2014年01月02日

メキシコ五輪3位決定戦を堪能

 昨年8月24日にNHK放映されたメキシコ五輪3位決定戦の完全録画中継のテレビ桟敷観戦記です。中継直後に書き始めたのものの完成に至らず、正月休みに完成させました。結構未完成の文章が多いのは、反省しきりなのですけれども。


 もし「日本代表史で最も重要な試合を3つ選べ」と言われたら、「ベルリン五輪のスウェーデン戦、このメキシコ五輪の3位決定戦、そしてジョホールバル」と答えるのかなと思う。そのメキシコ五輪3位決定戦のフルタイム映像を、NHKが中継してくれた。
 考えてみると、この3位決定戦は釜本の2得点と試合終了の瞬間の映像しか見た事がなかった。今回の放映案内での説明によると、日本国内にフルタイムの映像が保存されていなかったとの事。そう言う事だったのか。そして、メキシコでたまたま映像が見つかり、今回の番組が成立したと言う。僅か45年前の歴史的試合の映像が適切に保存されていなかった事を嘆きつつも、この映像を堪能できた事を素直に喜びたい。

 そして何より嬉しかったのは、実に見事な試合だった事だ。
 技巧に優れ献身的な中盤、組織的で勇気あふれる最終ライン。時代の相違から、守備ラインの深さと前線でのチェックの甘さは否めない。また、最前線に1人で大仕事をしてしまうハイパーなストライカがいるので、トップに精度のよいボールを入れれば、それだけで押し上げが甘くとも攻撃が成立してしまっているのも確かだ。けれども、基本的には今も見慣れているおなじみの日本風サッカーが展開され、成果を上げている。とても愉快な試合映像だった。

 試合を振り返る前に、当時の五輪のレギュレーションをおさらいしておきたい。当時、五輪にはプロフェッショナルは出場できなかったのだ。まず、この事を理解できない若い方もいらっしゃるかもしれないが、サッカーに限らず五輪と言うのはそのような大会だったのだ。
 たとえば、4年前の東京五輪では、イタリア代表が一部選手がアマチュア規定違反と言う事で、大会直前に棄権を余儀なくされている。問題になったのは、既にインテルで欧州制覇をしていたファケッティやマッツオーラと言った後年のスーパースタアだったと言う。4年後の72年札幌冬季五輪において、大会直前にアルペンスキーの金メダル候補選手が、用具の宣伝に関与したとの事で追放になった「事件」もあった。
 したがって、日本がこの大会で対戦したブラジル、スペイン、フランス、そしてメキシコと言った国は、若いプロフェッショナル契約をしていない選手を集めたチームだった。実際同大会のメンバを見ても、上記サッカー強国のメンバで馴染み深い選手はほとんどいない。強いて言えば、フランスのラルケがプラティニ時代前のフランスフル代表の中盤のリーダに成長したくらいか。もし今日の日本でそのようなチームプレイを組むとしたら、大学選抜とユース代表を組み合わせたようなチームとなるだろう。
 一方で、東欧だけは、国家社会主義の国だった事もあり、たとえ選手がサッカーで生計を立てていても、給与は国が支給する形態ゆえプロフェッショナルではないと言う判断で、事実上のフル代表が五輪に出場していた。日本が準決勝で大敗したハンガリーは、欧州トップクラスの代表チームだったのだ。また、選手イビチャ・オシムは、そのような「アマチュア」と言う立場で、ユーゴスラビア代表として4年前の東京五輪に出場していた事になる。
 つまり、乱暴にたとえてみると、当時の五輪は、東欧やアジアの代表チーム、南米や西欧のユース代表が集まる独特の大会だったのだ。誤解しないで欲しいが、私は「だからメキシコ五輪銅メダルは、巷で騒がれているほどの偉業ではない」と言いたいのではない。むしろ、正確に当時の状況を把握しておく事こそ、この成績の偉大さは際立つと考えている。
 まず、この銅メダルは36年のベルリン五輪から80年のモスクワ五輪までの間で、欧州外の国が獲得した唯一のメダルだった(五輪へのプロフェッショナリズム導入がはじまった84年ロサンゼルス大会以降、プロフェッショナル選手が登場し南米やアフリカ諸国が好成績を収めているのは周知の通り)。さらに、我が日本代表チームが、ワールドカップを含め世界大会に向けてアジア予選を勝ち抜くの成功したのは、96年のアトランタ五輪以前は、メルボルン五輪とメキシコ五輪だった。この2点だけでも、メキシコ五輪実績の偉大さは際立つ。

 さて、試合。
 当時はいわゆる4-2-4システムが主流だった訳だが、日本は守備的に戦うためにカバーリングのためのスイーパをおいた5-2-3システムを採用していた、とよく言われる。しかし、映像を見た限りだが、いわゆる両翼の杉山(大杉山)と松本育夫は多くの時間帯、中盤に引いており、5-4-1と呼ぶ方が適切に思えた。
 嬉しいのは、中盤の質が高い事。敢闘型ファイタでボール奪取に優れる渡辺正。技巧的でエレガントで高精度のパスを操る宮本輝紀。落ち着いたボールキープができる松本育夫。そして、速さが格段なのに加え縦に出た瞬間のボール扱いが正確な大杉山。献身と技巧に優れた中盤が基軸の戦いとなるのは、今日と全く同じ。もちろん、全員のファーストタッチや身体の向きなど、今日ほど洗練されていない。だから、今の代表と比較して、チームとしてのボールキープには課題はあるのは一目瞭然だが、各選手の献身やできる事を確実にやる徹底振りはすばらしい。
 最終ラインは、今日では考えられない深いラインに位置する鎌田をスイーパとするやり方。おもしろいのは2ストッパが森と小城、2人とも本来は中盤で創造的な展開を得意とする選手。しかし、この試合ではメキシコの(少々短調な)クロスをはね返し続け、敵FWに対して鋭い当たりを継続した。両サイドバックの片山と山口は正に職人、厳しいマークで進出してくる敵を押さえ込む。GK横山の横への反応は、なるほど「動物的」な鋭さがある。
 これらのスペシャリスト10人の前に、ハイパーなストライカがいた訳だ。

 キックオフ直後、右サイド松本育夫のクロスがファーに流れかけたのを、釜本は強引に左足ボレーで合わせ、枠に飛ばす事に成功する。シュートそのものはGK正面で防がれたが、これはすごかった。おそらく、松本が蹴る瞬間に、釜本は後方に移動し、敵ストッパの視野から「消えた」のだろう。また、松本と釜本の間で、「どこに蹴るか」、「どこで受けるか」の約束事が完全にできていたのだろう。さらに、やや外に流れたボールに対し、1度巧く身体を外に開いて腰をしっかりと入れて、ある程度の強さのシュートをグラウンダで枠に飛ばす、釜本の技術の確かさ。
 解説していた釜本氏が「松本さんのクロスの精度がもう少し高ければ、決めていたのに」と語ったのはご愛嬌。それにしても、約束事通りのパスを受け、 強引に枠に持っていく事ができるストライカが、どんなに頼りになる事か。
 幾度も幾度も映像を見てきた先制弾。でも、その組み立てを堪能したのは、初めてだったが実に見事だった。中盤から宮本輝起がボールを持ち出し、クサビを釜本に。釜本は左サイド後方の大杉山に落とし、左サイドに飛び出す。そこに大杉山から柔らかいパス。左サイドに流れた釜本は、身体を入れたキープで、大杉山が上がる時間を稼ぎ、丁寧に大杉山にボールを渡し、中央に戻る。大杉山がサイドバックを揺さぶっている間に中央に戻った釜本に、大杉山が精度もタイミングも格段なクロス。後は、釜本自身の「ミスキック」と言う証言と共に歴史である。それにしても、「ミスキック」の前のトラップの絶妙な事。左斜め前方のここしかない場所へトラップする事で、「敵DFを外す」と「自分が強くボールを蹴る事ができる場所に置く」の2つを同時に成功させている。
 過去2点目の映像を再三見て、よく理解ができなかった事があった。大杉山のセンタリングが、ゴールラインぎりぎりをえぐったものではないのに、釜本へのマークが随分と緩かった事だ。今日と異なり、守備のプレッシャが厳しくない時代だった事はあるのだが、それにしても。この試合の前半映像を通して観る事で、その疑問が解けたように思えた。他の場面でもそうだったのだが、えぐらずにゴールラインに平行のクロスを正確に入れる事が、このチームの約束事だったのだ。上記した開始早々の松本のクロスも、松本が蹴った場所はそれほど深くはなかった。また、2対0になった後の前半終了間際、大杉山からのファーサイドのクロスを、釜本が見事なヘディングで落とし、宮本が全くのフリーでシュートを打った場面もその典型だった。
 できるだけゴールライン近くまでに進出してクロスを入れるのは、サイド突破のセオリー。しかし、その場合トップの選手はシュートするでなく囮となり、後方から進出してくる選手が狙う形が多くなる。しかし、このチームの場合、中央で待ち構える釜本を囮に使うのは得策でなく、必ず釜本が絡む事ができるクロスを上げる方が得策と言う、チームとしての意志統一があったのだろう。実際、大杉山や松本がよいクロスを上げても、飛び込むのは釜本だけと言う状況が多かった。それでも、崩せるのだからすごい。正に作り込まれた連係の妙だな。
 それにしても、この2点目の釜本のトラップがまた見事な事。先制点では敵ストッパを外すために左側に止めたのに対し、ここではストッパの寄せの前で利き足で打つ事ができる右斜め前への完璧なトラップ。「巧い」と言ってしまうとそれまでだが、高い意識での徹底した反復練習の賜物だろう。そして、低く強く押さえた強烈なインステップキック。そのフォームの美しい事。
 釜本がすばらしいのは、敵陣直前だけではなかった。よい位置取りで後方の選手がパスを出しやすい地点に顔を出し、そのフィードを柔らかく受けて、確実にキープし、味方に適切につなぐ。これだけチームプレイに優れながら、得点力あるストライカは、歴史的にも世界的にも、そうはいない。釜本御大は引退後「とにかく俺が点を取ればそれでよい」的な自分勝手に聞こえる事ばかり発言しているが、あれは照れからなのだろう。
 さらに後半、前掛りになったメキシコの裏を突き、幾度となく単身で逆襲を仕掛ける。これがまた絶妙。巧みな位置取りでボールを受け、大杉山や松本のサポートを待たずに、強引な(しかし柔らかい)ドリブルで前進する。当然ながら、その前進が目的化していない。釜本の前進は、あくまでも己が得点する事を目的とした手段なのだ。そして、幾度となく単身逆襲速攻を成功しかける。僅かな幸運があれば、この試合は3点差になってもおかしくなかった。

 改めてこの映像を堪能し、デッドマール・クラマー氏のバックアップを受けた長沼監督、岡野コーチの手腕に感心した。そして、その後の歴史も考えた。
 これだけ質の高いサッカーを見せながら、メキシコ五輪後日本サッカーは長い期間アジアでもほとんど勝てなくなる。これは言い古された事だが、一部の代表選手のみを集中的に強化しなければならなかった事、当時まだ若かった釜本が病魔に倒れた事などが要因と言われる。しかし、このような優れた見本が、どうして直接円滑に後輩たちに伝授されなかったのか。
 また、メキシコ五輪の中心選手の多くが、後に指導者となるが、残念ながら「よい指導者」と言われる存在にはなっていない。今は亡き森氏と渡辺氏、晩年の松本氏が例外なくらいか。クラマー氏と言う最高級の指導者の直接指導を、長期に渡り受けた名手達の多くが、何故「教える立場」で成功しなかったのか。
 もっとも、考えてみれば、日本代表がアジアで思うように勝てなかったのは、せいぜい15年か20年程度。1968年のメキシコ銅メダルから1992年にアジアカップ制覇までは24年(85年のワールドカップ最終予選進出までは17年)。そして、そのアジアカップ制覇からもう21年以上経った事を考えれば、メキシコ五輪以降の停滞時期も、それほど気にする事はないのかもしれないが。

 いずれにしれても、我々がカミカゼカマモトをスピアヘッドにした実に見事なチームを所有していた事を、この映像で再確認できた。実に誇らしい映像だった。
posted by 武藤文雄 at 16:50| Comment(2) | TrackBack(0) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年12月31日

2013年10大ニュース

 今年1年お付き合いいただき、どうもありがとうございました。
 53歳になりました。おかげさまで、本業も充実し、思うように講釈を垂れる事が叶わない日々が続き、少々フラストレーションが溜まる年でした。「もう少し頑張れ」と、お叱りも頂戴しました。すみません、忙しいのですよ。何とかTwitterも併用し、日本サッカーの進歩と退化に、粘り強く着いて行きたいと思っています。

 そして、今年はベガルタ仙台が、ACLに出場と言う、数年前には考えられない幸せな経験を積む事ができました。恥ずかしい事に、6試合中5試合しか参戦できませんでした。南京での江蘇舜天戦の引き分け、ユアテックでのFCソウルへの快勝、グループリーグ最終戦のイルマトフ氏の大誤審。すばらしい経験でした。日本代表のサポートとは異なる世界を体験しました。この参戦経験で、また新しい風景が見えてきたような気がしています。
 そして、日本代表…そこから入ります。

1. ワールドカップ最速出場決定の日本代表
 セルビア戦とベラルーシ戦の停滞に対する不満山積が、一層今の代表チームの凄みを示しているのだろう。ブラジルに完敗し、イタリアに点の取り合いをして苦杯した時にも誹謗中傷の嵐だった。ところが、本田と岡崎の体調が整った瞬間に、オランダとベルギーを圧倒。
 岡崎、本田、香川、柿谷、大迫、大久保、工藤、清武、エヒメッシ、そして憲剛。いったい、どうしたらよいのだ。もちろん、俊輔もいるし。過去ではあり得なかったような強力攻撃陣でブラジルへ。もう、生でベルギー戦の3得点を見て、何かどうでもよくなってきた。いつからいつまで休暇を取るべきか、サポータの真価が問われる日が近づいている。もう、面倒くさいから、後先考えず前代未聞の休暇をとろうかとも思っているけれど。

2. 中村俊輔の悲劇
 勝っても、負けても、あんなに絵になる男はそうはいない。なるほど、スコットランドで全てのタイトルを獲得したはずだ。
 と言う事で、明日。悲劇のヒーローも、歓喜のヒーローも、どちらも似合うのですよね。どっち見ても、心打たれる国立競技場に行くのが、愉しみなのです。

3. 2ステージ制導入
 何が残念かと言うと、J当局が真剣に金儲けに向き合っていない事。
 本当に身体を張って金儲けをしたいならば、何かを捨てなければいけないのだよ。何も捨てずに、陳腐な思いつきを無理やり実行しようとするから、誰の支援も得られない。
 本当に盛り上がるプレイオフをしたいならば簡単だ。1部リーグのチーム数を減らし、プレミアム化するのもアリかもしれない。
 いや、外資の導入を考えてもよい、出資企業なりスポンサ企業にクラブの冠権を渡してもよい、リーグ戦の各週のスポンサも募るのも一手段だ。そこまで物事を突き詰めて考えてくれれば、心あるサポータは、皆協力するさ。皆が当事者なのだから。そして、皆が貧乏の辛さを理解しているのだから。
 小野裕二や金崎夢生のように、国際試合でもJリーグでも必ずしも大きな実績を残していない選手でも、欧州に簡単に買われるようになってきている。カレン・ロバートのようなJでも欧州でも成功したとは言えない選手が、東南アジアから高額のオファーがあると言う。そのような厳しい現実を見据えて、何をしたらよいのか。どう考えても、このプレイオフ導入が有効とは思えないのが悲しい。
 この愚行が「終わりの始まり」なるのかどうか。我々の真価が問われているのかもしれないが。

4. 次々と新しいストライカ登場
 いったい、どうしてしまったのだろうか。何が起こったのだろうか。
 柿谷と大迫。工藤、豊田、川又。新たな境地を開いた大久保。チームを連覇に導いた寿人。前田はチームではつらい1年だったが、コンフェデ杯では存在感を見せた。
 「点を取ることだけが悩み」だったのが、我が代表チームだったのではなかったのか。いや、めでたい。

5. 徳島ヴォルティス、J1昇格
 四国からのJ1昇格。トップリーグに地域差がどんどんなくなっていると言う事だ。Jが本当の意味での全国リーグになっていると言う事だ。我々全員の勝利。
 もっとも、来シーズンのJ1は一層過酷な戦いになる。あの嫌らしい小林伸二氏が率い、大塚製薬の強力バックアップのあるクラブが参入するのだから。

6. レッズ対アントラーズ誤審
 ここで、執拗に講釈を垂れた。本当に本当に、不思議な誤審だった。

7. ジュビロ磐田降格
 ジュビロ(前進はヤマハ)は、Jリーグ開始時に参加していない。しかし、この不参加は、甚だ不合理な理由によるものだった。そう考えると、83年シーズンにJSL1部に復帰以降、約30年振りにトップリーグから実力で降格した事になる。しかも、このクラブは90年代後半から2000年代初頭にかけて、精強を誇った名門。ある意味では、ガンバやFC東京が降格した以上の大事件だったのだ。
 しかも、その降格劇が、あまりに無抵抗だった。
 やはり、本田技研の選手OBを、降格ストップの切り札として招聘したのがいけなかったのだろうか。

8. 意味不明なJ3導入
 なぜ、JFLではいけないのか。
 なぜ、異なるロゴを採用するのか。
 なぜ、若年層代表チームを無理やり参入させるのか。
 誰か合理的な説明をお願いします。
 せっかく、昨シーズンには、J1から地域リーグまで一気通貫が成立したと言うのに。

9. サッカーマガジン廃刊
 数年前、牛木氏のコラムを廃止した時に、サッカーマガジンは貴重な差別化手段を自ら切り捨てていた。
 驚きがなかったとは言わない。でも、後発の競合と差別化する術がなければ仕方がない。雑誌ビジネスの厳しさはよくわかる。だからこそ、他の競合に真似できない仕掛けを作れなければ、こうなってしまうのだ。
 ともあれ、時代ですね。色々、考えます。

10. 森保一監督の成果
 J1を2連覇。天皇杯でも決勝進出(しかも準決勝では、終盤に寿人を交代させる度胸)。ACLを捨てる胆力。
 我々は、大変な監督を入手しつつあるのかもしれない。まずは明日の決勝戦。
 
posted by 武藤文雄 at 23:58| Comment(3) | TrackBack(0) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年ベスト11

毎年恒例のいい加減な選考基準のベストイレブンです。今年は久しぶりに、ベガルタの選手を選ぶ気にならなかったのが寂しい。

GK 西川周作
 あの準決勝のPK戦を見せられてしまっては。代表でも、あれだけ幾度も川島におバカを見せられているだけに、西川に定位置を委ねるべきだと思うのだが。ボール扱いがよいだけに、組み立ての精度も上がると思うのだが。

DF 小林祐三
 元々、大好きな守備者。もう少し上背があれば、センタバックとして代表の中核にもなれる人材だと思っていたのだが。マリノスに移籍以降は、守備は完璧で、攻撃も巧みなサイドバックに転身した。内田と酒井宏樹の壁は厚いが、代表でも活躍を期待したいのだが。
DF 中澤祐二
 やはり何のかの言っても、日本のベストDF。知性、決断、高さ、献身。追い越す選手が出て来ないのは残念でもあるが、当然でもある。闘莉王もそうなのだが、ブラジルでやはり見たい。
DF 徳永悠平
 東アジア選手権でのすばらしいプレイに感謝。吉田麻也や酒井高徳が、軽率なプレイを見せる度に、徳永を呼びたくなるのは私だけだろうか。本職は競争激しい右サイドバックだが、左サイドもセンタバックもこなせ、何よりその堅実さは貴重だ。

MF 山口螢
 自陣でのミスパス、奪ってから軽率に奪われる、決定機をふかす、不満は多い。しかし、あれだけ中盤で止めてくれるのだから。渡辺正、藤島信雄、宮内聡、明神智和の系譜を次ぐ、「何があっても最後まで戦い抜いてくれる中盤戦士」候補。「候補」が取れれば…
MF 中村俊輔
 遠藤は攻撃全体の演出。だから、粘り強く組織守備を維持すると言う対抗手段がある。憲剛は精度とタイミングと速さが格段のラストパス。だから、パスの受け手を厳しく押さえ込むと言う対抗手段がある。けれども、全軍を指揮しながら、僅かな隙を作り最後に悪魔のようなシュートを狙って来る俊輔を、どうやって防げばよいのだろう。
MF 本田圭祐、岡崎慎司
 日本代表の中核選手が、代表でも欧州の自クラブでも、圧倒的、決定的存在である事の喜び。世界中すべてのライバルに「俺の本田」、「俺の岡崎」と胸を張って語れる。

FW 大久保嘉人
 31歳での完成。若い頃から、格段にシュートが巧かったタレント。南アフリカでは得点以外の献身で日本を支えた。そして、ブラジルでは、その能力の全てで我々に歓喜を。
FW 柿谷曜一郎
 新しいパオロ・ロッシ。「新しい」が取れれば…
FW 大迫勇也
 新しい釜本邦茂。「新しい」が取れれば…
posted by 武藤文雄 at 22:23| Comment(1) | TrackBack(0) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年01月25日

近江達先生逝去

 1960年代に大阪の枚方FCを創設し、判断力と技巧に優れたタレントを育成する方法を理論、実践の両面で具現化した近江達先生が、1月11日に享年83歳で逝去された。心よりご冥福をお祈りします。

 若い方々には、なかなか具体的なイメージが湧かないだろうが、70年代の日本サッカーの技術レベルは非常に低かった。日本代表選手でも、フリーで30m程度のロングボールが正確に味方に届かない、ちょっとプレッシャを受けると前線のタレントでもトラップが浮いてしまう(もっとも、「『ボール扱い』より「身体の強さ、足の速さ」を優先的に選考するから勝てないと主張する向きも多かったのだが)。とは言え、実際、韓国やイスラエルは当然として、マレーシア、インドネシアなどの東南アジア国よりも、明らかにボール扱いが劣っていた。だから、当時は勝てなかったのだ。
そのため、岡野俊一郎氏らが、各所で「メキシコ五輪で銅メダルを取れたとは言っても、日本選手の技術は低い、それを改善するには、幼少時からボールに触れ合う事が必要」と各地で説いていた。結果、日本中のあちらこちらでサッカー少年団が登場していた。もちろん、賀川浩氏も、牛木素吉郎氏も。
 その頃、幾度もサッカーマガジンに採り上げられたのが、近江先生が率いた枚方FCだったのだ。

 近江先生は、「日本人だってブラジル人のようにうまくなれる」と、まず非常にわかりやすい言葉を掲げた。その上で、「ストリートサッカー的な自由度の高い練習法を多用すべし」、「『持つな!』と言うのは間違い、子供には徹底してボールを持たせろ」、「ダンゴサッカーは、いずれほぐれる。子供の自由にさせよう」、「初心者でも常にゲームをやらせ、愉しさの中で考えさせる」など、今日では当たり前かもしれないが、当時としては極めて斬新な指導方法を提示した。
 それだけではない、現実に佐々木博和(松下で活躍した名ドリブラ)のような技巧が格段に優れた選手の育成してみせたのだ。ちなみに、佐々木は1962年2月生まれ、学齢としては、都並敏史、鈴木淳、戸塚哲也、風間八宏らと同学年だが、当時から「佐々木が圧倒的に巧い」と言われ続けていた。さらに79年に日本で行われたワールドユース、佐々木はいくら呼ばれても選考合宿には中々参加しなかった。それでも、監督の松本育夫氏は最後の最後まで、佐々木を選考する事を考え、候補には入れ続けたと言う伝説もある。ついでに余談だが、このワールドユース大会後、相当数の関係者が「やはり世界は広い、この大会で僅か1人だが、生まれて初めて佐々木より巧い選手を見た」と語ったとも言われた。
 この成功は、日本中のサッカーおじさん(あるいは、おばさん)を勇気づけた。わかりやすい指導論と、実際の成果。日本中のサッカーおじさんが、それぞの創意工夫で、スキルフルな少年を育成しようとし始めたのだ。理論と実践の高度な融合を証明した、近江先生の貢献は大きい。あれから40年、日本中から技巧に優れた若者が次々に登場、今や、日本は世界屈指の「技巧派選手を輩出する国」にまで成長した。

 枚方FCそのものも近江先生の大変な成果だ。当時、学校体育が主体だった日本サッカー界。無数にサッカー少年団はあったが、卒団後は中学校、高校のサッカー部で活動するのが当然だった。そのような状況下で、先生はいわゆる「街クラブ」を創設したのだ。
 当時、若年層の選手が所属する全国的に著名なクラブは3つ。加藤正信氏、岩谷俊夫氏、賀川浩氏、大谷四郎氏と言ったキラ星のような神戸一中OBの方々が中心となり、神戸と言う大都市を基軸に作られた神戸FC。補足説明の必要もない読売クラブ。そして、近江先生率いる枚方FCは、大阪(あるいは京都)のベッドタウンの一角の普通の地域の少年達が集い、ジュニアユース、ユース世代まで共にプレイするために作られたクラブチームだった。そして、1977年より始まった日本クラブユース選手権の初代チャンピオンは、枚方FCだった。
 今日の日本サッカーの充実要因の1つが、特に中学生世代の選手を受け入れ、的確な指導でその能力を伸ばしている街クラブの存在がある(高校生世代でも、その存在は重要だが)。そのはしりが、枚方FCだったのだ。近江先生は指導法のみならず、「場」の作り方でも先鞭を着けたのだ。

 この2点だけでも、冒頭に述べたように、先生の日本サッカー界に対する貢献の大きさが理解いただけると思う。

 ただし、先生の発想はそこに止まっていなかった。先生は著書「日本サッカーにルネサンスは起こるか?」(枚方FCの自費出版)の後書きで、理想は
個性豊かな選手たちが素晴らしいテクニックで自由奔放に展開する創造性溢れるサッカー
と明確に語っている。
 私は自宅で一杯やりながら同書を読むのが大好きだ。後書きの別な部分を抜粋する。
 実験は成功し、雑誌に連載された私の指導法は好評だった。でも、創造性向上を主眼とする教育の場合、今回の部分は文章化しにくい。(中略)そうした指導の思想、哲学、彼我の相違のよってきたる所以などをかなり綿密に分析、著述することができた。
 先生の理想は創造的、あるいはクリエイティブなサッカーだった。当たり前と言えば当たり前だが。

 当然ながら先生は「見る」技術も格段だった。
 85年の伝説とも言える国立競技場での日韓戦。ご承知のように、敗れはしたものの日本は見事な試合を行った。しかし、先生は健闘した日本代表に厳しい評価だった。「韓国は明らかに一枚上の実力、そして落ち着いて試合を運び、一枚落ちる日本のミスを待ち、確実にそれを拾った」
 同じ85年に行われた、「史上最高のトヨタカップ、アルヘンチノス・ジュニアズ対ユベントス」、私のような凡人は、今なお鮮明なアルヘンチノスの美しい攻撃サッカーや、全盛期のプラティニのきらびやかなプレイばかりに気を取られていた。先生の評価は異なっていた。「世界のトップ選手を並べたユベントスが、局地戦的に試合を進めた」、「セオリーでは、『極力局地戦を避けて、オープンに展開すべし』と言う事になっているが、アルヘンチノスのチェックが極度に素早く強烈だったので、とっさにかわして、近くの味方と機敏に連係していくしか手がなかった」
 私自身、この2試合の先生の評論を読んで、サッカーの見方が大きく変わったと思っている。
 実は先生とは、1度じっくりとサッカー談義をさせていただいた事がある。上記の諸々を語り合う夢のような数時間だった。おひらき前に、「日本サッカーにルネサンスは起こるか?」にサインをお願いした。「常にクリエイティブに!」と書いて下さった先生唯一の著書は、私の宝物だ。

 幾多の教え、ありがとうございました。
posted by 武藤文雄 at 02:16| Comment(6) | TrackBack(0) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年12月31日

2012年 10大ニュース

 本年も、このしようがない講釈にお付き合いいただき、ありがとうございます。
 早いもので、形態は変わりつつも10年以上も好き勝手なサッカーネタについて、講釈を垂れて来た事になります。本業の形態が毎年微妙に変わり、それに伴い、少しずつ更新頻度が落ちてきて、申し訳ありません。情熱だけは何も変わってないつもりなのですが、今後もマイペースで好き勝手を吠え続けようと思っています。

 ただ、今年は本当に悔しかった。あと何年生きる事ができるのかどうかわかりませんが、ベガルタがJを制する機会が、人生でそう何回も訪れるものではない事だけは覚悟ができています。いや、今年が最後だったかもしれません。本当に、幸せで残念な1年でした。まあ、これも経験でしょう。そう、来年はアジアチャンピオンです。

 サッカーを堪能し始めて40年になります。日本代表がこんなに強くなるなんて、思ってもいませんでした。いや、講釈垂れ始めて10年、ベガルタがこんなに強くなるなんても、思ってもいませんでした。そして、この10年間、いつ日本サッカー界の右肩上がりが止まるのだろうかと、思いながら日々を愉しんできました。ところが、現状ではその勢いは止まる雰囲気を見せません。ありがたい事です。未来はどうなるかわかりませんが、日々のサッカーを愉しめる幸せを噛み締め続けたいと思っています。


1.異質の強さを発揮しつつある日本代表
 ワールドカップ予選での安定感、親善試合でのフランスへの勝利など、日本代表の「格」が、過去と比較して、一段上がった感のある2012年だった。本大会では、いわゆる優勝候補国の次に位置するグループとして評価され、日本が入るグループは「死のグループ」と言われる事だろう。
 とても嬉しい事だが、これは本大会では相当な警戒をされると言う事。また、相変わらず選手層薄いセンタバックや、遠藤の年齢が、2年後の問題となる可能性もある。さらに、この「右肩上がり」がいつまでも続くのかどうかと言う不安も。ともあれ、今年も日本代表はよかったと素直に喜ぶのが正しいな。
 余談ながら、ジーコ率いるイラクとの対戦は、史上初めて「過去の代表監督との対戦」と言う意味で意義深いものだった。こうやって、日本サッカーは経験値を積み上げて行く。

2.女子代表五輪銀メダル、女子サッカーの今後
 昨年ワールドカップを制し、完全にマークされた状態での銀メダルは実に見事だった。決勝進出までのリアリズムあふれる勝ち抜き振り。決勝でも、再三スキルフルな好機を掴んだものの、合衆国の2大エースのワンバックとモーガンの好プレイに早々に2点差にされてしまったのが痛かった。「終盤、もう少し慌てずにゆっくり攻めていれば」とも思うが贅沢と言うものだろう。異様な注目下で丹念に好成績を収めた彼女達の鋼の精神力に拍手と感謝。
 さらに女子ワールドユースの地元開催や、皇后杯の新設など、昨年以上に女子サッカーの注目が集まった年だった。この好ムードをいかに継続的なものにするか。
 それはそれとして、大野忍は欧州に行ってしまうのか。

3.五輪と、またも負けたユース
 予選で無様としか言いようのない試合を演じた五輪代表だが、オーバエージ補強の成功などもあり、堂々のベスト4進出。最後の韓国戦は残念だったが、十分合格点だろう。この世代の日本選手の個人能力が世界的に見て高水準にある事、Jで好成績を挙げた実績ある日本人監督が世界大会で通用した2点に、安堵した大会でもあった。清武を筆頭に既にA代表で実績を残す選手も多数いるし。
 それと比較して、3回連続のワールドユース出場失敗。ジュニアユースへの本大会出場に連続成功している現状を考えると、日本サッカーの地盤沈下と言うよりは、ユース代表強化の現状からくる必然と捉えるべきではないのか?プリンスリーグの発展など、評価されるべき施策は打たれている。一方で、結果的にJのユースチームは高校3年間での完結状態、言わば高校サッカーと同じ状態のチームが多数できて、強化の焦点が分散されただけに思うのは私だけだろうか。そうなれば、どうしても18歳での完成度が微妙に下がるのはやむを得ないのではないか。しかし、多様性は悪い事ではないし、大人になってから勝てばよい事だ。慌てず、よい選手の育成を考えればよいと思うのだが。北京五輪で苦闘した若者の現状を考えれば、何も嘆く必要はないのではないか。

4.サンフレッチェ42年振りのリーグ制覇
 東洋工業以来、42年振りにサンフレッチェがリーグ制覇。80年代からの継続的強化が成功したとも考えるべきだろう。多くの地方中核都市のクラブの指標となるべき活動の成功、恐れ入りましたと尊敬、感心すると共に、皆が彼らの活動を参考にすべきだろう。くそぅ。

5.ガンバの2部落ち
 一昨シーズンのFC東京の2部落ちも、相当なニュースだったが、今年のガンバはそれを越える衝撃。皮肉なのは、遠藤も今野も代表ではトップレベルのプレイを見せており、さらにいくばくかの修正を加えた天皇杯で、ガンバは当然のように決勝進出を決めている事。親会社の経営不振と併せ、来期ガンバはどのようなメンバでJ2を戦えるのか。捲土重来を期待したい。
 余談ながら、昨期ガンバが再契約しなかった西野氏を中途半端に起用したヴィッセルの2部落ちも、余波と言えば余波か。 

6.3部リーグへの陥落、20年振りの一気通貫リーグに
 J2からJFLに陥落するクラブが登場。これにより、J1を頂点として、地域リーグまで上下する可能性ある「正常」なリーグ戦が、20年振りに日本に登場した事となる。この「正常」な状態を健全に発展させる事が重要なのだ。

7.ベガルタ、J開始後スタートクラブとして、初めて優勝を争う
 毎年の事ですが、この選考は私がベガルタのサポータである事とは一切関係ありません。
 Jリーグ開始後人口的に作られたクラブが、優勝を争い、最終的にACL出場権を確保した。これはJリーグスタート時にメンバとして認められたエスパルスを除くと、初めての快挙だ。しかもベガルタは確固とした親会社を持たない純然たる地域クラブ。言い換えれば、これこそJリーグが新しいステップに入った証左とも言える。ここまで、僅か20年で到達できた事は非常に重要だ。

8.カズのフットサルワールドカップ出場
 スタアの存在は、すべての野暮評論を凌駕する。格好よいものな。

9.サガンの好成績
 見事としか言いようがない好成績。止まらない走力、激しいプレス、すばらしい。すべての地方小クラブに勇気を与える快進撃に多謝。

10.ゾンビのような年またぎ開催
 厳寒期と盛夏期をオフにした、合理的な年またぎシーズンの実現方法があるならば、お願いだから誰か教えて下さい。
posted by 武藤文雄 at 22:54| Comment(6) | TrackBack(0) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年ベスト11

 選考基準もいい加減な恒例のベストイレブンです。サッカー界としては、今年もよい年だったと思います。1年を思い起こしながら、これを考えるのはやはり愉しいのです。今年は、1、2のポジション除いては、あまり迷いませんでした。と言う事で、寸評も短く。

GK 西川周作
 思うに、西川がもう少し不安定だったら、ベガルタは優勝できていたと思う。

DF 菅井直樹
 思うに、菅井が肝心の場面で、あと3点とってくれれば、ベガルタは優勝できていたと思う。

DF 吉田麻也
 五輪が、麻也の帝王教育の機会となった。

DF 水本裕貴
 サンフレッチェの守備が崩れなかったのはこの男の存在が大きかった。ブラジルへの期待含めて。

DF 長友佑都
 インテルの中心選手だもんなあ。

MF 山口螢
 五輪におけるあの献身に。地味だが、このままJで伸びて代表をうかがって欲しいタレント。

MF 富田晋伍
 ベガルタの中盤を支えてくれた。日本サッカーの新しい明神。

MF 中村憲剛
 風間さんが提供する試練に、嬉しそうに全力投球する今期の憲剛が大好きです。

MF 中村俊輔
 今の俊輔、もう最高。独特の溜め、パスの強弱、勝敗を超越したサッカーの愉しさをありがとう。

FW 佐藤寿人
 ザッケローニさん、1回でよいです。寿人にスタメンをください。

FW 豊田陽平
 サガン鳥栖の「勢い」を代表するタレントとして。代表でも期待、シュートの入る鈴木隆行。
posted by 武藤文雄 at 21:39| Comment(4) | TrackBack(0) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年05月11日

1986年3月22日西ヶ丘競技場

 1986年3月22日土曜日。85−86年JSL最終節、三菱対全日空戦。私にとって、シーズン最後の観戦となる試合だった。

 このシーズンはとてもよいシーズンだった。
 日本があと一歩でワールドカップに到達するところまで行った(「メキシコの青い空」、あの「木村和司の直接フリーキック」)。清雲栄純監督が率い岡田武史が主将を務めた古河が、ゾーンディフェンス、前線からのハイプレス、サイドを使った高速カウンタと、今日でも通用しそうな組織的なサッカーを見せJSLを制した(翌年古河はアジアチャンピオンズカップも制覇する)。元日には、木村和司がリーグでの不振のうっぷんを晴らすようなプレイを見せ、日産が技巧あふれるサッカーで若きMF鈴木淳を軸としたフジタを圧倒、天皇杯を高々と上げた。
 このシーズンはとてもよいシーズンだった。
 
 けれども...

 試合開始前の整列。我が目を疑った。全日空の選手が足りないのだ。キックオフ直後は選手は8人しかいなかった。開始直後には、控えのGKがフィールドプレイヤとして入り、最終的には11対9で試合は行われた。観戦していた我々には、何が何だかわからなかった。
 自分達が行う草サッカーにおいては、このように人数不足での試合はいくらでも経験した事があった。けれども、トップレベル、有料で行われている試合で、このような事があるのは許されない。
 
 後日、段々と状況がわかってきた。
 全日空は、今シーズンJSL1部に昇格した。横浜のサッカークラブに70年代後半から全日空が出資。プロフェッショナリズムを志向したクラブとして、読売、日産に次ぐ存在になるのではないかと期待されていた。けれども、開幕当時の期待に反し、チームは不振を極め、最下位を独走。シーズン当初のメンバとは随分異なる陣容で連戦連敗、早々に2部降格となってしまっていた。
 その背景に、元々のクラブに所属していた人々と、全日空経営参画以降の人々の対立があったらしい。そして、財布を握っている後者が優位となり、結果的に前者の人々が排斥されたとの事。そして、最終節において、監督(派閥としては後者らしい)がシーズン最後と言う事もあり、前者の選手6名をスタメンおよびベンチ入りさせた。監督しては、チームを去る6人に対するせめてもの配慮だったのだろう。
 ところが、その6人が試合直前にボイコット、会場を去ったと言う。JSL1部の公式戦と言う日本最高峰の試合に泥を塗る事で、恨みのあるチームに迷惑をかけようと言う魂胆だったのだろう。彼らは己の恨みを晴らすために、サッカーを売ったのだ。

 私は彼ら6人を許せない。
 サッカーを売った人間を許す事はできない。
 したがい、直後に日本協会が下した「6人を永久追放(クラブは3カ月活動停止)」と言う処分は妥当なものだと思っている。
 当時彼らの敵であった全日空は、12年後に私たちに対して本当に許し難い行為をしている。彼らは鋭敏にそれを察していたとも言えなくはないだろう。だけど、それと日本最高峰の試合を汚したのは別な話だ。
 そして、あの試合を観戦した人間として(それを自慢に思う気持ちは否定しませんがね)、この6人は「本当に永久追放」となって欲しかったとは思っているが、「罪を恨んで人を恨まず」も大事な事はわかっている。何人かが処分解除され、そのうちの1人がサッカー界の中枢で偉そうに活動しているのを見て、苦々しく思いつつも、仕方がないかとも感じていた。
 今回の報道。当時の主犯格?の2人も免責となるらしい。それはそれでよいだろう。もう26年経ったのだから。

 あの試合。三菱が6対1で勝利した。この日も堅実にプレイし、しっかりと得点を決めた原博実。私は原が得点を決めた直後に見せる笑顔が大好きだった。この日、原は笑顔を一切見せなかった。
 26年経った。私は今回の日本協会の判断を評価したいと思う。しかし、私は彼ら6人を許さない。
posted by 武藤文雄 at 00:55| Comment(4) | TrackBack(0) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年04月20日

選手風間八宏

 正式発表はされていないものの、「フロンターレの新監督が風間八宏氏に決まる」との報道が、もっぱらである。この人事の是非についても、講釈を始めればキリがなかろう。しかし、類似の試みは、おそらくあちらこちらで行われるだろうから、私は全く異なる切り口で講釈を垂れたい。

 選手としての風間八宏への想いである。

 今でも再三話題になる、地元開催だった79年ワールドユース。
 風間は清水商業高校3年でメンバに選ばれ、定位置を確保して中盤で活躍した。このチームは主将の尾崎加寿夫や守備の中核柳下正明らが、学齢で風間の2つ上。1つ上には、水沼貴史、田中真二、柱谷幸一らがいた。風間は、鈴木淳、名取篤と共に、最も下の学年で選考され(高3トリオなどと呼ばれたのが、時代を反映していて懐かしい)、定位置も確保していたのだから、能力の高さが伺い知れると言うもの。
 このチームは変則の4−4−2の布陣。中盤はボランチに脚力のある田中、攻撃的MFに技巧的で精神的にも頑張れる尾崎、引き気味の右ウィングに水沼が入り、風間は最年少ながら、中盤後方でいわゆるつなぎや展開の役割を担当していた。
 さすがに展開となると、荷が重いようだったが、正確な技巧はスペインやメキシコと言った相手にしっかりと通用しており、正に将来が嘱望される存在だった。

 筑波大に進学した風間は順調に成長を続け、代表にも選考される。80年の年末に行われたスペインW杯の予選は、川淵三郎監督が大胆な若返りを行ったチーム。25歳以上は前田秀樹しかいなかった。そこで日本は、風間、戸塚哲也、金田喜稔の3人が「夢の中盤」とまで語られた技巧的な展開を披露。右ウィングの木村和司の突破や直接FKを含め、従来の日本代表にはなかった魅力を見せてくれたと言う。
 その後監督を引き継いだ森孝慈氏の下、風間は常時代表には選考されていたが、定位置は掴み切れなかった。技巧に優れ、フィジカルも弱くなく、脚力もあるのだが、中盤で球離れが悪いため、もう1つ活躍しきれなかった。
 しかし、風間を軸とした筑波大は当時大学サッカー屈指の強豪であり、インカレや関東大学リーグを複数回制したのみならず、81−82年シーズンの天皇杯ではベスト4にも進出している(当時のJSLと関東大学リーグの戦闘能力差を考えると、正に快挙と言う実績だった)。
 森氏が率いる日本代表は、最大目標として設定されていた84年春に、ロサンゼルス五輪予選に挑戦。準備試合での好調ぶりから、相当期待されたチームだったが、これまた語り草の「ピアポンショック」、初戦でタイに2対5で惨敗し、4戦4敗で敗北した。風間はメンバ入りしていたが、出場機会はなかった。

 ちょうどこのロス五輪予選直前に筑波大を卒業した風間が、JSLのどのチームに加入するのか、大いに注目された。しかし、風間は日本でのプレイを望まず、ドイツに渡る。そして、数シーズンに渡りブンデスリーガ3部あるいは2部のクラブでプレイを続ける。つまり、20代半ばの全盛期、風間は日本ではプレイしなかった。また、ブンデスリーガの1部でプレイしていた奥寺(帰国は86年)と比較して、報道も極端に少なく、どのようなプレイをしていたかも我々には、よくわからなくなってしまった。
 85年秋のメキシコ五輪予選(例の「メキシコの青い空、木村和司のFK」)の際も、一部マスコミは「奥寺を呼び戻せないか」とは報道したが、風間は忘れ去られた存在だった。

 89年、風間は帰国、マツダ(後のサンフレッチェ)に加入し、すぐ中軸選手として活躍した。若い頃の球離れの悪さは全くなくなり、中盤で実に効果的な展開ができる選手となっていたのだ。ただ、正直言って若い頃の期待値を考えると、もう少しスケールの大きな選手になるのではないかとの期待もあった。中盤から次々にラストパスを出したり、技巧を活かした突破をできる選手になって欲しかったと言う想いである。
 とは言え、94年前期にサンフレッチェがJの前期を制覇した際のプレイなど、誠に見事。僚友の森保一と組む中盤は、実に見応えのあるものだった。
 オフト氏が代表監督に就任後、風間の代表復帰が何度か議論されたが、結局声はかからなかった。以下は、全くの邪推。オフト氏は「当時の代表の中盤の中核選手が、自らの定位置を危うくする選手の選考を嫌がる事」を理解し、混乱を避けたのではないか。

 風間八宏とは、そのような選手だった。
 正直言って、選手としては「もったいなかった、もっとやれたのではないか」と言う想いが、あまりに強いのだ。また、年齢的に全盛だったはずのブンデスリーガ2部で活躍していた頃は、一体どんなプレイを見せてくれていたのかと言う想いも、また深いのだ。
 ただ、1人でドイツに行ってしまい20代後半に日本に復帰した現役時代と、50歳で初めてトッププロの監督を引き受ける経歴。何か既視感もある。果たして、どのような采配を見せてくれるだろうか。
posted by 武藤文雄 at 01:47| Comment(3) | TrackBack(0) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年04月17日

水沼宏太の勝負年

 水沼貴史は、私の同級生で日本一サッカーがうまかった男だ。

 本太中学3年、浦和南高1年で、2年続けて全国制覇。今でも語り草となっている、高校選手権決勝の静岡学園戦、「いやあ、同い年でこんなにサッカーがうまい奴がいるのか」と感心したのをよく覚えている。
 その後も、順調に成長し、ユース代表の常連となった水沼貴史。法政大に進学した夏場、日本開催のワールドユースの中核として活躍。メキシコ戦で、この大会日本の唯一の得点を決めたのが水沼貴史だった。
 しかし、水沼貴史は法政大学で伸び悩む。残念ながら、当時の法政大学は、水沼貴史を筆頭に高校サッカーのエリート選手を多数集めてはいたが、必ずしもトップレベルの鍛練が行われない状態だった。そして、天賦の才を活かさないまま消えて行った選手が多数いた。
 実際、同学年の柱谷幸一(当時、国士舘大)、越田剛史(当時、筑波大)(2人共、水沼貴史とはワールドユースのチームメート)は、森孝慈監督率いる日本代表にも選考され、順調に成長していた。水沼貴史も、そのまま消え去ってしまうのではないかとの危惧もあった。
 
 80年代半ばは、日本サッカー界に実質的なプロフェッショナリズムが導入され始めた時期だった。加茂周氏を監督に据えた日産は、金田喜稔、木村和司ら、学生時代から代表チームの定位置を確保した選手を獲得、清水秀彦、マリーニョなどのトッププレイヤも保持し、着々と日本一を狙っていた。
 そして、83年シーズン開幕前、日産は大量の有力新人を獲得し、話題を独占した。既に代表に定着していた柱谷、越田、やはり代表経験のある中央大の田中真二(浦和南で水沼貴史と同級生)、愛知学院大の左利きの技巧派境田雅章、堅実な守備で定評のある東農大の杉山誠、そして水沼貴史。
 しかし、この時点で水沼貴史の評価は、他の5人と比較して必ずしも高いものではなかった。その潜在能力は、高校時代を思い起こせば格段のものがあるが、大学ではほとんどはっきりした活躍をしていなかったからだ。

 しかし、水沼貴史は見事によい方向に期待を裏切ってくれた。日産でプロフェショナルなトレーニングを積むうちに、すばらしい選手に化けてきたのだ。この83年シーズンの最中、加茂氏は右ウィングだった木村和司を中盤に移した、いわゆる「日本サッカー史上最高のコンバート」である。そして、水沼はその前の右ウィングとして完全に定位置を獲得、独特の間合いのドリブルと、冷静なシュートで、完全な中心選手に成長する。
 この83年シーズン、日産は終盤まで読売とリーグ制覇を争うが、あと一歩及ばず2位に終わるも、天皇杯を堂々と制覇した。そして、この天皇杯決勝では、選手兼任監督の釜本邦茂率いるヤンマーに対し、技巧的なサッカーで完勝。この決勝戦は「時代の変化」を見せつける歴史的な勝利だった。
 この天皇杯後、水沼貴史は日本代表にも選抜される。選抜直後のロス五輪予選の代表は、いわゆる「ピヤポン粉砕事件」でボロボロにされてしまったが、以降水沼は代表の中核として活躍を継続。84年秋の敵地日韓定期戦では、見事な決勝点を決め敵地勝利に貢献。この決勝点は、原博実が打点の高いヘッドで落としたボールに合わせて飛び込み、正確なボール扱いでしっかりとシュートを打てるポイントにトラップし、強烈なシュートを決めたものだった。この「プレッシャの中での正確なボール扱い」は、水沼貴史の最大の強みだった。

 以降、「メキシコの青い空」で知られる85年メキシコ予選でも中核として活躍した水沼貴史。諸事情で木村和司が代表から去った後は、いよいよ攻撃のエースとして活躍。87年ソウル五輪予選、国立タイ戦では上記日韓戦同様にゴール前の抜群のボール扱いで決勝点。同じく敵地中国戦では、原博実にピタリと合わせる正確無比なFK。さらに89年のイタリア予選でも、国立北朝鮮戦でも、リードされた時間帯に佐々木雅尚のセンタリングを見事なダイレクトシュートを決めている。本当に頼りになる男だった。

 その水沼貴史のご子息の水沼宏太が少しずつ日本のトップに近づいているのだ。このPK戦に感嘆し、この奮闘に興奮し、この成長に歓喜してきた。
 ジュニアユース時代から高名な水沼宏太だが、マリノスでは必ずしも出場機会に恵まれず、栃木SCにレンタル。J1昇格を狙う野心的な若いクラブの中核として活躍し、今期はJ1に昇格したサガン鳥栖にレンタル。とうとう、J1のチームの攻撃の中核にまで成長してきた。
 必ずしも前評判は高くなかったが、全員の溢れ出る運動量で多くのチームを恐怖に陥れ、着実に勝ち点を積み重ねているサガン。藤田直之、豊田陽平、池田圭などの献身性あふれるチームメートに囲まれ、水沼宏太は中盤でキープし、サイドを突破し、ラストパスを出し、そして得点をも期待されるシゴトを担当している。
 やさ男だった水沼貴史に比べて、(顔つきは似ているが)格段に精悍な顔つきの水沼宏太。わかりやすく前面に出る戦う姿勢、忠実な守備などは、既に水沼貴史を凌駕している。サイドでのボールキープも、やや猫背の姿勢から出す厳しいコースへのパスの精度とタイミングも、相当なレベルになってきた。しかし、まだまだ水沼貴史に届いていないのは、勝負どころでの突破と、得点能力だ(一番肝心な事なのだけれども)。
 水沼貴史の最大の魅力は、右サイドで突破する時、あるいは敵ペナルティエリアに進出した際の、間合いのうまさ、ふてぶてしい冷静さ、そしてボール扱いだった。過去の水沼宏太のプレイを反芻してみると、水沼宏太は少なくとも、水沼貴史からふてぶてしさと、速く流れてくるボールをしっかりと扱う事ができる能力を、DNAで受け継いでいるように見える。だから、J1の1試合1試合で、間合いの駆け引きを身に付けてさえくれれば、完全に大化けするのではないかと期待したくなるのだ。そして、そのためにはサガンは最高の環境だ。
 水沼宏太は90年2月生まれ、今22歳。水沼貴史が日産に加入し化けた時と同じ学齢である。正に勝負の年なのだ。

 今節、サガンは水沼宏太の鮮やかなミドルシュートで、難敵サンフレッチェを下した。
 まずはロンドンだ。そして...
 水沼宏太はここまで成長してきた。一流選手まで、あと一歩のところまで来てくれた。もう、私は気持を隠さない。私は日の丸を振りながら、20数年振りに「ミズヌマ」を応援したいのだ。
posted by 武藤文雄 at 00:35| Comment(1) | TrackBack(0) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年01月24日

松田直樹さん追悼試合

 少年団の練習もあり、ちょっと疲労気味だったので、生観戦はやめておく事にした。テレビから流れてくる映像を見て、「行けばよかった」いや「行くべきだった」と後悔した。井原正巳が元気なプレイ姿を見せていたからだ。しかも、そこに攻め込んでくるのはカズ。
 フィリップの反対側のベンチに水沼貴史が座っていたが、ちょっと違うよね。ここは、岡田武史か木村和司のいずれかでなければダメだったのだが、それぞれお2人に別々の事情があって...松田とは、ほとんど縁がなかったはずのカズが全軍を仕切るのは、スタアの所以だろうが。
 
 試合に戻ろう。
 中田英寿を起点に、カズが前線でがんばり、藤田俊哉が後方から進出する攻撃。中澤佑二が前に出て押さえて、井原が微妙にラインを上下する。この微妙な上下動、動き出しのタイミングも、修正の細やかさも、往時の井原ではなかった。でも、中澤を動かしてから、自らがそのカバーに入る動きそのものは、80年代後半から2000年代前半まで20年近くに渡って堪能させてもらった動きと、何ら違っていなかった。行くべきだった。
 こうやって40歳を越えた井原のプレイを愉しむ事ができた要因を思い起こすと、やはり胸が痛むのだが。

 そして、テレビ映像を見ているうちに、異なる意味で、むしょうに悔しさを感じて来た。井原と中澤の、センタバックを見ているうちに。
 この2人は、一緒にプレイをした事はないはずだ。そして、この2人をつなぐ存在として、松田直樹がいた事は言うまでもない。いや、それはよい。井原と松田が、松田と中澤が、それぞれ見せてくれた連携を思い起こせばよい事だ。いずれも美しい思い出だ。

 でも悔しかったのだ。

 井原も中澤も、松田と共にワールドカップを戦う事が叶わなかった事に。
 98年、井原と組むべきは、松田だったのだ。2006年、中澤と組むべきは、松田だったのだ。いや、2010年だって、松田と闘莉王の定位置争いを見たかったではないか。あるいはベンチで待機する松田を、延長終盤前線の選手に代えて起用して、長友を前進させるとか(結局、松田と闘莉王が上がって行き、長友が後方待機になりそうだが)。
 ああ、どうして、君はたった1回しかワールドカップに出てくれなかったのか。
posted by 武藤文雄 at 00:26| Comment(2) | TrackBack(0) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする