さて、昨日も引用した
大住氏のマレーシア論でも触れられている、前回の対戦である86年メルデカ大会の準決勝(現地ではメルデカと呼んでいたのでそう呼称する)。実は、この大会を観戦しているのだ。残念ながら、肝心のマレーシア−日本は観戦せずに帰国したが、1次リーグ2試合、日本−シリア、日本−中国Bを観戦した。
2つのグループに分かれて1次リーグを行い、上位2チームずつが準決勝に進出するレギュレーションで行われたこの大会。大住氏が述べているように、日本は準決勝でマレーシアに惜敗するが、非常によいサッカーを見せてくれた。
マレーシアのグループは、タイ、インド、そして軍のチームを派遣した韓国(今で言う尚武だったのだろうか)などで構成された。韓国軍は頑健な選手を揃えてはいたが、技巧、アイデア共に不足したつまらないチームで早々に脱落。マレーシアはエースのザイナル・ハッサン(後方からフィードを受けて、一気に振り向いて前進する突破が魅力的なCFだった)を軸に問題なく1位で予選通過。ピアポン(どうにも体調が悪そうで、2年前に日本を粉砕した時の勢いはなかったが)率いるタイと、技巧的な選手を並べたインドが2位を争うが、インドが抜け出した。
一方、日本のグループは、チェコスロバキアリーグの強豪、シグマ・オモローツ、シリアA代表、中国B代表と粒揃い。しかも日本は主将の加藤久が本業(?)の大学の都合で合流が遅れると言うハンディを負っていた(この大会は準決勝のマレーシア戦のみ出場した)。日本は初戦でシグマに1−2で惜敗し、早くも剣が峰に立たされる。しかし、第2戦のシリア戦、序盤敵の攻撃を許すが、石神とこの大会が代表デビューとなる金子のCBコンビが好調。そうこうしているうちに宮内、西村のボランチ(当時、ボランチなどと言う高邁な言われ方はしていなかったが)コンビが機能し始め、木村、越後(これまた代表デビュー)の見事なパスワークから、松浦が決め先制。さらに原が突き放し、2−1で快勝。中国B戦も、金子の先制、原の大爆発などがあり、4−1と大勝した。
今思っても、この時の日本代表は悪くなかった。前年のワールドカップ予選で、最終予選まで進出したメンバの多くはまだ20代半ば。そのチームに、リーグ戦で充実していた金子、松浦の中堅、越後、谷中、堀池の若手を加えた編成。加藤久不在のため、木村が腕章を巻き、各選手が本来の得意なポジションに配置されていた。金子、石神、都並、勝矢らによる堅固で忠実な守備、宮内と西村の早い球出し、木村と越後の連携によるゲームメーク、原、松浦、手塚と技術に若干の課題はあるが強さと得点力のあるFW陣。
このメルデカ大会は日本にとっては、直後のソウルアジア大会の準備と言う位置付けだった。この強力なチームに、ドイツから帰国した奥寺が加わる事で、アジア大会では相当やれるのではないかと期待された。しかし、選手層が厚くなり過ぎたチームに監督の石井氏が消化不良を起こし、バランスの取れたチームが崩れてしまい、クウェート、イランに連敗し、あえなく1次ラウンド敗退。
さらに悪い事に、このアジア大会敗戦で、石井氏はすっかり弱気になり、11人のほとんどを守備が得意な選手にすると言う怪作戦を展開。それでも、翌年のソウル五輪予選はよく戦い中国と覇を競うところまでは行くのだが。そして、その後任監督の時代は思い出したくも無い。
結局、このメルデカ大会を最後に、選手が当たり前に得意とするポジションを与えられると言う、普通で堅実なチーム構成による日本代表は、しばらく見られなくなる。そして、我々の手にそのような日本代表が帰ってくるのは、6年後にハンス・オフト氏が招聘された時まで待たねばならなかったのだ。
そのような意味でも、あの灼熱とスコールの18年前のクアラルンプルでの、日本代表を見られた事は、本当に幸せだった。