2005年05月18日

前園引退?

 前園が引退するらしい。

 

 昨シーズン、Kリーグに所属するも、思うような活躍はできず。セルビア・モンテネグロのチームに活路を見出そうとしたようだが、採用には至らなかった模様。そこで、どうやら引退を決意したらしい。とうとう、あの全盛時の切れ味は戻らなかった訳だ。

 過去にも、前園への永遠の期待については書いた事がある。しかし、期待は叶わず、前園はトップレベルのサッカーを断念したと言う事か。残念だ。本当に残念だ。



 しかし、別な見方もあるように思えてきた。

 95年から96年にかけて、僅か2年間程度だったろうか。前園のプレイは本当に凄かった。中でもあのアトランタの年、96年の前園と言ったら。

 五輪出場を決めたサウジ戦の美しい2ゴール。A代表での、ウルグアイ戦の相馬へのスルーパス、チュニジア戦の森島とのワンツー。

 このあたりの前園のプレイは本当に凄かった。そして、本当に短い期間ではあったが、あの瞬間の輝きを、私は永遠に忘れない。たとえどんなに短くとも、あれほどの光彩を放った選手は、日本代表史においても、そうはいなかった。

 長きに渡って安定した活躍をする選手は素晴らしい。しかし、極めて短い期間かもしれないが、他の誰にも真似できないほど輝く選手の記憶も美しいものなのだ。



 目をつぶれば、あのシャーラムでのサウジ戦の先制ゴールの戦慄と興奮を今でも再生できる。城のリターンを受け、ゴールに近づき、グッと加速して、サウジの名手セベルマウィを完璧に抜き去り、冷静に流し込む。あの加速の一瞬の美しさ。

 もっと極端な事を言えば、あの一瞬だけでも、前園は最高だったのだ。

 

 あの一瞬を思い起こしつつ、前園に乾杯。
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2005年05月17日

娘との会話

 中学生になる娘と、心底嬉しい会話をした。

 

 娘には幼少のみぎりには、随分情操教育をしてやった。フランス予選の国立ウズベク戦に連れて行き、カズが点をを取る度に身体ごと投げ上げてやって、大喜びさせた。シドニー予選の国立戦で先制され、「パパ、日本このままでは負けちゃうよ」とオロオロする娘に対し、「よく見ろ、カザフは日本のボール回しで疲れている。このまま丁寧に攻めれば必ず逆転できる」と断言し、試合後に娘の尊敬を受けたのも愉しい想い出だ。しかしながら、この手の情操教育は往々にして失敗するもので、現在娘はサッカーにはそれほど興味を持っていない。父の愚行と弟の奮闘を、優しげに(哀れみを持って?)見守る程度である。



 さて父娘の会話。まず、娘曰く

「ねえ、お父さん。野球は随分昔からプロがあるけど、サッカーは最近プロができたって言うけど、本当なの?」

 私は驚きました。そんな事、当たり前の事だと思っていたから。さらに娘の追撃。

「最初にプロリーグを作った時はどうやって選手を集めたの?」

 娘よ。君の父は、そのような質問に答えるには世界最高の男なのだよ。かくして、娘に滔々と日本サッカー史について講釈を垂れた訳。そして、結びに私が

「とにかく、ほんの10年ちょっと前までは、日本代表の試合だってガラガラ、お父さんの野次は選手に届く程だった」

 と言ったところ、娘は心底信じられなかった模様。娘にとって、サッカーと言うものは野球と並ぶ日本を代表するスポーツ、日本代表の試合と言うものは、常に満員のお祭り。いや、これは娘にとってのみではないだろう、娘の世代前後以下の若者にとっては、きっとそうなのだろう。



 本当に、本当に、よい時代になったものだ。
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2005年01月20日

サッカーのルール変転への想い

 このような冗談が、何故真剣に議論されるのだろうか。ブラッター氏や日本のTV局が言い出したなら違和感はないが、どうやらウェールズ協会の提案らしい。いくらウェールズがラグビーの方が盛んとは言え、ラッシュ、ヒューズ、サウスオール、ギッグスらを生んだ国(地域)の人々がサッカーを理解していない訳がないので、不思議な気がする。

 もう少し現実的な話で思い出すのは、70年代から80年代にかけて北米で行われたNASL(North American Soccer League)(引退後のペレ、引退間際のクライフ、ベッケルバウアら、本当のワールドクラスのプレイヤが参戦していた)における、オフサイドライン。ゴールラインから35m(つまりハーフウェイラインから1/3ゴール寄り)のラインをオフサイドラインと呼び、それより前方でのオフサイドを取らないルールを採用していたもの。いかにも、アメリカ人が言いそうな「サッカーは点が入らないからつまらない」に迎合したローカルルールだった(もっとも、リーグ戦にも関わらず全ての同点試合を延長戦、PK戦までやってしまった国の人間が、どうこう言える筋合いではないが)。

 当のベッケルバウアが、「このルール下では私はリベロではプレイできない」と語って、中盤でプレイしていたのが印象的だった。もっとも考えてみれば、ペレ、ベッケルバウア率いるニューヨーク・コスモス、クライフ率いるワシントン・ディプロマッツが来日し、日本代表などと試合をしたが、記憶によれば「普通のハーフウェイラインオフサイド」で試合していたはず。やっている当の本人達が、「変則ルール」と理解していた訳だ。ブッシュ政権にもそのような柔軟性があれば...(うんにゃ、政治の話題はやめておこう)。 

 私は古い人間かもしれないが、オフサイドラインをめぐる攻防はサッカーの醍醐味の1つ、そのためには「ハーフウェイライン基準」は決定的に重要なはず。

 

 サッカーのルールは、運用が変わる事(例えば、明確にプレイに関与しない選手をオフサイドにしないとか、後方からのタックルを厳しく取るとか)はあっても、本質的な部分はほとんど変わらないで来た。極端な変更と言えば、上記の冗談にも述べられている、1925年のオフサイドルールの変更(攻撃側の選手とゴールラインの間にいなければならない相手選手の数が「3人以上」から「2人以上」に変更)くらいのものか。

 しいて言えば、90年代前半の「GKがバックパスを手で扱う事の禁止」が、大きな変更と言えるのかもしれない。この変更は「そのバックパスが意図的なものか」と言う、主審の判断にゆだねられる部分が大きく、導入直後は違和感があった。しかし、結果的にはゴールキーパに、視野の広さをより要求するのみならず、ボール扱い能力の向上を求める事になった。つまり、ゴールキーパが、より「サッカー選手能力」を要求されるようになった訳だ。導入当時は違和感があったが、このルール変更は成功だったように思える。

 だからと言って、ウェールズ協会御用達案に、将来同調する事はないと思うけれど。
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2004年05月12日

たえまなき斬新

 NHKの「その時歴史は動いた」と言う番組は、形態や番組名は色々と変わってきているがNHKの老舗番組。スポーツ番組でもノンフィクション番組でもなく、日本史の重要なイベントを判りやすくビジュアルを交えて解題する歴史番組なのだ。来週のテーマは「チンギスハン」だそうだが、主役常連は、平清盛や織田信長や大久保利通や東郷平八郎なのだから、川本泰三や堀江忠男や金容植など、私たちにとっての偉人中の偉人が、これらの歴史の教科書の主役と同列に扱われた事を、素直に喜びたいと思う。

 しかし、どうせ取り上げていただくならば、もう少し歴史的に踏み込んで欲しかったのもまた事実。NHKのWEBサイトによれば、賀川浩氏に取材はした模様だし、「日本サッカー史」(後藤健生氏)も「わが青春のサッカー」(堀江忠男氏)も参考にしたようだ。しかし、全体的なストーリは「ヘディングを10年前に知った素人同然の日本サッカー」、「突然国策で早稲田大チームが選考」、「補強的に加わった金容植」、「現地で知ったスリーバック」など、あまりにステレオタイプなもので残念だった。

 賀川氏への取材を前面に押し立てれば、金容植や川本泰三は当然として、右近、加茂らのプレイの特長を「現在のサッカー言葉」で語ってもらえたはずだ。ついでに、川本、釜本、平山の比較論など。「日本サッカー史」を読むだけで、あの代表チームが用意周到に準備されたものだった事がわかったはずだ。そして、川本泰三が再三各雑誌で語っていた「国内で存分に準備していたから現地で実際にスリーバックを見てすぐに対応できた」と言う自慢話も、愉しいエピソードになったと思う。川本泰三のご子息(早稲田や住金、つまりアントラーズの前身でプレイ)に「親父のサッカー観」を語らせるのも一興では。さらには釜本による「川本の指導」と同様に、李会沢による「金容植の指導」も愉しそう(ここまで来ると悪乗りか)。



 ともあれ、川本泰三が語ったと言う「たえまなき斬新」は、日本のサッカー人全てが忘れてはならない言葉だろう。そして、私たちは様々な迷走を行いつつも、「斬新」を継続し、日本のサッカーをここまで発展させる事ができた。幸いな事に、サッカーと言うスポーツは世界のレベルが高すぎて、ここまでレベルアップしても、なお目標とする高みが無限にある。それでも、いつかアルゼンチンやブラジルやイタリアに追いつき追い越すのだ、と言う「夢」を、今日の番組は再認識させてくれた。頑張ろう。
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2004年05月10日

WM74、最も美しい得点?

 以前よりWM74の薀蓄を散々述べ、スカイパーフェクトの快企画(怪企画?)を、あれこれと絶賛してきた訳だが、今週金曜日に、いよいよ私がどうしても見たい得点場面が放映される。その得点は、ポーランド−アルゼンチンの、アルゼンチンの1点目である。どうしてTV局の宣伝をしてしまうのか、ようわからんが、とにかく青春初期の想い出に浸ることにしようか。

 この試合は1次リーグの初戦。このグループの他のチームは、優勝候補筆頭のイタリアとアウトサイダのハイチ、したがって、両チームにとって、2次リーグ進出のためには非常に重要な試合となる事は試合前から明らか。ポーランドは2年前のミュンヘン五輪を制したのみならず(当時の五輪はプロの出場が認められていなかったので、優勝はステートアマの東欧勢で争われていた)、予選で強豪イングランドを破った事で注目されていた。一方、アルゼンチンだが、この時点では、ワールドカップ優勝経験もないし、前回のメキシコ大会は予選でペルーに苦杯を喫して出場しておらず、もう1つハッキリしないチームだった。

 この試合、ポーランドが3−2で勝つ。そして、この試合はおそらくワールドカップ史上に残る大凡戦なのだ。と、言うのはポーランドの3得点はいずれも、アルゼンチンの無様なミスからだから。まず開始早々、アルゼンチンGKカルネバリがポーランドのCKをファンブルし、それをラトー(この大会の得点王になる)に詰められ失点。さらにその直後、アルゼンチン主将のセンタバックペルフーモ(名DFとして世界サッカー史に残る名手なのですが)のミスパスを拾ったラトーがCFシャルマッフにスルーパスを通して2点差。その後、1点差にアルゼンチンが詰めた直後、GKカルネバリが味方にボールを投げてつなごうとするが、ラトーがそのボールをカット、そのままシュートを決めてしまった。この西ドイツ大会以降8回ワールドカップを見たわけだが、ここまで無様な失点が重なった試合はちょっと記憶にない。

 しかし、大凡戦を無様に敗れたアルゼンチンだが、奪った2得点はいずれも見事なものだった。特に1点目が、今でも鮮明な記憶に残っているのだ。立ち上がりのミスで0−2とリードされたアルゼンチンは、当然ながら猛攻をしかける。そして、右サイドを売出し中の若手FWハウスマンとケンペス(ケンペスはもちろん、ハウスマンも4年後の地元ワールドカップで英雄となる)で崩し、ポーランド守備陣を右に引き付けた上で、左に展開、後方から攻め上がってきたエレディアが、フリーの状態でペナルティエリアのちょっと外から、インフロントキックでカーブをかけ逆サイドを狙い済ましたシュートで、名GKトマシェフスキを破ったのだ。30年近く前中学生だった私は、「何て綺麗なゴールなんだ」と素直に感動しました。

 ところが、このような凡戦の、しかも負けチームの得点など、ほとんど注目もされない。ダイヤモンドサッカーでも、その後の「名場面集」やら「ゴール特集」でも、この得点は無視され再放映はされなかった。つまり、私がこの得点を見る事ができたのは、たったの1回(もっとも得点後のVTRくらいは見たな)だったのだ。

 この「青春の思い出」を再見するのは、少し怖い。もしかしたら、今見ると、何の変哲もない得点かもしれないからだ。しかし、たった1回の映像観戦だが、本当に感動したのだ。たとえ、今となっては「なんだ、こんなものだったのか」と思う事になるにしても、愉しみで仕方がない。
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2004年04月19日

Oh, Diego

 君はまだ生きているのか。この瞬間、君の呼吸は続いているのか、心臓は動いているのか、脳は生きているのか。



 プレイヤとして終わった以降の君には、私は何も期待していなかった。

 ベッケルアウアのようにつまらないが強いナショナルチームを築く事も。

 クライフのように面白くも勝てない単独チームを作る事も。

 プラティニのように自国の要職に就く事も。

 ジーコのように晩節を汚す事も。

 

 だから、君が地獄に行っても、何も変わりはないのだ。何故ならば、君は生きているときから神様だったから。そして、プレイを止めた瞬間に、君は私に夢を提供してくれようがなくなったのだから。私が失うものは何もない。あの94年の合衆国で、君が私に提供してくれるドラマは終わっていたのだから。君が私に提供してくれた記憶だけで、何時間でも何日でも、私は君の事を語る事ができるのだし。



 でも、生き続けて欲しい。お互いまだ43歳じゃないか。
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2004年02月27日

テレ・サンタナ氏のチーム作り

 よい機会なので、テレ・サンタナ氏のチーム作りの概略を振り返ってみたい。たまにはvariety football感覚で(笑)。
 
 氏が代表監督に就任した早々の81年初頭のチームは、ジーコ負傷もあり、基本布陣は以下の通りだった。

           レイチ
エジバウド ルイジーニョ オスカール ジュニオール
      バチスタ   T・セレーゾ
          チッタ
P・イジドロ   ソクラテス  ゼ・セルジオ

 CFの技巧派ソクラテスが後方に下がり、そのスペースをチッタと(驚異的な運動量を誇る)T・セレーゾが利用する。エジバウド、ジュニオールの両サイドバックが大胆に前線に進出し好機を演出するが、そのカバーはバチスタが行う。このメンバ構成で、81年1月にウルグアイで行われたコパ・デ・オロ(歴代のワールドカップ優勝チームを集めた大会)で、当時K・H・ルムメニゲを擁し半年前の欧州選手権を制覇した西ドイツを4−1で大破するのに成功した。

 その後、ジーコが復帰、ジーコのフラメンゴのチームメートで攻撃力のあるレアンドロ(エジバウドは実力的に遜色ないバックアップ)、左足の強シュータのエデルが登場し、81年後半から82年序盤にかけてのメンバは、

         カルロス
レアンドロ ルイジーニョ オスカール 
      バチスタ   T・セレーゾ ジュニオール
          ジーコ
         ソクラテス
   P・イジドロ      エデル
   
となってきた。この頃になると、ソクラテスは事実上のMFとして機能、3トップから変則の4−4−2に切り替わってくる。ジュニオールの暴力的攻撃参加は益々冴え渡ってくる。

 そして、スペインワールドカップ。長年代表から外れていたが、長年イタリアはローマで「ローマ皇帝」と言われながらプレイしていたファルカン、ポストプレイで持ちこたえられるセルジーニョがレギュラとなる。そして、P・イジドロはスーパーサブ、バチスタは守備要員として貴重なバックアッププレイヤの位置付けとなる。さらにソクラテスは完全にMFとして挙動開始点を後方に下げる。結果として

         ペレス
     ルイジーニョ オスカール 
レアンドロ  ファルカン T・セレーゾ ジュニオール
     ソクラテス    ジーコ
         セルジーニョ   エデル
         
 空いている右サイド前方に、レアンドロ、ファルカン、ソクラテス、ジュニオール(笑)らが、次々に進出。守っては、ファルカンの実に知的なカバーリングと、T・セレーゾの驚異的運動量で、両サイドバックの攻撃参加の後方をカバーした。
 これが、スペインワールドカップで次々と歴史的な美しいサッカーを見せてくれたチームだ。選手達が「組織化した混乱」と自慢していた本当に美しいサッカーだった。(余談ながら、セルジーニョのポジションには、若きカレッカが入る予定だったが、負傷でスペイン大会を棒に振る。もし、カレッカが万全でスペインに登場していたらと思うと...)。

 つまり、テレ・サンターナ氏は、中軸メンバを決め、少しずつ新しい選手を入替え、選手の相対関係も見直しながら、組織的でイマジネーションあふれるチームを作り上げたのだ。決して、固定メンバに拘泥したり、出来が悪いと最終ラインを入れ替えるような采配は振るわなかった。
 頼むよ、ジーコさん。もし、今の仕事を継続しようとするならば、あなたには最高の師匠がいるのだから、外見的コンセプトを真似するのではなく、本質的な内容を真似してくれよ。どうせ、よくブラジルに帰るのだったら、会うべきはテレ・サンターナ氏。そして議論すべきは欧州選手招集の早期化ではなく、チームの作り方。
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2004年02月15日

WM74、ブラジル−ユーゴ

 今日は現実逃避。
 
 WM74の開幕戦である。
 解説の後藤氏が「こんなに面白い試合だったのか」と語ったのに完全同意。若い頃はこの年のブラジルと言うだけで「つまらないチーム」と思い込んでいたのだろうか。さらに笑ったのが「当時は交替をほとんど使わない試合が多かった」と言う話題。アナウンサ共々、最近のあるチームに触れる事を...(以下自粛)

 さて、まずジャイッチ。この大会は本調子でなかったと言うスーパースター。私自身、印象が希薄だったのだが、後半引き気味にポジションを変え、オブラックと共に中盤を作り、外から見事な組立を見せた。当時の私は「外からのゲームメーク」など高級な理解はなかったから...ポストに当たるシュートへのクロスといい、なるほど大変な名手だったのだ。
 そして、大好きなリベリーノ。ジャンプしながらアウトサイドにかき出すフェイントを見ただけで、嬉しくなってしまった。FKからのトリックプレイもお見事(どう見ても、渾身の力でゴールを狙うようにしか見えなかった)。
 ただ、この2人の左利きの歴史的名手だが、残念ながら登場頻度が少なかった。このあたりが、今大会での印象が今一歩だった所以なのかもしれない。引き続きの試合を期待しよう。

 そして、若きエメルソン・レオン。私はこのゴールキーパが大好きだった(あんなに面白い性格だとは、知る由も無かったが)。オブラックのえぐりからアチモビッチの決定機を防いだ飛び出しは、もちろん見事だった。しかし、むしろこのGKはそのようなピンチの防御よりも、クロス、ロングシュート、DFとGKの間のスペースなどを、落ち着いた位置取りで防ぐところに、妙味があった。この日も、その記憶を堪能させてくれた。

 92年ナビスコカップ決勝、ヴェルディ−エスパルス戦。Jリーグ開幕直前に行われたカップ戦。アジアカップの初制覇直後だった。友人と、「アジアチャンピオンになったし、国立競技場も満員になるし、よい時代になったものだ」と喜んでいた記憶があるから、当時は幸せのレベルが低かったものだ。
 試合は後半、戸塚が実に彼らしい後方へ引く動きで敵陣前にスペースを作った上で、そのスペースに丁寧なパス、当然のようにサイドから走りこんだ(アジアカップで「キング」に昇格した)カズが落ち着いて決め1−0。エスパルスは終盤猛攻。終了間際、エスパルスは、エースのトニーニョのヘディングシュートがポストを掠め、逸機。「これでヴェルディが勝った」と言う雰囲気が競技場中に漂った。その時、オーロラビジョンにレオンが嘆息するのが大写しになった。それを見て、私は感動しました。
「ああ、あのレオンが日本にいるのだ」
と。
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2004年02月06日

18年前のクアラルンプル

 さて、昨日も引用した大住氏のマレーシア論でも触れられている、前回の対戦である86年メルデカ大会の準決勝(現地ではメルデカと呼んでいたのでそう呼称する)。実は、この大会を観戦しているのだ。残念ながら、肝心のマレーシア−日本は観戦せずに帰国したが、1次リーグ2試合、日本−シリア、日本−中国Bを観戦した。



 2つのグループに分かれて1次リーグを行い、上位2チームずつが準決勝に進出するレギュレーションで行われたこの大会。大住氏が述べているように、日本は準決勝でマレーシアに惜敗するが、非常によいサッカーを見せてくれた。

 マレーシアのグループは、タイ、インド、そして軍のチームを派遣した韓国(今で言う尚武だったのだろうか)などで構成された。韓国軍は頑健な選手を揃えてはいたが、技巧、アイデア共に不足したつまらないチームで早々に脱落。マレーシアはエースのザイナル・ハッサン(後方からフィードを受けて、一気に振り向いて前進する突破が魅力的なCFだった)を軸に問題なく1位で予選通過。ピアポン(どうにも体調が悪そうで、2年前に日本を粉砕した時の勢いはなかったが)率いるタイと、技巧的な選手を並べたインドが2位を争うが、インドが抜け出した。

 一方、日本のグループは、チェコスロバキアリーグの強豪、シグマ・オモローツ、シリアA代表、中国B代表と粒揃い。しかも日本は主将の加藤久が本業(?)の大学の都合で合流が遅れると言うハンディを負っていた(この大会は準決勝のマレーシア戦のみ出場した)。日本は初戦でシグマに1−2で惜敗し、早くも剣が峰に立たされる。しかし、第2戦のシリア戦、序盤敵の攻撃を許すが、石神とこの大会が代表デビューとなる金子のCBコンビが好調。そうこうしているうちに宮内、西村のボランチ(当時、ボランチなどと言う高邁な言われ方はしていなかったが)コンビが機能し始め、木村、越後(これまた代表デビュー)の見事なパスワークから、松浦が決め先制。さらに原が突き放し、2−1で快勝。中国B戦も、金子の先制、原の大爆発などがあり、4−1と大勝した。



 今思っても、この時の日本代表は悪くなかった。前年のワールドカップ予選で、最終予選まで進出したメンバの多くはまだ20代半ば。そのチームに、リーグ戦で充実していた金子、松浦の中堅、越後、谷中、堀池の若手を加えた編成。加藤久不在のため、木村が腕章を巻き、各選手が本来の得意なポジションに配置されていた。金子、石神、都並、勝矢らによる堅固で忠実な守備、宮内と西村の早い球出し、木村と越後の連携によるゲームメーク、原、松浦、手塚と技術に若干の課題はあるが強さと得点力のあるFW陣。

 このメルデカ大会は日本にとっては、直後のソウルアジア大会の準備と言う位置付けだった。この強力なチームに、ドイツから帰国した奥寺が加わる事で、アジア大会では相当やれるのではないかと期待された。しかし、選手層が厚くなり過ぎたチームに監督の石井氏が消化不良を起こし、バランスの取れたチームが崩れてしまい、クウェート、イランに連敗し、あえなく1次ラウンド敗退。

 さらに悪い事に、このアジア大会敗戦で、石井氏はすっかり弱気になり、11人のほとんどを守備が得意な選手にすると言う怪作戦を展開。それでも、翌年のソウル五輪予選はよく戦い中国と覇を競うところまでは行くのだが。そして、その後任監督の時代は思い出したくも無い。



 結局、このメルデカ大会を最後に、選手が当たり前に得意とするポジションを与えられると言う、普通で堅実なチーム構成による日本代表は、しばらく見られなくなる。そして、我々の手にそのような日本代表が帰ってくるのは、6年後にハンス・オフト氏が招聘された時まで待たねばならなかったのだ。

 そのような意味でも、あの灼熱とスコールの18年前のクアラルンプルでの、日本代表を見られた事は、本当に幸せだった。
posted by 武藤文雄 at 23:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年02月01日

岡野俊一郎氏 対 松平康隆氏

 楽天の三木谷社長が、故郷神戸のヴィッセルの経営に乗り出し、様々な新機軸を打ち出している。リバウドや藤田の獲得も噂されたが、イルハンと藤本に落ち着きそう。昨シーズン、J1残留争いをしていた頃が妙に懐かしい。ああ、あのシジクレイのシュートさえ決まらなければ(泣)。



 と言う事で、芸能人を用いるなど、観客動員にも様々なアイデアが出ているようだ。確かにサッカーだって、娯楽に過ぎず、まずは多くの人に来てもらうの肝心なので、このような営業活動があってもよいかもしれない。

 しかし、私には、正直違和感のある客引きである。JSL時代も、このような芸能人の手引きでの集客が試みとして行われた事があったが、あまりうまく行かなかった記憶があるのだ。たまたま、芸能人目当てで来場した方が、引き続き行われるサッカーの魅力をいかが評価するのだろうか。



 と、考えて昨今のバレーボール界を思い出した。昨年国内で行われたバレーの世界大会、若手のタレントを前面に押し出しての騒動である。もっとも、あれを顰蹙しても始まらない。バレーボールは、昔から見事なショーアップを見せたいたのだ。72年のミュンヘン五輪金メダルは、準決勝、決勝の信じ難い逆転劇から、本当に感動させられた。しかし、今でも感心するのは、大会前に「ミュンヘンへの道」(と言うタイトルだったと記憶しているが)と言う、猫田、森田、横田、大古と言ったバレーのスター選手たちを主役としたアニメが、日曜のゴールデンタイムに放送されていたのだ。バレーボール業界は、マスコミの重要性を理解し、特に若い女性ファンをターゲットとしたマーケティング活動を、今を去る事30年以上前に展開していたのだ。

 その後も、バレーは大きな大会がある度に、ジャニーズとまでは行かなくても、TV局の視聴率UPと連動した派手なショーアップを行ってきた。そして、その中心となっていたのが、ミュンヘン金メダル監督の松平康隆氏である。ミュンヘン以降、バレー協会の重鎮となった松平氏は、軽妙なTV解説で、日本の二流選手をあたかも世界の超一流選手と持ち上げながら、これらの大会を盛り上げていた。



 一方、バレーの松平氏と対象的に語られたのが、岡野俊一郎元日本協会会長である。実はこの両氏は、日本のスポーツ界きっての国際派。88年のオリンピックは、ソウルと名古屋が開催を争った。そして、日本国内には「名古屋勝利」と言う楽観論が漂っていた。しかし、あえなくソウルに完敗。直後に「『名古屋はソウルに勝てない』と主張した、たった2人の日本人が岡野氏と松平氏」と言う記事を読んだ記憶がある。 

 

 さて、我らが岡野氏。ご承知のように、弁舌はさわやか。しかし、日本選手の事は(あ、岡野さんの場合はサッカー選手ですよ)誉めない。せっかく、日本選手が好プレイを見せても、「今のプレイは悪くなかったが、世界標準からすればまだまだ」と辛口の批評を連発。「ダイヤモンドサッカーの時くらいに日本人を誉めればいいのに」と再三想ったものだった。



 今、我々は完全に勝利を手中に収めている。岡野氏の勝利である。



 と言う事で、三木谷社長。ショーアップはくれぐれも慎重に。
posted by 武藤文雄 at 23:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする