2020年07月07日

再開戦の快勝

 Jリーグが再開した。
 ベガルタは開始3分の幸運な得点を守り切り、ベルマーレに敵地で1-0での勝利。結果もよかったが、内容も上々だった。木山新監督に変わった今シーズン、中断前は、ルヴァンの敵地レッズ戦、リーグ初戦のホームグランパス戦、いずれも芳しい試合内容ではなかっただけに、まずはめでたしめでたしである。
 
 勝負を分けたのは開始3分間に代表される右サイドの攻防だった(以降、左右はすべてベガルタから見て)。
 開始早々、ベルマーレは、左足のクロスが魅力的な売り出し中のサイドバック鈴木冬一がかなり高い位置取り。落ち着いたボールキープからの崩しから右サイドのCKを奪われる。そこからショートコーナ絡みで強シュートを打たれるが、ユース出身で抜擢された18歳のGK小畑裕馬が冷静にさばく。
 その直後、ベルマーレGK富井大樹の甘いフィードを関口訓充がカットし、右オープンに展開。ジャーメイン良が、前掛かりの鈴木と(昨シーズンまでベガルタに所属していた)大岩一貴の間隙を付いて突破。余裕をもって上げたクロスが、よい方向に飛び逆サイドのゴールネットを揺らした。強風が幸いしたのだろうか。ベガルタにとって幸運と言ってしまえばそれまでだが。

 とは言え、敵地で先制したベガルタは、余裕をもって試合を進めることができた。3DFをとるベルマーレに対して、右のジャーメイン、左の欧州帰りの西村拓真の両翼が大外に開いてボールを受けることで、幾度も好機を作る。一方で、ベルマーレとした自慢の両サイドMFの鈴木と主将を務める岡本拓也を前に進出させてペースをつかみたいところ。しかし、早々に先制して余裕が出たこともあり、ベガルタはボールを奪われるや否や、アンカーの椎橋慧也が的確に位置取りを修正し、ベルマーレにペースを渡さない。それでも、20分過ぎに鈴木が左サイドから好クロスを上げ、タリクにヘディングに合わされるが、幸運にもボールは枠に飛ばなかった。タリクはノルウェー代表主将経験もあると言うストライカ、ベガルタDFの間に飛び込む感覚は中々のものがあった。
 その後もベガルタは、ジャーメインが鈴木の後方を再三突いて好機を演出。ジャーメインは、ボールを受ける位置取りとトラップの方向が格段に上達した感がある。従来は敵DFに密着されると収めきれない欠点があったが、いわゆるアウトサイドFWに起用されれば、相当やれそう。もちろん、この日は対面の鈴木が攻撃ばかり考えて、後方への備えが甘かったことは割り引かなければならないだろうし、4DFのチームに対してどこまでやれるか、まだまだこれからなのだが。ちなみにジャーメインがサッカーを始めたのは、この日の会場BMWスタジアム近隣の厚木市の小さな少年団。少年時の指導者達がジャーメインの晴れ姿を生で見ることができなかったのは、何とも残念だったが。
 一方でベルマーレ監督浮嶋氏は、55分ついに鈴木をあきらめ交代。冒頭に述べたように、この右サイドの攻防が勝敗を分けたと言うことになる。
 その後の時間帯も、椎橋の安定した中盤守備が奏功、吉野恭平と平岡康裕のCBがベルマーレの単調な攻撃をしっかりとはね返しシマオ・マテの負傷離脱の不安を払拭。さらにユース出身で抜擢されたGK小畑祐馬が安定した守備と球出しを披露。最少得点差の1-0ではあったが、ベガルタとしては快勝と言ってよい内容だった。

 何より、椎橋がアンカーで、完璧に近いプレイを見せたのが嬉しい。椎橋は、一昨シーズン定位置を確保し天皇杯決勝進出貢献。昨シーズンは完全な中心選手と期待されながら、序盤の負傷やシーズン半ばの軽率な退場劇などがあり、シーズンのほとんどを控えとして過ごした。開幕戦もスタメンから外れ心配していたのだが、この日はすばらしかった。五輪代表のライバルとも言うべきベルマーレの斉藤未月を圧倒できたのも重要。元々五輪代表は中盤後方の有力選手の多くが伸び悩んでおり、椎橋がこのレベルのプレイを継続できれば、大いに期待できる。
 いわゆるCFタイプと言われていた新外国人アレクサンドレ・ゲデス。後半から起用され、いわゆるトップ下で起用され、守備のタスクをキッチリとこなしながら、上々の球さばきを見せてくれた。この新外国人選手を含め、すべての選手が90分間組織的な守備を演じ切ったのはすばらしかった。
 唯一の不安は、中盤で見事なパス展開を見せ主将を務めた松下佳貴が、後半半ば過ぎに複数回自陣でミスパスからショートカウンタのピンチを招いたことか。このあたりは、いわゆる試合勘もあろうし、やむを得ないこともあるだろう。ゲデスやこの日ベンチ入りしなかった道渕諒平、佐々木匠の2人、さらに長期離脱中のイサック・クエンカを含め、今後どのような併用がなされるのか期待したい。
 また、シーズン当初から期待されていた新外国人パラの体調が整わず、急遽柳貴博を補強した左DF。ここには、いわゆる攻撃的アウトサイドのドリブラ石原崇兆が抜擢され上々のプレイを見せてくれた。終盤守備固めに起用された飯尾竜太郎を含め、4人による定位置争いも楽しみとなる。

 考えてみれば、4か月の長きにわたる中断期間だった。
 トレーニングもままならない中、木山新監督のやり方が各選手に徹底され、渡邉前監督時代とは異なるやり方がほぼ定着した快勝は、本当に嬉しい。豊富な攻撃陣がそれぞれの特長を活かしながら、忠実な組織守備を見せてくれた。新監督の手腕への期待も、ますます高まろうと言うもの。
 COVID-19禍の中、クラブの経営状態は相当厳しいものがあろうが、再開戦で、現場がこれだけすばらしい質のサッカーで結果を出してくれたことを、まずは素直に喜びたい。
posted by 武藤文雄 at 00:05| Comment(0) | Jリーグ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年05月24日

スピルバーグ氏の「激突!」の原題が「DUEL」だった

 希代の名映画監督スティーブン・スピルバーグ氏の事実上のデビュー作品と言われている映画、「激突!」の原題が,なんと「DUEL」だと、今日たまたま知る機会を得た。
 この映画は、約50年前の作品だが、本当におもしろい。米国のフリーウェイ、明らかな殺意を持って超大型タンクローリーが、1台のセダン車を襲ってくる。ただ、それだけの1時間半なのだが、まったく飽きさせず興奮させられる小品だ。中学生のとき、仙台のいわゆる2番館でこれを見た興奮は忘れらられない。
 後日、「ジョーズ」や「未知との遭遇」を見て、「スピルバーグさんって、すごい映画監督だな」と感心していたら、その出世作が「激突!」と聞き、「なるほど!」と思ったのは懐かしい思い出だ。さらに余談ながら、「激突!」の主役は、デニス・ウィーバー。後日NHKで放映されたバカ刑事ドラマの「警部マクロード」シリーズの主役だ、

 ともあれ。
 大事なことは、この若きスピルバーグ氏が演出した、自家用車と超大型タンクローリーの1時間半にわたるバトルの題名が「DUEL」と言うことだ。
 ハリルホジッチ氏が日本代表監督時代、記者会見でよほど「DUEL!、DUEL!」と叫び続けたためだろうか。いつのまにか、日本サッカー界に「DUEL」と言う単語が定着した感がある。
 ちなみに、「duel」と言う単語を英英辞典で調べると下記の意味が出てくる。
a fight with weapons between two people, used in the past to settle a quarrel
a situation in which two people or groups are involved in an angry disagreement
二者が戦う状況を示す単語だが、深刻ないきさつが前提となるようだ。正直言いますが、ハリルホジッチ氏が、「DUEL!、DUEL!」を叫び始めたときは、まだこの単語を知りませんでいた。慌てて英英辞典で調べて上記を確認し、日本語に訳すと「一騎討ち」が妥当な翻訳かな、と思ったりした。
 ただ、ハリルホジッチ氏が、「日本選手のDUELが物足りない」と、ワーワー叫ぶのを聞きながら、もう一つ氏が何を不満に思っているのか、具体的なイメージがつかめずにいた。氏の「DUEL不足」を、多くの取材者が「日本選手はフィジカルが弱い」と理解して伝聞していたが、過去の国際試合を見れば自明な通り、日本選手が欧州南米の強豪にフィジカル差でやられたことは少ない。フィジカルの鍛錬不足は論外として、我々の敗因のほとんどは、知性や技術で、相手に上回れたことだったからだ。
 欧州やアフリカで、幾多の実績を積み上げてきたハリルホジッチ氏が、単に日本選手のフィジカルに文句を言うとは思えなかった。と言うより、元々の対格差を議論するならば、そりゃアジアの選手は欧州やアフリカの選手に比べれば、劣勢となるのはしかたがない。東アジアの平均身長や体重は、欧州やアフリカのそれと比べれば低いのだから。
 一方で、氏が代表合宿で、選手のフィジカルの数値面に文句を言ったのは別な議論だ。氏は代表監督であり、個々の選手を鍛えるのは各クラブに託すしかない。期待した数字が得られなければ、文句を言いたくもなるだろう。
 今更語ってもしかたがないが、ハリルホジッチ氏がロシアワールドカップ直前に更迭された。結果的に、氏が最終的に何を目指していたのかは、永遠に闇の中である。

 今日、50年前にスピルバーグ氏が作った「激突!」の原題が「DUEL」だと知った。外国語を理解するのは難しい。しかし、英語を母国語にするスピルバーグ氏のこの名作の題名が「DUEL」と知り、何かつかめたような気がする。この映画「DUEL」からは、とにかく何があっても、この1対1の戦いに勝たなければならない切実さを感じることができたからだ。欧米人にとって「DUEL」とは、そのような意味だったのだ。 

 ハリルホジッチ氏が代表監督在任中に、それを知っていればもっと氏の発言を楽しめたのにと、ちょっと残念。彼が「DUEL!」と叫ぶ度に、このスピルバーグ氏の名作をイメージすればよかったのだ。私たちの代表選手に対し、ハリルホジッチ氏は1対1において、「何があっても相手に負けない」執着心を期待していたのではないか。
posted by 武藤文雄 at 01:01| Comment(1) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年04月26日

サガン鳥栖の経営危機問題

 サガン鳥栖の昨年度の経営情報が公開されたが、衝撃的な赤字額だ。このままでは、サガン鳥栖がなくなってしまうのではないか。covid-19で試合が行えず、未曾有の危機にあるJリーグにとっては、さらなる頭痛が加わったことになる。極めて深刻な事態だ。

 公開されている「経営情報」は、おおよそ昨シーズンの損益計算書と推定した。26億円の売上に対して、支出が46億円で約20億円の赤字と言うことになる。この報道によると、今シーズンは人件費を約24.3億円から約11.6億円に圧縮したと言うが、大幅な赤字を垂れ流しているのには変わりない。また、同じ報道によると、債務超過には至っていないとのことだが、純資産は約0.2億円で単年赤字総額の約1/100であり、これは極めて債務超過に近いと言うことだ。そもそも、負債総額はいったいいかほどのなのだろうか。
 貸借対照表も資金繰表も公開されていないので、即断はできないが、経営継続は相当厳しいとしか言いようがない。そうなると、最も重要なのは、短期的な資金投入と言うことになるが、この赤字体質に加え、再開の目途が中々立たないJリーグなのだ。赤字の見通しの上に計画通りの売り上げも立たないリスク下で、快く融資をする金融機関があるとは思えない。
 そうなると、Jリーグ当局からの支援が必要と言うことになる。けれども、Jリーグ当局は、既にcovid-19で各クラブがダメージを受けており、それらのクラブの経営を支えること手一杯のはずだ。Jリーグを合理的に再開させ、経営規模の小さなクラブの経営破綻(特にキャッシュ不足)を防ぎ、関係者(選手や職員)の収入を維持するのだけでも、未曾有の難題なのだ。健全な経営のクラブだって危機的状況なのだ、まずは彼らの救済が優先されるのが常識と言うものだろう。
 さらに言えばこの未曾有の難題の被害を最小限にすることに、J当局の事務方のエネルギーは相当費やされているはずだ。それに加えて、サガン鳥栖の経営破綻を防ぐ手だてを検討する余裕があるのだろうか。

 サガン鳥栖の経営陣も、何か腹案はあったのかもしれない。順調にJの試合が行われれば、新規のスポンサがつき赤字幅を圧縮できる目鼻があったのかもしれない。しかし、残念ながらその道は絶たれてしまったのだろう。
 サッカークラブが赤字を減らす最も有効な手段は、選手の売却である。そうすれば、支出の最大費目である人件費を減らすことができる。しかし、リーグ戦が中断している今、たとえJ当局が移籍を手伝う手立てを講じても、今から短期的な人件費を上げる意思決定をするクラブは少ないだろう。
 キャッシュが足りなくなれば、以前とは同じ条件で企業は活動を継続できない。成り行きで行けば、我々は大切な仲間を失うギリギリのところにいるのだ。何とかしたい、何とかしたいのだが。

 打ち手が限定される中、まずやるべきことは貸借対照表と資金繰りの明確化だろう。その上で、J当局でも関係者でもよいから、より小規模なクラブも納得可能なサガン鳥栖に対する救済案を作れるか。
 今さらの愚痴であるが、ここまでの赤字幅であれば昨シーズン終了時には、ある程度明らかだったはずだ。せめて、この危機の公開がもっと早ければ、より穏当な打ち手があったように思えてならない。
 まずは、一層の情報開示、それに尽きる。
 フリューゲルスの消滅から20年以上の月日が経った。あの時の友の涙など、もう2度と見たくないのだ。
posted by 武藤文雄 at 17:41| Comment(4) | Jリーグ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年03月18日

キャプテン翼を読んだ

 先週の14日の土曜日は、せっかくの休日だったのだが、Jリーグは休止中だし、雨のために少年団の練習はお休み。何をしようかと考えていた折に「キャプテン翼」無料公開と言うのを見つけた。
 と言うことで通読させていただきました。3月20日まで無料公開とのことなので、興味のある方は是非。

 考えてみれば、この名作を、まともに読破したことがなかった。少年ジャンプに連載されていたのは、私が大学生から社会に出て働き始めた時期。さすがに、少年用マンガ雑誌はあまり読まなくなっていた。とは言え、日本屈指の人気雑誌における、日本屈指の人気マンガが、サッカーネタだっただけに、それなりにはフォローしていた。だから、主要登場人物や、よみうりランドでの全日本少年サッカー大会や大宮での全国中学校サッカー大会で七転八倒する流れは、ある程度理解していた。
 ただ、まとまって全編を通しで読むのは、齢59歳で初めての経験。

 いや、おもしろかった。
 中盤で組み立てるとか、サイドで手数をかけるとか、強引に縦に持ち出すとか、オフサイドトラップとか、しっかりしたカバーリングとか、ちゃんとしたサッカーの描写が続く。
 そこで油断しているとw、突然登場する3次元空間、いんや時間差もあるから4次元か、を駆使した1対1のバトル。さらにはゴール前の最終攻防に必ずからむ、すさまじい運動量と読みのよさを発揮する両軍の大エース。加えて、人知を超えた巧緻性による軽業で強力なシュートが発せられ、それに対し神業のような瞬発力を駆使したGKの反応。
 ここにサッカー狂のリアリティを持ち出すのは野暮と言うものだろう。とにかく、おもしろいのだもの。正に、マンガ界の正攻法。単純なバトルに男の子は興奮するのじゃ、たとえ60歳近くなっていても。

 さらに彩りを添えるのは、常に翼君が負傷を抱えベストコンディションでないこと。前途有為な若者が、負傷を抱えている場合、何があっても休ませる必要があるのは言うまでもない。そして、そのように出場を制御しようとするドクターも登場するのだが、そのような長期育成プランは常に否定される。全中決勝で負傷して医務室に下がったドクターと翼君の会話が秀逸だ。
「おまえがブラジルにいってプロのサッカー選手になること、そして日本のワールドカップ優勝、それにくらべたらこんな日本だけのそれも中学生の段階での大会の決勝戦なんてほんのちっぽけなものじゃないか(中略)無理をしてこのひと試合にでたばかりにこの先2度とサッカーができないからだになったとしても本当に後悔しないのか」
とドクターに説教されたのに対し、翼は反論する。
「夢…夢なんです、たとえちっぽけに見えてもこれがおれの夢なんだ。南葛のみんなでこの大会V3をなしたげようとちかった…これはおれたちの夢なんだ!!」
 いや、これがリアルの世界で展開されたら、さすがにいかがかと思うけれど、30数年前の少年マンガ雑誌で展開された物語に文句を言う筋合いはない。
 自らの身体がどうなっても、己の名誉のための勝利を目指す。そして、翼君は最後は明るくチームメートとも相手エースとも肩を抱き合い歓喜するフィニッシュとなるのが、また安心して楽しむことができるものだ。
 余談ながら、翼君よりもよほど身を危険にさらす顔面ブロックを得意技とする石崎君が、いつも上々のコンディションで試合に臨んでいるのは、さすがだ。

 フランスで行われたジュニアユース大会。これはこれで大会そのものの設定がおもしろい。ワールドカップ(ジュール・リメ)、欧州選手権(アンリ・ドロネー)、五輪(ピエール・クーベルタン)のような世界的運動会がいずれも、フランス人の提案によるものであることは、よく知られている。この大会もその系譜に位置するのか、と考えるのは深読みか。
 そう言えば、連載時に大会の組み合わせを見て、イタリア→アルゼンチン→フランス→西ドイツの順番に戦うことになるのを見て、私を含めた西ドイツ嫌いの友人たちと「日本協会の西ドイツ好きの弊害が出た」、「ブラジルが大会に出場していたら、決勝でブラジルに負けるだろうが、西ドイツならば勝てるのだろう」などと語り合ったのを、思い出した。
 ともあれ、西ドイツとの決勝戦。大きなポイントとなるロベルトノートの52ページのくだりが大好きだ。
なぜサッカーは、こんなにも楽しいのだろう
世界中でもっとも愛され親しまれているスポーツ、サッカー
おれが思うに、それはもっとも単純でもっとも自由なスポーツだからじゃなだろうか
グラウンドにたてば監督からのサインなどなにもない
自分で考え自分でプレイする、なににもしばられることなくほかの10人の仲間たちとただひとつのボールをめざし戦うスポーツ、サッカー
 高橋陽一氏のこのメッセージは、サッカー狂には堪えられない。ね、そうでしょ。
 この堪えられないサッカーの魅力、これを翼君たちを通じて描写してくれるのだから、最高ですよね。

 ただ、ジュニアユースで世界制覇した後のワールドユース編やバルセロナ編では、段々と読むのつらくなってきた。
 この手の物語は進めば進むほど新しいより強力な敵が出てくるのは、もうしかたがない。ただ、小学生や中学生が空を飛んだり、ゴールネットを突き破るシュートを打っている分には、夢物語で楽しめるが、後から後から新しい強敵が登場してくると、どうしても飽きが出てくる。バルセロナとかハンブルガーSVとかワールドユース日本代表とか、現実的な世界で行われると、次第に夢の実現の要素が薄れ、軽業の披露合戦としか読めず、感情移入ができなくなってくる。たとえば、若島津健やイタリアの名ゴールキーパが、西ドイツの山奥から出てきた選手と比較して、格段に劣っているかの描写は、いかがと思ってしまうのですよ。
 加えて、物語に強弱をつけるためだろうが、日向の母上が大会中倒れ重体とか、岬君が大会直前に交通事故に会うとか、松山君の恋人が大会中に交通事故で危篤になるとか、立花兄弟が再起不能とか、さすがつらい。
 キャプテン翼をさかのぼる十数年前、左腕が一生使い物にならなくなるまで投げ続ける読売巨人軍の投手とか、燃え尽きてまっ白な灰となってしまうまで戦い続ける世界チャンピオンを目指す 拳闘家とか…まあ、ありましたよ確かに。でも、あれは最終回の主人公だから許される荒技だと思うのだが。
 まあ続編と言うものは、そういうものなのだろう。

 どうしても、飲み込めない描写が2点ある。
 上記した日向小次郎の母上の重体時。日向の境遇とこれまでの心意気を考えれば、重体の報を受けた後、1試合プレイしてからの帰国は考えられず、即帰国のはずだ。小学6年生時代から、約7年間、我々は日向と時を共にしてきた。日向は、不器用な性格で言葉は少ない気立てかもしれないが、人一倍自分を育ててくれた母上には感謝しているし、何より周囲の人々に気をつかい、やさしい人柄だ。その日向が、その母上が重体に至って、「あと1試合したら、帰国する」などと意思決定するわけがないではないか。いや、それ以前に、母上を少しでも楽にするために、高給を提供してくれるJクラブに進んで加入していたはずだ。

 もう1つ。実は、登場人物の中で、一番共感を持ったのは、東邦学園の女性スカウトだ。彼女は私と同じ人種だ。全小の各試合を見ながら、各選手の将来性について、ネチネチと垂れる講釈振りが、我が身を見る思いだった。その内容はさておき、その態度に。
 ただ、納得できないのは、彼女の後の仕事だ。ワールドユース時に日本協会の広報担当、さらに日向がユベントスに移籍した際には日向の代理人なり個人マネージャとなっていた。広報担当や個人マネージャの職務は、それぞれが担当する選手に寄り添い、その選手のプレイをいかに現金化するが責務だ。極めて主観的業務だ。
 一方、チームのスカウトは違う。必要なのは、ひたすら客観的に、その選手を評価し、自部の雇用主に対し、その選手が役に立つかどうかを評価する立場だ。
 サッカー狂の皆さんには、私のイライラ感が理解していただけると思う。サッカーが好きであればあるほど、クラブのスカウトと、広報担当は、まったく異なる「サッカー好き要素」、対称的な位置づけになるはずなのだ。あれだけ、小学生の日向と翼君を冷静に見ていた彼女が、そのような転身ができるはずがないのではないか。

 野暮は言わないと語りながら、野暮ばかりですみません。
 翼君を筆頭に各選手が、時空を舞いながら人間離れした技巧を操り、時に自らの肉体を犠牲にしても、名誉を目指す。その基盤には、サッカーと言う、世界で最も多くの人々が楽しむ玩具がある。おもしろくないわけがない、なるほどこれは名作ですよ。いや、本当におもしろかった。
 80年代、当時の子供達、たとえばこいつ、を熱狂のとりこにしたのも、よく理解できた。そして、翼君にあこがれた多くの少年が、この泥沼のような魅力を誇るサッカーにはまってくれたおかげで、気がついてみたら我が国は世界でも類を見ない右肩上がりの急勾配でサッカー強国に近づくことができたということなのだろう。
 飛躍的に広がったサッカーの底辺を活かして発明されたJリーグは、我が国の文化を変えた。日本中津々浦々にプロフェッショナルのサッカークラブが登場した。それにより、日本中の週末の生活は、格段に彩豊かなものとなったのだ。
 いや、サッカーだけではない。地域に根ざしたクラブの魅力は、プロ野球を再生させ、バスケットボールを実り豊かなものとした。多くの競技で、企業がスポンサとして、各選手を支援する仕組みも、Jの成功があったことが大きい。

 高橋陽一氏は、翼君たちを通じ、当時の子供達に幾多の夢を提供してくれた。その結果として、私たちはJリーグを起点として、日本中でスポーツ観戦と言う娯楽を楽しむことができるようになったのだ。
 高橋さん、本当にありがとうございました。そして、あなたが築き上げてくれた、このステキな日本のスポーツ界を、一緒に楽しんでいきましょう。
posted by 武藤文雄 at 23:27| Comment(1) | サッカー一般 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年03月08日

大野忍引退。


 もう先月の話となるが、大野忍の引退が報道された。
 女子選手では、一番好きな選手だった。男女含めて、日本サッカー界が育んだ最高の知性派選手と呼んでも過言ではないと思っている。

 元々、大野は格段の得点力を誇る純正のストライカだった。技巧も確かだが、何よりすばらしいのは、その狡猾な位置取りと駆け引きの巧みさだった。
 ところが、当時の代表監督佐々木則夫氏は、大野を中盤に起用することが多かった。中盤に起用された大野は、一番肝心な敵ゴール前で息切れし、再三決定機を外すことが多かった。あの2011年初戦でニュージーランドを振り切った試合後に、私は佐々木氏の大野の中盤起用に疑問を呈した。
そう言う意味で鍵を握るのは、大野だと思う。大野は、開始早々敵陣でボールを奪うや、美しいロブのパスで永里の得点をアシストしたのは見事だった。けれども、その後幾度も好機をつかみながら、ことごとくシュートを枠に飛ばすの失敗。これは、小柄で必ずしもフィジカルに恵まれているとは言えない(本来最前線でプレイする)大野が、相当後方から疾走する事で最後のフィニッシュまで体力が残っていないと言う事だと思う。
 しかし、私の視点はあまりに狭く、佐々木氏は正しかった。あの決勝戦の前半、アメリカ合衆国が澤穂希と阪口夢穂のボランチ2人に強烈なブレスをかけてきたことで、日本は完全に押し込まれる。しかし、大野が強引かつコース取りが絶妙なドリブルで、幾度も単身攻め込むことで、日本は苦境を脱した。
ここで苦境を救ったのは大野だった。他の中盤の3人が、合衆国のプレスに押し込まれる中、忠実に守備をこなしつつ、幾度も前進し好機を演出した。判断のよい素早い前進と、正確なファーストタッチと、加速のよいドリブルを駆使して。安藤に通したスルーパスが、もう数10センチ内側に通っていたら、日本は前半に先制できるところだった。もちろん、合衆国の守備陣の網が、その数10センチを許してくれなかったのだが。この大野の奮闘があったからこそ、合衆国の序盤の猛攻は、30分過ぎにとだえた。最も得点が期待できる大野の中盤起用には再三疑問を述べてきたが、佐々木監督の慧眼に脱帽。これはワールドカップの決勝戦、大野のプレイに78年のアルディレス、94年のジーニョを思い出した。
 サッカーの常識では、点をとれる選手に「いかに点をとらせるか」がメインの課題となる。しかも、中盤には澤穂希と宮間あやと言う飛び切りのタレントがいたのだ。しかし、佐々木氏はこの2人を抱えながらも、格段のストライカだった大野の知性と言う格段の能力を、得点以外の機能に活用し、世界一を我々に提供してくれた。それにしても、あの大野の単身ドリブル。今でも目をつぶれば思い出がよみがえってくる。
 こうなってくると、大野の知性を楽しむのは最高だ。例えば、世界制覇直後の皇后杯決勝。この試合の後半、大野が几帳面に味方守備ラインの後方を埋めるのを見ているのだけで、最高だった。

 世界一を獲得したのだ。そして、大野のプレイは見るのは、本当に楽しかったのだ。澤穂希と言う完璧なサッカー選手、宮間あやと言う究極の技巧派、この2人と同時代に、ここまで知性に優れたタレントが出た幸運に、感謝すべきなのだろう。
 冒頭にも述べたが、男子選手を含め、ここまで知性を感じさせてくれる選手は、そうはいない。いや、男子選手の場合は、肉体的な強さ、格段の技巧、屈しない精神力など、別な要素を知性でまとめることとなる。大野のように、その知性が圧倒的に前面に出るタレントが登場することそのものが、女子サッカーの特徴なのかもしれないな。
 でも、ほんのちょっと思うよね。世界のトップレベルとなった日本代表で、ストライカとしての大野忍が丁々発止するのを見たかったかなと。そう言う叶わなかった思いを考えるのがまた楽しい。

 大野は指導者の道を志し、INACの首都圏の育成世代の指導者からキャリアを積んでいくとのことだ。あれだけの知性的なプレイを見せてくれた選手だ。格段の指導者になってくれることを期待したい。それもトップレベルの選手を、さらに高めることのできる指導者になってほしい。たとえば、堂安律や相馬勇紀の域に達した選手を、さらにもう一段、いや二段、三段さらに高めるような指導者に。
 あの知性あふれるプレイを思い起こせば、ついついそのような期待を抱いてしまうのは、私だけだろうか。
posted by 武藤文雄 at 00:30| Comment(0) | Jリーグ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年02月18日

野村克也氏逝去

 野村克也氏が逝去したと言う。ご冥福をお祈りいたします。
 プレイヤとしての実績は数限りない。また、監督としての成果も格段だ。もちろん、気の利いた毒舌の解説者として、我々を楽しませてくれたのも間違いない。また、氏の指導薫陶を直接受けた相当数の選手が、プロ野球の監督を務めている。選手としても、指導者としても、TVでの情報発信と言う意味でも、超一流、いや超々一流の野球人だったのは言うまでもない。
 ただ、私にとっては、野球と言うスポーツについて、我々にわかりやすく言語化してくれたライターとしての印象があまりに強い。81年から数年間、週刊朝日に連載された「野村克也の目」は、日本スポーツ界を大きく変えた著述だと思っている。そして、不肖講釈師が一つの目標として考え続けていたのが、野村氏の文章だった。「ただの、酔っ払いサポータが、何をおこがましいことを語っているのだ」とお叱りを受けるのはわかっているが。
 野村さん、ありがとうございました。

 私が氏を尊敬するのは、野球と言うスポーツを表現する言語化能力の高さと、信じ難い将来予見能力だ。言語化能力については、紹介するまでもないだろう。将来予見能力については、清原和博と言う選手の将来を予測した、以下の一連の文章を読んでいただきたい。清原は、PL学園を卒業し、1986年シーズン、西武ライオンズに加入した。その86年に、清原が鍛錬しているキャンプの視察後と、新人ながら20本以上のホームランを打ち大騒ぎになった頃。それぞれにおける、野村氏の清原評の抜粋である。
 まずキャンプ時の86年4月、開幕直前。
「すばらしいなあ、君は。くらべると、僕の18歳のときなどは、クズみたいなものだったな」(中略)西武キャンプで、私は清原にこういったが、ほんとうにそう思ったからで、お世辞でもなんでもない。
(中略)気にかかかることをもうひとつ。彼の器用さである。守備はそつがないし、バッティングも器用だ。(中略)器用さに流れてしまうことは弱点に通じるといっていい。(中略)思いつくのは、素質と才能のちがい、ということになる。はたの目に見えるのが素質。才能はかくされていて見えない。辞書に、才能とは「訓練によって発揮される能力」とあるが、まさにそのとおりだろう(中略)「清原は一流打者になれるか?」と、よく聞かれる。堪えは「?」である。聞きたいのは人情だろうが、答えることができたらおかしい。才能は見えないからだ。
それから、約5ヶ月後の9月。上記の通り、清原がボカスカとホームランを量産していたころ。
(前略)清原の成績を支えているのは「修正」の能力だ。シーズン前半は手も足も出なかった内閣の厳しい球を、脇をしめたおっつけでこなし、最近はいい当たりのファウルにする。まだフェアにする力は乏しいが、投手をおどかすには十分だ。ホームランを打てる甘い外角を投げてもらえるのは、このためだ。
(中略)だが、私のほんとうの気分は、ここまでみてきた彼の”進歩”がおもしろくない。長い目でみれば、逆にわざわいになる不安すら感じる。かって強打者と呼ばれた選手たちはデビュー時、いずれも内閣に強く、下半身がうまく使え、腕の操作がたくみだった。必然的に「引っぱる」選手だった。清原は流すことで成績をあげている。(中略)流し打ちはしょせん労力が少なくてすむ打法である。
(中略)報道陣やテレビカメラを意識している最近の姿も気になる。プロ1年生なのに門限破りをする(この点はかつての強打者と共通する)ようなクソ度胸のかげに、自己本位の計算高さがチラチラしているような気もする。
 繰り返すが、これは清原の新人時代(結局31本のホームランを打ち、多くの新人記録を塗り替えたシーズン中の文章である。あれから、34年の歳月が経った今、我々は「その後」を知っている。清原は、525本の本塁打を打ち、まぎれもなく日本野球史を彩る存在ではあったが、本塁打王も首位打者も打点王も一度もとることはできなず、時代を代表する野球選手にはなれなかった。野村氏は、それをデビュー当初、マスコミが大騒ぎしている際に、冷静に予測していたのだ。

 ここらへんからは、サッカー狂の戯言です。
 野球界のVIPと言えば、長嶋茂雄と王貞治にとどめをさすと思う。ただ、このONについては、我々サッカー界は、カズと澤穂希と言った、それなりに近づきつつある人材を輩出できているように思う。50過ぎてもプロフェッショナルである現人神と、本人自身も代表チームも世界一を獲得したスーパーヒロイン。
 けれども、野村氏に匹敵するような、いや、たとえられるような人材は、サッカー界では中々思いつかない。

 日本サッカー界の名将と言えば、岡田武史氏、西野朗氏、小林伸二氏、佐々木則夫氏らが挙げられる。みな現役時代に相応の実績を残しているが、野球における三冠王のような実績ではない。 
 故岡野俊一郎氏を筆頭に加茂周氏、最近では戸田和幸のように、テレビ解説を軸にサッカーの言語化にすぐれた解説者はいることはいるが、現役時代の野村氏のような格段の実績を持った方は思い浮かばない。
 サッカー文壇では、そもそもトッププレイヤだった人は、とても少ない。
 いや、セルジオ越後氏はすごい選手だったし、在野でサッカーの拡大への貢献は最高だし、解説は野村氏ばりの毒舌で聞いていておもしろい。しかし、氏は眼前で行われているサッカーの言語化は、致命的なほどつたない。と言うか、ちゃんと試合を見てないw(ちゃんと試合を見てないサッカー解説者やサッカーライターは枚挙にいとまないし、そこがサッカーの楽しさだと思うけれど)。あ、誤解しないで欲しいけど、私はセルジオ越後氏は大好きだし尊敬してますよ。
 もちろん松木安太郎氏の、眼前の試合の言語化能力は格段なことは言うまでもない。選手としても、野村氏ほどの実績はないが、天分の素質を知性と工夫と謀略で最高に伸ばしたことは間違いない。あと、まあ一応Jリーグ初代チャンピオン監督だ。しかし、しかしだが、野村氏の言語化能力と、松木氏のそれは、軸が異なる。どちらも絶対値は大きいが、実数と虚数とでも呼べばよいか(もちろん松木さんが虚数ねw)。
 小見幸隆氏は、選手としての実績が格段だし、本来のポジションでないプレイを望まれたことで代表チームを辞退したと言う「月見草感」がある。さらに気の利いた毒舌含めたサッカー論評は絶妙。レイソルでのフロント実績も中々だ。しかし、監督としての実績に決定的に欠ける。ともあれ、あれだけおもしろい文章を書くことができるのだから、もっとサッカー文壇に登場して欲しいのだが。
 反町康治氏は、すばらしい選手だったし、監督として比較的戦闘能力に乏しいチームをそれなりに勝たせると言う実績が複数回。解説での言語能力も高く、「サッカー界の野村克也」に1番近い存在かもしれない。ただ、選手としては、あれだけ周りが見えて、技巧も優れていたのだから、代表の中核まで行って欲しかった。もっともっと、すばらしい実績を挙げられたのではないか、と思えてならないのだ。まあ時の代表監督もひどかったのだけれと。今から選手生活をやり直していただく訳にはいかないがw、反町氏がもう少し戦闘能力高いチーム率いるのは見てみたい。例えば、氏の監督生活で唯一の汚点とも言えるチームが、現在監督の監督の不首尾で苦労している。反町氏に12年前の復讐戦の機会を提供できればステキなのだけど。まあ、叶わぬ望みかな。

 上記のようなことをTwitterで述べたところ、海外の偉大なサッカー人と喩えてくださった方が何人かいた。
 マリオ・ザガロ、ヨハン・クライフ、ジョゼップ・グアルディオラと言った大巨人達は、選手としても監督としても、圧倒的な成果を誇る。けれども、監督として、彼らが率いたのは、最高の選手が集まり、世界最先端の戦術を採用することが許されるチームだった。そして、彼らは、その対価として圧倒的なサッカーでタイトルをしっかり獲得することを要求され、それを実現した。ただし、この3人が特別偉大なのは、その実現を格段の「美」を伴い実現したことだ。
 しかし、野村氏の監督としての偉大さはまったく異なる。氏が率いたのは、必ずしも経済的に潤沢とは言えない、あるいは過去からの積み上げがうまく機能してない、比較的戦闘能力が乏しいチームだった。そして、そのようなチームを強化するのが、野村氏の妙味だった。まあ、そう考えてみると、氏が強いチームを率いるのを見てみたかった思いも出てくるのだが。野村氏率いる野球の日本代表とか。

 そう言う意味で野村氏への類似性を感じさせるのが、イビチャ・オシム氏だ、と言う指摘はもっともだとは思う。でも、私はこの2人には決定的な相違があると思うのだ。
 確かに。オシム氏はジェフの指揮をとり、ナビスコ(現ルヴァンカップ)を制し、再三J1の優勝争いに参画した。少々表現は微妙になるが、当時のジェフの戦闘能力は格段に高いものではなかったし。また、オシム氏の執拗なサッカー好きと言うか、サッカーオタクと言うか、とにかくサッカーさえあればそれでよし、と言う姿勢。それは、野村氏の野球に対するそれと類似性もある。
 また、奥様に頭が上がらないこと。同じ業界で働くご子息に対し、少々いやかなり脇が甘い態度が見え隠れするところも、似ている。うん、似ている。
 では、私が前述した、この2人の決定的な違いとは何か。それは指導のやり方、考え方だ。
 野村氏は、弱者の方法を執拗に具体的に語り、それを指導で実践した。執拗なボトムアップの継続で、各選手に判断力をつけさせようとするやり方。局面ごとに判断を誤った選手への評価は極めて辛辣だった(人はそれをボヤキと呼んだが)。一つ一つのプレイの目的を語った上での誤りなので、選手はその反省を活かしやすかったことだろう。
 一方、オシム氏は、目指す姿を抽象的にあるいは概念的に語り続けた。ジェフの選手たちも、代表の選手たちも、その目指す姿が中々理解できず、戸惑いの日々もあったと聞く。もっとも、代表においては、氏が監督に就任した時点で、ジェフでの水際立った指導は各選手に浸透していた。なので、「とにかく、このオッサンの言うことは聞くしかない」的な雰囲気があったとも聞くが。しかし、氏の厳しい鍛錬と要求を受け入れ、継続しているうちに、多くの選手のプレイ選択の質が次第次第に高くなる。そして、気が付いてみれば、チーム全体で鋭いサッカーを演じられるようになっていった。結果が出て、かつプレイ中の判断力が高まったことを自覚することで、各選手は氏の指導の的確さを理解し、一層氏の指導が効果的になる。正にポジティブフィードバックを生む包括的なトップダウンとでも言おうか。
 オシム氏の日本代表への挑戦は、氏が病魔におそわれ、中途で終わってしまった。もちろん、ジェフにおいても、強奪事件が起こったので最終形を見ることはできなかった。
 オシム氏最後の采配は、この試合だった。大久保嘉人と言う偉才が、初めて日本代表で輝いた試合だった。すばらしい試合だったが、そこから氏がチームをどのように発展させ、何を目指していたのかは、永遠に氏の頭の中にしかない。そして、氏は退任後もそれを語ってはくれない。それが氏の美意識によるものなのかどうかはわからない。果たして、氏のトップダウン指導の対象の究極であるこの男には、オシム氏の最終到達点見えていたのだろうか。
 ともあれ。野村氏とオシム氏のスタイルの違いを解題するのは、とても楽しいことだ。2人の性格や考え方の違いによるものだったのか。それとも、停止とリセットを繰り返す野球と、常に流動的なサッカー、スポーツの性格の違いだったのか。あるいは、12球団の争いと言うドメスティックな戦いと、地球上のほとんどの国同士で行われる広範な戦い、と言った違いによるものだったのか。
 いま思えば、いずれかの媒体がこの2人の対談を企画すればおもしろかったような気がするが、実際に行ったとしても、あまり噛み合った議論になったとも思えないな。なにせ2人とも、あまりに自分の競技が好きすぎてしまっていたのだから。

 私が野球に興味を持った60年代後半、故郷の仙台で見ることのできる野球中継はジャイアンツがらみのみ。パシフィックリーグとは謎のリーグだった。そのパリーグの最強チームは南海ホークス、そこにはONと並び称される恐ろしい打者がいる。その幻のような噂が、私の最初の野村体験だった。
 その後、ホークスでの選手兼監督としての鮮やかな活躍。公私混同問題での解任。生涯一保守宣言でのプレイ、そして引退。この頃には、いずれの試合も毎日のように「プロ野球ニュース」で紹介されており、老獪な名手を楽しむことはできた。
 引退翌年から「野村克也の目」の連載が開始。上記の通り、私は「スポーツの言語化がここまでおもしろいとは」と、正直感動いたしました。
 改めて感謝いたします。
 野村さん、ありがとうございました。
posted by 武藤文雄 at 22:58| Comment(1) | サッカー外 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年02月10日

32/32@2020

 11年ぶりの少年団県大会。我が少年団は、奮戦むなしく1回戦で砕け散った。相手は昨夏の県大会で準優勝、中盤の真ん中にはナショナルトレセンU12選手がいる強豪。非常に難しい試合となったが、我らが勇士たちは敢然と立ち向かってくれた。完敗は残念だが、本当によくやってくれた。
 選手個々については、こちらを参照ください。

 立ち上がり2分に失点。左サイドから攻めかけてきた相手に対し、当方もしっかり対応するも、ボールは取り切れず。逆サイドに展開されるが、右MFのセパタクローの守備範囲。普段の彼ならばグッと相手に寄せられる距離だが、寄せを躊躇してしまった。結果、相手選手は余裕をもってコントロール、ウェイティングしようとするセパタクローに対しワンフェイントかけて縦突破、強シュートを打たれる。元気GKがすばらしい反応で防ぐが止めきれず、こぼれ球を押し込まれた。「強豪」と言う意識が、安全策の選択を呼び、その選択が裏目に出てしまったのか。
 それでも、子供達は顔をあげて、丁寧につなぎ、素早く押上げ、幾度か好機を作る。特に右サイドのポケットティッシュとセパタクローが深めにロングボールを入れて、不運大柄がからみ畳屋孫息子の突破力を活かす攻めは存分に通用した。また、中盤の選手へのプレッシャはきついが、最終ラインの出足とハイエナには若干余裕があるから、この2人から速いグラウンダのフィードを入れると、不運大柄が何とかキープするからネッツアと畳屋孫息子が飛び出せる。幾度か敵陣に攻め込み、獲得したCK。ネッツアが相手GKの取れない絶妙な地域を狙い、バーに当たったのは惜しかった。もうほんの少し、ピッチ内側に入っていれば。
 そうこうして迎えた14分、ペナルティエリアに分厚く攻め込んだことで、相手DFがかろうじてクリア。ルーズボールとなり、ポケットティッシュがルックアップしながら寄せる。ところが、相手ナショナルトレセンの出足の速さとファーストタッチの精度が格段だった。ナショナルトレセンは、見事な加速で前進し一気に抜け出し、当方出足の追走を振り切り2点目を決める。相手を褒めるしかない失点。
 さらに直後、相手が右オープンに展開してくるも、当方最終ラインの押上がよく、元気GKがタッチ沿いで的確にカバー、タッチ沿いにロングボールを蹴り返す。ところが、それを拾われ、ハーフラインあたりから無人のゴールに蹴り込まれてしまい、0-3に。事実上勝負はついてしまった。さすがに気落ちしたか、プレスがちょっと甘くなったところで、ナショナルトレセンの個人技からもう1点奪われ前半終了。

 後半を迎えるにあたり、監督の畳屋倅は、やり方を変えた。
 ネッツアを最終ラインに下げ、4-2-1のような形にして、中央を固め、出足のボールを取る強さを活かし、速攻に活路を見出そうとしたのだ。かなり変則的なやり方だが、選手達は新しい要求を丹念にこなし、崩される場面はほとんどなくなった。ただ、この配置では押し上げが遅くなると、どうしても中盤に空きが出てしまう。32分、ちょっと押し上げが遅れたところで、フリーのMFに精度高いロングボールを入れられて裏を突かれ0-5にされてしまった。
それでも、選手達は崩れない。散発ながら、不運大柄に収めて、畳屋孫息子と(セパタクローに代わって入った)箱根駅伝がシャドーのように絡み、幾度か敵DFを破りかける。少人数の攻撃ながら、能力高い相手DFに臆せず、幾度か少人数速攻を成功しかけたのだが、どうしてもネットを揺らすことはできなかった。

 0-5の完敗。試合終了後、監督はサポータ席の我々コーチ仲間に「最後の公式戦、前半で事実上敗戦が決まっていたので、無理に1点取りに行くことも考えた。しかし、やり方を変えて、この強敵と互角に戦えた経験を積ませたかった」と語っていた。完敗は残念だったけれども、後半は監督の狙い通り、彼らは「やれた」と言う実感はつかみ、最後の試合を終えた。
 3点目までの各失点、直前の場面の「ほんのちょっと」の判断が的確に行えていれば防げていたかもしれない。そうすれば、もう少し試合をもつれさせることはできたはずだ。けれども、その「ほんのちょっと」が実力なのだ。そして、その「ほんのちょっと」と言った試合を、県大会と言う場で、この強敵相手にできたこと。その「ほんのちょっと」を実感できたこと。それらを誇りに思ってほしい。努力を積み上げても、上には上がいると言う経験は、人生にとってとても貴重なものになるはずだ。

 彼らとの6年間の冒険が終わった。
 私は、月曜から金曜まで、それなりにストレスのある本業をこなし、それで食わせてもらっている。私にとっての土曜と日曜は、身体と精神を休ませる貴重な時間だ。そして、私はサッカーが何より好きだ。そして、子供に遊んでもらうのも好きだ。土日に、バカガキどもに遊んでもらう時間は何より貴重なものなのだ。
 毎年のことなのだが。何というのだろうか、6年生を送り出すときは「みな立派になったなあ」と思うのが常だ。そりゃそうだ。まだ人間と言うよりは猿に近いのではないかと感じるw幼稚園を出たばかりのバカガキが、段々育ってきて、3、4年生くらいからちゃんと会話が成立するようになり、6年目にはちゃんとしたサッカー選手見習いくらいにはなってくれるのだ。
 そして、今年の6年生は、みな本当にサッカーが好きで、よくがんばってくれた。目標とする県大会出場を果たし、その歓喜のお相伴をあずかることができた。何回でも繰り返します。
 君たちとの6年間を満喫させてもらいました。みな、本当にありがとう。
posted by 武藤文雄 at 23:00| Comment(0) | 底辺 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年02月08日

名手たちとの別れ@2019-20

 毎年、毎年のことでもあるけれど。このオフにも、ベガルタに貢献してきてくれた幾多の名手たちが仙台を去った。まとめて講釈を垂れ、惜別の辞としたい。


 石原直樹は、2017年シーズンにベガルタに加入した。加入当時既に32歳、前所属のレッズでは負傷のため僅かなプレイにとどまっていたこともあり、どこまで活躍してくれるのか不安もあった。今思えば、そのような不安を感じることそのものが、大変失礼だったと深く反省しています。

 石原は、ベガルタに加わるや否や、完璧なエースストライカとして活躍してくれた。持ち前のボールの受けのよさと、巧みな前進。もちろん、シュートのうまさは往時と変わらない。肝心な場面できっちり敵ゴールネットを揺らしてくれた。

 さらには、豊富な経験からくる老獪な判断も格段になっていた。敵がボールポゼッションしている時間帯、マークする敵DFと駆け引きしながら、したたかに自陣に引き、ボールを奪ったベガルタDFからのフィードを丁寧に受け、着実にマイボールに。ファーストディフェンスの巧みさと併せ、相手がボールを保持している時のプレイが魅力的になっていたのだ。冗談抜きに、1年前のアジアカップ、大迫勇也のバックアップに石原直樹を推薦したい思いがあったくらいだ。

 ブランメル時代を含めたベガルタの歴代のFWを考えてみても、チームへの貢献と言う意味では、石原は最高クラスだったのではないか。あのマルコス、ウイルソン、赤嶺真吾と、同等に評されると言っても過言ではなかろう。

 19年シーズンは負傷がちで出場機会が減ったこともあり、退団を迎えた形。ベガルタから見れば35歳と言う年齢も、長期契約は難しいと判断し、石原側と話がまとまらなかった可能性もあろう。ただ、負傷が癒えた終盤戦、起用されれば当然のように、最前線でいやらしいキープで攻撃に変化をつけ、ベガルタに貢献してくれた。昨シーズンの終盤、幾度か愚痴を語ったこともあるが、渡邉晋前監督には「もう少し大事なところで、石原を使って欲しかったな」との思いもあった。まあ、このあたりの隔靴掻痒が、サポータ冥利に尽きるのですが。

 石原はJデビューを果たした古巣のベルマーレに復帰する。35歳になったとは言え知性あふれるプレイはまだまだ健在。ベガルタから離れることは残念だが、石原のプレイを楽しむ機会が継続することを喜びたい。


 大岩一貴は、4シーズンに渡りベガルタで活躍、18年シーズンからは主将も務め、天皇杯決勝進出の立役者となった。落ち着いたカバーリング、単純にはね返す強さ、リーダシップ、中央もサイドもこなせる多様性、持ち上がりもフィードも上々の攻撃など、頼りになるDFだった。

 ただ、俊敏で加減速のよいFWに対する応対が極端に苦手で、中島翔也、武藤雄樹、仲川輝人などと相対すると、見事なくらい簡単に抜かれるのがご愛敬でもあった。

 19年シーズンは、当然のように中心選手として期待されたが、開幕直後より1対1の弱さが目立つようになり、定位置を失い期待にこたえられず、チームを去ることとなった。

 天皇杯決勝進出に、直接的な貢献したことから、他の金満クラブから強奪の恐れもあるのではないかと危惧し、早々に契約延長が報道され安堵したのは、ほんの1年ちょっと前のことだ。まだ30歳でもあり老け込む年齢でもないはず。新天地のベルマーレで適切なトレーニングを積むことでの再起を期待したい。


 ドイツ、韓国を含む幾多のクラブを転々としてきた阿部拓馬。2シーズンにわたりベガルタに在籍。独特のボールを縦横に大きく動かすドリブルで、貴重な控えFWとして活躍してくれた。特にDFに疲労が出てくる終盤での交代出場は有効だった。

 19年シーズン後期の名古屋戦、1-0の状況下で交代出場、直後にしたたかにPKを獲得してくれた場面は忘れ難い。

 あの天皇杯決勝、「阿部のミドルシュートが、もう少しよいコースに飛んでくれていれば」と、今でも嘆息したくなる。

 19年シーズンは負傷がちで、若手のジャーメインの成長もあり、出場機会が限定され、琉球への移籍が発表された。32歳となったが、負傷さえなければ、J2クラブでは完全な中心選手として活躍できる能力は間違いない。


 何よりあの強烈な左足が魅力のハモン・ロペスは、ベガルタサポータには特別な存在だ。

 来日前の経歴が、少々怪しいのが楽しい。ブラジル国内での活躍は少なく、東欧(ウクライナ、ブルガリア)でプレイし、2014年シーズン途中、唐突に中盤選手として加入した。

 入団当初は、ツボにはまった時の左足の一撃は格段だが、ボールの受けも、位置取りも、戦術的な動きも、ヘディングも、いずれもうまくこなせなかった。しかし、渡邉前監督の指導の賜物か、いずれもどんどん上達し、気がついてみたら、16年シーズンは最前線でポストプレイを巧みにこなす得点力あふれるストライカに成長してしてくれた。

 そのような成長もあり、17年シーズンレイソルに移籍。しかし、翌18年シーズン途中で、レイソルの他外国人選手獲得もあり、早々にクビとなってしまった。

 しかし、同年、西村拓真をシーズン半ばでロシアへの移籍で失ったベガルタは、急遽ハモンと再契約。復帰したハモンは、再びエースとして活躍してくれた。今でも悔しいが、あの天皇杯決勝に、ハモンが起用できていれば歴史は変わったのではないか(レイソルで天皇杯に出場していたため、出場権利がなかった)。

 マークする相手のレベルが高いと沈黙するが、ちょっとレベルが低いと圧倒する能力。J2で比較的経済的に余裕があるクラブに移籍すれば、相当光り輝く可能性があると思っていたのだが。そうか、君はドバイに行くのか。あの左足が見られなくなるのは、ちょっと寂しい。


 永戸勝也は大卒で3シーズンベガルタで戦い、鹿島への移籍を決めた。悔しい思いもあるが、見事なステップアップだ。おそらくそれなりの違約金も残してくれたのだろうから、ここは快く送り出したい。

 言うまでもなく、永戸の最大の武器はその左足の精度。ハモンの「当たれば凄い」とは異なり、それなりの頻度で精度高いキックができるのがw、ありがたかった。そして、その精度はセットプレイでいかんなく発揮された。特に魅力的なのは、振りが非常に速いため、球足が非常に読みづらいこと。例えば、昨シーズン残留を決めた大分戦のCK、通常の高いクロスを予想させるスイングから、グラウンダで低い球足の速いキックを、バイタルで待つ道渕諒平へ通したアシストが、その典型。いや、見事なキックだった。また、切り返しての右足でも振り足の速いキックを持つことから、敵DFへの応対で優位に立てるのも特長となっている。

 19年は、シーズン途中からベガルタが4DFを採用したことで、最も得意な4DFの左バックに完全に定着、課題だった後方から進出してくる選手への応対も上達し、気が付いてみればセットプレイの精度と合わせ、国内屈指の左DFと言われるに至った。

 残る課題は、縦に強引に出ての左足クロスのタイミング、球足の速さは申し分ないのだが、中央の選手へ中々合わない。ベガルタ最前線の中央では、石原直樹や長沢駿と言った合わせの巧みな選手がいたのだから、もう少し流れの中からのアシストが増えてもよかったように思うのだが。

 要は、いつパスを出すかと言うほんの僅かな「タイミング」に課題があるのだ。そこを習熟できるかどうか。これが改善されれば、3バック時のサイドMFも、もっとうまくこなせるようになるだろう。22年のカタール行きは、そこにかかっていると思う。まあ、がんばれ。


 正直言います。このシーズンオフ、梁勇基の退団、そして渡邉晋監督の退任。衝撃が多過ぎました。

 この2人がいなくなることばかりに捉えられ、上記ベガルタに幾多の貢献をしてくれた名手たちへの感謝が、おろそかになっていたと反省しています。

 石原、大岩、アベタク、ハモン、そして永戸。長い間、どうもありがとうございました。そして、新天地でも見事なサッカーを見せてください、とても楽しみにしています、もちろん、ベガルタ戦以外で。

posted by 武藤文雄 at 16:55| Comment(0) | Jリーグ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年02月02日

32/487、我が少年団の歓喜@2020年

 毎年1月に行われる日産カップ、神奈川県少年サッカー選手権大会(全神奈川県のトーナメント)。サッカー少年団にとっては、1年間の総決算の大会となる。神奈川全県の487チームをを十数チームごとの32ブロックに分け、勝ち抜き戦を行う。ブロックで優勝できれば(4試合の勝ち抜きが必要)、ベスト32から始まる県大会に出場できる。
 そして、我が少年団の6年生を主体とした高学年チームが、堂々と勝ち抜き、県大会出場を決めてくれた。この少年団で指導にかかわって、19年となるが、2度目の快挙となる。いや、11年前も嬉しかったけど、今回も最高です。本当に幸せですわ。

 県大会への道は険しい。
 まず同じブロックに、マリノスとかバディとかあざみ野とか、本当の強豪が来たら、絶対に勝ち抜けないw。これらの超強豪と同じブロックにならない確率が50%くらいか。
 そもそも、勝ち抜き戦である。たとえ同じブロックに強豪がおらず、同じレベルの相手と戦うにしても、4チームに対し勝利確率が70%、60%、50%、そして40%だとしたら(これって、結構高い勝利確率なことは、わかる人にはわかりますよね)、4試合勝ち抜ける確率は0.7×0.6×0.5×0.4=0.084。そうするとさっきの50%を考慮して、0.5×0.084=0.042、つまりブロックを勝ち抜き、県大会に出場できる確率は、それなりに強力なチームが作れたとしても、僅か4.2%、20回試みて1回足らず程度なのだ(そう考えると、昔の帝京や国見が当然のように正月高校選手権を勝ち進んだノウハウはとんでもないことがわかるが、まあそれはそれ)。単一小学校をベースにした、父親及び父親OBの酔っ払いが指導する少年団が、19年間に2回と言うのは、堂々たる快挙なのです。うん。

 もちろん、当方がそれなりに強くなければ、さっき述べた70%、60%、50%、40%のような高確率は望めない。言い換えれば、日々の練習はこの確率を僅かずつでも高めるのが目的の一つとなる。まあ、過去も何度も述べたが、少年指導で勝つことは本質ではないと思っているが、勝とうとすることはとても重要だと思っている。そして、勝とうとするためには、サッカーが好きで、常に自分のプレイを反省し工夫して改善を継続する意思がある子供がそろう(『そろえる』が指導者の役割のひとつか)必要がある。これは、言い換えると、知性と戦う気持ちを両立して持つ子供と言うのだろうが。
 加えて、「勝つ」と言う観点からは、ある程度「速さ」なり「強さ」の高い子供も欲しい。こう言うと、身もふたもないが最後敵陣でネットを揺らすためには、足が速く裏が突けるとか、強さで相手DFを吹っ飛ばせるタレントがいれば、ありがたいのだ。今年の6年生は知性と戦う気持ちを持つ素材はそろっているのだが、こう言った、速さや強さを持つタレントがいなかった。結果的に、チャンスは多く作るものの決めきれず、中々勝ち運には恵まれないチームだった。
 もう一つ中々勝ち切れなかった要因があった。隣町の似たような少年団に天才肌のテクニシャン(Jクラブ育成コースのスーパークラスにも選ばれている)がいて、その子と共にプレイしたいと考えた能力の高い子供が多数その団に集まったのだ。結果として、そのチームは「普通の少年団」とは思えないような強豪となり、地域大会でそこにどうにも歯が立たなかった。一方で、そのような強いチームが身近にあったことが、刺激のみならず、直截的な強化に役立ったのもかもしれない。正に物事には表裏両面があると言うことか。
 
 今年の高学年の指導陣は、監督を務める地元のサッカー界で育った畳屋の倅(現郡協会会長、息子は両足が使えるエースストライカ)、父親が私と同い歳と言う元高校球児(息子はの約50年前のギュンタ・ネッツアを思い起こさせる長髪の中盤の将軍)、自然食にこだわりある料理人(息子は5年生でスーパーサブ、料理人とスーパーサブは親子でセパタクローもやっている)、T蔭学園で某前ベガルタ監督と同級生だった非サッカー部員(息子は5年生で来年の守備の要、ちなみに某前監督は授業中に幾度も居眠りして先生にどつかれたとのことだがw、これは皆さん秘密にするように)ら。彼らは粘り強く子供達を指導、歓喜を提供してくれた。いや、ありがとうございました(11年前に歓喜のチームを率いたIT社長と私は今年は低学年担当、低学年もよくがんばったのですが早期敗退、なので2人は今回はサポータなのです)。

 今年のチームの基本布陣は、3-3-1 (8人制)。
 GKはとにかく元気がよくて前向き。守備範囲の広さは抜群で、指示の声もよく出してくれる(もっとも、試合中落ち着いて彼の指示を聞いていると、「出足負けるな!」、「遅らせろ!」の2種類しかないw、うん、彼はサッカーの本質を正確に理解しているな)。
 3DFの右サイドは、時々集中が切れることはあるものの運動能力ではチームトップクラス。この子は、すね当てを忘れてしまったことがあり、どうしても試合に出たいので、ポケットティッシュを両ストッキングに入れ、元高校球児(上記ネッツアの親父ね)にバレて滅茶苦茶叱られた逸話も持つ。中央を固めるのは、とにかく出足の速さが絶品な子。前に出る力が強いので、最前線で使えないかなど、あれこれ試したのだが、出足の鋭さをCBで活かすのが最適と落ち着いた感がある。左サイドは、小柄ながら粘り強い守備対応がハイエナのような子。いつも練習最後に、コーチ対6年生で試合をするのだが、この子の守備はとにかくしつこいので、私は彼にマークされるのが一番嫌だ。
 中盤の真ん中は上記のネッツア。左サイドは、これまた上記の畳屋孫息子。右サイドは、父親が箱根駅伝選手だったと言うテクニシャン、おとなしい子で声が小さいのが欠点と言えば欠点だが、足に吸い付くようなボールコントロールが魅力。最前線は、チームで最も大柄な子だが、今年は多々不運に襲われた。約1年前、遊んでいて崖から落ちて骨折の大ケガ、夏以降復帰して活躍していたのだが、今大会前に犬に噛まれて出場が危ぶまれていたが、何とか間に合ってくれた。

 初戦は、立ち上がりから全員が献身的にプレスをかけ、一気にペースを握る。そして、畳屋孫息子が、見事にハットトリックを演じ、4-0で完勝できた。この畳屋孫息子は、裏抜けやシュートへの持ち出しに優れたタレント。サイドで守備を含め再三上下動する難しい仕事をこなしながらのハットトリックは嬉しかった。
 2回戦は、かなりレベルの高い相手だった。相手のプレスが激しく、最終ラインからつなげない。プレスを怖がり、GKへのバックパスや、逃げのクリアを連発することとなり、ペースがつかめない。そうこうしているうちに、バックパスを受けた元気GKのクリアを相手の中盤選手にダイレクトシュートされ、先制を許す。先制して勢いに乗り、さらに攻めかける相手に対し、最終ラインでギリギリ粘る。特にハイエナが俊足の相手エースをよく止めてくれた。そして迎えた前半終了間際、後方からのフィードを箱根駅伝が、持ち前の技巧を発揮して正確に落とし、ネッツアが鋭いシュートを決めて同点に追いつけた(20分ハーフ)。勢い突いた後半立ち上がり、スーパーサブのセパタクロー息子が、右サイドからスローインを受けて強引に縦に飛び出し、ドリブル突破フリーになって見事なシュートを決め、リードを奪う。直後、相手の大柄なエースストライカが、ポケットティッシュと出足の執拗な守備を振り切り、2-2の同点に。PK戦突入かと思われた終了間際、ネッツアが見事な技巧で相手中盤プレスを抜け出し、美しいシュートを決めて勝ち越し。感動の勝利となった。本当に興奮する試合だった(去年のエカテリンブルグのセネガル戦を勝ち切っていたら、こんな感覚となっていたかもしれない)。
 余談。試合終了後にセパタクロー親父から聞いた話。ネッツアが決勝点を決めた際、ベンチにいたネッツア親父は過呼吸状態で、ことばも発せずに興奮していたとのこと。そりゃ嬉しいでしょうな。さらに余談。ネッツアは4年生時練習中に転倒、涙を流して痛がる息子に対し、親父は「このくらいで泣くな!」と叱責。医者に行ったら、鎖骨が折れていたと言う笑えない笑い話を演じている。この親父まだ30代前半と若いのだが、中々の古典的星一徹なのだ。
 1週間後に行われた準決勝。前日の雨により、片方のエンドのコンディションが極端に悪かったが、結果的にそれが当方にとっての幸運となった。3分、不運大柄が、その悪コンディション下で、DFラインでつなぎ損ねた相手のミスを引っ掛け、そのまま突破しGKまで抜いて先制してくれたのだ。トスで勝ったことで、前半悪いエンドに攻めることを選択したのが成功した形となった。さらにその直後、ネッツアが蹴った鋭いCKを相手DFがかろうじてクリア。そのこぼれ球を、出足がダイレクトで強烈なミドルシュートを決め、2点差に。決めた出足が、一番驚いた表情をしたのが可愛かった。その後もペースを渡さず、2-0で押し切り、ついに決勝進出となった。
 そして、同日に迎えた決勝戦。もう1つの準決勝を見た限り、対戦相手は相当レベルの高いチーム。決勝直前、先週の2回戦立ち上がりが悪かった反省を、畳屋息子監督が厳しく注意した。それがよかったのだろう、立ち上がりから当方プレスがよく決まり、ポゼッションよく攻め込む。そして、幾度かの逸機の後、セパタクローが見事な切り返しで右サイドを突破、グラウンダのクロスを不運大柄が見事なボレーでポストに当てながら決めてくれた。その後、大柄で技巧的な相手中盤エースのドリブルから、幾度か攻め込まれるが、当方は出足を軸に丁寧に守り、1-0で前半終了。後半立ち上がり、相手が強度をかけて攻め込んでくるが、3DFが安定してはね返す。そして前掛かりで来た相手の裏を不運大柄が突き、GKと1対1となり、2点差とする。応援している低学年コーチ仲間同士で「あいつ、犬に噛まれて、かえってシュートが正確になったのではないか」と語り合ったのは秘密だ。勢いに乗った我が軍は、さらに畳屋孫息子が見事なボレーを決め、3点差に突き放す。これで相手が、やや精神的に切れてしまった。当方は控え選手を大量に投入し、ペースを維持。小柄だが得点意欲だけは格段の裏エースが追加点を決め、とうとう4-0で完勝。11年ぶりの歓喜とあいなった。
 準決勝、決勝当日は、久々の県大会出場の絶好機とのこともあり、選手たちの父兄、いつも一緒に練習している5年生たち、そして我々低学年コーチ、総計5万人じゃなかった50人の大観衆が声援を送ったのも、勢いを増すことに寄与できた。やはり、サッカーは応援である。

 いや、まことにめでたい。昼から、コーチ仲間、皆で浴びるほど飲みまくった。改めて、サッカーのすばらしさを堪能した一日だった。
 興奮は続く。例の隣町の強豪も県大会出場を決めた。我が地域から2チームが県大会に出場するのは史上初めての快挙。地域のタウン誌にも、この快挙が報道された。
 そして、県大会初戦は、小田原の強豪チーム。過去、1度も勝ったことの相手だ。難しい戦いになることだろう。しかし、このチームならば、十分に番狂わせを起こす可能性はあるはずだ。子供達は自らの努力で、県大会で戦う権利を獲得し、公式戦での強豪への挑戦権を得た。がんばれ。
 いつも語っていることだが、サッカーと言う人類が発明した最高の玩具で、毎週末子供達に遊んでもらっているだけで、これだけの幸せを味わうことができる。本当に、サッカーとは究極の娯楽だと堪能させていただいた。何と幸せなことだろう。
posted by 武藤文雄 at 21:01| Comment(0) | 底辺 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年01月28日

渡邉晋監督の退任

 梁勇基との別離のインパクトがあまりに強かったのだが、渡邉晋監督の退任も、我々ベガルタサポータにとって大事件だったのは言うまでもない。
 まずは、渡邉監督のこの6シーズンに渡る鮮やかな采配に感謝したい。ありがとうございました。

 監督としての渡邉氏の実績はすばらしいものがあった。14年シーズン、豪州人のアーノルド氏の後任として、0勝2分4敗の不信を極めていたチームを引き継ぎ、チームを立て直しつつJ1残留。移籍による補強が不調で、チームは明らかに高齢化しており、非常に難しい戦いとなったが、「よくもまあ残留してくれた」と言うシーズンだった。
 余談ながら、先日のアジアU23選手権、東京五輪出場を決めた豪州を率いたのがアーノルド氏だった。氏が監督として並々ならぬ能力を持っていることが、図らずも示されたわけだ。そう考えると、当時のベガルタフロントの見る目の確かさや、監督とチームの相性の難しさを考えてしまうのだけれども。ついでに言えば、渡邉氏はアーノルド氏より優秀な監督であることは、既に6年前に証明されているw、なので残念な監督に困っているどこかの国の代表チームが…
 話は戻る。以降、チームの若返りを推進、決して経済的に潤沢ではないチームながら、中位を維持してくれた。いや、ベガルタサポータとしてぶっちゃけ言ってしまえば、この6シーズンの間、きっちりJ1の地位を維持してくれただけで感謝の言葉しかない。
 結果のみならず、戦い方、内容も見事だった。16年度シーズン頃から、ボール保持を基盤とする戦い方を定着させた。これにより、17年度にはルヴァンカップで準決勝進出、18年度には天皇杯で決勝進出と言った成果を挙げることができた。
 奥埜博亮、西村拓真、シュミットダニエル、そして永戸勝也と言ったいわゆる自前タレントをJのトッププレイやに育て(より経済的に豊かなクラブへの移籍を含め)、渡部博文、三田啓貴、野津田岳人、松下佳貴、道渕諒平と言った選手たちを移籍加入させ、大きく成長させたのも、渡邉氏の功績と語られるべきだろう。

 これだけの実績を残してくれた監督だけに、留任を望むサポータも多かった。いや、私だってそう思っていた。
 加えて、退任への経緯も何か不透明な印象があった。ホーム最終戦の大分戦後のDAZNインタビュー、およびサポータへの挨拶で、「守備を固め逆襲を狙うやり方は将来性を欠き、時計を戻したような感があり、自分としては不本意」、「クラブは、将来のビジョンを明確化すべきではないか」と言った趣旨の発言を行った(いずれの発言も武藤の意訳ですが)。
 その後、シーズン終了後に、少々唐突感のある発表があり退任が発表された。
 さらに、退任時会見によると、最終的にクラブから氏に対して、20年シーズンの契約を行わない旨の通達が行われたと、渡邉氏が明言している。
「12月7日の広島戦が終わり、仙台に戻りました。戻ってから、クラブから連絡を頂き、クラブの事務所にて話し合いがありました。そこでクラブの決断を通知され、それを私は受け入れるという形になりました。」
 そのため、サポータ界隈からは、「ベガルタは優秀な監督を、わざわざ手放すのか」的な発言も目立った。

 どのようなやり取りが、クラブと渡邉氏の間で行われたのかは、未来永劫闇の中なのは言うまでもない。ただ、私はこの別れは、クラブと氏の間でギリギリの議論が行われた上で、双方納得を得たものと想像している。以降はその想像について、講釈を垂れる。

 まず、渡邉氏が大分戦後に語った「時計の針を戻した」発言。私は、この発言には、相当な違和感を抱いている。必ずしも2019年シーズンにベガルタが見せてくれたサッカーが「時計を戻した」ものとは思えなかったからだ。確かに17年シーズン以降、ベガルタは3DFとボール保持を基軸としたサッカーをするようになった。上述のように18年シーズンに天皇杯決勝に進出できたのも、このやり方が奏功したからだろう。
 それに対して19年シーズンは、奥埜博亮や野津田岳人を放出したこともあり、中盤から気の利いたパスを出したり、個人能力で抜け出す選手が、松下佳貴くらいとなってしまった。また道渕諒平と関口訓充の両翼が充実していたため、そこを起点にした速攻が有効だった。そのためもあったのだろうが、ラインを後方に下げ、敵を引き出して速攻を狙うやり方が増えた。そして、(渡邉氏が不満を述べた)大分戦の2点目のような切れ味鋭い速攻は、これまでのシーズンでは中々見ることができなかったものだ。
 むしろ、14、15年シーズンは、後方に引いて逆襲を狙っても、そのスピードと精度でバランスがとれず得点し切れないところもあった。そのために、ボールを保持するやり方に変え成果を出したわけだ。
 サッカーのやり方はあくまでも手段であり、後方に引き速攻を志向するやり方への切り替えが、必ずしも後退とは言えないのではないか。サッカーは常に相対的なものだと思うのだ。

 以下は、渡邉監督との別れに対する私なりの解釈(あるいは諦め)である。
 まずは契約条件、言い換えればカネである。
 考えてみれば、6シーズンに渡り上々の成績を収めてくれたのだ。毎シーズンごと上々の成績を収めてくれたのだから、渡邉氏のサラリーも毎年毎年上げていかなければならない。例20年シーズンも渡邉氏に采配を託そうとするからには、それなりに年俸を増やす必要がある。長期間成果を出し続けた政権とは、そう言うものだ。例えば、シーズン終了後20%ずつ年俸を上げていけば、6年間で1.2の6乗=3.0、つまり6シーズン前の3倍の年俸が必要となる。
 しかし、残念ながらベガルタは、この6年間で経営規模を大幅に増やすことはできていない。むしろ、他のJ1クラブとの比較においては、マイナス気味の傾向すらある。その状況下で、6シーズン継続して好成績をあげてきた監督のサラリーを増やすのは、クラブとして限界に近づいていたのではないか。
 自分の収入だけではない。1年前、ベガルタ仙台は天皇杯決勝まで進出した。しかし、それだけの成果を挙げながらも、奥埜を引き留めるほどのサラリーを提供できず、セレッソへの流出を許した。他に替え難いユースから育て上げたスタアを留められない経済力しか持たないベガルタに対し、渡邉氏がどう考えたか。

 もう1つ、渡邉氏としても将来のキャリア構築を考えたのではないか
 渡邉氏は、選手時代を含め19年仙台に在籍した。4シーズンの現役生活を終え、引退後の指導者としての経歴を、15年間に渡り仙台のみで築き上げてくれた。
 仙台と言う都市は、新幹線を活用すれば、東京から1時間40分。しかし、首都圏のように人口が集中し、多くのクラブがあり、日本協会もある場所ではない。渡邉氏はそのような都市に、27歳の時に降り立ち、19年間戦ってくれたのだ。
 今後の飛躍を考えると、氏が新たな経歴構築を考えてもおかしくない。氏は桐蔭学園出身と言う人脈はあるものの、指導者としての経歴を地方の単一クラブで立ち上げてきた以上、より幅広い経歴作りを考えても不思議ではない。

 そのような渡邉晋氏に対し、我がベガルタ仙台は、引き留めるだけの条件を提示できなかった。
 新監督の木山隆之氏は、J2で見事な成果を挙げてきた。そして、J1クラブの采配は初めて。並々ならぬ思いで戦ってくれることだろう。このオフの上々の補強と合わせ、よい成果を挙げてくれることを期待したい。楽しみでならない。

 渡邉氏は仙台を去った。
 どんな監督ともいつかは別れが訪れるのが、世の摂理というものだ。そして、どうせ別れるならば美しく別れたいと思うのは山々だが、中々叶わないのもまた真実なのだ。そもそも、これだけの実績を挙げてきた男を、いつまでもつなぎ止められるものではない。
 近い将来、他のクラブを率いる渡邉氏と相まみえることがあることだろう。昨年の天皇杯で、手倉森誠氏にしてやられた痛恨の再現は避けたいところだが。いや、最近同じ兼任監督の不首尾が問題視されている迷彩服のチームが2つあるが、もしかして…
 繰り返そう。渡邉氏の6シーズンに渡る鮮やかな采配に感謝したい。ありがとうございました。
posted by 武藤文雄 at 00:00| Comment(0) | Jリーグ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする