安定度、献身的なプレイ、正に大黒柱と言ってよい活躍だった。優勝後のスピーチも見事でしたけれど。このポジションの選手としては小柄で日本代表としては厳しいかもしれないが、一度見てみたい。

MF橋本拳人
 FC東京の躍進を中盤で支えた立役者。気の利いた位置取りで敵の攻撃を止め、少々常識的だが的確にボールを散らす。180cm超のサイズも魅力的で、日本代表でも定位置をつかみつつある。
 
MF山口蛍
 豊富な運動量と球際の強さは、いつどこでも頼りになる存在。アジアカップも蛍がいれば、もっと何とかなったのではないかと思うのだが。ヴィッセルではいわゆるインサイドMFで前線にも飛び出す戦略的な動きで天皇杯決勝進出にも貢献した。

FW仲川輝人
 自分の間合いでボールを持てば絶品のドリブルに、知的な位置取りでの巧みなボールの受けと、シュートへのボールの置き方が格段に上達。気が付いてみたら、日本最高クラスのFWとなっていた。問題は森保氏が、この異才をうまく活かせるかどうかなのだが。

FW南野拓実
 日本代表では、常に強い意志で攻撃の中核となり、実に頼もしい存在となった。グラウンドコンディションの悪い中央アジアのアウェイゲームでも、冷静かつ強気にチームを引っ張り、22年大会のエースの座を獲得した感もある。リバプールで超強力3トップに挑むことになる。

FW永井謙佑
 最前線に位置取りし、日本人に珍しい10m単位の距離を高速で走ることのできる異能を活かせば、敵DFから見て非常に厄介な存在なのは、7年前のロンドン五輪の時からわかっていたこと。それなのに、サイドで起用されるなど不遇の時代もあったが、ここに来てFC東京でも日本代表でも、得意のポジションで起用され輝いている。
posted by 武藤文雄 at 20:51| Comment(0) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年07月15日

決勝戦を前に

 決勝戦はフランス対クロアチア。
 ワールドカップを堪能し始めてから、12回目のロシア大会。決勝戦を直前に控え、過去の大会とは異なる思いを抱いている。それは、参加したと言う当事者意識、言い換えると悔しさと言うか心の重さが、過去の大会以上なのだ。言うまでもなく、今大会の我々は、従来以上純粋に列強の一角として戦うことに成功したからだ。

 10年南アフリカ大会も悪くはなかった。けれども、1次ラウンドで当たった(後に準優勝する)オランダには0対1の完敗、パラグアイの死闘は中々のものだったが、試合内容で他国の方々に決定的な印象を与えることはできなかった。 02年日韓大会では、地元大会ゆえ1次ラウンドの相手に恵まれた感があり(いま、思うとベルギーとロシアと同じグループだったのは、今大会を考えると感慨深いが)、敗退したトルコ戦も、何か消化不良感のある試合だった。
 けれども、今回は違う。戦闘能力差を見せつけられたのは事実だが、ベルギーに対しできる限りの抵抗を行い、日本独自のサッカーは、世界の人に大きな印象を与えたはずだ。だからこそ、準々決勝以降を観戦する際は、常に悔しさを感じながらのテレビ桟敷となった。もちろんね、もしあれ以上の幸運に恵まれ、アザール達に絶望感を味合わせることができたとしても、その後セレソン、レブルーと、新たな高い壁が次々に襲いかかってきたのだけれどもね。
 でも、こんな思いを持ちながら、堪能できる決勝戦は初めてだ。私は素直にその感情を楽しみたいと思っている。

 フランス。
 98年に地元大会で初優勝して以降、3回目の決勝進出。言うまでもないサッカー大国の1つだが、この国は70年代までは、サッカー界で大きな地位は占めていなかった。もっとも、58年大会でコパやフォンティーヌの活躍で準決勝で若きペレがいたブラジルに粉砕されるも、攻撃的なサッカーで3位となっていたと言うが、さすがに映像も何も見たことがないので。
 けれども、78年大会、若きプラティニ将軍を軸に久々に本大会出場(イタリアと地元アルゼンチンに惜敗し1次ラウンド敗退)すると、欧州屈指の強豪となる。そして、84年圧倒的な強さで欧州選手権を制覇、前後の82年、86年ワールドカップは、2回とも準決勝で西ドイツに踏みつぶされ、どうしても決勝に出ることができなかったが、特に86年の準々決勝ブラジル戦(PK戦でフランスが勝利)は、今なお史上最高の試合とも言われている。
 プラティニ以降も、90年代前半には、パパン、カントナとスーパースタアを輩出しながらも、代表はよい成績を収められない。プラティニ監督が率いた92年欧州選手権は大会前本命の一角と言われるも1次ラウンド敗退、94年USAワールドカップ予選は、最後の2試合で勝ち点1を奪えず、出場権獲得を失敗。当時の我々のドーハの悲劇が霞むような、大悲劇を演じる。余談ながら、94年のキリンカップはフランスを招待。世界25位決定戦(当時のワールドカップ出場国は24だった)と盛り上がったらが、パパンとカントナに1対4と粉砕されたのは懐かしい。
 そして98年地元大会では、カントナなどのベテランを外し、テュラム、デザイイ、ブラン、リザラスと言った歴史的な強力4DFの前に、闘将デシャン(現監督を並べる守備ラインが秀逸。その前に、若きジダンを配する布陣。サッカー的には地味で堅実なチームだったが、各種の幸運をしっかり手にして世界チャンピオンに。ただ、このチームは2年後の欧州選手権の方が強かった。98年には最前線でウロウロしているだけだったアンリが、大化けしたからだ。翌01年春先、親善試合で手合わせいただいたところ、重馬場に加え、開始早々の楢崎と松田直樹のミスで、0対5とボロボロにされてしまった。当時はアジアカップを圧倒的に制覇した直後だっただけに、試合前にユーラシア王者決定戦などとはしゃいでいたのが懐かしいな。もっとも、その前後のモロッコでのハッサン2世杯(2対2からPK負け)やコンフェデ決勝(0対1の負けでは、それなりの試合を演じたのだが。
 大会前は優勝候補筆頭とも騒がれた02年はジダンの負傷で早期敗退。、06年は大会当初不振を伝えられていたジダンが、大会途中から輝きを放ち、ブラジル、ポルトガルを撃破して決勝に。ジダン対カンナバーロと言う、サッカー史に残る矛盾対決を演じ、あの延長戦で…
 ジダン以降は若干低落傾向があったが、それは無理なきこと。12年10月にはパリの親善試合で、押されっぱなしながら粘り強く守り、終盤の逆襲から虎の子の1点を奪い勝ち切ったこともあったな。ザッケローニ氏采配が冴え渡っていた頃だ。その後、グリーズマンと言う新しいスタアを軸に、16年の地元開催欧州選手権では準優勝。そこに、エンバペが加わり、バランスのとれた強チームで優勝をねらえるところまできた。実際、ロリス、ヴァラン、ウムティティ、ボクバ、カンテで固める守備、グリースマンの才気に加えてエンバペの個人能力、そしてジルーの献身。00年に欧州を制覇したとき以来の強チームができあがりつつあるようにも思えてくる。
 フランスは強い。
 
 クロアチア。
 98年に我々が初出場した折に、1次ラウンドで同じグループになったとろで、「初出場同士」との少々残念な表現を目にすることがあった。もちろん、クロアチアと言う国で出るのは初めてだったが、この国(と言うか地域)の前身のユーゴスラビアは東欧のサッカー強国だったのは言うまでもない。ただ、いわゆる旧ユーゴスラビアと日本のチームはあまり交流はなかった。ただし、64年東京五輪の準々決勝敗退国同士の大会で対戦、1対6で完敗している。うち2失点を決めたのは、イビチャ・オシムと言う選手だった。
 70年代以降、ユーゴスラビアは常に東欧の強豪と言われ、74年、82年のワールドカップ、76年、84年の欧州選手権それぞれに出場、本大会前に上位進出が予想されながら勝ち切れない位置どころだった。その流れを打ち破ったのが、90年イタリアワールドカップ。イビチャ・オシム監督に率いられたユーゴスラビアは、準々決勝で退場者を出し10人になりながら、再三アルゼンチンゴールを脅かし、最後はPK戦で散る。攻撃の中心は若きピクシー、ストイコビッチ。そして、プロシネツキ、ヤルニ、シュケルと言った、後日クロアチア代表として活躍する選手もメンバに入っていた。そして、92年欧州選手権は優勝候補と言われながら、始まった内戦により出場停止処分。そして、ユーゴスラビアと言う国は、いくつかの小国に分離されていく。
 そして98年フランス。初出場の我々はアルゼンチンに0対1で敗れた後に、クロアチアと対戦する。灼熱のナントで行われた試合は、予想外にクロアチアが守備を固め速攻を狙ってきた。クロアチアは大エースのシュケルにいかに点を取らせるか、一方我々は全盛期を迎えていた井原正巳が最終ラインでいかに敵の攻撃を止めるかが、それぞれテーマのチームだった。この2人を軸にした両国の壮大な対決は、シュケルに軍配が上がる。77分、中盤で中田と山口の軽いプレイからボールを奪われ、その第一波を井原が防ぐもまた拾われ、さらにシュケルをマークしていた中西が敵にアプローチを妨害されたところで、シュケルに反転シュートを決められたのだ。当時レアル・マドリードで試合出場機会を減らしていたシュケルは、この一撃で調子を取り戻し得点王に、そしてクロアチアもベスト4に駆け上がっていく。前半日本は、相馬や中山が決定機をつかむなど、それなりの抵抗はできていたのだが、チームとしての戦闘能力には格段の差があったのも確かだった。
 06年ドイツでも、1次ラウンドで日本はクロアチアと同じグループとなる。両国とも初戦を落としての戦いとなったが、前半主将宮本がブルゾのドリブルに対応しきれずPKを提供するが、スルナのキックを川口が防ぐ。後半、加地の突破から柳沢が決定機をつかむものの決められず、0対0の同点に終わってしまう。その後クロアチアは最終戦で豪州に勝てば2次ラウンド進出だったが、2回リードを奪うも追いつかれ敗退する。最終戦ブラジルに完敗した日本と合わせ、両国とも不完全燃焼気味の敗退劇となった。
 その後世代交代で今一歩の成績だったクロアチアだが、モドリッチ、ラキティッチ、マンジュキッチらが台頭、16年の欧州選手権では上位進出も期待されたが、2次ラウンド1回戦、ポルトガル相手に圧倒的攻勢をとりながら、どうしても1点が奪えない。延長終了間際、勝負どころで猛攻をしかけたところで、クリスティアーノ・ロナウドを起点とする逆襲速攻を許し失点。またも上位進出はならなかった。
 そして、迎えた本大会。正に全盛期、世界最高のMFと言っても過言ではないモドリッチを軸に、戦闘能力では大会屈指であることは、誰もがわかっていたが、勝利の経験に欠ける点のみが不安視されていた。しかし、いきなり1次ラウンドはアルゼンチンへの完勝を含む3連勝。そして、2次ラウンドに入ってからは、毎試合のように前半序盤に失点しながら、モドリッチを軸に慌てずに両翼から攻め込み、驚異的な勝負強さを発揮し、とうとう決勝まで駆け上がってきた。
 クロアチアは粘る。

 この決勝戦。常識的に考えればフランスが優位だろう。フランスは2次ラウンドの3試合をすべて90分で終え、さらに準決勝から中4日。、クロアチアは3試合すべて延長120分を戦い、準決勝からは中3日。クロアチアはモスクワからの移動がなかったところだけは有利だが、コンデイション面ではフランスが有利としか思えない。
 ただし、フランスの最大の強みは、ボクバ、カンテの強力な中盤にあり、アルゼンチンもウルグアイも、そしてアザールを擁するベルギーも、そのプレッシャから円滑に抜け出し、攻撃を組み立てるのに苦労していた。しかし、クロアチアにはモドリッチがいる。モドリッチならば、ボクバやカンテが中盤で寄せてくる前に、左右に展開することが可能にも思える。もちろん両翼から崩されても、ヴァランを軸とする守備はそう簡単に崩れないだろう。しかし、クロアチアは両翼から執拗に攻め込んで最後崩し切って、ここまで来たチーム。グリーズマンを軸とする攻撃が、クロアチアの堅陣を崩せないまま時計が回ると、試合は相当もつれていくことだろう。
 デシャン氏は、そのことがわかっているだろうから、カンテのポジションを前に上げ、モドリッチを止めようとする選択肢もあり得る。けれども、ここまでうまく行ってきたチームのバランスを崩巣と言うリスクを冒そうとするだろうか。デシャン氏にとっては、試合前から優位を伝えられているだけに、難しい試合となりそうだ。
 おもしろい決勝戦を期待したい。

 私は、クロアチアを応援する。理由は簡単、ワールドカップを見始めたころのアイドルだったクライフに、ちょっと風貌が似ているモドリッチが大好きなので。
 冒頭述べた通り、44年間のワールドカップ体験で初めての、悔しい思いを抱きながら臨む決勝戦だ。どのような体験ができるだろうか。
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2018年04月29日

元日本代表監督石井義信氏逝去

 元日本代表監督石井義信氏が亡くなった。ご冥福をお祈りいたします。。
 石井氏は、86年からから87年にかけて代表監督を務め、当時の目標のソウル五輪出場にあと一歩のところで、中国に破れ、退任した。

 70年代後半に釜本が去った後の日本代表は、とてもではないがワールドカップ予選はおろか、五輪予選を突破できる戦闘能力はなかった。しかし、80年代前半から、日本全国に普及した少年サッカーのおかげで、しっかりとボールを扱える選手が増え、それなりにアジアで勝てるようになっていた。そして、85年のメキシコワールドカップ予選では、森孝慈監督が、加藤久と宮内聡を軸とする堅固な守備から、木村和司の好技を活かす見事なチームを作り、本大会まで後一歩まで迫ったのは、皆様ご存知の通り。そして、敗退後、森氏は自らのプロ契約を日本協会に要望するが、当時の日本協会首脳に拒絶され野に下る。
 その後任として、石井氏が代表監督に就任する。石井氏はフジタ(ベルマーレの前身)の監督として、見事なチームを作った実績があった。特に77-78年シーズンは、平均得点3.6、平均失点0.9とJSL史に残るすばらしいチームだった。今井敬三の守備力、最終ラインから攻め上がる脇裕司、中盤の将軍古前田充の展開、マリーニョ(後に日産で活躍)とカルバリオの得点力、魅力的なチームだった。
 当時の日本代表は、メキシコまであと一歩に迫ったチームだったが、どの選手もまだ20代半ばでこれから全盛期を迎えようとしていた。そして、欧州から奥寺が帰国、さらにはユース年代時代から期待された堀池巧、越後和男、武田修宏などのタレントも登場していた。しかも、ソウル予選には最大の難敵である韓国が不在。久々の五輪出場権獲得に向け、石井氏の手腕への期待は大いに高まっていた。

 しかし、石井氏は予想外の采配を振るう。
 極端な守備的サッカーを目指したのだ。これは、就任後数ヶ月で迎えたアジア大会で、イラン、クウェートに完敗したことも要因だったろう。また、木村和司が体調を崩し、日産で往時ほどの切れ味を見せられなくなったことも、要因だったのかもしれない。
 迎えたソウル予選。1次ラウンドのシンガポール、インドネシアとのH&A総当りは、苦労もあったが全勝で突破。中国、タイ、ネパールのとH&A総当りの最終予選を迎えた。最終予選の基本メンバは、いわゆる5-2-3.GKは経験豊富な森下申一。加藤久、勝矢寿延、中本邦治の3CB。堀池巧、奥寺康彦を両サイドに配し、守備的MFが都並敏史(本来サイドバックなのですが)と西村昭宏、水沼貴史が引き気味で右サイドに開き、原博実と手塚聡の2トップ。加藤を余らせて、後方の6人が厳しいマンマークで後方深く守りを固め、攻撃は水沼を基点として手塚を走らせるか、原にクロスを入れるかと言うやり方だった。石井氏は、戦闘能力的に互角と思われる中国に対してだけでなく、優位に立てそうなタイにも同じ やり方を貫徹した。
 守備力を主体とする選手を多く起用し、失点を最小限に止めようとするのは1つの考え方。しかし、後方の選手が前線に出すボールが、単調で精度を欠くものだったこともあり、その守備的な姿勢は少々極端なものとなった。

 けれども、チームは順調に勝ち点を重ねた。
 国立で行われたタイ戦は、水沼の鮮やかな得点で先制。以降、丁寧に守り、タイの大エースピアポンの強烈なシュートを森下がファインプレイで防ぐ。加藤を軸にした守備の組織力と安定感は、相当な完成度を見せていた。
 そして迎えた敵地広州での中国戦。数十人の好事家と参戦したこの試合は一生忘れられないものとなった。大柄な選手を並べ縦に強引に攻め込んでくる中国に対し、丁寧に守っていた日本は、前半半ばに敵陣右サイド深くゴールライン近くでFKを獲得。水沼が上げたボールに、原が完璧なヘディングシュートを決めた。原は、中国の名DF高升(ガンバの高宇洋のお父上)の厳しいマークを、見事な駆け引きで打ち破ったのだ。その後、中国は強引に攻め込むが攻撃は単調。特に中国自慢の右サイドの朱波を奥寺が完璧に押さえたのが大きかった。しだいに、広州のサポータは、自国の変化に乏しい攻撃に不快感を隠さなくなる。終盤の5分間、数万人の大観衆が沈黙し、我々数十人の「ニッポン、チャ、チャ、チャ」が 、大競技場を制覇したのは、忘れ難い思い出だ。

 後は国立で、引き分ければよかった。
 0対2で敗れた我々はソウルに行かれなかった。

 石井氏に言いたいことはたくさんあった。
 運命の国立中国戦。もう少し、柔軟な采配はできなかったものか。中国は朱波では奥寺を敗れないと見て、逆サイドから攻め込んできた。結果、堀池が引きだされ、水沼が守備に追われ、と日本にとって悪循環が続き、とうとう先制されてしまった。あの悪循環の時間帯、いくらでも対応策はあると思ったのだが、石井氏はその状況を我慢し続けた。たとえば、堀池と水沼の2人はゾーンで守ることを明確化する手段もあった。守備ラインならばどこでもプレイできる西村を、いったん右サイドに置く手段もあったはず。
 もう少し攻撃に変化をつけることも考えてもよかったはず。中国は、あそこまで守備的に戦うべき相手だっただろうか。
 石井氏が、木村和司を招聘しなかったのは、木村の守備力の欠如からだったのだろう(木村が85年当時より調子を落としていたこともあったけれど)。けれども、やはり木村は木村であり、使い方を工夫すれば、間違いなく敵に脅威を与えることはできたはずだ。
 FWの控えとして起用していた松浦敏夫は、2年連続JSLの得点王を獲得したストライカで、190cmの長身だったが、自分のチームNKKでは裏抜けの巧みさで得点を量産していた。それなのに、松浦を起用した際にクロスボールを多用したのは理解できなかった。
 もっと、攻撃面で実効力のあるタレントを選考する手段もあったはずだ。たとえば、JSLで実績を挙げていた、吉田弘(古河)、高橋真一郎(マツダ)、藤代伸也(NKK)、そして戸塚哲也(読売)など。
 かように、あれから30年の月日が経っても、そしてこの30年間当時は夢にすら見なかったすばらしいサッカー経験を積むことができても、敗戦を思い起こし悔しい思いができるのも、サッカーのすばらしいところだ。

 ともあれ、石井氏は、「ソウルへの道」の獲得のために、自ら創意工夫した道筋を明確に作り、その実行を試みた。そして、狙い通りのチームを作り上げ、目標まで、あと一歩、本当にあと一歩までこぎつけてくれたのだ。我々の夢をかなえかけてくれたのだ。
 歴史的には、85年メキシコ予選(木村和司のFK、メキシコの青い空)があまりに光彩を放っており、その直後の石井氏の冒険は、やや忘れられた感がある。しかし、上記つらつら述べてきた通り、その戦いぶりは、しっかりと日本サッカー史の記録されるべきものだ。
 上記の通り、私は石井氏のやり方にいくつか不満を感じていた。しかし、石井氏には明確な意図があり、それを丹念に具現化していく姿を一歩一歩見ることができた。監督の意図を理解しながら、自分の思いとの違いを飲み込み、切歯扼腕、眼光紙背を重ねながら、ともに戦う。この感覚こそ、サポータ冥利。石井監督は、それを2年間、じっくりと味合わせてくれたのだ。

 あれから30余年、7.5ワールドカップが経った。大観衆を圧倒した広州の夜の歓喜。豪雨の国立の敗退劇。水沼と森下に感涙したタイ戦。他にも、たくさんの試合で絶叫、失望、歓喜を味わった。
 石井さん、ありがとうございました。私は忘れません。
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2018年01月22日

水沼宏太への期待

 少々旧聞になるが、天皇杯決勝、そして決勝点を決めた水沼宏太について。
 決勝戦のヒーローとなった水沼宏太と、御父上の水沼貴史氏が、史上初めての親子で天皇杯を制したことは結構な話題ともなった。その周辺のことをきっちり講釈を垂れておきたいな、と考えた次第。

 セレッソ対マリノスの決勝戦と言うと、83-84年シーズンの決勝戦以来、34年振り。当時はもちろん、ヤンマー対日産でしたが。そして、この34年前の決勝戦は、以下2つの意味で、日本サッカー史にとって非常に重要な試合だったのだ。
 まず、この試合は、釜本邦茂が出場した最後の公式戦である。監督兼任だった釜本は、この試合0対2とリードを許した状況で、ピッチに登場。右サイド最前線でプレイをして、巧みなボールの引き出しや突破の妙を見せてはくれたが、中盤から有効なボールがほとんど出ず、有終の美を飾ることはできなかった。
 試合はそのまま2対0で日産の完勝、初めてのタイトル獲得となる。日産は70年代から強化を開始した比較的新興のチームだったが、この数年前から、金田喜稔、木村和司と言った日本代表に定着していた大学生選手を精力的に獲得していた。これは、優秀な選手に好条件を提示し、他のチームに先駆けて事実上のプロ化を進めていたことによる。そして、この83-84年シーズンは、柱谷幸一、越田剛史、そして水沼貴史らの有力選手を大量に獲得し、チーム力は格段に向上。JSLでは2位に獲得し、ついに天皇杯を制し初タイトルを獲得することとなった。以降、日産は、同シーズンにJSLを制覇した読売と共に日本サッカー界を牽引することとなる。敗れたヤンマーは釜本を軸に70年代を席捲してきたチーム、まさに時代の変化を感じさせる試合だった。

 以降、日産は水沼貴史と共に多数のタイトルを獲得する。
 そして、ご子息の水沼宏太は、父がプレイ活躍していたマリノス(日産)の若年層組織で成長、幾度も若年層日本代表にも選考され、2008年マリノスでプロ契約を行う。しかし、中々定位置をつかむことができず、栃木SCへのレンタルなどもはさみながら、サガン鳥栖で定位置を確保。16年シーズンにはFC東京に移籍するものの、出場機会が限定されたこともあり、17年シーズンよりセレッソにレンタルされ、今日に至った。
 水沼親子は、最も得意なポジションは、ともに右サイドの攻撃的MF。しかしながら、そのプレイスタイルは異なる。親父殿は、正確なボール扱いと独特の抑揚のドリブルを軸に、サイドを巧みに突破したり、スルーパスを通すのを得意としていた。一方、倅殿は長駆を繰り返すことのできる豊富な運動量が持ち味。親父殿はいわやる主役タイプだったのに対し、倅殿はチームを支える立場なのも異なる。余談ながら、顔つきにしても、個別のパーツは似ているものの、優男だった親父殿と比べ、倅殿は相当精悍な顔つきである。
 ただし、よく似ていることもある。2人とも、動いているボールをとらえるのが、格段にうまいことだ。89年イタリアワールドカップ予選のホーム北朝鮮戦で親父殿が決めたスーパーボレーシュートは、30年近い歳月が経った今でも記憶によみがえる一撃だった。そして、この天皇杯準決勝、アディショナルタイムにに失点し苦境に追い込まれていたセレッソを救った、倅殿のボレーシュートの際の、何とも言えないミートのうまさに、親父殿を思い出したのは私だけだったろうか。
 そして、この決勝戦を見て、もう1つ「親父殿に似てきたな」と思ったことがある。それは、何とも言えない勝負強さだ。マリノスに先制を許し、老獪な中澤を軸とするしつこい守備の前に、なかなか有効な攻撃を見せられなかったセレッソ。その沈滞ムードを破った同点弾のきっかけは、倅殿が意表を突いて放った強烈なミドルシュートだった。そして、決勝点、マリノスGKのポジションミスを冷静に見て取り、無人のゴールにヘディングシュートを流し込む冷静さ。85年のメキシコワールドカップ予選のホーム香港戦のとどめの3点目、親父殿のクールなボールタッチを思い出した。

 親子選手を応援できると言うのは、サポータにとっては、きっと素敵な経験となのだろう。日産時代からのマリノスサポータの方々はその快感を味わったことになる。ただし、上記のとおり、水沼宏太はマリノスの若年層組織で育ったものの、マリノス結果的には芽が出きらず、他クラブでトッププレイヤとなった。そして、よりによって、このマリノスと戦ったビッグゲームで、マリノスに引導を渡すことになったのだから、上記古手のマリノスサポータの方々には何とも複雑な思いがあったに違いない。こんなほろ苦さを味わえるなんて、羨望としか言いようがないではないか。
 私も何十年も日本代表を応援してきた身として、一度でよいから、親子選手を応援したいものだと思っている。マルディニとかヴェロンとか、うらやましいではないですか。そして、水沼宏太は、苦労に苦労を重ね、セレッソと言う日本のトップクラブの中心選手まで駆け上がってきた。とうとう、A代表まで、あと一息のところに到達したのだ。しかし、もう27歳、正直言ってその可能性はもう決して高くはないかもしれない、でもこの準決勝と決勝の色鮮やかな活躍を見ると、オールドファンとして、あきらめずに期待を寄せてもバチは当たらないと思うのだ。
posted by 武藤文雄 at 23:24| Comment(1) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年12月31日

2017年10大ニュース

 ここ数ヶ月、本業の忙しさを言い訳にすっかりブログの更新をサボっていました。
 以前より述べていますが、ブログでサッカーの講釈を垂れるのは、単なる自己満足に過ぎません。その自己満足すら果たせないのですから、何か自分が情けない気持ちがしています。
 一方で、これだけ間を空けてしまうと、以前より愉しんでくださった方々に、申し訳ない思いもあります。2018年は、もう少しちゃんと書いていきたいと思っています。

 ここ数年の傾向として、バブルと言う単語を使うしかないような大量のキャッシュが、欧州を中心に中東や中国のサッカーシーンにまで入り込み、日本サッカー界との経済力差が顕著になってきたことが挙げられます。一方で後述しますが、DAZNマネーの流入があった2017年は、1つの変革の年となるのかもしれません。
 ただ、日本代表は当たり前のようにワールドカップ出場を決め、レッズが堂々とアジアを制覇し、軽く二桁を越える選手が欧州のクラブで定位置を獲得している。日本サッカー界は、過去と比較しても、格段の成果を挙げた年だったように思います。
 そして、ロシア。ハリルホジッチ氏のチームは、存分に伸び代を残しており、あと半年の強化を的確に行えば、「史上最強」のチームを作り、「史上最高」の成績を収めることも可能だと思っています。GK、DF、MF、FW、ここまで穴が少なく経験豊富なチームを所有するのは初めてだと思っているので。
 もちろん、多くの選手が欧州でプレイしていることもあり、2010年以前のように、他国よりも体調をそろえるは容易ではないのは確かです。また、科学的なトレーニング技術が各国に展開され、同じグループのポーランド、コロンビア、セネガルも合理的な準備な準備を進めてくるでしょう。
 だからこそ、今回は勝ちたい。勝ちたいではありませんか。

1.中村憲剛の歓喜
 正直、あのルヴァン決勝を見たときは、もうこの人に栄冠は訪れないのか、サッカーの神様は何てひどいことをするのだ、と思った。とにかく、よかった。
 憲剛のプレイを見たのは2004年だった、当時からスタイルはまったく変わっていない。中盤後方でボールを受け、ゆっくりボールをさばきながら、突然加速し、前線に高精度のパスを通す。あれから13年、スタイルは変わっていない。ただし、精度と緩急は格段に向上したが。
 この稀代のスーパースタアともにフロンターレと言うクラブは大きくなってきた。そしてとうとう、このスーパースタアが元気なうちに、栄冠をつかんだ。これだけのスーパースタアと共にクラブが成長し、苦労を重ねてタイトル獲得。
 素直に羨望する。こんな素敵なドラマを、憲剛と共に演じられるなんて。おめでとう、フロンターレサポータの皆さん。
 でもね、1つだけ、フロンターレサポータの方々には味わえない事があるのです。それは「憲剛の恐怖」を味わうこと。ほかのJ1クラブのサポータは毎シーズン、それを2試合ずつ愉しむことができるのですよ。
 1つ大きな心配がある。「お願いですから、優勝したからと言ってやめないでくれ。」と言うことだ。憲剛よ、まずはロシアワールドカップを目指してくれ。

2.浦和レッズアジア再制覇
 おめでとうございます。そして、ありがとうございます。
 日本のクラブでは、古河(現ジェフ)、読売(現ヴェルディ)、ガンバ、レッズの4クラブが、前身のアジアチャンピオンズカップを含めて、このアジア最高峰のタイトルを獲得していた。この日本いやアジアいや世界屈指の人気クラブが、日本のクラブとしては、初めての2度目の戴冠となる。これは、とても、とても重要なことだ。
 私達別クラブのサポータは、このような目標を持てることの幸せを感じることができる。

3.ワールドカップ予選、豪州に完勝し6回連続出場
 出場権を獲得できたこともめでたい。しかし、重要なことは、埼玉で豪州との「勝負の戦い」で完勝できたことだ。
 いいですか。1993年ドーハで韓国に勝った以降、我々は同格の難敵に、いずれかが出場権獲得前に戦い、勝ち切ったことはなかった。97年、ソウルで韓国に勝ったのは先方が出場権を獲得した後だった。ジョホールバルで、イランには90分では勝てなかった。05年、イランにテヘランでは負け、横浜で勝ったのはお互いが出場権を獲得した後だった。09年と13年、豪州にはホームでも敵地でも勝てなかった。
 あの埼玉での、浅野と井手口の得点(しかも、2人ともリオ五輪代表、売出し中の若手だった!)で勝利した試合がいかに貴重だったことか。
 私は単純な人間なのでね、あの勝利だけで、ハリルホジッチ氏を評価するよ。

4.ワールドユース、堂安律と冨安健洋の登場
 久々に出場権を獲得したワールドユース(U20ワールドカップ)。
 まあ、色々あるけれどさ、堂安律と冨安健洋が、イタリアやウルグアイ相手に、個人能力で格段に輝いたことが嬉しい。この年代の選手への要求は色々あるさ、でもこの2人がこの両古豪のいずれの選手よりも、この時点で魅力ある選手だったのは間違いない。
 彼らの将来はわからない。中山も三好も初瀬も、いやほかの選手もみなすばらしいタレントだ。みな、格段のタレントに成長してくれることを。

5.岡野俊一郎氏逝去
 我々は帰れるところを失った。これまで日本のサッカー界が実り豊かな世界になったことに、ただ、ただ、感謝。ありがとうございました。
 木之本興三氏も、2017年に逝去された。私達にはJリーグがある。ありがとうございました。

6.サンフレッチェ塩谷が中東に移籍
 塩谷が「キャッシュをサンフレッチェに残せる」と語った言葉は重い。
 中東も中国も、悔しいけれど、我々には管理できないキャッシュを扱えるのだ。
 これが、初めてとなるのだろうか。
 
7.DAZNマネーをどう使うべきなのか
 私は中下位クラブのサポータだから、ちょっと嫉妬しているのだけれども。
 成績に応じての配賦は、危険なのだよね。リターンを期待して投資して、はずれたときのリスクが大きいから。まあ、FC東京さんもヴィッセル神戸さんも、親会社やスポンサがしっかりしているから、大丈夫かもしれませんが。
 
8.田島会長、小者振りが輝く
 すべて否定されている、夏開幕、夏閉幕シーズンへの拘泥は何なのだろうか。
 筑波大在学時に代表に選考され、古河に加入しながら、「私は指導者になります」と言って引退してから40年近くが経過した。
 協会ご用達の指導者として若年層指導の失敗、「エリートプログラム」の挫折、幾多の失敗を重ねて、まあ協会会長かよ。
 川渕氏と比較して、明らかに小物であるがゆえ、叩きがいもないのだけれど、頼むから「邪魔をしないでくれ」

9.長崎Vファーレン、J1昇格
 松本山雅に続き、2000年代になった以降強化を初めたクラブが着々と成功を収めている。
 既存のクラブにとって、どんどん厳しい時代が来ているのだ。過酷な競争、日本のサッカー界の発展の礎は着実に築かれている。

10.名波浩と中村俊輔、17年ぶりの再会
 あの、2000年アジアカップは、本当にすばらしかった。それ以来の2人の再会。天才の邂逅。
posted by 武藤文雄 at 23:49| Comment(1) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする