2006年から07年にかけて、エルゴラッソに「サッカー講釈今昔」と言うタイトルで、指導者の立場となったかつての名選手の現役時代を思い起こす連載をさせていただいていました。そして、本稿はその最終回として、井原を採り上げたものを、加筆修正したものです。
同連載では、基本的には1人1回、約2,000字でまとめていましたが、最終回に採り上げた井原だけは、その短さではまとめられないと、我がままを言わせていただき、全4回でまとめたものです。井原の現役時代に書いた原稿は、ブログには入っていませんが、結構あります(ちゃんと整備していかなければいけないですね)。ただ、井原の現役時代を俯瞰した文章としては、これが一番まとまっていると思っています。そして、この文章は、80年代後半から90年代終盤の、日本サッカー界が信じられない「超右肩上がり」を続けた歴史記録にもなっていると、自負しています。
(2015年5月3日)
>>>
1988年10月26日に国立競技場で行なわれた日韓定期戦。この時の韓国は2年前のメキシコW杯メンバが大量に残り、直前に開催されたソウル五輪で上位進出を期待されたほどのチーム力を誇っていた。彼我の実力差から結果は悲観的なものになるのではないかと予想されていた。
結果的に日本は、前半終了間際に崔淳鍋にFKからヘディングを決められ0−1で敗れた。しかし、この日の日本の3DFの中心を任された当時筑波大学の3年生で21歳の井原正巳のプレイ振りは完璧に近いものだった。韓国の攻撃を冷静に読み、ラストパスが出てくる場所に素早く入り込み、韓国の強力FWと1対1になっても、落ち着いて対応して吸い取るようにボールを奪ってしまう。そして奪ったボールは、正確なパスで味方の中盤選手につなぐ。さらには時に最前線へ40mクラスのロングパスを通すこともあった。加えて味方DFのミスへも冷静に対応し隙を見せない。いずれの局面でも、井原のプレイ振りは、韓国のメキシコW杯を経験したトップスタア達に勝るとも劣らないものだった。この試合後私は「とうとう日本にここまでスケールの大きな選手が登場した」との感慨を禁じえず、井原は我々を2年後のイタリアW杯にまで連れて行ってくれるのではないかとすら思ったものだった(その思いが満たされるまでに9年の歳月が必要だった訳だが、それは後日談)。
井原は滋賀県甲賀郡水口町(現甲賀市)出身。貴生川サッカー少年団、水口中学で活躍した後、地元の名門守山高校に進学、名将と名高き松田保氏の指導を受ける。高校在学時代から大柄で技巧にも優れ長いパスで中盤を構成できるスケールの大きな中盤選手としてユース代表候補に選考され、卒業後は筑波大学に進学した。
筑波大進学直後の86年、翌87年にチリで行なわれるワールドユースのアジア1次予選に出場する。この時のチームメートには真田雅則、黒崎久志、磯貝洋光、手倉森誠、そしてその後長らく井原と共にアジア、そして世界と戦うことになる中山雅史などがいた。当時のユース代表監督松本育夫氏は中盤でプレイしていた井原をいわゆるスイーパに、さらに名門藤枝東高のセンタフォワードだった中山をストッパに、それぞれコンバート。日本は井原、中山のセンタバックで予選に臨んだ。井原が、以降十数年間日本に貢献し続けるポジションに就いたのは、このタイトルマッチが最初だったと言う。この1次予選は、韓国と敵地での一騎打ちとなり、押し気味に試合を進めた日本だが、不可解な判定にも悩まされ延長の末敗れる。もっともこの韓国戦直前に、高校選手権優秀選手の欧州遠征が行われ直前合宿に不在の選手がいたり、みすみす1次予選の開催地を韓国に奪われるなど、日本協会の強化体制の不備が目立つ悔いの大きな大会となった。
翌87年、日本代表はソウル五輪予選に石井義信氏の極端な守備的な戦術に臨み中国に苦杯を喫する。後任の横山謙三氏は「攻撃的サッカー」を標榜し、多くの若手選手を代表に抜擢、筑波大2年の井原もその1人だった。そして、すぐさま井原は3DFの中央の位置を任される事になる。
横山監督は当時欧州で使われだしたいわゆる3−5−2のフォーメーションを採用。サイドMF(いわゆるウィングバック)に、俊足で突破する事を武器にしているFWを起用。しかし、そう言ったプレイスタイルの選手は、敵に後方を突かれた場合の位置取りや中盤での組み立てなどに課題があり、日本は少ない人数で戦っているかのような状態になりチームは機能不全を続けた。選手達が全力でプレイしているだけに、監督の不可解な采配とそれを放置する日本協会の姿勢には多いに疑問だった。そのような状況下、いきなり代表の3DFの真ん中を任された井原は逆境を糧にするかのように成長を続けた。ジーコ率いるフラメンゴ、マラドーナとカレッカが2トップを組むナポリ、ソウル五輪の調整のために来日したアルゼンチンとソ連の五輪代表など、強豪との強化試合をこなすうちに、井原は代表の守備の中核として完全にプレイを確立。冒頭に述べた日韓戦での見事なプレイ振りができるまでに至ったのだ。
翌89年のイタリアW杯予選、守備は井原、攻撃は水沼貴史を中心として臨んだ日本は1次予選で香港、インドネシア、北朝鮮と同じグループ。井原は堀池巧、柱谷哲二と言った後に長く代表で戦い続けるチームメートと共に奮戦するが、相変わらずの横山監督の不可解な采配もあり1次予選で敗退した。中でも当時JSLで光輝いていた加藤久、木村和司と言ったベテランが起用されなかった事は多いに悔やまれた。井原と加藤が中央に並んだ時、この守備ラインを容易に突破できるアジアのチームがそうあるとは思えなかったのだが。
1990年、筑波大を卒業した井原は、当時のJSLトップチームだった日産に加入する。
井原が加入した時点で日産はアジアチャンピオンズカップの決勝戦に進出していた。決勝の相手は中国遼寧省。当時のオスカー日産監督は、ホーム三ツ沢での初戦に井原を起用せず、従来のメンバで試合に臨むが、遼寧の名DF高升の攻守に渡る活躍で1−2で敗戦。敵地では井原を起用し1−1で引分けるもタイトルを逸する。誰もが「初戦から井原を起用していたら。」と考えたのだが。
この日産1年目のシーズン、オスカー氏はシーズン途中から井原をMFに起用した。アンカーに柱谷哲二、右MFにエバートン、左MFに井原、トップ下に木村和司と言う配列、スピードの衰えてきた木村の能力を、エバートンと井原のサポートで支えようという構想だった。中盤で井原が敵ボールを奪取し、ロングパスを通す攻撃は鮮やかだったが、肝心の木村がオスカー氏と対立し干されてしまい、せっかくの新布陣があまり有効には活かされず、JSLでは読売の後塵を拝する事になった。しかし井原のプレイ振りは抜群で、JSL新人王はもちろんベスト11にも選考される。MFとしての井原のプレイは、当時の欧州のトップスターのライカールトを彷彿させた。また、オスカー氏はかつてのセレソンのチームメートのトニーニョ・セレーゾのプレイを井原に期待しているとも言われた。この時の井原のプレイを思い起こすと、「果たして井原の最適ポジションは本当にセンタバックだったのだろうか」のかと思う事もある。ともあれ、翌年日産監督に就任した清水秀彦氏は、リアリストのためか井原をセンタバックで起用。以降、井原は、センタバックでのプレイに専念する事になる。
井原をセンタバックに配した守備は堅牢だったが、攻撃ラインは木村、水沼、レナトらが老齢化し、JSLでは読売の連覇を許す。しかし、天皇杯決勝では国内試合で国立競技場が史上初めて満員になると言う記念すべき試合(Jリーグ開催を1年後に控え、サッカー人気は着実に高まっていたのだ)で、延長までもつれ込む秘術を尽くしての死闘で読売を振り切り、井原は国内で初めてのタイトルを獲得する。
その後日産はアジアカップウィナーズカップの決勝に進出。サウジのアル・ナサルとリヤドでの初戦を1−1で引分けた後、平塚競技場で行なわれたホームゲームに臨む。敵DF2名と若手FWの山田隆裕が前半で退場、10対9となった乱戦に5−0と完勝。このアジアでの初タイトルは、「中東のトップクラブにも能力では勝るとも劣らない」と言う事を実証できたと言う意味で、井原(と日本サッカー界)にとって非常に重要な意味を持つ事になる。
井原は代表チームでも常に安定したプレイを見せていた。しかし、不可解な采配を継続する横山監督の下、日本は不振を極めていた。井原、柱谷、堀池らの守備ライン、福田正博、北澤豪、反町康治と言った攻撃ライン、帰化したラモス留偉、ブラジルから帰国したカズ。これだけ人材が揃いながら日本は連戦連敗。しかも、敗戦後横山氏は「選手が下手だから勝てない」と言う趣旨の発言を繰り返すのだから、悲しい時代だった。
しかし、92年3月に事態は一変する。日本代表監督にハンス・オフト氏が就任したのだ。日本代表監督として、プロの監督が就任するのも、外国人に采配を任すのも、五輪ではなくW杯を目指すと明言するのも、いずれも初めての事だった。オフト氏率いる日本代表の初戦はキリンカップアルゼンチン戦。バティストゥータ、カニージャ、ルジェリ、ゴイコチェアらが揃ったベストメンバのアルゼンチンに対し、井原を軸にした日本の守備は十分に機能、バティに巧みなシュートを決められたものの0−1と好試合を展開、よいスタートを切る。試合後井原は「アルゼンチンの攻撃は案外大した事なかった」と語ったと言う。
その後オランダ遠征を経た日本は、ロベルト・バッジョ、ジャンルカ・ビアリを軸にしたユベントスを迎え2試合を行なう。日本代表が国内で欧州の単独クラブを招いて有料試合を行なうのは、このユベントス戦が最後となると言う意味でも記念すべき試合となった。この2試合、負傷していた柱谷に代わり井原は主将の腕章を付けてチームを率い、2戦目の国立では終了間際にカズのCKからヘディングで同点弾を叩き込んでいる(余談ながら、80年代まで日本代表の強化試合は、欧州、南米のプロクラブを招聘して行われる事が多かった。奇しくもこのユベントス戦はそのようなやり方の最後となった、以降日本代表の強化試合は原則他国の代表チームと行われる事となる)。
続いて中国で行なわれた日本、韓国、北朝鮮、中国の4カ国の代表チームが競うダイナスティカップ。日本は初戦韓国と0−0で引き分けたものの、続く中国を2−0、さらに北朝鮮を4−1で破り、決勝で再び韓国と合間見える。この試合は1−1から延長戦に突入、都並敏史が退場させられ10人になりながらも2−1と突き放すが、直後に同点にされPK戦へ。PK戦では4−2で日本が振り切り初優勝。日本が公式国際大会で優勝するのは、1930年の極東選手権の中華民国との同点優勝以来実に62年振り。そして井原を軸にした日本の守備は抜群の安定度を誇り、この大会以降完全にアジア各国の脅威となる。
後から歴史を振り返ると、このタイトル獲得は日本サッカー界にとって大きな分水嶺となった。これまで「アジアで中々勝てなかった」日本代表は、この優勝以降「アジアで勝つのは当然」と言う立場になったのだから。
1992年秋、広島で開催されたアジアカップ。出場8ヶ国を2グループに分け、上位2チームが準決勝進出と言うレギュレーションだった。初戦の相手はUAE、翌年に行なわれるW杯1次予選で対戦する事が決まっている相手に、オフト氏は攻撃の中核福田を敢えて外す。終盤日本は猛攻を仕掛けるが0−0の引き分けに終わる。続く北朝鮮戦、日本は堀池をスタメンから外すと言う不可解な采配もあり、前半は北朝鮮の攻勢を許し、名サイドバック金光民のシュートで先制を許す。後半日本の猛攻。福田が倒されたPKをカズが失敗するなど、不穏な雰囲気が漂うが、終盤交代出場した中山が同点弾を決め1−1の引き分け。その結果、グループリーグ最終戦のイラン戦はどうしても勝たなければならなくなった。GKアベドザデを軸に守備を固めるイランに日本は苦しむが、ロスタイムに攻め上がった井原のスルーパスからカズが抜け出し「足に魂を込めた」一撃を決め準決勝進出を決めた。準決勝中国戦では後半2−1でリードしていたが、GK松永が信じ難い報復行為で一発退場、さらに交代で出場したGK前川のミスで同点とされる。10人で戦う日本は、86分堀池の巧みな攻撃参加からスーパーサブ中山が鮮やかなヘディングで叩き込んで突き放した。そして迎えた決勝戦。日本は森保一が警告累積で出場停止だったが、ラモス、吉田光範、北澤、福田の中盤が、見事なプレスで中盤を制する。そして得意のショートパスの継続から、カズのクロスを高木が決めて先制。中盤で劣勢のサウジは前線の選手の強引なドリブルで局面を打開しようとするが、井原がことごとく1対1に圧倒的な強さを見せ、サウジは攻め手を全く失ってしまった。かくして日本はアジアチャンピオンの座についた。そして井原にとってこの大会は、決勝戦での鮮やかな守備振り、最も苦しいイラン戦でのアシストと、正にアジアのトッププレイヤとしての実力を見せ付ける大会となった。
明けた93年は合衆国W杯予選の年。W杯予選と言っても前大会までは、特別なサッカー好きしか注目しておらず、日本協会でさえ、本腰で準備体制を整えてはいなかった。4年前のイタリア予選、敗退直後に代表チームが意図不明の南米遠征を挙行したのがその証左。ところが、この合衆国予選は違っていた。Jリーグ人気と、アジアチャンピオンとなった代表チーム。日本サッカー史上初めて、代表チームは全国民の期待を背負ってW杯予選に挑戦することになったのだ。
1次予選はUAE、タイ、バングラデシュ、スリランカと同じグループ。UAE、日本でのダブルセントラルで行なわれ、日本は7勝1分けで無難に最終予選進出を決めた。ちなみに、UAEラウンドのタイ戦で井原はタイの名ストライカピアポンとの小競り合いで、退場処分を食らう。井原はこの退場処分まで、88年1月に代表にデビュー以来、B、C代表戦を含め88試合、7958分間フル出場を続けていた。最終的に井原が積み上げるA代表試合出場122試合の日本記録は誠に偉大な記録ではあるが、ある意味ではこの連続出場はそれ以上に偉大な記録に思える。
そしてJリーグ初シーズンをはさんで迎えたドーハ。日本は最終戦ロスタイムの失点で後一歩で涙を飲む事になる。この5試合、井原は常に安定した守備を披露、日本の「後一歩」に貢献した。しかし、結果的に唯一の敗戦となったイラン戦にせよ、最後のイラク戦にせよ、本当に苦しい時に、大黒柱たる井原はアジアの頂点と言うプレイができたかとなると疑問が残った。例えば、韓国戦の前半、井原が前線に正確なロングフィードを通しそのまま攻撃参加、前線が巧くつないだ展開から強烈なミドルシュートは放ちゴールポストに当たった場面があった。井原がチームリーダとして、このような積極的なプレイを本当に苦しい時にもっと行なっていれば、事態はずっと改善したと思われたのだ。
続いて代表監督に就任したのは、ブラジルの名MFだったファルカン氏。氏は独特の視点で選手を選び、アジア大会に臨んだ。日本は準々決勝で宿敵韓国と対戦。1−2で迎えた終盤、井原は35mはあろうかと言う強烈なロングシュートを決める。ところが直後井原は接触プレイから微妙なPKを取られ日本は敗退。井原としても非常に悔しい敗戦となる。この頃から、井原はこのロングシュートに代表されるように、機を見て頻繁に攻撃に参加し好機を演出する事が多くなり、センタバックと言うよりはチームリーダとして機能するようになる。
アジア初制覇と前後して、27年の歴史を持つ日本サッカーリーグはJリーグに発展的解散。この年に行われたナビスコカップは各試合とも大観衆を集め盛況、サッカー人気はかつてないほどに急騰した。
井原はその熱狂下、マリノスの中心選手として活躍したものの、マリノスはタイトルを中々とれなくなってしまった。80年代後半、マリノス(前身の日産)は、ヴェルディ(読売)と並び、他クラブに先駆けてプロ化を推進。両クラブは、潤沢な強化費により、タイトルを寡占化した。けれども、Jリーグが開幕し、他クラブも人件費を惜しまなくなり、相対的にマリノスの地位が低下していしまったからだ。それでも、J開幕3シーズン目、マリノスはJを制覇する。ホルヘ・ソラリ氏が途中退任するも、引き継いだ早野氏がよくチームをまとめ前期優勝。プレイオフでは、井原が格段の守備能力を見せた。初戦はビスコンティの速攻からの得点で、2戦目は井原自らがセットプレイから得点し、それぞれ1−0で快勝。この頃の井原の圧倒的存在感は格段のものとなっていた。
ファルカン氏更迭の後、代表の采配を執ったのは加茂周氏。加茂氏は、井原とカズ以外のドーハ世代の選手を少しずつ減らし、丁寧にチームの若返りを進め、ワールドカップ初出場を目指した。日本は95年6月にウェンブレイスタジアムでイングランドと対戦。井原はカズのCKから完璧なヘディングシュートを決めた。最終的には終盤の失点から敗れたものの、井原の個人能力はイングランド代表選手たちと比較して遜色はなかったのが印象的だった。この頃より、親善試合ではあるが、日本は欧州、南米の代表チームと試合を積む事ができるようになってきた。そして、上記イングランド戦に代表されるように、井原のプレイが世界のトップと遜色ないものである事が示され始めた。イングランド戦があった95年、井原は代表の主将にも就任。アジア年間最優秀選手にも選考された。この95年は井原が正に名実共にアジア最高の名手として評価された年になった。
そして97年フランスW杯予選、02年大会を韓国と共催する事が決まっていた日本にとって、フランス大会の初出場は完全に国民的期待となっていた。無難に1次予選を勝ち抜いた日本は、激烈極まりないH&A方式の2次予選に臨む。初戦のホームウズベキスタン戦、開始早々攻撃参加していた井原はこぼれ球を拾い見事な足技を見せ、ファウルを誘いPKを奪取。続く敵地UAE戦では、CKから完璧なヘディングを放つが、オフサイドポジションにいた小村がボールに触ってしまいノーゴール判定。このあたりまでは日本の試合内容も結果も完璧だった。ところがホーム韓国戦に「加茂氏の錯乱」で、逆転負け、続く敵地カザフスタン戦には、呂比須や山口の軽いプレイにより、終了間際に同点に追いつかれ、加茂氏は更迭され、コーチの岡田武史氏が監督に就任する。敵地ウズベキスタン戦、開始早々に井原は激しいタックルで警告を食らうが、以降チームは見違えるような戦い振りとなる。井原は自ら戦う姿勢をチームメートに示したのだ。そして0−1で迎えた終了間際、井原のロングフィードを敵陣前で呂比須が触り同点。井原の気迫が日本を首の皮1枚残す事になる。ところが、井原が累積警告で出場停止となったホームUAE戦、日本は戦い切れず同点に終わり苦しい立場に追い込まれる。しかし、復帰した井原と共に日本は立ち直り、韓国、カザフスタンに連勝し、イランとのプレイオフに臨む。マレーシアの古都ジョホールバルで行なわれたイラン戦、井原は己のミスから失点する不運もあったものの、試合終盤には再三中盤に進出し猛攻をリードし勝利に貢献、歓喜の初出場を決めた。井原の抜群のリーダシップにより、日本は苦しみ抜いた予選を勝ち抜いたのだった。
記念すべき日本のW杯初戦は世界屈指の強豪アルゼンチン。岡田監督は、バティステュータに秋田が、C.ロペスに中西がマンマークにつき、井原が余ってカバーリングをする3DFの布陣を採った。28分、日本のミスを拾ったオルテガとシメオネの崩しから最後にバティステュータが抜け出し、川口の飛び出しをロブで抜いてアルゼンチンが先制。しかし、この失点場面の他は、井原のカバーリングを軸にした忠実な組織的守備が奏効、試合終盤には、中田の個人技等から好機を複数回つかむなど、0−1で敗れはしたものの素晴らしい試合だった。
続くクロアチア戦。クロアチアは暑さを警戒したのか引き気味に戦い、鋭いカウンタアタックを繰り出してきた。この日も井原のカバーは抜群で守備は安定、名波と中田を軸にした速攻も冴え、こぼれ球を拾った相馬のミドルシュートがポストをかすめ、中田の鮮やかなパスからの中山のフリーで抜け出すなど、好機を掴む事ができた。しかし、終盤中盤でのミスを拾われ速攻を許し、1度は井原が見事な読みで防いだものの、こぼれ球を拾われ最後はシュケルに芸術的な反転シュートを決められ、0−1で敗戦。この試合は、井原が組織する日本の稠密な守備ラインと、シュケルに点を取らせるためのクロアチアの鋭い速攻を軸にした攻撃ラインとの、実に質の高い試合だった。そして、日本と井原は、その戦いに敗れ、2次トーナメント進出に失敗した。
日本はその後、最終戦のジャマイカにも敗れ3敗で初めてのW杯を終える。しかし、この大会の井原の守備振りは素晴らしいもので、世界の列強の名手達と比較しても何ら遜色のないものだった。ただ唯一の不満は、負けている試合の終盤、ラインを上げて攻勢を支えるのみならず、もっと頻繁に中盤に進出し攻撃に参加して欲しかったと言う事だった。ところが後日ビデオで日本の試合を見て、井原が頻繁に攻撃参加できなかった原因がわかった。いずれの試合でも残り15分以降、アップになった井原の表情は、疲労に苦しんでいたのだ。しかし、競技場では、井原のプレイぶりからはとても疲労は感じられず、試合終盤まで身体はよく利いているように見えていた。おそらく、疲労していたのは、肉体はなく精神だったのだろう。自らを鍛える事で、肉体の準備は可能である。しかし、未知の敵と戦う
ためのの精神の準備を行うには経験が必要だった。そして、30歳になっていた井原は初めて世界の列強と本番で戦う経験をした。それがあの苦痛に満ちた表情だったのではなかろうか。
続いて日本代表監督に就任したトルシェ氏の下、井原は度々控えの座に甘んじる事が増えてきた。02年の地元大会をターゲットにする以上若返りは必須だったし、何より31歳になった井原は反転力に衰えが見え始めていた。さらにアキレス腱、腰、首などの負傷も井原を悩ませていたと言う。99年日本はコパ・アメリカに招待されるが、この伝統あるタイトルマッチが井原の代表選手として最後の大会となった。1次リーグ初戦のペルー戦、日本は猛攻にさらされながら井原の見事な読みの連続でよく守ったが、2−3で敗戦。続く地元パラグアイ戦にトルシェ氏は井原を起用しなかった。パラグアイは経験豊富な井原不在に小躍りして喜んだと言うが、実際日本は0−4で惨敗した。最終戦のボリビア戦に再び井原は起用されるが、相変わらず日本のプレイは低調。終了間際、モレノ主審の不可解な判定で退場させられ、井原の代表キャリアは終焉を迎えた。
その後、井原は横浜を自由契約になり、磐田、浦和でプレイ、02年シーズンを最後に引退する。井原最後のシーズン、浦和はナビスコカップの決勝で鹿島と戦った。後半、小笠原のシュートをブロックした井原だが、ボールは井原の身体に当たり方向が変わりそのままゴールイン。読みの鋭さと、全盛期よりも身体が利かなくなっていた当時の井原らしい失点だった。この敗戦が井原にとって、いわゆる最後のビッグゲームとなった。
井原は、88年に代表入りし、レギュラーに定着。以降12年間に渡り、日本サッカーの絶望と希望、停滞と発展、悲嘆と歓喜、その全てを体験し体現し、ついに日本をW杯にまで導いた。井原の代表デビュー当時、サッカーのビッグゲームは閑散としてスタンドで行なわれていた。しかし、日本中のサッカー関係者の地道な努力と、絶妙なタイミングで導入された適切なプロフェッショナリズムは、日本サッカー界の「超右肩上がり」を実現させた。そして、その「超右肩上がり」の具体像が井原だったのだ。井原と共に日本サッカー界は成長し、90年代後半には常に競技場は満員になり、代表選手たちは全国民の期待を負う立場にまでなった。
この井原の「超右肩上がり」の経験は、将来日本がワールドカップで上位を目指し、いや優勝を目指そうとする時、非常に貴重なものにはなるはずである。井原氏の指導者としての成功を祈念するものである。