2010年09月11日

落合弘とネルソン吉村

 9月10日に、日本協会が日本サッカー殿堂入りした6名の方の掲額式典を行ったとの事。
 いずれの方々も日本サッカーに多くの貢献をしてきた方々だが、おそらく若い方々に最も著名なのは賀川浩氏だろうか。賀川氏はサッカーをテキストで表現しようとする我々にとっては、いつでも尊敬の対象であり、目標の存在であり続ける方。そして、賀川氏はいかにも氏らしい嬉しいコメントを残されている。
日本サッカー界は、どん底の時代も今もいつも前向きなのが推進力と思う。前向きでいれば楽しいことがある。
 このあたりの賀川氏の受賞後の様子は、友人のブログを参照していただきたい。
 その他の受賞者の大畠氏、浅見氏、鈴木氏、それぞれ日本サッカー史におけるVIPなのだが、やはり今日は投票選考で選ばれた落合弘氏(1946年生まれ)と故ネルソン吉村氏(1947年生まれ、帰化以降は吉村大志郎に改名したが、やはりネルソン吉村の方が落ち着きがよいな)について、語りたい。と言うのは、この2人は私が真剣にサッカーを見始めた当時(中学生時代)の、日本サッカー界の大スタアだったから。そして、この2人は釜本(1944年生まれ)より若いタレントとして、色々な面で日本サッカー界を支え、今日の礎になった選手だったから。

 落合は69年シーズンに攻撃的MFとして釜本に競り勝って、23歳で得点王を獲得している。しかし、代表に定着したのは、DFにコンバートされた後、75年あたり。つまり、29歳とベテランになってからだった。しかし、以降は80年の春先に行われたモスクワ五輪予選(この五輪を、日本は当時のソ連のアフガニスタン侵攻に抗議する合衆国に呼応してボイコットしているが、予選は行われた)まで、6年間34歳になるまで、多くはDFとして(たまには機動的なMFとして)、完全に日本代表の中核として活躍した。プレイスタイルとしては、後方から精度の高いボールを蹴る、あるいは後方から巧みに飛び出すプレイが得意。ちょうど、今日の代表とすれば長谷部の飛び出しの巧さと阿部の起点としての精度と守備力を具備したような選手だった。
 落合が代表の中核として活躍した70年代後半と言うのは、歴史的に振り返ってみても日本代表の戦闘能力が他国と比較してかなり低かった時期。アルゼンチンワールドカップ、モントリオール五輪、モスクワ五輪の各予選とも、韓国、イスラエル(当時はアジア連盟に所属)、マレーシア(当時はアジアの強国として韓国と互角に戦っていた)と言った、アジアの強国と引き分けるのがやっとの状態だった。そんな中で、落合は常に中心選手として水準以上のプレイを見せてくれた。あの辛かった時代、常に我々の誇りとして存在してくれた選手だったのだ。
 所属していた浦和レッズの前身である三菱での活躍も秀でていた。こちらを見ていただくとわかるが、66年シーズンから81年シーズンまで、16年に渡り落合はリーグ戦をフル出場しているのだ。もちろん、今日の過密日程とは異なる時代ではあったが、当時の三菱は常に日本のトップクラブ。その中で常に定位置を確保し、負傷などによる不運な戦線離脱や、警告累積(まあ、昔は審判の警告発生基準も大らかなものだったのだが)による出場停止がなかったのは驚異的な記録と言えよう。
 そして、三菱〜浦和レッズは、幾多の国内タイトルを獲得しているが、三菱時代の全タイトルに落合は関与している。言い方を変えるともっと劇的かな。三菱〜浦和レッズが、落合が関与しない初めてのタイトルは、2003年のナビスコカップ、田中達也らの活躍によるものだったのだ。
 上記して来た通り、落合弘は正に日本サッカー史に残る巨人。日本サッカー史のベスト11に選ばれる権利を十二分に持つタレントだった。

 吉村はブラジル育ちで67年に来日し、釜本の名コンビで大活躍した。吉村氏が亡くなった時に、氏の功績についてはこちらを読めば理解いただけるだろう。ネルソンは、以降無数に来日したブラジル人選手のはしりだったのみならず、帰化選手として日本代表に貢献してくれた最初の選手だった。そして、ネルソンの柔らかな技巧そのものが我々にとって大きな驚きだった。
 南アフリカ大会。日系3世選手の闘莉王の大奮闘、ネルソンが帰化してから40年が経っていた(40年経って、2世が3世となったのは歴史だな)。ネルソン以降、多くのブラジルからの帰化選手が日本代表で活躍してくれた。そして、闘莉王のプレイは、その集大成と言っても過言ではなかった。早世したネルソンが生きていてくれれば、あの闘莉王のプレイを見て、どんなに喜んでくれた事だろうか。

 落合弘とネルソン吉村が、南アフリカで相応の成果を挙げた2010年に、日本サッカー殿堂に選考されたのは偶然の事だろう。しかし、落合弘とネルソン吉村がいたからこそ、今日の栄光がある事だけは間違いない事なのだ。
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2010年07月21日

恩師の叙勲

 前宮城県サッカー協会会長、東北サッカー協会理事長の伊藤孝夫先生が、先日瑞宝小綬章を叙勲された。そして、18日には仙台にて、祝賀パーティに行われ、300名近い東北、宮城県関連のサッカー人が出席、不肖サッカー講釈師も末席をけがさせていただいた(主な出席者を挙げておこう、宮城県サッカー協会小幡会長(塩釜FC代表)、ベガルタ仙台白幡社長、モンテディオ山形川越理事長、元ベガルタ監督鈴木武一氏、ちなみに松本育夫氏と犬飼日本協会会長(笑)から花輪が届いていた)。

 ブログにも書いた事があるが、私は今を去る事30年近く前の学生時代、宮城県あるいは東北地区の大学サッカー連盟で、結構色々なシゴトをしていた。当時、宮城県協会と東北協会の理事長として、その実務の指導と管理をして下さったのが伊藤先生だった。私は、先生の出身大学サッカー部の後輩だったと言う事もあり、本当にかわいがっていただいた。

 多くの読者は、先生の名前を知らないかもしれない。
 しかし、先生が、ベガルタ(当時ブランメル)の立ち上げをサッカーサイドから引っ張った事、仙台の地下鉄終点駅近傍の公園に小さなサッカー場を作る計画を、2万人収容の専用競技場建設計画に転換させた事、などを聞けば先生の業績を理解いただけると思う。
 また現在J1のクラブには宮城県出身の監督が2名(加藤久氏、鈴木淳氏)、強化部長が2名(アントラーズの鈴木満氏、フロンターレの庄子春男氏)いる。もちろん、彼らが今日の地位を掴んだのは、ご本人達の努力研鑽によるものである。ただし、伊藤先生は中央で活躍する宮城県出身選手(当時はベガルタなどないから、優秀な選手が「中央」に出て行くのは当然の事だった)達の活動を常にフォローし、彼らの引退後のキャリアメークにも気を配っていた(ちょうど彼らの現役時代が、私が学生として直接先生に仕えた時期だった)。宮城県がこれだけ日本サッカー界の強化畑に優秀な人材を輩出しているのは偶然ではなく先生の尽力が大きかったと、私は捉えている。
 先生は1954年に宮城県工業高の教諭となられ、62年には同校を監督として高校選手権で3位に導いている。準決勝では、森孝慈を中心とした広島修道高校に敗れたとの事。65年に東北工業大学に移られ、以降2001年に定年退官されるまで同学の教授をされたいた。その間、東京五輪の競技役員をされたり、一級審判員を務められながら、73年以降宮城県協会理事長として辣腕を振るわれた。つごう30年以上に渡り、宮城県、東北のサッカー界をリードされてきたと言う事になる。合わせて随時、日本協会の重要な役職を再三務められたのは、言うまでもない。
 これだけ長期間地域のサッカー界をリードしていたにもかかわらず、先生は強引に物事を運ぶ事は少なく、常に人の話を聞いて行動する柔軟さ、謙虚さをお持ちだった。帰仙した折に「俺は企業経営のことはよくわからんのだ」と言う先生に、ベガルタの経営改善について語らせていただいた事もある。
 さらに言えば、日本サッカー界に本格的なプロフェッショナリズムが立ち上がって約20年、今なお多くの地域協会が、プロフェッショナリズムと底辺レベルのサッカーの両立に悩んでいる。と言うか、プロクラブと協会の相互の関係がギクシャクする程度ならまだましで、全くうまく行っていない地域も結構あると言う。その中で宮城県サッカー協会とベガルタ仙台の関係が比較的良好なのは、先生の人望によるものだと私は思っている。

 先生から学んだ事は無数にある。
 当時学生だった私に、社会人の方々とつき合うための礼儀や所作を指導いただいた事、物事を推進するためには想像力をフルにはたらかせてどのような部門に影響するかを考える事、人に無理をお願いする時は誠心誠意説明する事。書いてしまえば当たり前の事を、先生はいい加減な学生に懇切丁寧に指導してくださった。
 また、サッカーの大会をするためには、日程を決め、グラウンドを確保し、選手と審判がが集まれる準備をする必要がある。加えて大会によっては観客の対応も必要。それだけの事なのだが、それだけの事について起こり得る問題を想定し、事前に準備をする事が難しい。それらについて、先生は常に具体的に指導して下さった。そして先生に言われたのは「そう言った準備は、地域の小大会だろうが、キリンカップや招待サッカーのような有料試合だろうが、何も変わらない事。」さらには「ワールドカップでもそれは変わらないはずだ」とも言われたのも忘れ難い。
 さらに。そのような大会運営方法の議論を通じ、日本のサッカー界の海外諸国と比較しての特徴、欧州のサッカー強国の物事の進め方などを、日本協会の業務や遠征を通じて実経験された海外事情と合わせて教授くださった。当時一般人は池原謙一郎氏(故人)あるいは牛木素吉郎氏らの文章を通じてしか知る事ができなかった海外サッカー事情の実態を、先生から学ぶことができたと言う事だ。
 もちろん、ピッチ上で行われる妙技の数々についても、多くの事を教えていただいた。82年スペイン大会でのロッシやプラティニやルムメニゲの観戦自慢には、大いに触発されたものだ。

 くしくも、本パーティは、初めてのトップリーグにおいての「みちのくダービー」翌日。結果こそ残念だったが(パーティさなか川越モンテディオ理事長は、四面楚歌の快感を愉しまれていた)、あのようなすばらしいダービーマッチが実現した事そのものが、伊藤先生の勝利と言えるだろう。
 先生は、数えで80歳、OBサッカー大会では「金色のパンツ」を穿く権利を獲得したとの事で、まだまだ元気そうだ。先生がお元気なうちに、ベガルタはタイトルを取るくらいのつもりで励まなければいかん。
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2010年06月26日

2次トーナメントを前に

 欧州6国。南米5国。アジア2国。北中米2国。アフリカ1国。正にワールドカップ、世界中に上位進出国が分散した。

 欧州はイタリア、フランスの2大国の敗退を代表的に、いつになく不振の様相。さらに、セルビア、デンマーク、スイスと言ったいわゆる2番手国が、スロバキアがイタリアを脱落させたのを除き、軒並みこけてしまった。やはり、時差はないとは言え、欧州の「乾いた夏」でないと、強みを発揮できないと言う事なのだろうか。フランスは、結局プラティニかジダンがいなければ、と言う事だろう。チーム内紛の自滅は、「戦闘能力不足をチーム全体が自覚できなかった現れ」と見た。イタリアの敗退は常に美しいが、まあさじ加減のミスなのだろう。1次リーグ敗退は74年以来36年振り、私がはじめて真剣に愉しんだ大会以来で、それはそれで感慨深い。
 南米は全5国が進出。南米勢全チーム2次ラウンド進出は78年以来か(地元アルゼンチン、ブラジル、ペルーが進出)。「冬の大会」は南米勢に有利と言う事なのだろうか。ウルグアイ、チリ、パラグアイいずれも、南米独特の技巧、助走が少なくても加速したり高く飛べる体質に加えて、非常に組織的な攻守を誇る。
 日本のみならず、韓国のトーナメント進出成功は別な意味で我々のランクが高い事を示している事となる。互角のライバル(と言うには、今年の対戦成績は、代表のみならずAFCでも芳しくないが)も、列強と互角以上に戦っていると言う事は、我々の成功がフロックでない事の裏付けとなる。活動量が落ちづらい「冬の大会」が、日本と韓国に有利に働いているのではないか、と言う論調があるが、逆に「蒸し暑い8年前」も(地元とは言え)両国に有利に働いた。共に中立地でのトーナメントは初体験となるが、持ち味を前面に発揮したいところだ。豪州は初戦の0−4が全て、負けても大差にしないと言う鉄則を、この経験豊富なチームが失念してしまうとは。ニュージーランドの大健闘は驚き。いずれの対戦国も、押し込めるものだからつい単調な攻撃に終始し、最終ラインのフィジカル勝負に落ち込んでしまった。距離は遠いが、時差が非常に少ないこの国の向上は日本サッカーにとってもプラスになるだろう。北朝鮮はよく頑張ったが、ポルトガル相手にあそこまで前半から互角に戦おうとしては...国際経験の少なさと言う事だろうか。
 メキシコとUSAは、既に列強の一員と言ってよい実績のある国だけに、ここまでの進出は驚きではないか。メキシコは初戦の南アフリカ戦の劣勢からの立て直しにせよ、フランス戦の勝負ところの集中力にせよ、強国のそれだ。USAの勝負強さは、往時の西ドイツを彷彿させるほど。どこからあの粘りが出てくるのだろうか。
 アフリカの大会ながら、アフリカ勢には寂しい大会となってしまった。地元南アフリカは、組み分け抽選にも、審判判定にも、保護がなく、戦闘能力差でウルグアイ、メキシコの後塵を拝したと言う事だろう。まあ、FIFAは「南アフリカで大会を開く」事で目的を達したと言う事なのだろう。コートジボワールは組み合わせの不運に泣いた(あと、ドログバの負傷と...)が、その他のアフリカ国は選手の能力はさておき、組織力や大会準備の点で他大陸国と比べて差が目立った。デンマーク戦のカメルーン、ギリシャ戦のナイジェリア、スロベニア戦のアルジェリア、いずれも不甲斐なさが目立った。アフリカ大陸は広いので、最南端のこの国での開催は、他国には有利にはたらかなかったと言う事か。一方で、ガーナはエシアンの離脱と言う不運を乗り越えての、連続トーナメント出場、さらなる上位進出も考えられる。ここは純粋にチーム力が高いと理解すべきか。

 おもしろいのは、欧州6国が皆1/16ファイナルで直接対決する事。特にドイツーイングランド、スペインーポルトガルはいずれも重厚な対決となる。そう言えばブラジルーチリも南米同士か。8試合中、同大陸戦が4試合、異大陸戦が4試合となった。
 ウルグアイのブロックは、欧州勢がおらず各大陸の強者がこの古豪に挑む形となる。ウルグアイは久々(40年振り!)の上位進出の絶好機。韓国はやや甘い守備ラインを李榮杓がどう引き締めるか、ルガノを軸にした守備に朴智星がどう崩しにかかるか。ガーナは上記の通り、安定したバランスを誇るし、ギャンとかアサモアとか強烈なタレントを抱える。。セルビア戦の勝ち切り方など実に見事だった。一方のUSAは戦闘能力も抜群だが、恐ろしい程の粘りがすごい。ドノバン(もう代表戦120越えているのね、まだ28歳なのに)と言う精神的支柱もしっかりしているし。
 FCディエゴは32国中、1次リーグで出来が一番よかったのように思う。そして、チームにさらなる向上余地が多数あるのがまた凄い。やはり本命はここだろう。イングランドにせよ、ドイツにせよ、因縁ある欧州強国との準々決勝だが、両国は直接対決で消耗しちゃうからなあ。とは言え、この直接対決はおもしろいだろうな。ともあれ、この両国戦と言うと、ドイツが勝つのに決まっていると考えてしまうのは私だけかしらん。メキシコは前回に続いて1/16ファイナルでアルゼンチンと。何かついてない気がする。速攻から先制し、ディエゴの焦りを誘いたいが、選手達がしっかりしているからなあ。
 ブラジルに挑戦するチリだが、おもしろい試合になるとは思う。ただ、ビエルサ氏はひたすら前に行こうとさせると思うので、勝負どころでブラジルのカウンタが奏功するような気がしてならない。つけ込むとしたら、カカーが本調子ではないと言う事くらいか。でも、何となく、カカー自身(退場で1試合休養して)そろそろ上げて来るように思うし。オランダもいつになく、ゆっくりとペースを上げているような気がするので、ブラジルーオランダはすごい準々決勝となりそう。
 そして、日本のブロック。まずはパラグアイに勝つ事のみ考えよう。重厚なスペインーポルトガル、隣国同士の意地をぶつけ、大量の出場停止者が出て疲弊する事をとりあえず期待するのは当然として(笑)。
 まあ、こうやって、列強の間に我々が当然のように収まっている現状を素直に喜びたい。

 さて、このような大会ではベスト11を選ぶのが愉しい遊びとなる。
 GK、ナイジェリアのエニェアマの素早い反応、スロベニアのハンダノビッチの安定感など、あまり馴染みのない選手に感心。
 サイドバック、マイコンの北朝鮮戦の先生弾の鮮やかさ。李榮杓のサイドから守備を組織化する知性。コエントランとフェレイラのいやらしい攻撃参加。賛否両論あろうがエインセは頭がやはり頭がいい。ラームのドイツ人らしい知的な位置取り。
 センタバック、いつのまにかルッシオの対人能力が格段になっている。サムエルの1対1の強さと位置取り。ルガノの強さは相変わらず。シュクルテルはスロバキアのトーナメント進出の最大のヒーローだろう。スロベニア戦のテリーはすごかったな。パラグアイのダシルバは1/16ファイナルで厄介な存在になりそうな気がする。
 ボランチ、やはりマスケラーノがすばらしい。オランダのデ・ヨングとファン・ボメルは本当に忌々しかった。パラグアイのリベロスのいやらしい位置取りとスロバキア戦の得点時のトラップはすごかったな。エジルはバラック不在を忘れさせる出来、久々にドイツに登場した柔らかい指揮官。
 中盤の前なりFWはキリがない。フォルラン、メッシ、イグアイン、朴智星、ルーニー、ドノバン、ロビーニョ、アサモア、ギャン、ケーヒル、スナイデル、トマソン、エトー、バルデス、C・ロナウド、ビジャ、鄭大世、キリがないな。

そうこう考えて厳選したのが以下。












GK 川島
DF 駒野、中澤、闘莉王、長友
MF 阿部、長谷部、遠藤、松井、大久保
FW 本田
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2010年05月26日

1970年決勝、ブラジルーイタリア

 少々旧聞となるが、先日NHKで中継された70年ワールドカップ決勝ブラジル−イタリアを堪能した。この時のブラジルは、29歳全盛期のペレを軸に今なお「史上最強」と呼ばれているチーム。学生時代に1度映像を見て感動した記憶があるのだが、約30年振りの再見となった次第。

 40年前の試合ゆえ、今日のサッカーとは多いに異なる点がある。ルール的に決定的に異なるのは、当時バックパスをゴールキーパが手でさばく事が許されているくらい(当時キックオフからの直接シュートは認められていなかった等の小さなルール変更はあるが)なのだが、試合展開は全く異なる。
 それ以外で、大きくルールは変わっていないのだが、1つ決定的に異なっているのは、ルールの運用への考え方。中でも、後方から相当きついタックルをしても、退場はおろか警告にならない事が、もっとも大きな違いだろう。したがって、(反則タックルがあまりに危険過ぎて)目を覆うよう場面に我慢する必要があった。
 次に、前線の選手がほとんど守備をしない。もちろん、流れの中からボールを追う事くらいは行うが、ゴールキーパのフィードを受けた守備者が持ち上がるのに対して、FWが妨害するケースはほとんどなかった。ただし、ブラジルのCFトスタオは、味方がボールを奪われた直後に、幾度かすばやい攻から守の切り替えを見せていた(と、言ってもその努力や頻度は、今日のトップ選手の1/10程度だろうが)。当時から、勤勉で頭の良いストライカと呼ばれていた理由が、この守備振りからも理解できた。
 前線の選手が守備をしない事ととも関連するが、中盤でのプレスがほとんどないのも今日のサッカーとの大きな違い。ただし、これはこの日のイタリアが極端に後方を厚くして守りを固めていたのも関連しているかもしれないが。と言うのは、ブラジルはサイドを有効にえぐる事はできず、それなりに攻撃に苦労していた。これはイタリアが中盤でボールを奪うのをあきらめ、おかげで、ブラジルの中盤のリーダのゲルソンは、常にハーフウェイラインを過ぎたあたりで、ノンビリと実に優雅な展開を見せてくれた。それにしても、ゲルソンは、視野の広さ、長いボールの精度、頭の上がり具合など、12年後のファルカンによく似ていた。
 もう1つ。ボールの違いもあるようだ。今のボールと異なり、完成時の寸法精度が落ちると言えばいいだろうか、ボールの当たりが不安定。ペレやリベリーノのように、抜群に上手な選手が時々信じ難いようなミスキック(宇宙開発)をしてしまう。高地のせいもあるかもしれないが、16年後の同じワールドカップでは、あまりそのような場面は見なかった記憶があるので、そう思った次第。なお、この映像の解説者が、高地について愉しい事を喋っていたが、それは書かないのが武士の情けと言うものか。

 さて試合。
 序盤からブラジルが中盤を支配し、イタリアが引いて守るのはお約束。上記の通り、ゲルソンがハーフウェイラインを越えた当たりで、悠然とルックアップしボールを散らす。サポートするクロドアウドは技巧的でよく動くボランチ。ファルカンとトニーニョ・セレーゾの組み合わせと同じだ(クロドアウドはトニーニョ・セレーゾより一層技巧的な分、あのバカバカしい長駆はないようだったが)。
 右ウィングのジャイルジーニョ(どうでもいいが、70年代半ばにあのヤスダが出していたジャイールラインのスパイクは懐かしい)は強引で直線的なドリブル。マークするファケッティとの1対1の攻防と駆け引きはすばらしい見せ物。そしてジャイルジーニョが内側に切れ込む事で空いた右サイドに主将のカルロス・アルベルト(グランパスにいたトーレスの親父、どうでもいいが高校時代世界史のテストでラテン人名を問う問題で答えがわからない時、私はいつも「カルロス」と書く事にしていた。そうすると4回に1回くらいは正解になる)が前進してくる。そして、多くの攻撃の起点はカルロス・アルベルトだった。イタリアが後方を固めているのを見ると、カルロス・アルベルトは球足が速く正確で低いクロスを、ペナルティエリア内のペレとトスタオにいれる。この2トップが、激しいプレッシャを受けながら、正確無比にそのボールを保持する事で、ブラジルの攻撃にスイッチがはいる。こう言うのを見ると、ジーコがサイドバックとしてアレックスに拘泥した気持ちがわかってくる。残念ながら、アレックスはカルロス・アルベルトではなかったのだが。
 引き気味の左ウィングはもちろんリベリーノ。この試合のリベリーノは、フェイントの総合百貨店みたいなプレイ振りで、とにかく何をするかわからない。スピードも抜群で、イタリア守備陣は深めに守っているのだが、それでも幾度も勝負して抜いていく(抜き去った後、必ず後方から削られて直接FKとなり、そのFKをリベリーノが豪快に外す、と言う事を繰り返していた)。トップのトスタオは、常に冷静にボールを受け、後方から削られながら冷静にペレ達にボールを落とし続ける。その落ち着きぶりに、ちょっと二川を思い出した。
 一方のイタリアは、正に正真正銘のカテナチオ。全員がマンツーマンでブラジル選手にまとわりつき、抜かれたら責任を持って後方から大ファウルで削り止める。ボールを奪うや、勇気を持ってカウンタに出る。最前線のリーバは怪我しない久保竜彦、ボニンセーニャは技巧的な鈴木隆行。この2人だけでどんなチームからも点を取ってしまう、そして後方から押し上げるマッツオーラ。巧いし動くし頭がいいし。やはりイタリア史上最高の10番ではないか(私は昔からジャンニ・リベラよりアレッサンドロ・マッツオーラの方が好きなのだ)。
 
 ブラジルの先制点は有名なペレのヘディングシュート。左サイドでスローインを受けたリベリーノが見事な動き出しで難しい体勢でファーサイドにセンタリング、ペレが後方に引いてマーカのブルグニキの視野後方に入り、驚異的な滞空時間のヘディングを決めたもの。あの体勢から高精度のセンタリングを上げるリベリーノもリベリーノだが、そのようなボールを期待して位置取りするペレもペレだな。あんな攻撃されたら防ぎようない。
 しかし、イタリアは恒例のブラジル守備陣のミスを引っ掛け、ボニンセーニャが同点弾を決めて1−1で前半を終える。
 後半開始早々のブラジルの攻撃は印象的。ペレが引いて右サイドのジャイルジーニョへ、ファケッティと正対したジャイルジーニョの右外側をカルロス・アルベルトが追い越す。ジャイルジーニョの高精度パスを受けたカルロス・アルベルトはそのままゴールラインギリギリまで切り込み、低いセンタリング。そこに飛び込んだのが起点となったペレ。けれども僅かに合わせ切れず逸機。これまた有名な場面だが、この試合外を完全にえぐる事ができたのは、先制点とこの場面の2回のみ。いかに、イタリアのカテナチオが利いていたかの証左と言える。
 ブラジルの2点目はゲルソン。左サイドから中央に切れ込むジャイルジーニョ(相変わらずポジションチェンジが頻繁)、ファケッティが冷静についていく。その時、右サイドから挙動を開始したゲルソンが、ジャイルジーニョと交錯する動き(いわゆるシザース)でボールを奪う。さすがのイタリア守備陣もずれる。そこでゲルソンは強く右足を踏み込んでクロスするように左足でシュート、ボールはサイドネットに突き刺さった。GKのアルベルトシからすると、ジャイルジーニョのドリブルで(自分の)右から左にボールが動き、シザースで左から右に、そして最後は再びゲルソンがいきなり左に強シュートを打って来たもの、たまったものではない。
 イタリアは散発的ながら幾度もリーバを軸に反撃する。ほんの少しイタリアに幸運があったとしたら、もう少し試合はもつれたかもしれない。しかし、もうブラジルは止まらない。ハーフウェイラインを越えたあたりでつかんだFK。外に開いたゲルソンが受け、ゴールを交差する深いロビング。何の事はないボールと思ったが、いやらしくGKがとれないコースへ。そして、そこにはまたも見事な後方への陽動動作で引いたペレが、ブルグニキを振り切ってフリーでヘディング。ゴール前に飛び込んで来たジャイルジーニョは、ファケッティに腕をつかまれバランスを崩しながらゴールに押し込んだ。歓喜で走ったジャイルジーニョがひざまずいて十字を切るのも有名な場面だな。
 そして、あの伝説的4点目。自陣でのクロドアウドの4人抜き(そりゃ2点差で負けていればイタリアは無理に取りにいくから、こうやって抜かれてしまう)、それを受けたジャイルジーニョが中央に切れ込み、右サイドで全くフリーのペレへ。ペレは一拍おいて、丁寧なパスを右に流す。と、後方から長駆してきたカルロス・アルベルトが全くのフリーで、強烈な右アウトサイドキックで叩き込んだ。この場面、ペレが後方にも目を持っている事を証明する場面と言えた(真実は、その前にいたトスタオが指差していたらしいが)。正にビューティフルゴール、お祭りの大団円を飾る一撃だった。

 それにしてもペレ。
 ディエゴのように「人間とは思えない」瞬間加速とも違う。クライフのように「流れるような体勢から展開する」のとも少し違う。最前線で、厳しいマークを受けて、幾度も削られながら、肝心の時に抜群の視野の広さと究極の状況判断を見せてくれる。ヘディングを含めて、技術も完璧。常にイタリアの意表を突き、超一流のチームメート達を使いこなす。そして、一番危険な選手が最前線にいる事の恐怖。

 なるほど、本当にすごい歴史的なチームだったのだ。
posted by 武藤文雄 at 23:31| Comment(7) | TrackBack(0) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年12月31日

2009年10大ニュース

1.Jクラブの経営問題
 15年かけて、負債12億円、観客20000人、ナビスコの歓喜を積み上げたトリニータ(もっとも負債の半分は今期1年間で積み上げたのだが)。何とか、何とか、生き延びて欲しい。
 10年かけてJ1に復帰したベルマーレは、観客3000人からの再スタートに成功した。
 そして、40年をかけて、ヴェルディは観客3000人と、幾多の想い出と、優秀な若い選手と再スタートを切る。
 不況もあるし、他競技との競争もある。けれども、「サッカーを、自分のクラブを応援する」と言う、このバカバカしい娯楽を、日本中の全ての地域に広げたい。

2.ワールドカップ予選、アジア、オセアニアの攻防
 イラクは復活ならず、イランとサウジアラビアの不振、ミラン・マチャラの大冒険はあったものの、32年ぶりの「西アジア不在」のワールドカップとなる。
 論外の中国に対し、北朝鮮の歓喜。
 一方で、「3強」には、あまりに無風の予選だった。最後の豪州戦にベストメンバを組まなかった重さはあるものの。

3.ACL連覇失敗と国内タイトルの攻防
 グランパス、インフルエンザに散る。
 フロンターレ、過酷日程に散る...さらに。米本。ポポビッチ氏。そして、ユアテックスタジアム!!!!
 ガンバ、憲剛に散る、一発勝負は難しい。
 そして、アントラーズ、運がないのだろうな。でも、アントラーズ強いな。伊野波と興梠の成長が嬉しい。

4.岡崎慎司の確立
 4回目にして初めて、「フォワードの中核」、「いかにして彼に点を取らせるかと言うストライカ」を所有して、ワールドカップに出場できる。
 まだ23歳で「型」を持ったストライカになりつつある岡崎。過度の期待は禁物とわかってはいるのだが。

5.移籍制度改定
 いきなりシーズン中に改定決定って、あってよいのだろうか。
 現状のFIFA方式は労働者保護の面からは正しいとは思う。しかし、サッカー的にそれが正しいのかと言うと、何とも言えない自分がいる。もっとも、短期的混乱はあろうが、結局戦力の極端な独占化にはつながらないだろうが(西欧の一部とは違う、外国人枠の撤廃がなければ)。
 ただ、この改訂の影響は、サッカー狂の思考実験の材料としては最適かもしれないが。

6.相次ぐ中東クラブによる選手の強奪
 毎年恒例行事、来年はペドロ・ジュニオールの番なのだろうか。中東に圧倒的な評価のガンバスカウトの眼力。まあ、直接前所属クラブから買えば効率よいと思うのだが。
 もっとも、広い視点から見れば異常でも何でもない。アジア枠の不自然さはあるのだが。いつか、日本人選手が中東に買われる時代は来るのだろうか。

7.雨天中止試合
 「主審に任せる」のは当然として、「その判断は正しかったのか?」と言う検証がなくてよいのだろうか。
 それにしても、よりによって、超過密日程のフロンターレ戦で、あの判断だから皮肉なものだった。「中途より再試合」と言う苦渋の決断は一定の評価をせざるを得ないだろう。(背景に日程がまったく空いていない事情もあったのだが)。FKからの再開と言うやり方(そしたら点がはいっちゃった)も議論の余地ありか。
 さらに、試合費用問題(アントラーズは「負け」を受け入れようとしたのも重要、結局費用はJ持ちだが、J持ちと言う事は全クラブの「割り勘」と言う事)。
 ともあれ、観戦したサポータの方々には強く羨望するものである(しかも無料だったと言うし)。

8.ジェフ、44年目の陥落
今日、イビチャ・オシム監督と日本代表の監督としての契約をできることを非常に嬉しく思っています。その反面、千葉のチーム関係者やサポーターの皆さんには色々なご心配や、納得の行かないこともあると思いますが、オシム監督を日本代表チームに送り出してよかったと思える日が早くくることは間違いないと思っています。
 まあ、それだけじゃないのは、わかっているけれど。

9.池田誠剛氏の韓国代表フィジカルコーチ就任
 日本人指導者が、「その実力のみ」を評価され、海外の強いチームから招聘されたのは、大変な快挙。さすが洪明甫氏と言うべきか。池田氏とは個人的ながあるもので。

10.モンテディオのJ1残留
 すべてのクラブが学ぶべき大成果、J1昇格よりJ1残留は難しい。アントラーズ戦のシュートゼロ、明治大戦の完敗が、その見事さを際立たせる。
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2009年12月30日

2009年ベストイレブン

 毎年恒例のベストイレブン。ご承知のように、雰囲気と勢いで選んでいますし、毎年結構選考基準が変わります。今年も1年を振り返りながら、愉しんで選びました。遠藤を選んでいませんが、まあ事情がありまして。あと、中澤は今期は選んで欲しくないだろうなと勝手に憶測したものです。

GK 楢崎正剛
 やはり、あのウズベク戦の最後の仁王立ちを見るとこの人だろう。元日の決勝、楢崎と遠藤の攻防が愉しみ。

DF 長谷部誠
 MFだけど、チーム編成上右サイドバックに。長谷部と遠藤を中盤で組み合わせた岡田氏の発想はすばらしいと思うのだが、長谷部をここに下げて、今野と遠藤で中盤ってアリだと思う。代表でもすばらしかったけれど、個人的にはこのアシストが気に入っている。南アフリカでも重要な存在になってくれる事だろうし。

DF 伊野波雅彦
 アントラーズの守備の中核として機能し、J制覇に貢献。貢献度と言う意味ではチーム最高と語っても過言ではない。今期の守備者としての成長は顕著だった。対敵動作、判断力、前線へのフィード、いずれも水準以上のプレイを見せた。
 「代表」と言うと「高さ」に不満が残るが、国内の中堅どころでは最高レベルのCBである事は間違いない。このようなタレントが、自らの工夫で「高さ」をカバーしてくれると嬉しいのだが。

DF 闘莉王
 バカではある。レッズを追われた事についてレッズの判断は正しい。
 けれども、レッズにおける闘莉王のプレイは魅力あふれるものだった。坪井と阿部と連携を活かしながら、読みと強さでカバーリング。攻撃の起点としても、フィニッシャとしても敵に脅威を与える。昨期までの闘莉王の攻撃参加の多くは空回りだったが、今期の攻撃は細貝と啓太の連動と合わせ、存分に組織的だった。1人のプレイヤとしては本当に魅力的なのだが。

DF 長友佑都
 ガーナ戦。ハンドの大ミスはあったが、信じ難いスタミナで走り切り勝利に貢献した。日本が本大会で攻め切るためにサイドバックの重要性は言うまでもない。あの傍若無人の上下動が世界を驚かせる事を期待したい。
 あと、全力疾走の直後、ちょっとだけでいいから、敵の逆を突く事も考えてくれれば。

MF 明神智和
 天皇杯準決勝で、あんなプレイをされたら選ばない訳にいかないではないか。

MF 米本拓司
 ナビスコ決勝。あんなシュートを決めるなんて、城福氏も関塚氏も今野も憲剛も誰も予想していなかっただろう。
 あの年齢での抜群の判断力、しつこさ、ボールを持ってからの度胸、事前のルックアップ。久々に「来た!」と言うタレントだ。まずはイエメン戦で機能し、一気に南アフリカまで行って下さい。

MF 千葉直樹
 今年くらいは構わないだろう?

MF 石川直宏
 場面1つ1つ美しさに。南アフリカでの歓喜を。

MF 中村憲剛
 「敗れた瞬間」が絵になり過ぎて恐ろしいくらいだ。
 あの天皇杯準々決勝延長後半、ゴール裏に憲剛が近付く度に抱いた恐怖感。そして、プレイが切れる度に天を仰ぐ憲剛、その頬のこけた疲労感。それでも幾度と無く、前進してくる恐怖の継続。
 代表でもトップ下と言う新境地を開き、完全に定位置を確保。南アフリカの歓喜は、この人次第と言う気がしてならない。

FW 岡崎慎司
 すさまじい進歩。あくなき闘志で守備を機能させながら、敵陣前に抜群のタイミングで飛び込み、敵陣前で敵DFに囲まれてもボールを自分のところに止める事ができる。
 日本代表は、久々に「エース」を獲得した。
 
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2009年10月29日

忘れたいが、忘れてはいけない過去2009

 また今年もこの日がやってきた。昨年は異国滞在中だったために、本件について書く事ができなかったが、毎年この日はあのクラブについて思い起こし、2度とあのような悲しい出来事は起こって欲しくない考える事はとても大切だと思っている。

 あれから11年が経った。当然ながら多くの選手が現役を去った、それでも当時の主力選手だった楢崎誠剛を筆頭に、、三浦淳宏、吉田孝行、波戸康広らは今なおJのトッププレイヤとして君臨している。以前も語ったが、あのクラブの「ある意味において明確な後継クラブ」と言わざるを得ない横浜FCはJ1での戦いも経験した。さらに、そこでは山口素弘がプレイし、そのクラブを最後に彼はスパイクを脱いだ。あのクラブでキャリアをスタートした遠藤保仁は、丹念に自らを磨き日本最高の選手と評価されるに至った。いや、他にもあのクラブ出身のサッカー人は、加茂周、ズデンコ・ベルデニック、反町康治、ゲルト・エンゲルス、田口禎則、岩井厚裕、前田浩二、大島秀夫、氏家英行ら、日本サッカーを色々な立場で支えているのは言うまでもない。

 11年の月日を経て、Jリーグは当時考えられない程、日本の隅々に根を張る事に成功した。いや、「Jリーグ」と言う表記は適切ではないな。先日の松本山雅が浦和レッズに勝利した事そのものが、日本サッカーが分厚くなっている事の証左なのだ。
 しかし、一方で厳しい現実もある。ヴェルディの迷走は、経営の失敗そのものかもしれないが、この名門クラブに消失の危機がある事はやはり残念だ。そのほかにも、FC岐阜をはじめ、Jでも相当経営が苦しいクラブの話は枚挙に暇ない。日本経済の冷え込み、ネットの発達によるマスコミの急激な構造変動(広告ビジネスの大きな転換を含み)など、サッカー界は世情に左右されるのは仕方がない事だ。しかし、ステークホルダであるサポータの厚みさえあれば、ほとんどの危機を乗り越える事ができるはずだ。そして、それがサッカーなのだ。経営が苦しくなり、キャッシュが回らなくなり優秀な選手を確保できずに下位リーグに陥落しても、クラブが存続すれば夢は続く。
 ところが、あのクラブの消滅は、分厚いサポータがいながら、「サッカーを理解しない」企業の論理を、「サッカー側」が誤って認めてしまった事態だった。だからこそ、あの痛恨の失敗を忘れてはいけない。
 繰り返すが、あのような悲劇を再発させぬように、あのクラブの事は絶対に忘れてはならないのだ。
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2009年10月27日

ピクシーとデヤンと...

(修正しました 2009/10/27)
すみません。ピクシーの「シュート」直前の軌道をすっかり勘違いしてました。ピクシーさん、皆様、ごめんなさい。自戒を込めて字消し線で間違いを残しました。それにしても、投稿直後わずか15分で3本お叱りをいただくとは、感謝感激であります。



 少々旧聞になってしまうが、先般のマリノス−グランパス戦で、ピクシーが決めた「ロングシュート」から、あれこれ考えた事を。
 
 それにしても、何とも言いようのない美しい軌跡だった。あのキックの精度を可能にした抜群の技量については言うまでもない。それ以上に、コロコロポワーンとボールがころがってきた飛んで来た瞬間に「これなら決められる、大観衆を喜ばせる事ができる」と判断したのだろうが、この閃きの豊かさを、どう讃えたらよいのか。
 あの試合場にいて、あの場面を目の当たりにしたすべての方々(野暮な主審を含めて)に嫉妬するものである。

 ところが、前後して行われたセリエA、ジェノアーインテル戦で、全く類似の「ロングシュート」が見られた。GKのクリアキックを、デヤン・スタンコビッチがダイレクトボレーでシュートし、約50mの距離を決めたものだ。
 こちらは公式の得点だが、軌跡と言い、飛んだコースと言い、実によく似ていた。浮いたボールを捉える難しさを考慮すると技術的にはこちらの方が難度が高いか。ただ、デヤンは試合に集中し常時「点を取る」事を考えていたのだろうから、瞬間閃きレベルはピクシーの方が上かな。

 おお、この2人は共にセルビア人ではないか。あのような類似した美しい弾道を、遠く離れた日本とイタリアで、新旧の同国のスーパースタアが、決めてくれた訳だ。その偶然に、サッカーの偉大さを感じずにはいられない。
 さらに言えば、2人は98年フランスワールドカップの「ユーゴスラビア代表」のチームメートだった。当時の「ユーゴスラビア」代表は、ピクシーを主将にサビチェビッチ、ユーゴビッチ、ミハイロビッチ、ミヤトビッチら、ピクシー世代のベテラン(つまり90年代前半にオシム爺さんに師事した世代)を主体にしたチームで、唯一デヤンのみが若手でレギュラ入りしていた。当時デヤンは、このバルカンの代表チームを長きに渡り支える存在として将来を嘱望されていたワールドクラスのスタア候補生だったのだ。

 そして、当時のデヤンの事を考えると、私は胸の片隅にちょっとした痛みを感じるのだ。ある場面を思い出して。
 それは上記フランスワールドカップ直後の、98ー99年シーズンのセリエAのある1試合の事だった。ワールドカップ後、レッドスターからラツィオに移籍したばかりのデヤンは、その試合で直接マークをやり合う形になった同年代のMFに圧倒された。デヤンは、技巧、フィジカル、駆け引き、すべてで劣勢となり再三1対1でしてやられたのだ。デヤン自身、ワールドカップでも一定の評価を受けたプライドもあった事だろう。試合終盤のある場面、そのMFに必死に食い下がり、何か全知全霊を賭けたかのようなプレイでボールを奪取した。そのデヤンの必死の形相はすさまじいものがあり、忘れ難い場面となっている。
 当時、そのペルージャのMFは20代前半の選手としては、世界最高レベルの逸材と期待されていたのだが。
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2009年10月26日

あれから24年

 今日は10月26日。今から24年前の今日は、「メキシコの青い空」「ボールが曲がる、ボールが落ちる」のメキシコワールドカップ予選の日韓戦が行われた日だ。時の経つのは速いものだ。来年には、あれから数えて7回目のワールドカップが行われるのだから。
 ちょうど中間点の12年前の今日は、フランス予選で自力突破権を一時失ってしまった国立のUAE戦が行われた日となる。個人的にはフランス予選が、「メキシコの青い空」から現在への折り返し点とはとても思えず、ずっと最近に感じられてならないのだが。
 メキシコまであと一歩まで迫りながら涙を飲み初出場するまでに12年の歳月が必要だった。当時、その12年間はとても長く感じたものだった。ところが、12年前のUAE戦に代表される七転八倒の末につかみ取ったジョホールバルの歓喜から、「出場して当然」、「準備試合のオランダに完敗して世も末」と言う世評になる今日までは「アッと言う間」に感じるのだ。
 まあ、このような錯覚は、トシをとったが故の事なのだろうか。
 
 ただ、このような錯覚を感じる理由もある。
 「メキシコの青い空」から「ジョホールバルの歓喜」さらにはフランスワールドカップへの挑戦に至るまでの期間の日本サッカー界の急速な右肩上がりの微分値はすさまじいものがあった。4年前の今日にも述べたのだが、あの24年前の今日は、今日の日本サッカー界がアジアに覇を唱える前兆だった。そして、その前兆以降、短期的失敗はあったものの、プロフェッショナリズムの本格導入と共に日本サッカーの質は急速に向上した。とにかく、この12年間の日本サッカーの発展スピードはすごかったのだ。
 そしてフランス以降。地元開催ワールドカップと言う大イベントを含め、我々はアジアで勝つのは当然となり、欧州や南米の列強とそれなりの試合もできるようにはなった。けれども、そこからの壁が思うように破れない。フランスのあたりまでの極端なほどの向上の微分係数が見られなくなったのだ。
 だから、前半の12年間を長く感じ、後半の12年間を短く感じたのだと思う。

 考えてみれば、これは当たり前の事なのだ。「名人と上手には天地ほどの差がある」と言われるが、前半の12年間我々は上手への道を歩んでいた。そして上手になってみると、名人への道の遠さを感じてると言う事だろう。
 先進の南米からも欧州からも、距離も文化も遠い我々(たとえば合衆国は欧州や南米に距離も文化も近い、豪州は南米に距離は近いし欧州に文化が近い)がどうやって名人に近付き、名人になっていくべきか。いたずらに悲観する事なく、知恵をしぼりながら、悠々といつかワールドカップを優勝する事を目指す事。
 そう言う目標を新たに考えるために、10月26日と言う日は格好なのだ。
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2009年04月04日

友の死

 友人が死んだ。
 友人と言うにはいささか失礼な約10歳年上のサッカー界の大先輩。かつてJSLでも戦ったトッププレイヤ。引退後は少年の指導を中軸に活躍されていた方だ。大先輩ではあるが、やはり私にとっては「友人」と語るのが適切な人だった。

 知り合ったのは2002年大会のちょっと前だった。縁あっての事。経歴と名前を聞いた瞬間に、私は思わず反応した。
「あの74−75年シーズンの天皇杯決勝の方ですか。」
これはこれで、彼には相当な驚きだったようだ。彼ほどの経歴を持ち主でも、30年近く経った後に初対面で己の経歴を記憶している輩との対面は、よほどの印象があったのだろう。彼にとって、この初対面時の私の反応は、「完璧な合格点」だったのだと思う。以降、本当に可愛がってもらった。

 あの2002年の森島スタジアムの歓喜の夜。ミナミの飲み屋でお互い涙しながらの会話の数々。「前半押し込みながらの我慢」、「前半終了間際のちょっと危ない時間帯の戸田のファウルの是非」、「ハーフタイムに稲本を代えるフィリップの勇気」、「なぜ、あそこで森島の前にボールはこぼれたのか」、「市川が右サイドをえぐろうとした時に、中田は一瞬止まって突然前に出た」。あの歓喜の晩に、彼とその仲間たちと語り合った数々。
 トヨタカップの度に東上する彼との試合後の会話。「結局ロナウドのすべてはファーストタッチにある」、「なぜアンチェロッティは腰が引けたのか」、「カルロス・ビアンキは、どこまでこの試合展開を読んでいたのか」、「ジェラードは前に出るべきか、ボランチで戦うべきか」。
 贅沢極まりない料理を堪能した後の、彼との会話は珠玉の愉しみだった。勝負を分ける一瞬のプレイ、それを見つけられるかどうか。試合後に幾度「俺はあれを見たよ」との会話で競った事か。

 子どもの指導に悩んだ時によく助言を求めた。
 いつも彼は答えてくれた。
「武藤さんよ、子どもが愉しんでいるかい。」
「どんな厳しい要求しても、子どもの目が光っていれば大丈夫よ。」
「愉しんでいれば、俺たちが思っていもいないアイデアを出してくるって。」
「愉しければ大丈夫、子どもは勝手にうまくなるよ。」

 「子どもは愉しんでいるのか」
これは今でも私の課題だ。どんな試合でも子ども達は勝ちたい。勝とうともがくからこそ、進歩がある。一方で我々指導陣は「失敗してもいいから挑戦しろ」と激励する。でも、彼らは勝ちたい。その苦しいもがきを、子ども達は愉しんでいるのか。

 一昨年、重病に臥せった彼は見事に回復してくれた。オシム爺さん最後の代表戦のエジプト戦後。回復直後の彼との会話は愉しかった。
「あそこで、大久保が飛び出してきた時に、絶対入ると思ったよね。」
 今思えば、じっくりと彼と会話できたのは、あれが最後だったのだ。

 もっと、もっと、語り合いたかった。もっと、もっと、勉強させて欲しかった。もっと、もっと、子ども達への指導法を聞きたかった。いや、もっと、もっと、一緒に飲んだくれたかった。

 平田生雄さん、享年58歳。法政大学、永大産業でプレイ。永大産業ではマネージャとして、解散したチームの各選手の再就職先の斡旋に尽力。引退後は、セルジオ越後氏と共に少年サッカーの指導に活躍。彼の弟子は日本中に無数。

 平田さん。さようなら。ありがとうございました。
posted by 武藤文雄 at 23:58| Comment(1) | TrackBack(0) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする