2013年02月15日

Jリーグの将来を考える際の重要な参考書(書評)チャンピオンズリーグの20年 片野道郎著 河出書房新社


 ここ最近、先日述べた年またぎ開催の他にも、Jリーグのあり方を見直し、あるいは制度改革が必要ではないかと言う議論が多数出ているようだ。たとえば、これら一連議論だ。私は、ここで採り上げられている提案を、必ずしも肯定しない。しかし、よりよいリーグを目指し、様々な方策を議論する事は重要な事だ。だから、これらの議論が行われる事そのものは、大変結構な事だと思っている。ただし、「よりよい」の定義を明確にする必要はあるのだけれども。たとえば、外資を導入してベッカムがJリーグにやってくる事が、「よりよい」につながるのかどうか、主観の相違を含めて正に熟考の材料となるだろう。 
 また、これらの議論において、我々が先達として最も「学び」の対象となるのは、やはり世界で最も注目されている西欧のトップリーグと言う事になるだろう。実際、上記で議論されている方策も「外資導入」、「外国人枠と育成枠」、「プレミア化」など、ここ最近の西欧の事例を参考にしている事は明らかだ。
 と、言った一連の議論をする際に、本書は格好の学習材料となる。なぜ、そうなのかについては、本稿の末尾で述べる。

 本書はイタリア在住15年を越える著者が、誕生から20年を数える欧州チャンピオンズリーグの歴史を「社会背景とスポーツビジネスの変遷から来る周辺事情」と「ピッチ上での競技」の両面から記述を試みたものだ。本書末尾で著者は語っている。
自分がこれまで見てきたヨーロッパにおけるサッカーというスポーツのあり方を、断片的な情報の継ぎはぎではなくひとつの全体像として大きな視点から描き出してみたいというのが、本書を書こうと思ったそもそもの動機だった。
 著者はこの試みにある程度成功していると思う。

 まず本書は、読み物としてもおもしろい。上記した「周辺事情」と「ピッチ上」を行きつ戻りつしながら、この20年間を鮮明に思い出させてくれる。いわゆるチャンピオンズカップが「リーグ」に改組されたのが92−93年シーズンからだが、その決勝は、後に八百長問題が発覚するマルセイユと「カップ」の常連だったミランだった。両軍のピッチには後に監督とし一連のドラマを彩る事になるライカールト、デシャン、その後も長期に渡り選手として君臨するマルディニがプレイしていた。
 そして、以降「ピッチ上」で繰り広げられた幾多の鮮やかなドラマ。ジダン、ラウール、ジェラード、ロナウジーニョ、クリスチャン・ロナウド、ルーニーと言ったピッチ上の英雄達。クライフ、リッピ、カペロ、ロバノフスキー、アンチェロッティ、ファーガソン、ベニテス、グアルディオーラ(この人は選手としても活躍したな)、そしてモウリーニョらの采配。さらには、周辺を彩るヨハンソン、ボスマン(この人は必ずしも作為があった訳ではないが)、ベルルスコーニ、アブラヒモビッチ、モラッティ、プラティニなどの皆さん。彼らが相互作用を演じながら紡いできたドラマが、見事に蘇ってくるのだ。
 そして、この20年間の積み上げによる偉大な成果とも言うべき、シャビ、イニエスタ、メッシらによる「バルセロナ」の輝き。
 贅沢を言うと、「ピッチ上」をもう少し詳しく語って欲しかった思いもある。しかし、そうすると巻末の資料を含めて348ページの本書が、500ページクラスになってしまい、コスト面(本書は税抜きで1800円)で問題が出てしまうのかもしれないから仕方がないか。

 著者は「周辺事情」を述べて行く。衛星有料テレビを軸としたビッグマネーが、一部のビッグクラブに「富の集中化」を生み、選手の移籍料(正確には違約金)なり年俸が高騰化していった事。結果として、有力国のいわゆるビッグクラブのみが、その恩恵を受け取り、上位進出をするようになったいった事。
 「カップ」時代を思い起こしてみよう。トヨタカップで来日した当時の欧州チャンピオンには、ノッティンガム・フォレスト、アストン・ビラと言ったイングランドの決して経営規模の大きくなかったクラブ、あるいはステアウア・ブカレスト、レッドスターのような欧州2番手国のトップクラブがいた。ところが「リーグ」化以降については、このような中堅クラブが欧州代表として君臨する事は一切なくなった。おなじみのビッグクラブが上位を占め、おなじみのビッグクラブしかトヨタカップに登場しないようになったのだ。
 著者は容赦なく数字を並べる。そして、その数字は、この20年間で経済規模こそ格段に大きくなってきたものの、「富の集中化」の恩恵を受けたはずの多くのビッグクラブですら、実質的にはそれほど儲かっていない事を示している。そして、それらを是正するために登場した、UEFA会長としてのミシェル・プラティニ。そして、若かりし頃稀代の芸術家だったこの男が、会長として提示した「ファイナンシャル・フェアプレイ」。

 そして本書は上記したように、Jリーグの将来発展を考える上で非常に有用な参考書となる。
 と、言うのは、欧州のサッカーシーンが劇的に変わったこの20年間、日本のサッカーシーンも全く異なる様態ながら劇的に変わってきたからだ。約20年前のJリーグのスタート、92年アジアカップ(あるいはその直前のダイナスティカップ制覇)から格段に強力になった代表チーム(本書で述べられている西欧の「発展」と、我が国に「発展」は、決して無関係とも言い難いのだが)。そして、それ以降、日本サッカー界にかかわる人数は格段に増えた。結果として、この20年間にサッカーの世界に入ってきた方々は、その前のサッカー界を実感していない。「カップ」が「リーグ」に変わった以降しか知らない方が、圧倒的多数なのだ。
 だからこそ、多くの人に「リーグ」の歴史を再認識し、「この20年間の特殊性」を実感して欲しいのだ。そして、本書はそのための格好の参考書なのだ。
 「カップ」時代も、JSL時代も存分に愉しんできた、年寄りの繰り言として。

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2012年11月02日

(書評)勝負のスイッチ(河治良幸著、白夜書房)

 河治良幸氏は、私が信頼するサッカーライターの1人だ。しっかりと試合を観て、先入観なく眼前で行われたプレイをテキストにしてくれるから。
 本書は、その河治氏の初めての著作との事。欧州選手権決勝のスペイン対イタリア戦を、キックオフから試合終了まで、新書本1冊を使って丹念に記録している。そして、題名通り、勝敗の分岐点となった場面を「勝負のスイッチ」と名付けた上で14個抽出し、その際にボールを保持していた選手が何を選択したか(3択を常に提示した上で)を読者に問うている。そして、その選択は成功だったか失敗だったか、を執拗に追っている。

 以前から、時々述べた事があるが、90分の(あるいは120分の)サッカーの試合を、いかに記録するかは、私を含めた多くのサッカー狂の課題。そして、河治氏は、本書でそれの新しい方法に挑戦した訳だ。
 氏はその挑戦に成功したと思う。スペインの序盤の圧倒的攻勢、シャビとイニエスタの知性と妙技。先制された後のイタリアの反攻、ピルロに支えられたデ・ロッシの上下動。それを凌いだスペインの決定打、ジョルディ・アルバの鮮やかな前進。後半立ち上がりに見せたイタリアのさらなる抵抗、ディ・ナターレとバロテッリの古典的イタリア風強力2トップ。そして、すべてを台無しにするチアゴ・モッタの負傷。これらの名場面を、活き活きと思い起こす事ができた。
 1試合を執拗に記述した本は、過去も数冊あった。本書は、そこに「勝負のスイッチ」を導入した事で、節目節目を新鮮に思い起こさせる事に成功している。

 氏の手によるスペインの名手たちの選択を読み続ける事で、昨今世界を席巻しているスペイン代表、あるいはバルセロナのサッカーを、改めて整理できた想いがある。
 このサッカーを「ポゼッション」と呼んではいけないのだと。
 イニエスタが、シャビ・アロンソが、ジョルディ・アルバが、それぞれ選ぶ「勝負のスイッチ」を反芻すると、それが「いかに危険な」選択だったかが、改めてわかるのだ。彼らは、平気で狭いスペースにパスを出す、あのイタリア守備陣が待ち構える狭いスペースに。彼らのそのリスクあふれる選択は、自らの技術と判断力への絶大なる自信と、そのパスを受けるシャビやシルバの技術と判断力を信頼し切っているからこそ、選択できるものだ。これは「ポゼッション」ではない。
 「何を今さら当たり前の事を」とおっしゃる方が多かろうが、改めて本書を読み、それを認識した次第。

 本書で唯一残念だったのは、この試合を題材に選択した事そのもの。
 確かに、この試合そのものは大差がついたものの、内容面でも決して一方的なものではなかった。そして、本書でそれらの記憶を呼び起こされるのもまた愉しかった。
 けれども、何をどうとりつくろっても、この試合の勝負を分けたのは、体調不十分のイタリアに負傷者が2人出て、赤紙が出た訳でもないのに10人で戦わなければならなくなった事による。つまり、いくら丁寧に分析しても、「勝負のスイッチ」は運不運によるものだったのだ。
 たとえば、2年前のワールドカップ決勝、スペイン対オランダによる「120分間の腹痛劇」を、この本のように採り上げていれば、格段におもしろかっただろう。欧州選手権ならば、準決勝で「弱者が強者をなぶった」イタリア対ドイツなど、よかったのではないか。もちろん、欧州チャンピオンズリーグのカンプ・ノウのバルセロナ対チェルシーで、何故「あり得ない奇跡」が起こったのかを題材にするのも一興だったと思う。いや、昨年のアジアカップ決勝、あるいは先日のブリスベンの豪州戦ならば、我らの英雄の「勝負のスイッチ」を堪能できる。こう言った均衡した試合を、この手法で採り上げて欲しかったと思うのは、私だけだろうか。

 氏の次回作に期待するものである。

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2012年03月18日

(書評) サッカー選手の正しい売り方(小澤一郎著、カンゼン出版)

 最初に結論を述べる。
 本書は、内容の一部に疑問はあるものの、世界サッカーにおける日本の位置づけを考察したいサッカー狂にとっては、必読と言っても過言ではない本だと思う。

 明快に論じられていはいないが(正直言って、内容がてんこ盛りで、主張がわかりづらいのは本書の欠点に思える)、本書で筆者が主張したかった事は、以下の2点だと私は理解した。
(1)日本が目指すべき目標の1つが「選手の輸出大国となること(ここでは適正な移籍金、正確には違約金あるいは育成費を獲得するのが前提となる、そのためにも日本人選手の「ブランディング」が重要)
(2)移籍に関しては国際的なFIFAルールに切り換えた日本サッカー界だが、育成費関連ではまだローカルルールが残っている。これらも、国際ルールに準拠すべき。
 (1)については、私自身も氏の主張に「目からウロコ」感があった。確かに、日本のほとんどのトップ選手は欧州に行って自らの能力とランクの向上を目指しているのだから、「いかに高く売るか」は、非常に重要な事だ。だったら、最初から「売る事を考えるべし」と言う発想は、(寂しさがない訳ではないが)一面からは理に叶っている。
 (2)については、今なお日本協会が設定しているローカルルール(「アマ」→「プロ」のケースと、「プロ」→「プロ」のケースに分けている)を説明した上で、FIFA規定の国際ルールへの切り替えを主著している。賛否両論あろうが、私は氏の主張に賛同する。もちろん、(著者はあまり触れていないが)これらのローカルルールを日本協会が作った背景には、日本のサッカー強化の相当な比率が、(税金と言う支援が多大にある)学校で行われている部分があるから、ややこしいのだが。
 後述するが、一部の内容には矛盾もあるし、自説を強調したいが故に墓穴を掘っている部分もない訳ではない。しかし、「世界サッカーにおける日本の位置づけ」を、移籍と言う切り口で整理を試みた本書は、今後の日本サッカー界を考察する上で、貴重な題材となる事は間違いない。

 著者の小澤氏とは、1度お会いした事がある。スペインに長期に滞在した経験のあるジャーナリストで、スペインを中心とした欧州と比較した日本サッカー界の現状を嘆く論調を得意とされているのは、ご存知の方も多いと思う。直接話をさせていただたいた印象だが、大変まじめな方で、多面的な勉強をされており、「日本サッカーをよくしていきたい」と言う情熱にあふれた方だった。
 本書は、その情熱あふれる氏が、豊富な取材を下にまとめたもの。昨今の「ゼロ円移籍」に苦しむJのクラブ、欧州のクラブのFIFAルールの適用法などを具体的に紹介した上で、上記した主張を展開したものだ。

 1つの例が、宇佐美。同年齢で、レアル・マドリードのユース出身でヘタフェに移籍したサラビアと言う選手と比較して、宇佐美の価格があまりに安いとの事(「宇佐美の方がずっとよい」との主張も述べられている)。その事への怒りが、心底伝わってくるのがおもしろい。実際、これを読んで、私も腹が立った(笑)。だったら、「欧州スカウトに”ウサミ”をアピールしよう」と言う提案は、非常に説得力がある。
 「ゼロ円移籍」で苦労するJの各クラブだが、長友を放出したFC東京、内田を放出したアントラーズは、相応の利益を出したと言う。この背景を丁寧に分析しているのもわかりやすい(一方で、同様に日本代表の中核選手で儲け損なったクラブとの比較は辛辣だが)。
 また、朴智星、フッキ、ドゥンビアらを好例に、「海外の優秀な選手を『育てて売る』を前向きに捉えるべき」と言う主張もおもしろい。特にフッキ的な選手に、日本のよさである規律を植え付けて売る、と言う発想は、何かとても有効に思えてくる。

 残念ながら、論理的な矛盾も見受けられる。たとえば、氏は「ゼロ円移籍」を防ぐための有効な手段として、内田をよい例として「ホームグロウンプレイヤ」として、クラブへのよい意味での忠誠心の醸成を示唆している。その割に、同じアントラーズが、柴崎を高校2年時点で5年契約した事を否定しているのは、よくわからない。もしかしたら、氏は公開できない契約内容を知った上での憤りを述べているのかもしれないが。
 また、欧州市場を重視したのだろうか、既に「実施は極めて困難」と明確な結論が出ている「秋開幕」を持ち出しているのは、この本全体の説得力を欠くものとしている。Jリーグの運営については、氏は専門ではないのかもしれず、筆が滑っただけかもしれないが。

 正直言って、章立てや、主張の構成が、やや曖昧なため、読みづらい本ではある。
 けれども、上記の通り、論じられている内容は読み応え十分。「世界サッカーにおける日本の位置づけ」のたたき台としては格好の一冊である。

posted by 武藤文雄 at 23:22| Comment(4) | TrackBack(0) | 書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年12月30日

書評「監督ザッケローニの本質」

 年の瀬ゆえ、私が今年国内で出版されたサッカー本では、間違いなくベストと思っている同書について。
 イタリア在住の片野道朗氏がアントニオ・フィンコ氏と共著した本書は、正に表題どおり、ザッケローニ氏が一体どのような監督なのかを知るのに最適に一冊である。氏の監督としての経歴を丹念に描写した上で、それに関係した選手、フロント、同僚のコーチングスタッフらのインタビューを加え、ザッケローニ氏のインタビューで終える構成となっている。フィンコ氏はザッケローニ氏との親交が深いイタリアテレビ局の記者との事だが、インタビューの多くをフィンコ氏が担当し、片野氏がそれらの翻訳とザッケローニ氏の経歴を述べる本文を担当する役割分担で、この本は作られている。

 ザッケローニ氏のプロ監督としての経歴は84年に始まる。両親がホテルを経営する故郷の町チェゼナティコの同名のクラブが、セリエC2(実質4部リーグ)から降格の危機に瀕していた際にザッケローニ氏を監督として抜擢したのだ。当時、氏は30歳だった(就任時は同クラブのU15の監督をしていたと言う、強引に日本にたとえてみると、地域リーグなり県リーグでそこそこサッカーが上手だった若者が、地元の中学生を指導し成果を挙げていたイメージか)。以降、2010年にユベントスの監督を解任されるまでの26年間(つまり、日本代表監督に就任するまで)を、本書は丹念に追っている。
 全く無名の状態から始まった氏の地味ながら着実なキャリアアップ、そして98−99年シーズンのミランでの栄光、その後「場」に恵まれなかった苦悩。これらの氏の実績を、本書は淡々と描写してくれる。そして、それに関与したイタリアのサッカー人達へのインタビューが、その描写を分厚いものにしている。これらによって、まず第一に当然ながら、我らが代表監督の足跡も的確に理解できる。それに加えて、イタリアサッカー界の構造(具体的にはセリエAを頂点とするピラミッド構造、クラブ会長とコーチングスタッフと選手達の関係などだが)も理解できるのだ。特に氏がセリエC2、C1あたりからのキャリアアップを目指している頃の実態を、日本サッカー界の地域リーグあたりと比較しながら読むと非常に勉強になる。
 一連のインタビューも愉しい。中でも、氏をかつて解任した各クラブの会長のインタビューは、皆大いに笑えるものだ。いずれの会長達も、ビジネスで成功した上でサッカークラブの会長に就任したのだろうが、こらえ性がなく現場に干渉しては失敗している。そして、その言い訳が言い訳になってないのが、何とも愛らしいのだ。また、アルベルティーニ、ペルッツィ、トルド、そしてデルピエロら、超一流選手達が我らが監督を讃えているのは、何とも嬉しい。

 さらに、本書を読んで改めて感じたのが、氏との出会いの幸運。
 06年、10年とワールドカップが終わる度に、自国の代表監督を夢見て身体を空けていた氏が、結局その任に就けなかった事に大いなる失望を抱いていた事。しかし、そのおかげで、我々が氏を獲得できた事。これらを、我々は本書から読み取る事ができる。
 言うまでもなく、氏は就任以降、アルゼンチンに勝利し、アジアカップを獲得し、韓国を粉砕するなど、圧倒的な実績を挙げて来た。それだけでも、もちろん私は氏が最高クラスの監督である事を理解している。それに加えて、本書を読む事で、この男が、26年間に渡り、実に几帳面で生真面目に監督と言う仕事に取り組んで来た事、さらに日本サッカーを、自らの判断で心底リスペクトしてくれている事を理解できた。
 氏の日本サッカー評のいくつかを抜粋する。
 日本で仕事を始めた時にも、日本にはCFがいない、点が取れるストライカーが育っていないのが問題だ、と聞かされたが、実際に見てみたらまったくそんなことはなかった。前田はJリーグで2年続けて得点王を取っているし、チュンソン(李)もいいストライカーだ。視察を始めて2試合目が広島の試合だったのだが、彼は股抜きを5回も見せて、チップキックでゴールを決めた。よほど強いパーソナリティがなければできない芸当だろう?
 それと、日本はうまくいっている時はいいけれど、一旦失点したりリードされたりするとすぐ落胆してしまう、反発力がないとも聞かされた。でもアジアカップではほとんど全試合、困難に陥りながらそれをはね返して勝った。(中略)どれもすばらしい反発力の賜物だ。
 日本にはファンタジア(創造性)がない?なぜそう思うのか私には理解できない。Jリーグには創造性を備えた選手がたくさんいるじゃないか。日本人はあらゆる分野で創造性を発揮しているのに、どうしてサッカーだけそうでないというんだろうか?日本人は非常に正確できちんとしているが、同時に創造性にもあふれている。国際的な建築家がたくさん生まれているのもその一例だろう。
   
 ザッケローニ氏は、全く偏見を持たずに、我が国に降り立ち、自らの目で日本サッカー界を見始めた。そして、自らの判断により、日本サッカーを再評価し、世界の中に位置づけようとしている。だからこそ、改めて「氏に『ブラジル行き、そしてブラジルでの歓喜と絶望』を託して、よかった」と思えてくるのだ。

posted by 武藤文雄 at 11:19| Comment(1) | TrackBack(0) | 書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年02月28日

(書評)プロ野球 最強のベストナイン 小野俊哉著

 たまにはサッカー以外の本。シーズンオフなので野球の本を語るのもおもしろいと思っていたのだが、グズグズしているうちに、シーズン開幕が近づいて来て、慌てて紹介する次第。
 本書は、1936年に日本職業野球連盟が発足した以降の、日本のプロ野球のベスト9を選ぼうと言う野心的な試みを述べたもの。1番打者から順番に、その打順に要求される能力を満足する選手を選び、下位打線には残ったポジションの選手を当てはめている。指名打者制を採用して野手を9人選考し、投手は10年刻みのいわゆるdecadeごとに1人ずつ選んでいる。

 選考の仕方は様々なデータを駆使した上で、最後は「野球が好きでたまらない」と言う風情の著者の主観で決定されるのだが、この主観による決定がおもしろい。データ面では、たとえば1番は最高の得点を稼ぐ打者と言う事で、「通算得点」、「10試合当たりの得点」、「出塁率+生還率(出塁後にホームに帰ってくる比率)」などを比較。2番はつなぎの能力と言う事で、「犠打+盗塁+塁打+四死球」で評価。等と打順ごとに要求される仕様を変えている。
 誰もが予想する通り、議論の余地なく選んでいるのが、3番ファースト王貞治と8番キャッチャー野村克也(野村自身は8番と言う事で文句を言うかもしれないが)。中でも、王の評価は、様々な側面からのデータで圧倒される。言うまでもなく、世界最高の本塁打王、打点もアーロン、ルースに次ぐ世界3位。しかし、筆者は王を、それらの目立つ記録のみならず、他のデータ面からも高く評価している。
 その王に続く4番の選考がまたおもしろい。筆者は4番に対する期待は「どれだけ打点を稼いでくれるか。ただその1点に尽きるでしょう」と断定する。そして、通算打点最高記録保持者の王よりも、別な視点で打点を最も稼いだ選手を4番に選考している。このあたりのデータと、筆者主観の並立が、この本を魅力的にしている。そして、ネタバレになってしまうが、その4番は長嶋茂雄ではない。そして、「何ゆえ長嶋が史上最高の4番足り得る程打点を稼げなかったか」の解題が、中々の傑作。
 また、基本的には打撃、走塁の攻撃能力での選考となっているが、守備面での貢献も考慮に加えられている。その守備面の評価だが、「守備率」では守備範囲の狭い選手に有利になるので、「守備機会(捕殺+刺殺+失策)」での比較を重視している。興味深いのは、この守備機会で評価すると、今売り出し中の若手スタアが極めて高い評価となる事。この若手選手はまだまだ、史上最強のベストナインに入る程の実績はないのだが、この守備面の評価からだけでも(バッティングでも評価されている選手なのだが)、歴史的名手となる可能性があるのだと再認識した。

 投手編は上記した通り、decadeごとの選考。50年代に関しては議論の余地なく稲尾和久な訳だが、その稲尾が右肩を痛めてからの分析がおもしろい。そして、その分析は以降の年代でも、極めて重要になってくる。同様に「権藤、権藤、雨、権藤」に対する新解釈と、90年代以降のローテーション制の比較も示唆に富む。70年代のベスト投手選考としての、江夏豊、鈴木啓示、山田久志の比較も実に愉しい。そして、00年代最高と評価される現役の若手大エースが、より多くの実績を持つ大リーグで活躍する先輩よりも高い評価なのも、説得力がある。

 もちろん、この手の本に付き物の疑問が多い。日本史に残る安打製造機を2人比較しながら曖昧な評価で終えてしまっている事。ショートストップの選考は「いくら何でも違うだろう」と突っ込みたくなる人選。そして、無理に「抑えのエース」を選ぼうとして(当然ながら抑え投手の記録が充実しているのは、つい最近)、ベストナインに「う〜ん」と言う最近の選手が並んでしまっている事(皆、立派な選手なのですが、他のレジェンドと比べるとねえ)。これによって、上記した00年代のエースとして選考されたスーパースタアの価値が下がってしまった。

 で、問題は、サッカーでこのような本が望めるかどうかと言う事。サッカーと野球の相違は2つ。
 1つ目は、80年代までと、それ以降で、日本サッカー界の世界における相対位置があまりに違い過ぎるために、過去の名手をベストイレブンに入れ込むのが中々難しい事。たとえば、釜本邦茂は別格としても、落合弘や前田秀樹や加藤久を、現在の日本代表選手達とどのように比較すべきなのか。このような選考は遊びだからこそ、説得力ある遊びをいかに行うか、難しいところだ。
 2つ目は、野球と異なり、データで語り切れない事が多過ぎる事。たとえば、同じ高校出身の同じポジションの堀池巧と内田篤人の比較をデータで行えるものなのか。ただ、この分野は、まだまだ開拓の余地もあるようにも思う。たとえば、野球における「守備機会」的な評価を、サッカーでも発案できないだろうか。 
 などと他人事のように語ってはいけないな。自分で努力して書けばよいのだ。

posted by 武藤文雄 at 23:30| Comment(4) | TrackBack(0) | 書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年02月17日

(書評)千葉直樹引退読本 サッカーキング2011年3月号

 ここ数日話題になっている、このコラムは、本誌の特集の言わば「締め」の1ページを飾るものとなっている。
 本書は、精力的にJリーグを掘り下げる月刊誌が、巻頭から半分近くのページを費やして、ベガルタのシンボルとして活躍し、このオフに引退を決意した千葉直樹を特集したもの。
 本特集の多くを執筆したのは、友人の板垣晴朗氏。氏はエルゴラッソのベガルタ番記者。元々は(もちろん、今もですが)語学堪能な碩学。昨夏には、エルゴラッソ誌上でドイツ滞在時代にも接点があったフィンケ氏に、ドイツ代表の改革などを含めた見事なインタビューを行い話題にもなった。自分が映像未見のベガルタ試合でも、氏の記事を読めば、おおむねチーム状況を確実に把握できると言う意味でも、非常に信頼できるライターだ。

 私が本書を知ったのは、板垣氏からのメールだった。正直、実物を手に取るまで、何かの冗談だと思ったのは秘密だ。同誌が、単独クラブの特集を指向しているのは知っていたし、昨年もベガルタ特集を組んでくれたりはしていた。また、オフの出版だけに、引退選手に注目を集めるのも理解できなくはない。けれども、だからと言って千葉直樹にフォーカスする全国系の雑誌があってよいものなのかと。
 
 私が仙台サポータだから、割り引いて読んでいただきたいのだが(そう、ことわらなくとも、皆さん割り引いてお読みになるだろうが)、この特集は雑誌のサッカー雑誌(あるいはスポーツ雑誌)の従来なかった可能性を広げ得るものだと思う。本誌のような月刊誌に限らず、サッカーマガジンやダイジェストのような週刊誌も、ナンバーのような2週間ごと発刊誌?も、サッカー批評のような季刊誌も、基本的には各号でフォーカスする特集を組んでくる。ただし、その特集のネタは、代表チームであったり、Jで特別な活躍をしているクラブであったり、圧倒的な能力を持つ選手であったり。
 しかし、ベガルタ仙台と言う地方の小さなクラブ(小さいのは現時点だ、いつか大きくなってやる、と言う気持ちは置いておいてだが)一筋で戦って来た英雄の引退を、雑誌の特集として採り上げ、完全に読み物として成立させる事ができるとは、正直思ってもみなかった。実際、読んでもらいたいのだが、面白いのだよ、これが。
 この選手は、仙台と言う都市に生まれ育ち、かつ他のサッカー少年よりも格段に運動能力に優れ、さらに自分を律して努力すると言う才能に恵まれた少年だった。そして、本人にとっては当たり前の努力を積み(その本人にとっての「当たり前」は、他者にとっては物凄い努力なのだが)、ユース世代時点で順調に優秀な選手に成長した。その時点で、その仙台に、たまたまプロフェッショナリズム化を推進する、やや人工的に作られたクラブがあり、普通に勧誘されてその一員となる。そして、その後のブランメル仙台、あるいはベガルタ仙台の、紆余曲折、七転八倒、艱難辛苦、絶望歓喜、弐萬熱狂、残留安堵、諸行無常の全てを、ピッチから経験する。そして、気がついてみたら、引退時にベガルタ仙台の象徴のみならず、日本サッカーにおいても貴重な人材になっていたと言う事だろう。
 そのような「貴重な人材」の経歴をA4版、37ページで「これでもか、これでもか」と紹介する記事が続く。これが、おもしろくない訳がない。改めて千葉直樹の偉大さを再認識できると共に、上記したようなこの選手の「着実な成長」記録を堪能できる仕掛けとなっている。

 ベガルタ仙台の我々にとって、唯一無二の存在である千葉直樹の「これでもか、これでもか」は、他クラブのサポータにも、日本代表のサポータにも、その他のスポーツ好きにも、間違いなく愉しめるコンテンツ足り得るはずだ。そして、我々にとって唯一無二の千葉直樹だが、皆さんにとって唯一無二の存在は、それぞれ存在するはず。サッカーを深く愉しむために、本特集のように、それぞれの唯一無二をじっくりと堪能できる機会があれば嬉しいではないか。サッカー雑誌にはまだまだ無限の可能性がありそうに思う。

 できれば、千葉直樹が日本中のサッカー狂にとっての唯一無二であって欲しい気持ちもあるが、やはりそれは違う。千葉直樹は俺たちだけの唯一無二なのだ。 



 ついでに宣伝。ベガルタ仙台の市民後援会が毎シーズンオフに発行する、各期の総決算誌です。私も1ページコラムを書いています。ご興味があれば。


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2011年02月12日

(書評) サッカー「真」常識 (後藤健生著、学研)

 ご承知の方も多いと思うが、後藤氏と私は日本サッカー狂会で知り合った友人。友人と言うには失礼で、先方が大先輩で、氏は私のサッカー観戦の師匠にあたる。また「お前もちゃんと観る語るだけではなく、サッカーの文章を書け」と叱咤してくれた方でもある。お気づきの方もいらっしゃると思うが、時々拙ブログにも氏には登場いただいているし。まあ、人の事は言えないが、後藤氏こそ、私を凌駕する典型的な病膏肓に入った御仁。その後藤氏の書き下ろし新著が本書である。

 正直言って、その内容の濃さには圧倒される。氏の著作と言うと、サッカー観戦のおもしろさを並べた「サッカーの世紀」(サッカー分析系)、フランス予選の死闘の従軍記とも呼ぶべき「アジア・サッカー戦記」(観戦記系)、徹底した資料調査に基づいた「日本サッカー史」(歴史系)などが挙げられる。本書はサッカー分析系の典型であり、氏としては「サッカーの世紀」以来の会心の作とも言えるのではないか。「サッカーの世紀」発刊後15年、約4ワールドカップの氏の経験を織り込んだ、サッカー観戦の愉しさ、深さを論じた一冊とも言える。

 各章で述べられている主題をいくつか要約する。
  シュートがパスより難しいのは何故か。そのシュートを打つために必要な「スペース」を確保するための「戦術」の数々。
  「手を使えない」と言うルールが生んだサッカーの特殊性と、それが故のターンオーバの妙味。そしてオフサイドの存在意義。
  ビエルサチリとオシム爺さんの「攻撃的守備」、ヒディンクとモウリーニョとサベージャ(エスツィアンデス)の「バルサへの抵抗」比較。
  「引き分け狙い」「アウェイゴールルール」「2-0の安全性」などにおける、メンタルゲームとしてのサッカーの妙味。
 書き始めるとキリがないので、このくらいにするが、拙ブログを愉しんれくれるような方々には、何とも魅力的な題材に思える事だろう。これらについて、豊富な観戦経験から切り出される実例を用いた、独特の後藤節での丹念な語りが愉しい。病膏肓型の友人がいるならば、お互いに本書を読み合った上で議論すれば、いくらでも酒の肴が出てくるので、愉しい事この上ないだろう。
 ただ不安もある。いわゆるサッカーに関する初心者の方が、何気なく本書を購入しても、何を書いているか理解できないのではないか。氏は極力わかりやすいように、説明図を準備したり、登場するサッカー人について丁寧な説明をしているが、それが初心者にどこまで通用するのか。まあ、いいや、それが本質的でない事は言うまでもない。

 ついでと言っては何だが、本書の序章の一部を抜粋しておこう。氏の本書に対する意気込みが感じられるだろう。
 「戦術」と言う言葉は非常に広い意味を持つ。
 だが、日本代表のカメルーン戦での得点シーンのように、相手のストロングポイント(エトーやアエスコットの攻撃力)を消し、相手のウィークポイント(カメルーン守備陣の混乱や守備の弱いアエスコット)を突くための作戦。それこそが、本来的な意味での「戦術」なのではないだろうか。
(中略)
 もっとも、11人の選手の役割とその相互関係をすべて理解したり、すべてについて論じたりするのは不可能だから、11人の選手のそれぞれの動きの中で、どの選手のどういう動きがゲームの流れを決める上で重要だったかのかを見極め、そこの部分を取り上げて論じなくてはならない。はっきり言って、なかなか難しい作業だ。
 その点、「戦術」と称して選手の並びの話だけをしておけば、そうした難しい議論をしなくても済むことになる。たとえば「スリーバックがいか、フォーバックがいいか」といったようにである。つまり、サッカーについての一応の基礎知識さえあれば、「システム」論はすぐに論じられるようになるし、そこには数字や専門用語いろいろ出てくるので、自分が難しい戦術の話をしているような気分にもなれるというわけだ。
 「システム」論だけを切り離して、それを「戦術」論として論じてしまうというのは、つまり書き手にとっても、読み手にとってもとても便利で、また楽な作業なのである。それが、最近の日本で『戦術論』と言う名の下で「システム」の話をするのが大流行している原因なのだろう。
 だが、それでは単なる自己満足に過ぎない。本当の意味でサッカーを語ったことにならない。第一、複雑で多面的な面白さを持ったサッカーというゲームを『戦術論』だけで語ってしまうのは、あまりにもったいない。


 実は、私がブログで後藤氏の著作を採り上げるのは初めて。と、言うのは、拙ブログを読んで下さる方々ならば、氏の著作をフォローするのは当然だろうと思っていたから。ところが、本書はやや違う。この正月休みに書店を冷やかしていて本書を発見したのだが、本書は昨年11月に発刊したものだった。私が不勉強だったせいかもしれないが、本書の発刊そのものを知らなかったのだ。複数の友人に尋ねたのだが、本書の存在を知っていた人間は非常に少なかった。と言う事で、採り上げる事にした次第。学研はもっと、ちゃんと宣伝した方がいいんじゃないかね。
 本書の帯部には「サッカージャーナリストの草分け後藤健生、サッカー取材人生の集大成」とキャッチが打たれている。最初書店で本書を見つけた時は、このキャッチを読み、「何とオーバーな」と思ったが、読んでみるとそうオーバでもない気になってくるような作品なのだ。
 そうなると、四六判の並装、税抜き1400円と言う本書の企画が疑問にも思えてくる。どうせだったら、ハードカバーで2000円くらいで「新サッカーの世紀」とか「サッカー観戦学」とか「サッカーの常識」と言った強気の題名にして販売した方が、もっと売れるのではないかと思うのだが。まあ、値段が安い事に文句を言ってはいけないね。

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2010年05月31日

(書評と言うのか?) 俺たちが戦う理由 ー代表戦士200の名言ー

 本書の共著者である「いとうやまね」氏は、ご夫婦のユニットライター。サッカー本の著者と知り合いである事は多いのだが、このお2人は、知り合い云々ではなく、完全に私の飲み友達である。ただし仲はよいのだけれども、サッカー観はかなり違う。何よりお2人は強硬な岡田解任論者でもあられる。
 それはさておき、著者から強く「ブログで本書を紹介せよ」と命じられた次第。仕方がないので、先々週の週末、雨の中電車に乗って本書を購入に行った。某JRと私鉄が交差しているターミナル駅前の書店で、本書はサッカーコーナに平積みにはなっておらず、本棚の中から探さなければならなかった。著者にメールで「●●氏や△△氏の本は平積みだったが」と報告したところ、「それらの上に置いて平積に見せかけろ」と指示されたのは秘密だ。

 で、本書。
 「よくもまあ集めたものだ」と感心する、世界中の名選手、名伯楽の「代表チームに対する想い」を切り出した名文句の数々。具体例を挙げよう。
ダニエル・パサレラ(アルゼンチン代表監督)
「勝利はすべて国民のもの
 敗戦は監督1人の責任。」
ライアン・ギグス(ウェールズ代表)
「今までのすべてのトロフィーを
 返上してもいいから、
 ワールドカップに出たい」
 サッカーに初めて触れるような友人に、「ワールドカップとは何か、サッカーの代表チームとは何か」を理解してもらおうとするならば、つまらないワールドカップ案内雑誌を読ませるよりも、この本を読んでもらうとよい。世界中の男達が何かに熱中する様を読んで気分を盛り上げてもらった上で、試合映像を見てもらえば十分ではないか。

 注文もある。
 それは日本代表に関する言及が少ない事。僅かにカズとラモスの中々素敵な一言が、それぞれ載せられている。でも、それでは少ない。日本代表に対する素敵な発言はもっともっとあるし、そこまで言及して欲しかったのだが。事前に相談してくれたら、いくらでも知恵を貸したのに(笑)。4年後への宿題としておこう。

 けれども。
 サッカー初心者向けと上記したが、本当は違う。この本は、私の講釈に飽きもせずに付き合って下さるようなサッカー狂のための本なのだ。上記2つの引用を再読して欲しい。著者はそれぞれに、パサレラとギグスの簡単な略歴と発言の背景を、それぞれ200字程度で述べている。しかし、これらの発言の背景を200字で説明できると思いますか?
 パサレラが現役時代、代表選手としてどのように戦ったか。あの冷静極まりない守備。セットプレイの度に飛び出してくる攻撃参加。負けている試合でも、死ぬまで戦う闘魂。選手時代のあふれでる歓喜と堪え難い絶望。全く異なる3回のワールドカップ。そして監督としての経歴。ワールドカップでの悲劇的敗退。そして身内の悲劇。それらを存分に思い起こした上で、上記の発言を読む。
 ギグスがいかにすばらしい選手であるか。幸い、我々はオールドトラフォードに行かずとも、トヨタカップで幾度もその妙技を堪能できた。ロイ・キーンへのアシスト、明神と山口を絶望の淵に突き落とす悪魔のようなコーナキック。そして無数に映像で見た栄冠の数々。そして、我々日本人が今まで体験できたワールドカップの歓喜。それら全てを反芻した後に、上記の発言を読む。

 本書は、著者が我々サッカー狂に突き付けた挑戦状なのかもしれない。



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2010年05月22日

(書評)祖国と母国とフットボール

 本書は在日コリアンのサッカーライター慎武宏氏が、在日コリアンサッカー界の歴史を俯瞰した上で、これからの方向を探ろうとした作品だ。非常に読みどころの多い本だが、私が気に入ったのは以下3点だった。

 まず何より梁勇基だ。大阪朝鮮高時代にインタハイにも出場、プロ入りを目指し阪南大に進み、ベガルタに加入し、国内屈指のMFに成長し、ついには北朝鮮代表にたどり着いた梁。決して多い分量ではないが、その経歴が要領よく描写されている。
 そして、慎氏は梁から、(我々ベガルタサポータとしては)涙が出るようなコメントを引き出している。
 「監督、チームメート、サポーター。それに仙台在住の在日の方々も本当によくしてくれてる。(中略)そういう方々の支えがあって、今の自分がある。だから、僕は”大阪の梁勇基”でもなければ、”在日の梁勇基”でもない。”仙台の梁勇基”というのが一番ピンときますね。」
 本書には多くの在日コリアンサッカー人が登場する。そして、彼らの中で自らのクラブに最も愛情を注いでくれているのは梁なのだ。我がクラブがこのような主将を抱いて戦う事ができる事を、本当に誇りに思う。
 梁が採り上げられている部分は本書の僅かな部分でしかないが、上記のコメント周辺だけで、ベガルタサポータの必読書と言えるのではないか。

 2番目に、「なぜ在日朝鮮人から、好選手が大量に登場するか?」と言う古くからの命題に対する慎氏なりの答が提示されている点。60年代から80年代にかけて、在日朝鮮蹴球団は「日本リーグのチームよりも強い国内最強の単独チーム」と言う伝説があった。同様に東京朝鮮高校を中心に各地の朝鮮高校もユース世代屈指の強豪と言われていた(いずれのチームも公式戦への道は閉ざされていたのだが)。最近も、鄭大世、安英学、そして梁勇基と言った北朝鮮代表選手ら、多くの国内トップ選手を大量に輩出している。それらの要因を明らかにするために慎氏は、金光浩氏(80年代の在日朝鮮蹴球団の名手、当時北朝鮮代表FWとして、86年メキシコワールドカップ予選では日本とも対戦、サンガの金成勇の父親)をはじめとする多くの在日コリアンサッカー人に取材をしている。そして、当時の精強振りの要因として、在日コリアンサッカー界が在日朝鮮蹴球団をトップにいわばピラミッドのような強化に成功していた事、日本社会に対するプライドから常に勝敗にこだわった事などを挙げている。
 そして、慎氏はそれらの過去の栄光を述べた上で、在日コリアンサッカー界の未来の夢を、FCコリア(事実上の在日朝鮮蹴球団の後継チーム、現関東社会人リーグ1部所属)の代表兼監督の李清敬氏から引き出している。李清敬氏曰く
「J1やJ2はともかく、JFLに在日コリアンのチームがあってもおかしくはないでしょ?日本のビルバオになることがFCコリアの究極の目標です。」
 この在日コリアンサッカー人達の過去の把握や未来への希望は、日本サッカー界の未来を考えるときにも示唆に富む材料に思うのは私だけだろうか。

 3つ目。日本国籍を選択した李忠成に関する肯定的な評価。330ページの本書だが、途中列伝的に様々な在日コリアンサッカー人が登場し、中盤以降読み続けながら、少々退屈な思いを抱いていた。ところが、最終章の李忠成のくだりまで到達すると、それら少々退屈に思った内容が本章の伏線となっている事が理解できた。
 李忠成の選択について、在日コリアンの先輩たちは「未来への新たな選択」と、非常に前向きに捉えている。90年代に北朝鮮代表で活躍し、ジュビロでもプレイした事がある金鐘成氏の発言を複数引用する。
「いろいろ言われているけれど、チュンソンは”国籍や民族を捨てた”のではなく、”サッカーを選んだ”と思うのだよね。この国でサッカー人として生きていくことを選んだのだと。」
「彼と自分を置き換えたとき、僕はサッカーを選んでいないんだよね。僕は国籍を守り、組織(在日コリアンの社会、カッコ内は武藤注)の中で生きることを選んだ。(後略)。」
 さらに李忠成の父李鉄泰氏はこう語っている。
 「歴史問題や民族の違いゆえに存在する、日本と在日の間の心の削り合いみたいなものはこれからも続くでしょう。でも、その心の削り合いをなくすことはできなくても、和らげることはできる。チュンソンはもちろん、今、Jリーグで活躍している在日の選手たちにはそういう役割を担ってほしいと心の底から思う。彼らがクラブのために頑張れば、それは日本サッカーのためになるし、在日のためになるはずだから。」
 著者の慎氏は、本書の中で拉致問題や核疑惑など、北朝鮮の政治問題に悩む自分にも言及している。そして慎氏を含めた本書に登場する在日コリアン達は、自分達の在日社会の将来も模索している。李忠成の選択は、彼らにとっても1つの回答なのだろう。

 あまり政治的な事を語るつもりはない。けれども、在日コリアン選手のプレイは常に我々を愉しませてくれる。そして、彼らの葛藤を本書によって活字で学ぶ事で、その愉しみが一層奥深いものになるのは間違いない。


posted by 武藤文雄 at 23:00| Comment(0) | TrackBack(2) | 書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年04月29日

(書評)蹴球風見鶏(1)

 最初にお断りしておくが、私は著者のとうこく氏とも編集者とも面識がある。と言うか友人だ。だから、書評そのものが客観性に欠けるものとなるかもしれない(まあ、もっとも私の講釈はいずれも客観性があるかどうかは、かなり疑問なのだが)。

 本書は、エルゴラッソ毎週水曜日のお愉しみの連載マンガを、08年、09年の2期に渡ってまとめたもの。第1巻なのだが、連載初期ではなく、最近の2期をまとめた形態になっている。そして、多くのマンガの題材が、典型的な「時事ネタ」であるためか、前後のサッカー界のトピックや記録を併催しているのが特徴。
 いや、おもしろい本です。そして、私は本書が、2つの意味で、日本サッカー界において重要な位置づけを占めるものと考えています。

 1つ目は「サッカーの記録」と言う視点。
 以前も触れた事があるが、私はとうこく氏は「サッカーを記録する」と言う点において、一種の天才だと評価している。
 言うまでもなく、現行の技術において「サッカーの記録」で最も有効な手段は「ハイビジョン録画、できれば複数角度から」であろう。けれども、この方法だと1試合の再現に最低でも試合時間分の時間がかかってしまう。一方、最もシンプルな記録はスコアとメンバのみの記録だろう。けれども、そこからは試合内容の類推は、極めて難しい。
 そこで、その中間でいかに試合を記録し、その「雰囲気」を的確に記憶するかを、皆が工夫するのである。私もその一翼を担っているつもりだ。そして、とうこく氏は、僅かなスペースの「絵」と、巧みな短文を併用する事で、「サッカーの記録」を鮮やかに行ってくれている。まあ、いくつかは失敗作もあるやに思うが、それが傑作を否定するものではないのは言うまでもない。
 そして、単行本化するために、少々あやしくなった当時の記憶を補足するがために、丁寧に当時の記録を併催している編集がいい。結果として、この一冊は09年と10年の日本サッカーを回顧するために格好な記録書となっている。とにかく、本書を読む事で、この2年間のあれこれを鮮明に思い出す事ができる。いや、数年後、数十年後に再読すれば、再び鮮明にこの2年を思い出す事ができるだろう。たとえば、思い出したくはないのだが、この日の松浦拓弥の笑顔。

 2つ目は「自律して歩き始めたマスコット達」。
 93年のJリーグ開幕時、友人たちとよく「あのマスコットの格好悪さ」は勘弁して欲しいと、語り合った(当時から唯一の例外は、グランパスくんだったが)。
 けれども、我々は間違っていた。あれから20年近くの歳月が流れ、Jのマスコット界には次々と新参者が登場し(ベガルタサポータとしては、我がベガッ太が、その中の中軸を担っているのが嬉しいが)、彼ら一人一人が明確に自律し、人格?を持ち始めている。
 そして、とうこく氏は彼らにクラブを代弁させる技法で、それぞれのJクラブが抱えている「主観」を、的確に描写しているのだ。山形弁のディーオ君と仙台弁のベガッ太の微妙な掛け合いなど、(その方言相違の描写を含め)とうこく氏の他に描写できる人がいるとは思えない。

 さらなる要望を2点。1つは、08年より前の作品も同様な記録書として編纂して欲しい事。とうこく氏に平伏させられた、かの名作を単行本で再度堪能したい。2つ目は、その次回作にサッカー以外の氏の傑作(たとえばこれ、ちなみにトリノ五輪前ね)が掲載される事。

 ちなみに本書で一番好きなのは、立石の引退試合のためにハガキを書く遠藤。

posted by 武藤文雄 at 23:56| Comment(2) | TrackBack(0) | 書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする