2008年06月12日

長沼健氏逝去(下)

 Jリーグ開幕前後(正確には92年のアジアカップ制覇前後と言うべきかもしれないが)で、日本サッカー界の,社会的注目度は極端に変わった。それ以前は、アジアのどの国に対しても優位に立てる戦闘能力を誇る代表チームも、満員の大観衆も、各クラブの上がり下がりを毎週末歓喜し悲嘆するサポータも、カズや中村俊輔のように一挙手一投足が国民から注視されるスター選手もいなかった。そのためもあって、Jリーグ以前については、あたかも「前史」としての扱いを受ける事がしばしばある。

 しかし、日本サッカー界の「制度」と言う切り口から見る限り、「前史」時代と今日では極端な相違はあまりないのだ。
 Jリーグ開幕前、既に日本サッカー界はプロ契約選手は多数いた。JSL1部、2部、地域リーグとピラミッド体制のリーグ戦も存在していた。そのため、地方の小さなクラブがトップリーグ入りを目指そうとすればステップアップしていく道筋は準備されていた(飛び級制度をどうするかは、当時も今も議論の的だが)。全国のチームに開かれた天皇杯もあり、状況が許せば地方のチームがJSLのトップチームを破る事もあったし、実際2部リーグのチームが天皇杯を制覇した事もあった。選手登録は、年齢単位で会社のチームも学校のチームもクラブチームも同格に扱われていた。全国でトレセンを経て、無名の有力選手を拾い上げる体制もできていた。登録選手1人1人が登録料を支払い、薄く広く日本協会全体の費用を負担するやり方も完成していた。各チームには審判登録が必要で、各地域の講習会を受験する事で誰でも審判資格を取得し、意欲があれば上級審判に進む道も準備されていた。
 繰り返すが、「制度」面では、「前史」段階で既に現代的な仕組みは完成していたのだ。

 これは凄い事である。他の団体競技を考えてみよう。
 野球は今でも統括的な組織がない。その結果、最近ではだいぶ状況が改善されてはきているが、プロ経験者がその経験を活かし若年層の指導者になる事すら容易ではない。また伝統の名の下に大学では強豪チームと弱小チームがリーグを組んでいたり、正常とは思えない灼熱の環境下で高校生が連投を余儀なくされている。ラグビーは国内最高の大会に、国内最強とは言えない大会を勝ち抜いてきた大学チームが出場できる。バレーボールは世界最強国だった時代に、時の代表的な指導者が五輪を目指し若年層から一貫指導を行おうとしたが、それらの選手を合理的にプレイさせる環境がなく、散々苦労していた。バスケットボールに至っては、現在トップリーグが分裂している有様だ。
 それらに比べてサッカーの仕組みが、いかに合理的で公平な事か。サッカーも大なり小なり問題を抱えてはいるが、「制度」的な問題でトップチームの強化に障害が起こったり、見世物としてトップチームの活動を阻害する要因は、他競技と比較して飛躍的に少ないのだ。
 もちろん、FIFAの1国1協会制度は、大きな助けになったはずだ。また、西欧や南米のサッカー先進国の仕組みは相当な参考になり、それらを真似した制度を導入すればよかったのも間違いない。けれども、上記したように、他の団体競技の多くは、合理的で公平なサッカー的な仕組みを、取り入れる事がなかなかできていない。極端な言い方をすれば、サッカーだけがそれに成功したのだ。

 これらの「制度」の充実は70年代から80年代後半にかけ、長沼氏が専務理事の体制の下の的確な改革により、築かれた分厚い仕組みなのだ。無論これを作り上げた功績は長沼氏だけのものではない。長沼氏の長年の盟友岡野俊一郎氏を含めた日本協会のみならず地方協会のスタッフ達、さらには日本中のサッカー人が皆で作り上げたものだ。
 しかし、それらの中心に常に長沼氏と(参謀としてにらみを利かせていた岡野俊一郎氏と)がいた事は間違いがない事だ(氏が専務理事になる前にスタートした改革も少なくないが、長沼、岡野コンビが代表チームを見ていた時代から、協会改革に関与していたのもよく知られた話だ)。
 そして、これらの仕組みの完成には大変なエネルギーが必要だったはずだ。なぜならば、1つ1つには必ず反対する人々がいたはずだから。例えば、JOCであり、他の競技団体であり、高体連や中体連であり、既存の社会人チームや大学チームである。そして、こう言った人々に対し、粘り強くしかし信念を持って物事を進めなければ、改革は進まない。長沼氏はこれをやり遂げたのだ。氏が亡くなった直後に多くの報道が「人望のある浪花節の調整型リーダ」と氏を評していた。私は少々違うと思っている。氏が人望のある人だったのは確かだし、氏の浪花節も間違いないだろう。しかし、氏は調整型ではなかったと思う。信念を持って、信じる道を淡々と説く人だったのだと思う。調整型の人間に、このような改革をやり遂げられるとは思えないからだ。

 もちろん、物事はそうきれい事だけではない。その改革の最中にいた我々としては、改革のスピードの遅さに随分不満を持ったものだった。例えば最近の話でも、加茂氏を更迭した際に、結果的にしばらく協会会長に居座ったあたりなど、あまり美しい姿ではなかった(何か愛嬌はあったけれど)。しかし、完璧な人など、そうはいないのだし。
 そして、結果的には少々時間はかかったが、我々は非常に的確にサッカーを愉しむ仕組みを手に入れる事ができたているのだ。

 残念ながら、今日の日本サッカーは難しい事態に陥っている。問題が山積なのは仕方がないかもしれないが、その問題が一切解決の方向に進まず停滞しているのだ。破綻している日程しかり、審判問題しかり、観客の暴力事件しかり、選手がドーピングの濡れ衣を着せられた事件しかり。現在の日本協会は、このような問題を解決できないどころか、まともな対応もできない組織になり下がっている。
 しかし、考えてみれば、1960年代、長沼氏は日本協会の先達達やクラマー氏に「日本サッカーのリーダ」と指名されてから、盟友の岡野氏の助けを借りながら、常に日本サッカーを率い、上記の改革をやり遂げてきた訳だ。言い換えれば、約40年に渡り、我々は両氏に引っ張られて走ってきたと言う事になる。これだけのリーダの後継者はそうは出ないのも仕方がないのだろう。
 そして、他人事のように語る事は許されないのだと思う。我々サッカー人は1人1人、日本サッカー界が向上すべく努力をしていかなかければならないのだろう。それが何よりも、天国の長沼氏への御礼となるはずだ。
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2008年06月10日

長沼健氏逝去(上)

 長沼健氏が亡くなった第一報を、ワールドカップ予選のキックオフ直前に、しかも会場のアナウンスとオーロラビジョンで知る事と言うのは、結構な衝撃だった。氏について何か書きたいと思っていたのだが、中々まとめられずに1週間以上が経過してしまった。改めてご冥福を祈りつつ、いくつか述べてみたい。まず、今日は氏の偉大な業績の中で、今なおどうにも腑に落ちないことを。

 長沼氏は2回代表監督に就任している。1度目は東京、メキシコ五輪の栄光時代。銅メダル獲得後勇退。そして、後任の岡野俊一郎監督がミュンヘン五輪出場権獲得を逸して退任した後を受け、代表監督に復帰している。その第2期長沼政権の目標のモントリオール五輪だった。
 76年初頭に行われたモントリオール五輪最終予選、日本、韓国、イスラエルが,H&Aのリーグ戦で勝負を決める規定だった。しかし、当時の日本は武装極左ゲリラ(連合赤軍)がアラブゲリラと連携していた事もあり、イスラエルとのホームゲームの国内開催を諦めた。そのため、初戦の国立韓国戦が唯一のホームゲームとなり、この試合はどう考えても勝たなければならないものとなった。
 この試合、長沼氏は一種の奇策に出る。前年末から負傷欠場し、年が明けてからもほんの僅かしか準備試合にも出ていなかったベテランの森孝慈を久々に先発起用したのだ。無論、森はメキシコ五輪銅メダリスト、豊富な経験を誇る大スター、エース釜本とは早大時代のチームメートで信頼関係もあったのは確かだが、相当思い切った策ではあった。釜本との連携と言うならば、森に押し出される形で控えに回ったネルソン吉村もいたのだが。
 ところが、日本は開始早々にCK崩れから先制され、その後釜本を軸に押し気味に試合を進めるも後半半ば過ぎに逆襲から追加点を許し、0−2で完敗。森も必ずしもよいプレイを見せられず、長沼氏の策は裏目に出た。以降の試合、長沼氏は森をCBとして起用し続けるも、日本はソウルで韓国と引き分けたものの、イスラエルに2連敗し敗退する。
 今思えば、韓国、イスラエルとの戦闘能力差は大きく、それをカバーするためにも、大事な大一番で信頼するベテランに賭けるギャンブルを仕掛けた長沼氏の胆力を評価すべきかもしれない。そして、初戦敗戦以降も、森を本来とは異なるポジションでまで使い続けたのだから、長沼氏の森に対する信頼は絶大だったのだ。

 その後日談。選手として長沼氏の信頼が厚かった森氏は、長沼専務理事体制の81年には代表監督に就任する。指導者としての森氏は、現役末期から「将来の代表監督候補」と言われ、メキシコ五輪銅メダリストの中でも、もっとも指導者としての将来を嘱望されていた。そして、メキシコ五輪の先輩渡辺正代表監督が不運な病魔に倒れたのを受け、川渕三郎監督のつなぎの後に、森氏は若くして代表監督となったものだった。
 森氏率いる日本代表は、84年ロス五輪最終予選でタイのピヤポンに大破され4戦全敗の大惨敗を喫する。森氏は辞表を提出し、日本協会も各種の混乱があったものの、最終的には長沼氏を中心とする協会首脳は森氏を慰留する。そして翌85年メキシコW杯予選、森氏が修正したチームは快進撃を見せ、本大会まであと一歩まで迫る。この時点での森氏の手腕は非常に高く評価された。
 W杯予選敗退後、森氏は、長沼氏ら協会首脳に対し「韓国に勝つためには(韓国同様)プロ化が必要、自分をプロの監督として雇って欲しい」と提案した。しかし、長沼氏らはそれを認めず、森氏は野に下る。
 直後、JSLは選手のプロ契約を承認、国内のスター木村和司や、ブンデスリーガから帰国した奥寺康彦がプロ選手として公に契約するほど、時代はプロ化に流れつつあった。そのような時代の流れにも関わらず、満を持して代表監督に起用し、惨敗にも慰留し、ようやく成果を挙げつつあった森氏を、何ゆえ長沼氏は切らなければならなかったのだろうか。

 もし、ここで森氏が日本協会を去らなければ、日本のサッカー史はどうなっていたのだろうか。
 メキシコまであと一歩まで迫った日本代表は、最年長の主将の加藤久が当時まだ29歳。ほとんどの選手があと4年はプレイできそうな状態だった。そして、ドーハ世代の柱谷、堀池、井原らが登場しつつあった。森氏が彼らを率いて80年代後半を戦っていたら、アジアのサッカー界はどう変わっていたのだろうか。。
 さらに、そのまま森氏が代表監督を継続していれば、間違いなく氏は監督退任以降は日本協会の要職を務めた事だろう。そうなっていれば、今日の日本協会はどのような体制になっていたのだろうか。
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2008年02月28日

鈴木啓太、年間最優秀選手獲得

 各方面で報道されているが(例えばこれ)、鈴木啓太が年間最優秀選手(いわゆるフットボーラー・オブ・ザ・イヤー)を獲得した。啓太は、この他に昨シーズンはサッカーマガジンのクリスタルアウォードを獲得している(JリーグMVPは同僚のポンテに譲ったが)。
 昨シーズンのレッズ、代表での八面六臂の大活躍を考えれば当然の受賞だろう。以前も述べたが、日本の最優秀選手にとどまらず、アジアの最優秀選手として表象して欲しかった程の活躍振りだったのだから。

 啓太の活躍を称えつつ、今日はこの今まであまり議論される事の少なかった年間最優秀選手について少し考えて見たい。だいぶ前に述べた事があるが、この手の表彰は「優秀」な選手を選ぶのか「殊勲」の選手を選ぶのか、選考者の好みや考え方もまちまちだし、結構難しいものがある。
 そして、この年間最優秀選手と言うタイトルは日本では最も古く権威があるものとされている。歴代の受賞者はこちら(手元にこれ以外資料がなかったので、Wikipediaを用いた、少なくとも私の記憶レベルでは間違いはないと思うのだが)。こうやって眺めると、結構バランスの取れた選考をしているのがわかる。最近の受賞者の顔ぶれを見ても、それなりに納得できる選手が並んでいるではないか。
 無論、いささか疑問の残る選考が行なわれたシーズンも少なくないし、当然選ばれて然るべき選手が選ばれていないケースもある。選ばれていない事例としては、森孝滋、奥寺康彦、加藤久、井原正巳らが挙げられるが、彼らは選ばれるべき活躍をしたシーズン(つまりプレイも充実し、タイトルを獲得したシーズン)にそれ以上にマスコミ的に目立つ選手がいたために、選考されなかった訳だ。
 しかし、一方で見事な選考が行なわれたシーズンもある。例えば、79年の今井敬三は、分厚い守備でJSLと天皇杯を制覇したフジタの守備の中核でもあり、代表でも堅実な活躍をしていた選手で、このような選手がしっかりと評価された。87年の森下申一もゴールキーパとしては初めての選考だったが、JSLを非常に少ない失点で優勝したヤマハの中核としての活躍が評価されての受賞だった。このような選手の活躍が、このような個人タイトルとして残る事には大きな価値があると思う。
 そのような意味では、啓太の今回の表彰についても、過去の歴史を掘り下げた報道があればよいのにと思うのは私だけだろうか。

 70年代半ばくらいだっただろうか、牛木氏が昔サッカーマガジンにこの表彰を始めた時の経緯を書かれていた事がある。当時、少しでもサッカー界を盛り上げようとして、牛木氏を初めとする若い新聞記者たちがこの年間最優秀選手と言うタイトルを企画したそうだ。その時に心がけたのは「誰もが文句が言えないくらい活躍した選手がいるシーズンに始める」事だったとの事。そのような配慮をする事で、タイトルに権威をつけようとしたとの事である。
 と言う事で、改めて第1回の受賞者を見ると、このタイトルの深みを一層感じていただけるのではないか。
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2008年02月27日

レアル・マドリードと浦和レッズの類似的失態

 大仰なタイトルを付けたが、もちろん今日のお題は、先日のレアル・マドリーがヘタフェ戦での失態について。 

 オフサイドポジションにいたラウールが敵GKのファンブルを拾って(この瞬間オフサイドだった訳だ)センタリング、ロッベンがダイレクトで決めたもの。ところが、オフサイドにもかかわらず、皆で喜んでいるうちにヘタフェがプレイを再開し、見事に得点を決めてしまった。
 私もそうだが、多くの方々が93年のアントラーズ戦での、レッズの福田の得点直後の失態を思い出した事だろう。ただ、この2つのプレイの大きな相違がある。15年前のレッズのそれは「正式な得点」の後だったのに対し、今回のレアル・マドリードは「反則により得点が認められなかった」後である事だ。得点後のキックオフ時は、得点したチームの選手は皆自陣に入っていなければならないのだが、当時のレッズは間違いなくその状態で大喜びしていた。そのような危険な状態を放置し、アントラーズにその隙を疲れた訳だ。つまり、レッズは喜ぶにしても、自陣より外で喜ぶとか、あるいは冷静な選手がセンターサークルに入ってキックオフをさせなければよかったのだが。一方で、今回のロッベン直後は、オフサイドでのノーゴール直後だけに、レアルの選手達がどこにいようが、ヘタフェはプレイを再開できたはず。唯一の可能性は間接FKの近くに立ち警告覚悟で妨害する事くらいだろうが、よほど良い位置にいる選手が鋭く切り換えないと難しいように思う。つまり、間抜け振りは五十歩百歩かもしれないが、今回のレアル側は一部の選手が得点と勘違いして大喜びしてしまった時点で、既に決定的な危機を迎えていた訳だ。そう言う意味ではグティが「4歳児並みのミスだ」と反省していたらしいが、このミスはいずれのチームにも襲いかかる怖れはある。そして一般論では、衝撃はレアルのケースの方が大きいかも。レッズのケースは1−0が1−1になっただけだが、こちらは1−0のつもりが0−1だからな。

 とは言え、15年前は懐かしいな。当時はアントラーズの実質監督ジーコのブラジル風の抜け目無さに感心させられたものだ。そして、その抜け目無さは「マリーシア」と言うポルトガル語と共に日本サッカー界に定着して行く事になる。ああ、あの頃はジーコも真剣に取り組んでくれていたのだなと。
 そして、ロッベンと異なり見事な得点を「決めた」福田。あの頃、福田はもがいていた。と言うのは、Jリーグ開幕直前に行われたワールドカップ1次予選で体調を崩したままリーグに入っていたからだ。当時の福田はまごう事なきオフト氏率いる日本代表の攻撃の中核。ダブルセントラルで行われた予選のUAEでの最終戦前、東京の直接対決で勝ちさらにバーレーン、スリランカから大量得点を奪う事に成功していた日本は、6点差で負けなければ2次予選出場を決めていた。その試合直前に福田は風邪で体調を崩していた。ところが、オフト氏は無理に福田を出場させてしまった。
 結果として、福田はボロボロの体調のまま、週2試合、延長PKありと言う狂的な日程のJリーグに参加する事になった。結果、レッズは開幕から連戦連敗を続けていた。このアントラーズ戦はそのような状況下で迎えた試合だった。そして、実に久しぶりに福田が強烈なドリブル突破から先制点を決め、チーム全体が歓喜に浸っていた直後に本件は起こった訳だ。その精神的ダメージは極めて大きく、(上記のように)単に1−0が1−1にと言うものではなかった。
 以下、余談の戯れ言。その後も福田は体調維持に苦しみ、その影響は秋口まで続き、ドーハに旅立つ事になる。当時のオフト氏の手腕は素晴らしいものだったとは思う。思いはするが、あの敵地UAE戦で福田に無理をさせた事が、オフト氏の最大のミスだったのではないかと、この15年間思い続けているのだが。
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2007年12月31日

2007年10大ニュース

 今年もこの偏見あふれるBLOGにお付き合いいただき、ありがとうございました。年末ですので、恒例の10大ニュースを述べさせていただきます。実は年末に某所で暫定版を発表したのですが、その後少しアタマを整理してやや変更しています。
 毎年執拗に10大ニュースに挙げていた「破綻した日程」を敢えて外しました。それは選択した多くのニュースに、日程破綻問題が絡むからです。その負担を全て消耗していく選手達に押し付けている現状は、もはや看過できない状態になっているのですが。
 五輪代表の反町監督の迷走と言うか「天下の期待はずれ」は、08年に金メダル獲得で取り返してもらう事でチャラにすべく敢えて外しました。また、代表戦のチケット販売不振については入れたかったのですが着外と言う事で。

1.オシム爺さん倒れる

 最善の選択は、時に最悪の事態を生むと言う事なのだろう。
 「2010年に爺さんが手塩にかけたチームを世界に問う」と言う我々の願いは叶えられなかった。叶わない夢を持てた事だけでも幸せだったと考える事にしたい。
 幸い、回復は順調と聞く。どうやらあの笑顔を再び見る事ができそうだ。もうそれ以上の贅沢は言うまい。
 後任の岡田氏は(再三述べているが甚だ岡田氏には失礼だが)次善、三善の策だろう。しかし、その選考は間違っていないと思う。2010年は岡田氏と、1998年の復讐戦を戦うのだ。

2.アジアカップ3連覇ならず

 BLOGでも述べたが、私は決勝進出したら現地に行く計画をしていた。相当悔しかった。
 しかし、オシム爺さんが作ったチームは、芸術的なパス交換を基盤にしたとてもよいチームだった。そして、チーム作りも明らかに1,2年先を見ているのは明確だった。だから負けたのは仕方がない。
 でも、せめて1週間早くJを休んで準備できなかったものなのか。そのような時間が無いと言う日程破綻問題そのものが、極めて深刻な事態なのだが。
 やはり、それにしても、このチームの完成を見る事ができないのが悲しい。

3.ヴァンフォーレ甲府のビューティフルゴール

 J1前期、ヴァンフォーレ−ガンバ戦のヴァンフォーレのビューティフルゴール。15本ものショートパスをつないで、完全に守備ラインを崩したものだった。あれだけ、ひたすら短いパスをつないで同じサイドを崩した美しい得点は、ちょっと見られるものではない。
 ヴァンフォーレは結果的に今期J2に陥落した。しかし、あの美しい得点は永遠に記録にも記憶にも残る。

4.レッズのACL制覇

 レッズがACL王者を久々に日本に奪回。敵地で負けないしぶとさを見せて勝ち点を積み上げて1次リーグ突破。準決勝の城南戦は凄絶なPK戦を勝ち抜いての決勝進出と、決して楽な勝ち上がりではなかったが、それがまたレッズの強さを表した感があった。そのまま拡大トヨタカップに出場し、ミランと丁々発止。ミラン戦で、阿部と啓太と闘莉王のプレイが十分に通用したのが、嬉しかった。
 とは言え、日程破綻問題と、硬直したオジェク氏采配により、選手は疲労困憊、ガタガタになっており、ほぼ手中にしていたリーグタイトルを逸したのだが。

5.フロンターレのACL準々決勝敗戦

 あのセパハンのPK負け。何と言っていいか。負けた瞬間、私の記憶は白黒映像として鮮明に残っている。巧く言えないが、あのフロンターレが崩れ落ちたあの瞬間はそのような記憶なのだ。
 それにしても美しい試合だった。
 もっとも、あの美しさは、日程破綻問題ゆえもあったのだが。
 一方で、このセパハン戦周辺での協会首脳の信じ難い暴言は何だったのか。

6 我那覇のニンニク注射問題

 ドーピング問題を考慮した場合、ニンニク注射(点滴)はOKなのかNGなのかは、非常に微妙な問題だと言う。これ以上は専門家でない私が論じるべきではないだろうが、微妙な問題にも関わらず、事前にその情報を曖昧なままに扱っておいて、信じ難い高額な罰金と出場停止を宣告するJリーグ当局。さらに、以降の対応をアタマから拒絶する硬直性。何かおかしい。
 そして、我那覇がこの騒動以降すっかり体調を崩したのか、凡庸なプレイしか見せられないようになった事実は悲しい。

7.アントラーズ久々のJ制覇

 長期のリーグ戦と言うのものは、我慢を重ねて勝ち点を積み上げ最終戦終了時点で一番多くの勝ち点を取ったチームが優勝すると言う当たり前の事を、丹念にやり遂げた優勝。的確な監督選考と、毎期の堅実な補強が、ここに来て奏効したとも言えるか。
 個人的には、いよいよ狡猾で抜け目のないプレイをするようになった本山の成長が嬉しい。

8.サンガ−ベルマーレ、微妙な試合中止判断

 経緯はこちらに。
 もし、この試合にベルマーレが勝っていれば、J2の終盤戦は大きく状況が変わっていた。サガンのフロントが恣意的な事はしていないと信じてはいるが、結果から見れば何とも微妙な感想を抱かざるを得ない中断ではあった。悪しき前例にならない事を望む。

9.TOTOの危機

 経営不振が続いていたTOTOが、BIGを始めた事により、黒字化改善の目処が立ったとの事だ。しかし、これは何も喜ばしい事ではない。サッカーくじとしての「予想の愉しさ」が、世間に何も評価されていないと言う事だから。
 スポーツ振興財源のために、ギャンブルをいかに巧く使うのか。行政改革の俎上に乗る事もしばしばのTOTO。本質的な意義を問われている。

10.中村のスコットランド個人タイトル独占

 1人の選手が1国の個人タイトルを総なめする事はそうはない。それを日本の選手がやり遂げたのだから、多いに評価に値しよう。極端な言い方をすれば、日本の選手が国内の個人タイトルをここまで1人で総なめする事すら難しいのだから。
 今の中村は、代表においても、セルティックにおいても、登場するだけで「場」が変わる選手にまで成長した。体力的なピークを過ぎる年齢になったが、南アフリカで今度こそピークが来るべく鍛錬して欲しい。
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2007年12月30日

2007年ベストイレブン

 従来であれば、ワールドカップの翌年と言うのは比較的落ち着いた年のはずなのだが、今年はアジアカップが1年前倒しになった事や、レッズの拡大トヨタカップでの奮闘など、インタナショナルマッチでもたっぷり愉しめる1年となった。自分なりに感じた「世界との距離」については近くまとめたいと思っているのだが。
 ともあれ、毎年やっている恒例の日本サッカー私選ベスト11を。

 闘莉王はアジアカップ直前の負傷を考慮して不選考。
 中澤については迷いに迷った(あの闘莉王が中澤とプレイするとおとなしくなるのが面白いのだが)。アジアカップを含めたA代表での堂々としたプレイ振りを考えるとベスト11決定!なのだが、マリノスと言うチームが今一歩だったので、思い切って外した。
 あと阿部について。本当に凄い選手だと思ったし、アジアカップでも巷で言われるほど悪くなかったし、城南戦の肉体能力を投げ出した守備は凄かったし、本来のMFで起用されたミラン戦でカカやアンブロジーニと見せた丁々発止には感動した。でも自己顕示欲が少なすぎる。ミラン戦でもアジアカップサウジ戦でも、試合終盤どうして前に出て行かないのか。と言う事で落選。
 あと、明神を選びたかったのだが。

都築龍太
 GKは悩んだ。豪州戦のPKストップの川口はさすがだったがあの1回程度でベスト11と言うのは何か失礼な記がする。楢崎はそれほど目立たなかった。川島も菅野もよかったけど何か今一歩。五輪の山本の国立カタール戦の超美技は反町を救ったがそれでベスト11と言う訳にもいかない。と言う事で、レッズの国際試合で2回PK勝ちした都築にした。あのエトワール戦のおバカは御愛嬌と言う事で。

森勇介
 あの右サイドの前進意欲。いささか落ち着いたとは言え、後先考えない闘争本能。A代表入りはさておき、本当によい選手になった。あのセパハン戦の負傷退場が悔しい。

水本裕貴
 あの「組織力は全くないが個の力だけで勝ち抜いた」五輪代表の象徴として。現在のA代表の中澤と闘莉王が強さではね返すタイプなのに対し、水本は読みとスピードで守る。この3人が連携を高めれば、日本サッカー史上かつてないスケールの守備ラインが期待できる(もちろん青山直の参加を拒むものではないが)。

岩政大樹
 アントラーズJリーグ制覇の立役者の1人。単純な強さ、高さでは相当なレベルに達した。その強さを活かしたまま、足下への対応をどこまで伸ばす事ができるか。中澤にしても、先ごろ引退した秋田にしても、20代半ばからその能力をガーンと上げた。岩政にとっては、09年は非常に重要な年になるのではないか。

安田理大
 ワールドユースの活躍とナビスコカップでの決勝点を評価して選考。この選手で嬉しいのは守備の着実な進歩。とにかく、スライディングの思い切りがよい。もちろん攻撃参加のタイミングもどんどん成長している。確かに都並敏史の若い頃を思い出させる。もっとも当時の都並はフライデー止まり、安田はしっかりお子さんも授かったようだが。

鈴木啓太
 文句ない今期のMVP。私選アジア年間最優秀選手でもある。それにしても巧くなった。五輪代表時代落選時に、私は「ミスパスの多さからA代表は難しいのではないか」と予測した。しかし、その予測は完全に間違えていた。ここに改めて、啓太には謝罪したいと思う。
 「ごめんなさい」

中村憲剛
 昨日のエントリで不満を述べた。代表でも不満は多い。中村俊輔はさておき、どうして遠藤にまであそこまで遠慮するのだろうか。遠藤は憲剛が要求を出せば応える技術も対応力も持っているのだから。とにかく要求する水準は高いから、どうしても不満が多くなってしまうと言う事か。でもあのスーパーアシストは凄かったので。
 「関塚さん、どうしてセパハン戦、あそこで交代させたのですか?」

遠藤保仁
 遅い事を武器にできる日本では真に珍しい選手。今年この選手の成長の経路己のスタイルへの拘泥について述べたが、語るに本当に愉しい選手だ。特に好きだったのは、アジアカップ1次リーグ第2戦の完璧な試合クローズ。おそらく、今後もこのやる気があるのかないのかわからない男を語り続ける事を、じっくり愉しめる事だろう。

中村俊輔
 1国の個人タイトルをここまで独占した日本人選手は、往時の釜本以来だろう(笑)。紛れもなく、欧州最高レベルと評価されたと言う事だ。不思議なのは、この偉大さの評価が、妙に国内で低い事だ。A代表でも、セルティックでも中村がちょっとボールに触るだけで、大きな変化が生まれる。
 1歳年上の中田が自ら戦場を去り、1歳年下の小野が不振にもがいている今、中村だけは着実に成長し、世界に明確な位置を獲得したのは、歴然たる事実なのだ。

本山雅志
 岩政同様、アントラーズ優勝を評価して。でも、本当によい選手になった。あのレッズ戦のサイドバック振りの見事な事。元々、技巧と狡猾さは優れていたが、戦略性も身につけてきた。2列目から前進できるタレントとしては、山瀬、羽生、そして若い柏木がいるが、経験に優れる本山は南アフリカの有力候補である事は間違いない。贅沢なのはわかっているけど、勝負どころで若い頃のようなカミソリドリブルも見せて欲しいのだが。

高原直泰
 あれだけドイツで点を取り、アジアカップでも大事なところで決めたのだから。
 あのテヘランイラン戦での無様なプレイ振りを散々非難した私だが、ここまで立ち直ってくれて、素直に嬉しい。とにかく、この人は体調を整える事が全てなのではないか。
 残念ながら、今期は負傷がちで欠場続き。慎重なコンディショニングを心がけ、南アフリカでピークにと思わずにはいられない。
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2007年05月22日

鈴木武士氏逝去

 共同通信社の運動部記者として長年活躍されていた鈴木武士氏が5月13日に病気で逝去されたと言う。69歳だったそうだ。牛木素吉郎氏のBLOGで悲報を知ったのだが、まだ随分とお若かったのがちょっとショック。最近、氏の文書を見る機会が減っていたのだが、長い期間体調を崩されていたのだろうか。
 鈴木氏の文章は、賀川浩氏や牛木氏と比較すると、色がないと言うか非常に醒めた目でまとめられていたものが多かったように思える。それはそれで、若い頃にサッカーを勉強するために非常に役に立った記憶がある。

 とりあえず手元にある鈴木氏がまとめられた本を探してみた。

「サッカー世界のプレー −1970メキシコワールドカップー」
牛木氏が構成し自ら中心となる論点を著述しながら、、何と長沼健氏、さらには大谷四郎氏、谷口博志氏、そして鈴木氏も執筆している、70年大会のほぼ完全な記録。74年以降は牛木氏は単独でこのシリーズを書き続けるが、鈴木氏、牛木氏らが最初に本格取材したこの70年大会は分担執筆となっている。まともに映像を見る事ができていない70年大会を、「さも見たような」態度を取れるのもこの本のおかげか。

「私にライバルはいない −ベッケンバウアー自伝ー」
鈴木氏が翻訳し76年に出版されたもの。74年にワールドカップを獲得し、当時クライフと並び世界最高の選手と言われていた傲岸不遜なベッケンバウアの自伝(そもそもタイトルからして凄い表現だよね)。内容も中々愉しくて、嫌いなコーチの排斥、若い頃のだらしない女性関係なども、正直に語っている。これが出版された時は高校1年生だったのだが、非常に愉しく読んだ記憶が。

「世界サッカー史」
B5サイズで超450ページと言う大著。チェコスロバキア人(当時)が書いた本を、岡野俊一郎氏、牛木氏と共に鈴木氏が監修している。77年出版当時9500円もした。高校生サッカーオタク(当時はオタクなどと言う言葉はなかったか)のプライドを賭けて、小遣いを貯めて買った記憶がある。この本は穴が開くほど何回も読んだ本の1つだ。

 サッカーの魅力を我々に紹介してくださった大先輩が1人いなくなってしまった。ご冥福を祈りたい。
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2007年04月25日

1986年1月6日の思い出

 23日の深夜、携帯が鳴った。エルゴラッソ編集部からではないか。
「あれ25日の連載はなくなったはずだが。」
と思いつつ電話に出ると、何とも愉しい依頼が。
「明後日は『みちのくダービー』で、そのプレビューをやるんですけれど、板垣さんが仙台好調の要因の1つである手倉森コーチ(双子の兄弟)のお2人について取材してくれたんです。ただ、手倉森さんと言っても、若い読者はほとんど知らないので、150字くらいの短い文章でよいのでちょっと書いてもらえませんか?」
で、私が
「手倉森兄弟と言ったら江尻でしょう。」
と、80年代サッカーファンの常識を言ったら、担当氏がすっかり面白がってくれて、結局400字の大作を書かせていただく事になった次第。と言う事で25日発売号の4面に記名記事で、若かりし頃の手倉森兄弟の思い出が出ています。ミニサッカー講釈今昔版だな。ただ、何となく板垣さんの本編を押している感じになってしまっているな。ごめんなさい、板垣さん、いつも出しゃばりで。

 もっとも、そのプレビューが仙台の読者の手に届くのは、試合終了後明けて26日との事。実はこの物流問題については、解決が非常に困難な事は、詳しい話を聞いた事があるのでよくわかっている。けれども、敢えて言わせていただこう。頑張れエルゴラッソ営業部!素人の戯言だが、宅配読者にはインタネットを併用した速報を併用するなど、何とかするのがプロでしょう。

 この記事で書かせていただいた85−86年シーズンの高校選手権。手倉森兄弟率いる五戸高校は、準々決勝で江尻、真田を軸とした清水商業の試合運びの巧さに敗れた。とは言え、三ツ沢で見たこの試合はとても内容のある見事な試合だった。両軍の個人技、戦術眼、鍛えられた肉体、面白かった。五戸のリーゼントの応援団長が試合開始前に清商にエールを送り、当然返礼のエールが帰ってくると思って清商の方に向かって応援団全員が頭を下げていたのにも関わらず、清商応援団は全くその事に気がつかずチャカチャカ自軍の応援に専念していたのも忘れ難いが。
 同じ会場でもう1つの準々決勝は、鹿児島実業−四日市中央工業。四中工の阪倉が攻撃的MF!で大活躍し完勝。こう考えると、1986年1月6日は、手倉森兄弟、真田、江尻、阪倉と好タレントを堪能できたよい思い出の日だったな。ちなみに、鹿実には前田浩二がいたらしいが、何も記憶がない。
 この日は偶然、スタンドで数ヶ月前にワールドカップ予選神戸香港戦日本サッカー狂会応援ツアーバスで隣同士になった大学生と再会したのも忘れ難い。中田徹と言う男だった。
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2006年12月31日

2006年10大ニュース

 2006年も色々とお付き合いありがとうございました。年末ですので、恒例の10大ニュースを述べさせていただきます。何とも言えない残念なワールドカップでした。でも、これが日本サッカー界にとっての経験なのでしょう。



1.川淵会長嘘の上塗り...ミ!ジ!メ!



 日本サッカーの長い歴史の中で、ワールドカップの1次リーグ敗退そのものは必ずしも大事件ではないし、代表監督の選考を過つのもそれほどの問題ではない。ジーコ氏の選考そのものは間違いだったが、だからと言ってあの感動的なアジアカップの再三の逆転劇や、コンフェデでブラジルに対し攻撃的サッカーで対抗し後一歩まで追い詰めた実績もあったのだ。ところが、ジーコ氏のワールドカップでの失態を見て慌てたのかもしれないが、ジーコ氏選考の過ちを覆い隠すための論理破綻の発言を繰り返す川淵会長。会長の論理破綻は当然ながら、田島氏以下の日本協会の小人物達に伝播している。

 さらに悪い事に、川淵会長は、そうやって嘘を塗り固めているうちに、外部から何を批判されているのか、顧客であるJリーグのサポータ達が自らのどのような言動に苛立っているのか、すら理解できなくなってしまっている。

 川淵会長の居座り以降僅か数ヶ月が経過しただけだが、アントラーズ内田のアジアユース出場問題や、反町氏の五輪代表監督進退問題など、状況によっては協会会長の判断が必要になるような事態が出来した。しかし、どこの誰が、このような見苦しい居座りをした男の判断を信用するだろうか。

 事態は極めて深刻なのだ。



2.自らが不適任者であった事を示すジーコ発言



 上記したが、ワールドカップに敗れた事そのものは仕方がない事だ。しかし、公式戦を戦うまで、豪州の選手に比べて自分が選んだ選手の肉体能力が劣る事に気がつかないのでは、代表監督としての能力がなかったとしか言いようがないではないか。

 以前も述べたけど、「ここまで無能だったとは」と言う言葉につきるのだろうか。

 もちろん、代表監督としてのジーコが日本に何も残さなかった訳ではない。上記したアジアカップやコンフェデ。マスカットオマーン戦やマナマバーレーン戦で、技術的に圧倒的優位にある日本が守備的に戦う事で、勝利の確率を極端に高めるやり方も、日本にとっては目新しかった。

 決して、何もできない男ではなかったのだ。ああ、でもしかし。

 やはり、アントラーズの実質監督時代と異なり、やる気がなかったのだろう。



3.次々に登場する若年層のファンタジスタ



 一昨日にも述べたのだが、本田、水野、梅崎、柏木、柿谷次々と現れる技巧派の若手が次々と登場。確かに、世界に近づけば近づくほど、アルゼンチンやブラジルとの差を痛感するよ、でも協会会長がどんなにバカでも、これだけのタレントが次々に登場するのだから、我々の若年層育成システムは素晴らしいのだ。

 それなのに、福島に学校を作ってしまう事はさておき。



4.牛木氏の連載が終わる



 サッカーマガジン(もう愛読書ではないけれど)が、ビジネスの都合で牛木氏の連載をお止めになるのは仕方がない事だと思う。彼らは彼らで商売があるのだから。

 しかし、今回のサッカーマガジン編集部の判断により、我々は数十年間享受できていた日本サッカー界に対する定期的な定点観測のコラムを失った。日本サッカー界は、迷った時に戻る場所を失ったのだ。

 



5.オシム氏代表監督就任



 ジーコ氏の失敗と川淵会長の失態に関連すると言えば関連するが、やはりこの東欧の巨人が我が代表の指揮を執る事を素直に喜びたい。就任僅かに4ヶ月の札幌サウジ戦で、早くもその手腕の片鱗を味わう事ができたのだし。



6.祖母井秀隆氏、欧州への挑戦



 しかし、オシム氏の代表監督選考プロセスは論外だった。「川淵さんとは仕事をしたくない」との名セリフを残し、祖母外氏は日本協会への協力を拒絶。さらに10年もの契約(これはこれで信じ難い長期契約だったのだが)を完了し、ジェフを去る事になった。

 ナビスコの2連覇は、十分な実績と言っても構わないだろう。

 これだけの実績を残した男である。当然ながら、国内の金満クラブへ移るのかと思ったが、驚いた事に欧州はグルノーブルへの移籍。もちろん、日系のスポンサ絡みである事は間違いないが、考えてみれば「日本人の選手以外のタレント」の欧州進出は、初めてではないのか。

 



7.破綻する日程、放置する日本協会



 ここ数年続くアジアチャンピオンズリーグでの早期敗退。オシム氏就任以降の日本代表の日程は最早「消化する事」のみが目的かのようだった。遠藤が病魔に襲われたのも異様な日程故のものとしか言い様がない。

 最早、日本のトップリーグの日程は破綻しているのだ。その破綻を放置し続けている日本協会の罪は重い。今こそ、勇気を持った英断「J1を16チームにする事」を行うべきだと思う。



8.ヴァンフォーレの1部残留



 予算が十分で無いクラブがJ1に昇格するのは難しい。しかし、J1を維持するのはもっと難しい。



9.横浜FCの1部昇格



 とは言え、予算が十分で無いクラブがJ1に昇格するのはやはり難しい。



10.ワールドカップだけダメだった中村俊輔



 あのコンフェデ以降の1年半、中村が調子を崩したのはあの1ヶ月だけだったのだな。はー。それ以外の素晴らしさへの喜びを味わえば味わうほど、あのドイツでもがいていた中村を思い出す。はー。



 レッズのリーグ優勝さらなるビッグクラブへの成長への期待については、もう1年待ってからの方がよいかなと思い敢えて外した。拡大トヨタカップでのバルセロナの芸術と苦杯の堪能。中田の離脱。平山騒動。五輪代表監督反町氏の迷走、など語りたい事は多いが選外とさせていただいた。

 この十数年、常に右肩上がりで来た日本サッカー界。たまには停滞する事があるのも仕方がないのだろう。でも、本質的には強力そのものの若手選手が登場しているのだから、問題は少ない。来年のアジアカップ、中村と松井と憲剛と本田と水野を自在に使い切り、カップを照れながら抱えるオシム爺さんが堪能できるはず。
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2006年10月29日

忘れたいが、忘れてはいけない過去2006

 ユース代表は初戦北朝鮮戦、下痢騒動などもあり心配されたが、内容、結果的にも完勝。およそ番狂わせの可能性すら見出せない完勝だった。しかもエース格の梅崎が体調不良で不在だったのだから、恐れ入る。まずは順調な立ち上がりと言うところか、



 さて、10月29日と言う日は、「横浜フリューゲルス消滅」と言う日本サッカー史上最悪と言っても過言ではない事態が正式発表された日だ。本件については、幾度となく過去から述べてきた。日本のサッカー界において、痛恨としか言いようのない人災だった。

 ところで、今シーズンは横浜FCが好調、ついにJ1昇格が現実的な状況になりつつある。横浜FCとフリューゲルスの関係については様々な見解があるけれど、私は横浜FCは「ある意味において明確にフリューゲルスと言うクラブの後継クラブ」と言わざるを得ないと考えている。その横浜FCが、あれから8年経った今、ついにJ1に上がろうとしているのだ。さらにそのチームの中核に、山口素弘が存在しているのだから、何と言うドラマなのだろうか。



 もしこのまま横浜FCがJ1に昇格すれば、来シーズンは最低2試合、公式戦でのマリノス対横浜FC戦が行われる事になる。考えてみれば、これはすごい事だ。両クラブの関係者は、過去は過去として全てを飲み込み、新たな港町のダービー戦としてその試合に臨む事だろう。それはそれでよいと思う。過去は取り返せないのだし、何よりも両クラブの現在の関係者のほとんどは、この人災の被害者であっても加害者ではないのだし。

 ただし、あのような悲劇が再発する事だけはなきように、当時を振り返り続ける事は非常に重要な事だと思っている。 そのような意味からは、興味を引かれるのは、J1昇格が決まった直後の山口素弘のコメントである。彼は、J1昇格決定が秒読みに入った今、どのような思いでプレイしているのだろうか。それはあまりに重いものだろうが、その山口の思いを記録に残す事は、今後の日本サッカーの歴史のためにも非常に重要な事だと思う。
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