2011年12月06日

「腐ったミカン」から16年

 レイソルを率いてJを制覇したネルシーニョ氏について。
 レイソルの鮮やかな勝利については、別途講釈を垂れようと思う。ただし、レイソルの優勝を称える報道があふれる中、不思議だったのは、ネルシーニョ氏の16年前の悲劇について言及するマスコミが、あまり見つけられなかった事だ。そう昔の事ではないのだが。

 ハンス・オフト氏が率い92年のアジアカップを初制覇した日本は、USAワールドカップまであと一歩にせまりながら、93年秋に「ドーハの悲劇」に散った。
 そして、94年日本協会は、かつてのブラジルのスーパースタアだったファルカン氏を監督に招聘した。氏は独特の選考眼で、意表をつく選手をチームに加えながらチームを作った。しかし、同年のアジア大会の準々決勝で韓国に苦杯。就任1年足らずで更迭される。もう少し様子を見てもよいのではないかと言う意見も多かったが、当時の川淵強化委員長はそう決断した(後年、氏が協会会長になってから、ファルカンのセレソン時代のチームメートが代表監督を務めていた際に、何があってもかばっていたのとは対象的でおもしろい)。
 後任に選ばれたのは、かつて日産にプロフェッショナリズムを導入し、80年代後半の日本サッカー界を監督として牽引した加茂周氏だった。氏を「日産を幾度も天皇杯に優勝させた名将」と見るか「木村和司を抱えながら1回しかリーグ制覇できなかった人」と見るかは微妙ではあったが。加茂氏は、少しずつ若手を起用するやり方でチームを強化。タイトルマッチのない1年間、ウェンブレイでイングランドに惜敗したり、強化試合でサウジに2連勝したり、そこそこの実績を収めた。
 しかし、川淵氏の後任の加藤久強化委員長は、95年末に「フランスワールドカップ初出場を目指すためには、優秀な外国人監督が適切」と提言、当時ヴェルディ監督だったネルシーニョ氏を推薦した。そして、加藤氏はネルシーニョ氏と契約の詰めを行っていた。
 ネルシーニョ氏は、J2期目の94年半ばから、松木安太郎監督を補佐する形でヴェルディのコーチとして活躍。94年の後期制覇、プレイオフ勝利に貢献し、95年監督に就任。後期制覇に成功したものの、プレイオフで敗退する(ただし、このシーズンは優勝したマリノスの井原の全盛期、プレイオフでの敗退について、ネルシーニョ氏を責める向きは少なかった)。優秀な選手達を厳しく鍛え、時に果断な選手交代を見せるなど、監督としての能力に疑いはなかった。
 ところが、突然に当時の長沼会長が「ネルシーニョ氏とは契約せず、加茂氏と再契約する」と発表した。長沼氏の判断材料は今でも不明だが、「ヴェルディ(読売)主導の人事への反感」、「ネルシーニョ氏の要求金額が高過ぎた」、「一部協会首脳の(真面目に働き過ぎる)加藤久氏への不満」など、様々な要因が取沙汰された。
 おさまらないのは、ネルシーニョ氏だ。紛れもない強化責任者と交渉を進め、交渉成立の感触を得ていたにもかかわらず、突然に交渉はなきものにされてしまったのだから。怒るのは当然だろう。実際記者会見で、氏は長沼氏ら協会首脳に対し「腐ったミカン」と痛烈に批判した。
 氏はその後ブラジルに帰国、03年に1度だけグランパスの監督として日本サッカー界に復帰したものの、芳しい成績を挙げられず再帰国。2009年半ばにレイソルの指揮を任されるのが、3度目の来日となった。

 つまりだ。
 我々がネルシーニョ氏の指揮の下、フランス大会でワールドカップ初出場を愉しんだかもしれなかったのだ。
 もし、そうなっていたら、日本サッカー史はどうなっていたのだろう。97年心底堪能させていただいた予選は、どのような展開になっていたのか。どのような選手が起用され、誰が世界に羽ばたいて行ったのか。いや、以降の日本のワールドカップはどうなっていたのか。そして、岡田武史氏は今どこで何をやっているのか。
 これはこれで、最高級の酒の肴である。

 ネルシーニョ氏の鮮やかなJ1制覇を見せつけられた今、改めて16年前、4ワールドカップ前の「腐ったミカン事件」を思い起こし、何とも言えない甘酸っぱい感慨に浸っているものである。
posted by 武藤文雄 at 23:30| Comment(5) | TrackBack(0) | Jリーグ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
横山さんではなく加茂さんが代表監督だったら。
加茂さんではなくネルシーニョだったら。
ベンゲルに頼んでいたら。オシムが病気で倒れなかったら。このあたりのifは考えるだけで楽しいですねえ。
Posted by にじます at 2011年12月07日 02:58
竹本一彦氏と小見幸隆氏はネルシーニョともども緑からの流れ者と観る事もできるかと思います。緑もJ2暮らしが板についてきた感がありますが、昔から「クラッカーは外から」ってのが伝統であったようにも思えます。カズも輸入品でしたね。
Posted by エデル at 2011年12月07日 09:40
“本当に絶対に負けるわけにはいかない戦い"、だった97年予選へ向けて、“考えうる最善策"を取らなかった長沼さん。

『駄目だったら自分が責任をとる』と言いながら結局駄目だったが、日本のW杯初出場を日本サッカー協会協会長として迎えた長沼さん。

彼が、ごく当たり前の正しい判断を下していれば、国立競技場での日韓戦(真剣勝負)で逆転負けを喰らうことも、日本サッカーの大エースが戦犯にされて潰れてしまうことも、なかったかもしれないのに…、なんてことは、今だって思ってます。


がしかし、当時長沼氏の愚かな判断が日本サッカーにもたらした遺産、岡ちゃんが、『他国開催でのベスト16を達成した初の日本人監督』となりました。


僕は今だって長沼氏の判断は間違いだったと思ってるけど、そうは言わせない成果を岡田氏が出してしまいました。
Posted by 木村カズ at 2011年12月07日 21:56
低脳な息子ですねwww

あなたにそっくりです。自分の息子が馬鹿なのを野球にあてつけですか。低脳サッカーライターらしいです
Posted by あ at 2011年12月08日 00:36
野球が子供に認識されなくなった事を
「子供が悪い」と決め付けるわけですか。

野球関係者はいつだって、自分が正しいと信じて疑わない。
その結果、世界に野球は普及せず、日本でもどんどん廃れていく。

その内、「バット」がどういうもので、何に使うものかすら、忘れ去られてしまいますよ。
Posted by や at 2011年12月08日 20:54
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