1.君との思い出 君の名を始めて知ったのは、78年アルゼンチンW杯大会直前、サッカーマガジンに載った代表候補選手リストだった。
当時私は高校3年生、少々興奮した。17歳の同い歳(後日、さらに同年同月生まれと知る)の選手が、地元ワールドカップに備えるチームの候補選手になっていたからだ。しかし、大会直前、メノッティ氏は迷いに迷った末に、君をメンバから外したと言う。そして、熱狂的な全国民のサポートの下、ダニエル・パサレラとオズバルト・アルディレスとマリオ・ケンペスのチームは、颯爽とした攻撃的サッカーで初めての世界制覇に成功する。君が不在でも。
79年5月、前年W杯決勝再戦となったオランダ戦、映像で初めて君を見た。君以外は世界チャンピオンメンバ、しかし君は格段の戦術眼と技巧を見せ、既に王様としてチームに君臨していた。ヨハン・クライフが事実上トップレベルの試合を去っていた当時、「新しい神」が登場したのか、期待は格段のものがあった。
同年日本で行われたワールドユースで、君の名は世界にとどろいた。君はラモン・ディアスと共に格段の輝きを見せてくれたのだ。余談ながら、あの大会は私の世代のワールドユース。高校時代ピッチで幾度も戦ったこともある鈴木淳も出場した(いや、選手としては淳にはまったく歯が立たなかったのですが)。
80年代に入り、君はボカやバルセロナで活躍するも、期待したほどのプレイは見せてくれなかった。82年ワールドカップでも体調も上がらず、断片的に輝くプレイはあったものの、敵の厳しいマークの下に沈んだ感があった。世界でも1、2の実力者であることは間違いなかったが。
ちょっと余談をはさむ。85年のトヨタカップは、ミシェル・プラティニ率いるユベントス対アルヘンチノス・ジュニアーズ。このアルヘンチノスと言うブエノスアイレスの小さなクラブは、幼少の君の才能を見つけ、プロフェッショナルに育て、ボカに売ることで得たキャッシュでチームを強化。リベルタドーレスを制し、国立競技場に登場したのだ。ホセ・ジュディカ監督が率いたアルヘンチノスは攻撃的なすばらしい試合を展開、プラティニ(まだこの時点では、君ではなくプラティニが世界最高の名手と言われていた…そして、国立でプラティニが見せたプレイは本当に鮮やかだった)と仲間たちを後一歩まで追い詰めながらPK戦で敗れる。この試合は、私の50年近いサッカー観戦歴の中でも最も美しい記憶の1つとなっている。
迎えた86年メキシコ大会。初戦のアルゼンチンの対戦相手は韓国だった。その半年前、我々は最終予選をこの隣国と戦った。森孝慈氏率いる日本代表の攻撃の切り札は水沼貴史、私にとっては日本人一番サッカーが上手な同級生だ。しかし水沼は韓国の名DF金平錫に完封された。このアルゼンチン対韓国で最初君をマークしたのが、金平錫だった。しかし、金平錫は君の前ではまったく無力、前半半ばで交代を余儀なくされた。アジアのトップレベルに近づきつつあった当時の日本代表と世界最高峰のレベル差を、君と金平錫と水沼で知ることができた。
その後のこの大会の君は、皆が知っている。神は地に降りてきたのだ。悪魔と言う話もあったが、詳細は後述する。
前後したナポリでの美しいプレイの数々、イタリア南部の風光明媚なこの都市での活躍は言うまでもない。
90年イタリアワールドカップ。私にとって生観戦した初めてのワールドカップ。初戦のカメルーン戦の失態。2次ラウンド初戦圧倒的に攻め込まれたセレソン戦、カニージャに通した芸術的なラストパス。灼熱のフィレンツェ、イビチャ・オシム氏が率い、若きドラガン・ストイコビッチを中軸としたユーゴスラビアをPK戦で下し、君はナポリでの地元イタリアとの準決勝に進出した。
フランコ・バレシが率い、圧倒的優勝候補と言われ、ここまで無失点だったイタリアは前半早々にサルバトーレ・スキラッチが先制。誰もが「勝負あり」と思ったものの、君は反転攻勢に出る。そして後半にカニージャが同点にして(この同点弾については後述する)、PK戦で決勝に。
決勝の西ドイツ戦ではチームメートの半分以上が警告累積で出場できず(ここまで、君のチームメートは、ラフなのかタフなのか微妙でギリギリの激しい守備で戦い抜いてきた、6試合を経過し多くの選手が肝心の決勝で出場停止になっていた)、終始西ドイツに攻勢をとられる。それでも、アルゼンチンの組織守備は揺るがない。しかし、後半怪しげなPKをとられ、さらに不可解な退場判定で最後は9対11の戦いを余儀なくされ、万事休した。
その後、麻薬関連が取沙汰されナポリを去った君は複数のクラブを転々とする。「もうトップレベルのプレイを見せてくれることはないだろう」とも思っていた。ところが93年アルゼンチンはW杯予選で苦戦、豪州とのプレイオフに回ると君は代表に復帰。そのまま、君は4度目のワールドカップに臨んだ。君は、バティステュータ、レドンド、シメオネと言った新しいタレントを率い、美しい攻撃サッカーを展開。ギリシャ、ナイジェリアに完勝。特にギリシャ戦の君の得点は、「正にアルゼンチン!」と感嘆する中央突破から。最初の2試合の圧倒的強さから、優勝候補筆頭とも語られた。けれども、1次ラウンド最終戦直前に、禁止薬物反応が出たとのことで、君はUSAを去ることとなった。
間違いなく少しずつ引退は近づいていた。ボカに復帰した君は、95年ソウルでの韓国代表戦に登場した。当時、W杯招致合戦を繰り広げていた日韓両国。韓国はボカを招聘することが、世界のサッカー界への大きなPRとなると考えたのだろう。麻薬の前科がある君には日本政府当局は入国のビザを発行しようとしなかったからだ(94年のキリンカップ、アルゼンチン代表来日が内定していたが、君が入国できないためアルゼンチンは出場を辞退したと言う)。ソウルは近い、私はソウルオリンピックスタジアムに向った。往時の切れ味はもうなかったけれど、柔らかなボールタッチと、20〜30mの距離をきれいにカーブして味方の利き足に届く美しいパスは健在だった。君を見ることができるだけで幸せだった。
また余談。翌日、帰国のための金浦空港。テレビ解説のために訪韓していたメノッティ氏に会うことができた。「私は日本のサポータです、昨日ディエゴのプレイを見られてうれしかった、たぶん私にとっての最後のディエゴです。ともあれ、私は86年のディエゴのチームより、78年のパサレラとアルディレスとルーケとケンペスのあなたのチームが好きなんです」。メノッティ氏は嬉しそうな表情でサインをしてくれた。
引退後の君は、時折世界中におもしろいニュースを発信するおじさん、となった。たまに薬禍、反社会集団との関与、不摂生による病気などのニュースが混じるのは残念だったが。驚いたのは、08年にアルゼンチン代表監督に就任したこと。考えてみれば、アルゼンチン代表は君が去った後も強かった。規律厳しい戦術的な監督が率い、多くの名手が登場し、格段の戦闘能力でW杯予選を勝ち抜き、本大会でも格段の優勝候補と評された。けれども、98年、02年、06年、いずれも早期敗退。アルゼンチン協会も「どうにもこうにも世界一には近づけない。やはり神に頼るべきか」と考えたのかもしれない。しかし、神はピッチ上にいてこそ輝くものだったのだ。君が率いるチームはドイツに完敗した。試合はおもしろかったけれどものね。
18年ロシア大会、サントペテルブルク。私はアルゼンチン対ナイジェリアを堪能していた。空回りするメッシ、明らかに衰えたマスケラーノ、私の席からメインスタンド中央の貴賓席が見えた。目を凝らすと、見慣れている体躯の君が踊っていた。踊る君を見るだけで、嬉しかった。
2.君の比類なき攻撃創造力 何故君は「神」なり「悪魔」と称されるようになったのか。一言でいえば、誰も真似できない格段の攻撃創造力だと思っている。
86年イングランド戦の5人抜き、90年ブラジル戦のカニージャへのアシストのような超人的なドリブル突破からのシュートやラストパス。これらならば、最近ならばメッシやクリスティアーノ・ロナウドが見せてくれる。
86年決勝西ドイツ戦の決勝点、ブルチャガに通した一瞬のスルーパスならば、ジーコやプラティニが再三披露してくれたし、小野伸二や中村憲剛も得意とするところだ。
94年ギリシャ戦のような卓越した個人技直後のの強シュートならば、ジダンやリバウドの記憶はまだ新しい。
しかし、今から述べる攻撃創造は、君にしかできないものだった。
まず、あの86年イングランド戦の「神の手」。あの場面、君はトップのバルダノにボールを当て、正確なリターンを期待してトップスピードでペナルティエリアに進出した。しかし、君の意図とは異なりバルダノはコントロールミス、イングランドDFが処理し損ねる形で偶然フワリと浮いたボールがイングランドゴールに。そのような偶然の浮き球が上がった瞬間に、君はGKピーター・シルトンと主審の位置取りを瞬間に見てとり、「これは手だな」と判断し冷静にボールを押し込んだ。
思わず手を出すのでは「神の手」にはならない。瞬時の判断で幼少時から自分で築き上げた「神の手」を選択する引き出しの多さと判断の的確さ。さらに言えば、この「神の手」はいくら熟練していたとしても、そう頻繁には使えない。毎回試みればネイマールの寝っ転がりになってしまう。それをW杯の準々決勝で披露するとは。
君は幼少時から幾度「神の手」を練習してきたのか。そして、それをずっと隠し、あの瞬間に使う判断を行ったのか。
同じ86年大会の1次ラウンド、イタリア戦の得点。バルダノのチップキックの浮き球を外向きに斜行しながら、名DFのガエタノ・シレーア(フランコ・バレシの前のイタリアの名リベロ、82年世界制覇の最大の貢献者の1人)にコースを押さえられたにもかかわらず、ボールのバウンドの落ち際で身体をひねってシュートを決めた。外向きに走っていた君が、突然に早いタイミングでボールを引っ掛けるように蹴ったため、GKのジョバンニ・ガリはタイミングを外され、まったく反応できずボールを見送るばかりだった。
シュートの際にいかにGKのタイミングを外すかは、世界中のストライカの課題。例えば往年の西ドイツの名ストライカ爆撃機ゲルト・ミュラーは、シュートのタイミングを一瞬遅らせてボテボテのシュートを決めるのが格段に上手だった。最近ではフィリッポ・インザギの落ち着いてGKのタイミングを外すシュートを覚えている方も多かろう。しかし、この君の一撃は、行動を遅らせるのではなく、早めることでGKの意表をついてしまったもの。
あるいは遠藤保仁のコロコロPK。落ち着いたアプローチでGKの体重移動を見据えて動けない方に押し出すのが見事だった。ただし、遠藤のこの名人芸はPKと言う止まったプレイでのこと。しかし、君はトップスピードで外に開きながら、GKを無力化する技巧と判断を発揮してくれた。もちろんあのキックを枠に飛ばすフィジカルの充実と技術もすごい。しかし、シレーアとの駆け引きを行いながら、タイミングを早めるという発想に感嘆した。あれはどんな名DFや名GKでも防げない。言わば「動的なコロコロ」とでも呼ぼうか。
さらに上記した90年大会準決勝のやはりイタリア戦、カニージャのゴール。得点までの経緯は比較的単純。君が左サイドに進出したオラルティコエチアに展開、切り返したオラルティコエチアのニアへのクロスをカニージャがヘッドでGKゼンガの鼻先で方向を変えて決めたもの。ただ、フランコ・バレシが率いるこの大会のイタリアの守備の堅牢さは尋常なものではなかった。1次ラウンドから準々決勝まで5試合で無失点。このイタリア守備が、こんな簡単な攻撃でどうして崩れたのか。私はこの得点が決まるゴール裏で観戦していたのだが、よく理解できなかった。
後日、VTRを幾度か見て、ようやく理解できた。イタリアのDF陣はフェリ、ベルゴミ、若きマルディニと言った柔軟性と強さと読みに秀でたDFがペナルティエリア内を固めていた。そして、一番危ない場所をフランコ・バレシが埋める。ところが、オラルティコエチアに展開した直後、君はウロウロとイタリアペナルティエリアに進出する。フランコ・バレシは幾度も首を振りながら、君とボールを視野に入れながら引く。結果的にフェリやベルゴミが固め切れないニアのスペースが空いてしまった。そこはフランコ・バレシが埋めるべき場所だったのだが。
得点を奪うために、攻撃のトップスタアが下がったり開いたりして敵の守備者を惹きつけると言うのは古典的な作戦だ。岡崎慎司が自分のマーカと他のDFと一緒に絡むとか、大久保嘉人が突然ペナルティエリアに進出をやめてマークを外しこぼれ球を狙うとか。しかし、こう言った陽動動作は敵DFの読みが格段だと「無視する」と言うやり方で無力化されてしまう。しかし、この時の君の「ウロウロ前進」は無視するわけにはいかず、バレシにもどうにも防ぎ難いものだった。あのような位置取りの発想は、一体どうやって出てきたのだろうか。
サッカーの個人能力向上の秘訣は単純だ(もちろん、その実現はとても難しいのだけれども)。
ピッチ上で行われることを想定し、執拗な反復練習を繰り返し、その技術をいつでも披露できるようにするしかない。そうやって練習で自分で作り上げた引き出しを、試合本番で局面局面の判断から選択し、丁寧にしかし高速で実現する。どんなレベルでも、それは変わりない。
けれども、上記の攻撃創造力(言い換えれば「瞬時の時空判断力」とでも言おうか)を、君はどうやって築き上げたのだろうか。あんなアイデアは、どんな指導者も教えることはできない。また、ここ10年ならば、インタネットを活用すれば過去の名プレイをいくらでも映像で堪能できるが、君が自らを育んだ70年代は家庭用VTRも普及していないし、TVも多チャンネル化していない。先達のプレイを学ぶ機会も限定的だった。まして、君が次々に見せてくれた攻撃創造力を教えられる指導者など、世界中どこを探してもいやしない(ペレやヨハン・クライフならいざ知らず)。ブエノスアイレスのストリートサッカーで、ピーター・シルトンやガエタノ・シレアやフランコ・バレシの意表を突く信じ難いアイデアを育んだのだろうか。
アルゼンチンとナポリのサポータからすれば、なるほど君は「神」だったろう(私のような野次馬にも)。しかし、それ以外のクラブのサポータからすれば「悪魔」としか言いようのない存在だったことがよくわかる。
3.君は何者だったのか。 90年イタリアW杯。
準決勝、ナポリ、サンパオロスタジアム。アルゼンチン対イタリア。
ナポリの王様として君臨していた君が主将として率いるアルゼンチンと地元イタリアの対戦。地元サポータが他の地域ほどアズーリを応援しなかったのが、この試合のイタリアの敗因と見る向きが多いようだ。
しかし、私にはとてもそうは思えなかった。確かに他の都市で感じたアルゼンチンあるいは君に対する圧倒的な敵対感はなかった。けれども、私の周りのイタリア人たちは当たり前のように、イタリアを応援していた。ただし、君の一挙手一投足を恐れ、何か君が能動的仕掛ける度に、嘆息の雰囲気は濃厚だった。言葉にならない恐怖感とでも呼んだらよいのだろうか。
さらに余談。スケールはちょっと違うが、私は当時のナポリの方々と同じ経験を味わったことがある。2011年9月、埼玉スタジアムでのブラジルW杯予選北朝鮮戦。北朝鮮の中盤には梁勇基がいたのだ。いつも私に最高の歓喜を提供してくれている梁が敵の攻撃の中核として攻め込んでくる。人生最高の恐怖感だったかもしれない。
PK戦終了後…試合中は私の真後ろで、声を枯らして「いたーりゃ、いたーりゃ」と絶叫していたおじさんの試合直後の絶望的表情は何とも言えないものだった。いや、きっと85年のソウルや、93年のドーハや、02年の利府や、18年のロストフ・ナ・ドヌの私も同じだったでしょうが。
決勝、ローマ、オリンピコスタジアム。アルゼンチン対西ドイツ。
驚いたのは試合終了後。西ドイツ選手が歓喜の渦に包まれる中、涙を流す君がオーロラビジョンに大写しになる。この瞬間、ローマ・オリンピコの満員の観衆は皆盛大なブーイングを行った。86年メキシコ以降、欧州の多くの試合で君がブーイングに包まれることはよく知っていた。この大会でも君はボールを持つ度に、ブーイングに包まれていた。しかし、それは試合中のことだ。試合中のサポータのブーイングは、恐怖と尊敬の表現でもある。しかし、この決勝終了後のブーイングは、明らかな悪意、軽蔑、嫌悪を表したものだった。ナポリを除くイタリア中が君に対し「ざまあみろ!」と言っているような思いを抱いた。さすがに驚いた。「君はここまで嫌われているのか」と。彼らにとって、君は神ではなく悪魔だったのだろう。悪魔の絶望的な表情は、多くの人々の歓喜だったのだ。
君が亡くなった後の報道。何より違和感を持ったのは、君は反体制の闘士であったとか、権威におもねらない庶民の味方であったとか。そのような報道を見聞きすればするほど私は違和感を持つのだ。
過去の報道を見る限りでは、君は人間として立派な人だったとはとても思えない。ただただサッカー選手としての能力に恵まれ、それでわがままな行動を許された。結果、不道徳な振る舞いは枚挙に暇ない。ただそういう男だったとしか思えないのだ。
ただし、私は君の友達でも何でもない。だから、君がどんなに道徳的に不適切なことをしてしまったとしても、私は困りはしない。私にとって君は、ピッチ上で信じ難い舞いを見せてくれる、空前のサッカー選手だった。そして上記したようにその能力は本当に素晴らしいものだった。
95年ソウル、五輪スタジアムの、ボカ対韓国代表戦に戻ろう。
私はこの試合、78年大会アルゼンチンに女性1人で降り立ちレオポルド・ルーケが若きプラティニを絶望に追い込んで以来の筋金入りのアルゼンチンフリークGKさんと、86年大会10代でメキシコに参戦し以降の君のW杯全試合を応援しているディエゴ狂のCちゃんと、3人で観戦していた。
89分、君は交代した。おそらく、試合直後の混乱を避けるため終了直前の交代は事前に決められていたことだろう。ピッチを去る君に向ってスタンディングオベーション。10万人の大観衆の誰よりも早く始めたのは、我々3人だった。
この25年前が、私にとって君との別れだったのだ。むしろ、その後25年生き続けてくれたことに感謝したい。たとえ、世界中におもしろいニュースを発信するおじさんだったとしても、君の報道は読むのは楽しかった。過去の栄光と比較したほろ苦さと共に。
歓喜と悲嘆、美しさと醜さ、正しいのか誤っているのか、そして君のことを好きか嫌いか。おそらく、ホモサピエンスの有史上に君ほどに、世界中の人に「何か」を提供した人はいない。
しょせんサッカーさ。負けたところで命や豊さや今の生活を失うわけではない。けれども、耐え難いほどに胸が張り裂けそうな悲しい思いを味わうことができる。勝てばこれ以上ない喜びを堪能することができるのだが。サッカーはそれほどすばらしいものだ。
君と私は、同年同月生まれ。毎年同じ年齢を刻むのを楽しみにしていたが還暦が最後になったわけだ。君と同時代を歩むことができて、とてもとても楽しかったよ。
すべての一挙手一投足の思い出に献杯、いや君に暗い感情は似合わないな。乾杯。
ゆっくり、天国で(地獄かもしれないな)休んでください。
ありがとうございました。